第百六十九話 誘惑
永禄二年(1558)五月中旬 山城国上京 二條邸 二條 晴良
「六角左京大夫が子、六角次郎義定にございまする」
「うむ。面を上げられよ。待っておったぞよ」
麿の言葉を受けて目の前の男が面を上げる。其処には、子とも大人とも言えぬ丁度間の頃合いになった顔があった。歳は十と一だったか。同じ頃合いの武家といえば天文の歌合で今川の現当主を見たのが懐かしい。歳は六角の倅と同じ頃合いだった筈だが先ず持って風格が違うと思うた。あの男は誠に目映いばかりだった。
若き日の駿河黄門を思い出して微かに憤懣を覚えた。
「太閤の二條晴良じゃ。大樹から一字を授かり、奉公衆にも任じられたと聞いた。目出度いことでおじゃる」
「有り難き幸せにございまする」
緊張をした面持ちで六角の倅が頭を下げる。初々しい様子に思わず笑みが溢れた。まだ染まっていない真っ直ぐな心根の様に見える。……ふむ。良いな。
此処は一つ世辞でも言っておこうか。
「六角に置いては当主を戦で亡くしたと聞き心配しておじゃった。悲しき事ではおじゃったが、次郎殿に会えて六角は大丈夫じゃろうと安堵した」
「……あ、え」
「恐れながら申し上げます。太閤殿下の御言葉、有り難く頂戴致しまする」
六角の倅が口を鯉のように動かしながら言い淀んでいると、後ろに控える目加田備中守が口を開いた。フフフ、益々以て初々しいの。此処は先々に向けて色を手綱を付けて置くのも悪くなさそうだ。
「其処元の力強い姿、此れに思うところありて大樹は一字を与え、奉公衆にも任じたのであろう」
「も、勿体無い御言葉 ございまする」
六角の倅が声を震わせながら嬉しそうに頭を下げた。些か他愛もない位だ。ま、駒とするには此の位が丁度よいかもしれぬ。贅沢は言っておられぬと思うた。
「大樹が一字与えたなら朝廷が動かぬ訳にも行かぬ。どうじゃ。六角家が望むなら右衛門督の官職、其処元が任じられるよう麿が骨をおろう」
「何と!!」
六角の倅が嬉々とした表情で面を上げる。後ろに控える重臣は何とも言えぬ表情をしていた。費えを案じてか、直ぐ顔に出る次代を案じてか、麿の強かな所を思うてか……全てかもしれぬな。
「恐れながら申し上げまする。六角は足元を固めねばならぬ時にございまする。殿下のお話は有り難きお話なれど、あまりに遇されては近隣諸国の妬みを買いまする」
備中守が謙遜するような表情で殊勝な事を告げてくる。負け戦の後だ。費えの心配もあるのかもしれぬ。体よく断ろうとする姿勢を感じた。
「三好の事を案じているのでおじゃるか」
備中守の顔をじっと捉える。敢えて詰問するように言い放った。麿の問いに備中守が緊張した面持ちを浮かべる。取り乱さないのは流石は六角の重臣といったところか。
「三好修理大夫の事が懸念であるなら心配はおじゃらぬ」
「と仰せになりますると」
備中守が怪訝な表情を浮かべて遠慮がちに麿の表情を覗いてくる。綽々と余裕の表情で見返した。
「うむ。月が変わって早々に三好の主催で連歌の会が開かれる。麿も呼ばれておじゃるゆえ、修理大夫とよく話しておこう。今や修理大夫は幕府相伴衆じゃ。朝廷あっての幕府、幕府あっての相伴衆なれば、修理大夫が朝家の意向に背くとは思えぬ」
修理大夫は優れた男だ。あの男が良い所は朝廷と幕府、双方を重んじながら秩序を取り戻そうとしている所だ。あの男なりの思惑はあろうが、この程度の話であれば朝廷を立てようとするだろう。
麿の確とした物言いを受けて、備中守が不意を打たれた表情を微かに浮かべる。
直ぐに冷静な表情を取り繕って頭を深く下げてくるのはやはり中々と言うべきか。一方で六角の倅は先程から麿と備中を交互に見ては首を傾げている。話に付いてこれぬのかも知れぬ。だが分からぬ中で阿呆な事を話されるより、黙って傍観しているのは良いな。やはり駒のしがいがありそうだ。
「お申し出、大事なれば国許に戻り、我が主の意向を確認致しまする」
暫くして備中守が仰々しく頭を下げて言を放った。
言質を取られまいと国許を頼る言葉を放って来ている。
「うむ。六角の勤皇が志に期待しておじゃるぞ」
「…ははっ」
僅かな間があったから目加田備中守が頭を下げてくる。遅れて六角の倅が漸く頭を下げた。下がった頭に"次郎殿"と声を大きくして話掛ける。
