第百六十八話 伝灯寺




永禄二年(1557)四月下旬 美濃国厚見郡井之口 稲葉山城 一色 義龍




手酌した酒を一気に呷る。

既に二合にはなるだろうか。少なくない量を飲んだが酔う気配が全く無い。清い酒と呼ばれる此の澄んだ酒は、飲み当たりは良いが酔いが廻るのは遅いと感じた。家中は言わないが今川が作った酒かも知れぬ。

今川の酒。

何処かで其れを思うが故に酔いが遅いのかも知れぬ。

其のように思うた。


「お寛ぎの所に恐れ入りまする」

障子に人影が映ったと思うていると日根野備中守の声がした。六角が遣わして来るという刺客に会うたのだろう。

「構わぬ。入れ」

「はっ」


入室を促すと備中守が部屋の隅に座った。

「苦しゅうない。もそっと近う」

儂の言葉を受けて少しだけ備中守が身体を寄せてくる。

「もそっとじゃ」

床を扇子で叩いて更に近づくよう促した。全く面倒だな。溜め息が出そうになるが堪えて備中守が参るのを待つ。


相伴衆に任じられてから何かと仰々しくなった。大きな原因は目の前の備中守にある。此の男が家中に儂への接し方について厳しく指導しているためだ。家格に相応しい行いをしなければならぬとな。確かに正しい。正しいのだが、正しき行いというのは時に窮屈なものだと思うた。

「如何であった」

「はっ。腕は確かなものと見受けられましてござりまする」

手を付きながら備中守が儂の問いに応える。

「そうか」

「仕草や顔付きは確かなものでござりました。草の調べによれば刺客の妹は左京大夫様の愛妾の様にござりまする。其の縁あってか、此度の命は左京大夫様から直々に賜ったとの事なれば、楔も十分な者かと存じまする」

「裏切る心配、其れに役目を捨て置いて出奔する恐れは無いか。それは良いな。義父上殿も結構な人物を送ってきてくれたものよ。それで?尾張に潜らせるのか」

「それが宜しいかと考えておりまする」

不敵な表情を浮かべて備中守が応じる。


「今川中納言は領国の開発に熱心だ。新たな所領では特にな。此度に限らず近い内に必ず尾張入りする筈じゃ。よく準備をして……其の時、じゃ」

「承知してございまする」

「しかし幾ら鉄砲の名手とは言え一人では心許ないの」

「仕方ありませぬ。過ぎたる規模、過ぎたる援助は足が付きまする」

「フフフ……ま、そうじゃな」

今川中納言を仕留める事叶わば良し、叶わぬとしても傷を負ってくれれば崩れる事もあるかもしれぬ。失敗しても我が一色が損する事は無い。撃たれた時に中納言はどの様な顔をするのかの。……そうだ。


「今川中納言は美丈夫と申したな」

「……は?ははっ」

儂の問いに備中守が驚きつつ応じた。目の前の男は使者として中納言に会うた事がある。武家の威厳もあり公家の様な品もあったと気に入らぬ報告をしてきたのを覚えている。

「そうじゃ。其の方、絵描きを呼んで中納言の顔を描かせよ」

「顔にございまするか」

「そうじゃ。儂は其の顔が驚きや痛みに歪むのを想像して楽しむ事とする」

「……承知してござりまする」


「ところで御屋形様。今一つお耳に入れておきたい儀がござりまする」

備中守が少し表情を曇らせながら声を上げた。

「何だ」

「はっ。崇福寺の快川禅師が尾張犬山の瑞泉寺に入っておりまする」

「快川?あの堅物坊主か」

儂の問いに備中守が苦笑いを浮かべてゆっくりと頷いた。高名な僧の事を侮蔑するのは憚られるらしい。

「儂と別伝に反発をしているか」

「其れはもう相当な反発にござりまする。瑞龍寺、少林寺、梅龍寺の各禅師も瑞泉寺に入っておりますれば、御屋形様が折れるのを待っているのかと思いまする」

此の美濃における名刹の坊主が挙って尾張に向かったか。……全く。坊主というのは面倒な存在よ。此の点は寺を焼くことを厭わぬ中納言を羨ましく思う。道理がどれだけ正しくとも寺を焼くのは容易ではない。足元が確としてなければ出来ぬ所業だ。儂が行えば美濃は揺れような。此処でも中納言に敵わない。俄に苛立ちが募った。

「御屋形様?」

暫く考え事をしていると備中守に呼ばれる。御屋形様か。最近家中からは屋形号で呼ばれるようになったが悪くない。公方様から屋形号を認められた時は何が変わるのかと思うたが、こうして呼ばれると家格が変わったというのを感じる。


「朝廷と幕府を使う……いや、頼みにしよう。長島へ売り付けた兵糧の銭を使えばよいな。この際言うことを聞かぬ坊主共へ思い知らせてくれる。儂に刃向かうとどうなるかを儂なりの策を用いてな」

「ははっ」

「伝灯寺を勅願寺とするよう取り計ろう。交渉は上洛して儂自ら行ってもよい。六角に立ち寄るのも良いかもしれぬ。快川どもは焦ろうな。今川中納言に泣き付く可能性大だ。さすれば瑞泉寺に今川中納言が立ち寄る可能性がある。フフフ。此れは絶好の機会となるぞ」

「客人に伝えまする」

「うむ」


其れにしても中納言亡き今川か。

今川は中納言に兄弟が無い。

隙が無いように見える今川も、血の面では苦労をしている。

代々家督争いが絶えない家だからな。

中納言無き後はどうなるかな。織田は謀反を起こすだろう。駿河とて武田が切崩しに行けば崩れる筈だ。


楽しみであるの。

此の様な気分は久方ぶりだ。

ふむ。ようやく酒が身体にまわってきたのを感じる。


果報は寝て待てという。

今日のところは床に入って良い夢でも見ることにしよう。




永禄二年(1557)五月上旬 上野国群馬郡 厩橋城 武田 信廉




「武田大膳大夫が名代として参りました武田刑部少輔信廉にござりまする。弾正少弼様に目通りが叶い祝着至極に存じまする」

「うむ。面を上げられよ。儂が上杉弾正少弼だ。儂こそ武田殿からの使者に会うことが出来て嬉しく思うている。戦の最中とは言え春日山で応対出来ずにすまぬな」

許しを得て面を上げると、裏頭を付けた男が此方を覗く様に座していた。弾正少弼殿は兄上より十近く若いと聞くが既に出家の身という。法衣こそ着ていないが裏頭の姿でよく分かった。格好がそうするのか、年齢よりも随分と貫禄を感じる。其れにしても弾正少弼と名乗るだけであったか。関東管領を名乗って来ないのは好感が持てると思うた。


「刑部少輔殿。此方は先の関東管領殿だ。ご紹介しよう」

「上杉兵部少輔じゃ。武田とは色々とあった仲じゃ。其の武田の使者と会うとは人の生というのも分からぬものだな」

ほぅ。此方が先の関東管領か。自分は弾正少弼を名乗っておいて、先の関東管領様を紹介してくるとは中々に上手いやり方だと思うた。広間に同席している長尾の家中も誇らしげに儂を見ている。

「武田家当主、大膳大夫が弟の刑部少輔信廉にござりまする。先の関東管領様に拝謁が叶い恐悦至極にござりまする」

儂の言葉に場を同席する上杉家中が再び満足そうな表情を浮かべる。儂が関東管領"様"と言った事を喜んでいるのだろう。刹那迷いを覚えたが、"殿"と言って機嫌を損ねるより利を採るべきだと思うた。何、後で言われたら名代としてではなく武田家臣として名乗ったと申せば御家の面子は潰さずに済む。


「さて、せっかくのご使者殿だ。ゆっくりと申したい所ではあるが陣中なれば用向きを聞くとしよう」

弾正少弼殿が儂に向かって問い掛けてくる。少し疲れを含んだ声と表情だ。チラリと先の関東管領殿の顔をご覧になられた。先の関東管領殿が不満そうに表情を曇らせている。……そうか。北條に攻められている状況を咎めておいでなのだ。態々儂の前で咎めるとは相当に怒っているのか、力を誇示しているのか。中々に奥の深そうな人物だと思うた。


此度の用向きは面向きでは塩を送って貰った礼としている。だが弾正少弼殿はあえて趣旨を問われている。其れも場を陣中にしてだ。武田がどうでるか試されていると思うた。

「此度赴いたのは他でもありませぬ。我が武田は上杉家と盟約を結びたいと考えておりまする」

「ほぅ。盟約とな」

「ははっ。既に両家においては天文二十四年において和議が結ばれておりまする。此処は更に縁を深めたいと考えてございまする」

「先が見えぬな。盟約の主たる目的は何じゃ」

弾正少弼殿が儂の顔を捉えてじっと覗いて来られる。迫る気迫がを感じた。


「我が武田は今川と北條との戦に注力したく存じまする。上杉家は今川と領国を接しておりませぬが、北條の後ろに控えるは今川にござりまする。当家と上杉家の敵は同じ。左様に思うておりまする」