「……はっ」
気分は既に右衛門督なのかも知れぬ。少し不満気な反応を得た。上がる口角を見られまいと扇子を口元にあてて隠しながら六角の倅に近づいた。
「其処元に期待しておじゃりまするぞ」
耳元で囁くように、だが表向きの心を込めて告げると、目の前の若い男が顔を明るくして"ははぁっっ"と暑苦しく応じた。
次は嫁の面倒を見てやるのもよいかもしれぬ。
笑みが浮かぶのを堪えて部屋を後にした。
永禄二年(1558)五月中旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 北條 氏規
「これは立派な砦ではないか。此れだけ外堀が深くては敵も難儀するだろう」
義兄上が外堀の景色を眺めて笑みを浮かべられる。目線の先にあるのは深さだけでなく奥行きもかなりある堀だ。水こそ入っていないが、此れだけ大きな堀となると砦の柵にたどり着いて、さらに乗り越えるのは至難の技が必要だ。鉄砲隊か弓兵を備えておけば登って来る間に十分な撃退が出来るだろうと思うた。
「義兄上が十二分な銭を出して下さったからこそにござりまする。人夫達は農閑期の良い稼ぎになったと喜んでおりまする」
武田甲斐守氏信様が謙遜をされながら呟かれた。
「銭があっても人夫が動かねば只の銭よ。銭がまわり、こうして強固な砦が出来たのはその方の差配あってこそだ。もっと胸を張って良い」
義兄上がお応えになると、甲斐守様の後ろに控える駒井高白斎が笑みを浮かべて頷いた。高白斎は家老として武田本家の発展に尽くしている。
武田本家……。
今日の甲斐は二つの武田に分裂をしている。甲斐の国を治めているのは此処にいる甲斐守様が率いる武田家と、大膳大夫率いる武田家だ。義兄上が大膳大夫の事を"分家のならず者"と呼ばれてから二つの武田家を本家と分家とで区別して呼ぶようになった。尤も、大膳大夫は義兄上が分家と呼んでいることを上方経由で知って随分と怒っているらしい。気持ちは分からぬでもない。武田本家は今川の後ろ楯があるとはいっても所領は二万石程度だ。対して分家は甲斐の大半と信濃を治めている。石高も六十万を下らぬだろう。二万石と六十万石。常であれば直ぐにでも併吞される力の差だ。
だが本家と分家の境には久遠寺があり、其れに加えて戦をするには難しい地形がある。更に今回の砦だ。もし分家の大軍が南下してきたとしても簡単には落ちなくなったと思うた。
「此れは内密の話ぞ」
砦の普請を眺めて笑みを浮かべていた義兄上が不意に真面目な表情になって声を上げられた。話し掛けられた甲斐守様が"はっ"と応じ、場にいる将達が皆揃って姿勢を正した。
「手の者の調べでは上杉……此れは越後の上杉の事だが、武田と盟約を結んだ可能性がある」
「なんと!」
「大膳大夫の実弟である刑部少輔が関東管領である上杉弾正少弼に会うたところまでは調べが付いている。それも態々上野の厩橋城で会うたと言う。ご機嫌伺いのためだけに厩橋城へと行くとは考えにくい。盟約のような大事な話をしに行ったと警戒すべきだろう」
「我が武田への圧迫が目的でしょうか」
「まぁそうだろう。分家の武田が其処元の武田と今川を相手にしながら上杉と戦うのは難しい。であれば上杉とは盟約を結んで後顧の憂いを絶ち、南下に専念しようとするのは常道と言える。上杉にとっても関東へ派兵するのに信濃を気にしなくて良くなるのだ。両者にとって利のある盟約と言える」
義兄上の視線が儂に向いた。長尾と分家の武田が盟約を結んだとなると北條にとっては面白くない話になる。いくら相手が深手の虎とは言え、甲斐から北條の所領を圧迫されることになれば兵を割かなくてはならない。北條は既に南に里見も抱えている。此れ以上敵が増えるのは避けたいのが正直なところだ。
「武田は北條を攻めて来るのでござりましょうか」
直ぐに思い浮かんだ問いを声にしてしまう。考えもなしに放った言葉であったが、義兄上がゆっくりと頭を振りながら、だが優し気な表情を浮かべて声を上げられた。
「其れはまだ分からぬ。だが氏信がこうして立派な砦を築いてくれた。分家の武田を防ぐのは難しくない。西の六角は叩いたばかりだ。一色だけで今川を攻めてくるとも思えぬ。万が一の事態が起ころうと、今川が北條を助けるのに邪魔は入らぬ」