「今川か。善光寺平の戦さでは随分と痛い目にあわされた」

弾正少弼殿が儂の顔を捉えたまま呟かれる。やはりその事を出してきたか。此の言葉は今川を批判しつつも利を得た武田を批判している筈だ。

「盟約が成るならば、武田は信州を空にして何れ関東へ出陣致しましょう。甲斐より武蔵へ兵を動かし北條を圧迫致しまする」

「ふふふ。興味深い話だが、つい先頃まで武田と北條は婚姻までして盟約を結んでいた筈じゃ。誠に其れが出来るかな」


笑みを微かに浮かべつつも目は笑っていない。刺さるような視線を受けながら顔を相対させた。

「必ずや約束致しまする。ただしお伝えしておきたい事がありまする」

「ほぅ。何でござろう」

「相次ぐ戦にて我が主は民を慰撫したいと考えておりまする。出兵の儀は必ず果たしまするが、秋の刈り入れの後に致したく存じまする」

「秋、と申されたか」

儂の言葉に弾正少弼殿が怪訝な表情を浮かべる。先の関東管領殿に至っては不満が読み取れた。気持ちはよく分かる。図々しい事を申している、そう思うているのだろう。だが此れは兄上からの厳命なのだ。長尾は直江津をはじめとして幾つか大きな商い所を持っている。相次ぐ戦で武田の懐事情が思わしくない事など承知しておろう。其れに草もかなり抱えていると聞く。儂の言葉は真実でもあり、兵を出さずに済むかも知れぬ手でもあるのだ。弱みを見せるのは危険なことではあるが、どの道今の上杉に武田を相手にする余力は無い。

全く兄上は強かな御方よ。


「あわよくば兵を出さずに済む。左様に思うての仕儀であるまいな」

「義父上、些か無礼にござりまする」

「じゃが聞かぬ訳には行かぬ」

先の関東管領様が顔を赤くして問い掛けてくる。

ま、思い浮かぶ疑問である。だが正面から問い掛けるとは中々に単純な御方の様だ。此処は取り繕う必要は無いな。正面から答えるのが良かろうて。

「心苦しゅうありまするが無い袖は触れませぬ。しかし両家が盟約するだけでも今川と北條への圧迫となりましょう」

「ふむ……」

儂の言葉に弾正少弼殿が顎に手を当てて思案される。


「武田殿が何故今川との戦を選んだのか。此れを不思議に思う所はあるが、今川と戦を初めてしまった以上、我等と手を結びたいと思うのはよく分かる。武田の出兵がなくとも盟約自体が両家の利になるということもな。縁組こそ無いが、利を以て約する事は出来るな」

弾正少弼殿が"利"という言葉を強く放って問い掛けてくる。


「仰せの通りにござりまする」

低く丁重に頭を下げて同意の意を示す。

「利を以ての盟約なら安心じゃ。大膳大夫殿は利に貪欲じゃからな」

不躾な発言を受けるが、善光寺平の戦で長尾は随分と痛い目を受けた。此の程度の批判を受けるのはやむを得まい。其れに兄上が利に貪欲なのは事実だ。一言申したくなる気持ちをぐっと堪えて"はっ"と応じた。

「良かろう。上杉と武田の盟約、委細承知した」

「ふむ。少々思うところはあるが、此れで北條征伐に弾みが出るの」

弾正少弼殿が盟約の同意を示すと、先の関東管領殿が手にした扇子を叩いて言を放った。上杉の家中は頷いて応じる者もいれば不満気に顔を背ける者もいた。悲喜交々の印象だ。我が武田の家中とて上杉との盟約を知れば声を荒げる者も出て来よう。


さしあたっては秋にあるかもしれぬ関東への出兵だな。

年貢を追加して対応するしかあるまい。

甲斐でこれ以上の追徴は難しい。兄上には信濃で行うよう具申しよう。

金堀衆の鞭も叩こう。

酷ではあるが金を掘るしか糧は無い者達だ。

不満を覚えつつも何とか収まるだろう。


「某、国に戻りてこの事を」

頭を下げて辞去する意を伝えようとすると、"刑部少輔殿"と声が掛けられた。

「はっ」

「軍略を練りたい。今日は我が陣に泊まられるが良かろう」

丁重に辞去しようとすると、弾正少弼殿から誘いが掛かった。




……毒でも盛りに来たか。刹那に邪な思いが過った。

いや、儂を殺めるなら帰途にでも人をやればいい。純粋に軍略を練りたいという事かも知れぬ。

だが気を緩められぬ刻が続くのは間違いない。……気は進まないが仕方ないな。

「有り難き幸せにござりまする」


面従腹背の表情と言葉で応じる自分がいた。



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