最後は背に手をあてながら話して下さった。
「武田が兵を上げた時は義父上の力になろう。義父上には何時でも呼んでくれと其の方から伝えてくれ」
義兄上の心強い言葉に胸が熱くなる。
御顔を覗くと、大きく頷かれながら"北條は大事な春の実家だ。何としてでも守る"と話された。
嬉しさからか安堵からか上手く言葉が出てこない。
気づけば瞳からは雫が溢れていた。
永禄二年(1558)五月下旬 山城国上京 室町御所 足利 義輝
「上様に置かれましては益々もってご健勝の事、此の一色治部大輔、此の上なく喜ばしゅう存じまする。また、上洛早々の目通りが叶いましたる事、上様の格別なお心遣いに望外の喜びを覚えまする」
前に座する大男が大きな声で口上を述べる。話を終えると、六尺を優に越える大きな身体が機敏な動きで平伏をしてきた。大男が余のために頭を下げる景色は見ていて悪くない。治部大輔……領国が美濃と京に近いとはいえ前回から一年と経たずに上洛するとは殊勝な事よ。見た目によらず可愛気のある男だと思うた。
「苦しゅうない。面を上げよ」
相手には相伴衆の地位を与えてある。余が自ら声を発して話し掛けると、平伏をしていた頭をゆっくりと上げて此方を見て来た。大柄な男の大きな顔が余を捉える。口髭と立派な頬髭が目に入った。男の表情は笑みも無ければ緊張も無い。無表情と言うべきものであった。余り表情が出ないのは此の男の特徴なのだろう。三好修理大夫や伊勢伊勢守は何処か余を見下す視線や表情を浮かべる時がある。其れよりは余程に良いと思うた。
「其処にいる伊勢守から粗方の事情は聞いている。美濃にある伝灯寺という寺を勅願寺とするための上洛だとか。勅願寺とする願いが無事に叶ったとの知らせも聞いた。上洛における将軍への挨拶、大儀である」
「勿体なき御言葉、治部大輔、歓喜の念に堪えませぬ。なれど此度に御所へ参ったのは御機嫌伺いの為だけではござりませぬ」
治部大輔が頭を振りながら向上を述べた後、口を一文字に結んで頭を下げて来た。
「続けよ」
「美濃における某の力の源は一色という名であり、公方様より任じられた美濃守護の役目に御座いまする。此処は寄す処とする上様から伝灯寺が勅願寺となった由についてお言葉を賜れれば有り難く存じまする」
「治部大輔殿、些か無礼が過ぎまするぞ」
同席している政所執事の伊勢守が治部大輔を窘める。歯の浮くよう世辞ではあるが余を立てているところは悪くない。それに内意を伝えるだけなら手元が傷む訳でもない。此れで一色に貸しが出来るなら安いものだと思うた。
「忠臣たる治部大輔の願いとあらば聞かぬ訳にはいかぬ。此度伝灯寺は京の古刹である南禅寺と同格の扱いを受けたとも聞いた。誠に喜悦な事じゃ。余が意を文にして治部大輔に遣わそう」
「有り難き幸せ、重ねて御礼申し上げまする」
「うむ。引き続きの励精に期待している」
余の言葉に治部大輔が平伏をして応える中、席を立って廊下へと出でる。小侍従に会いに行こうとするが、幕閣達が執務の部屋へと誘おうとする。此処は仕方ない。大人しく政務を片付けるとしようか。
廊下を歩きながら治部大輔の平伏する姿を思い出す。
先日は六角から使者が来た。
甲斐の武田からも、越後の景虎からの使者も来た。
母上は余に小言ばかり……特に小侍従を側室にしてから小言は酷くなった。だがどうだ。幾つもの大名が挙って余に会いたいと使者を遣わして来ている。幕府の存在が皆の中で大きくなっているからではないのか。
余は幕府の再興を成し遂げつつあるではないか。
武田と上杉が盟約を結んだという。
ならば景虎が北條を下した後は上洛をさせよう。
北條を降した上杉は大きすぎると感じなくはないが、幸い遠国故に三好のような目障りな存在にはならぬだろう。景虎が上洛せし時は忌々しい修理大夫も今の様な大きな顔は出来ぬはずだ。
後少しだ。
武家の棟梁たる余に皆が平伏す姿が思い浮かぶ。
鹿苑院の御代の様なあるべき姿を取り戻すのだ。
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