第百六十七話 善住坊




永禄二年(1558)四月下旬 美濃国厚見郡井之口 稲葉山城 日根野 弘就




「失礼致しまする」

城から屋敷へと戻って居間で休息を取っていると、息子である織部正の声がした。

「入れ」

入室を促すと、折り目を正した着物を身に付けた息子が現れた。一昨年に元服はさせたが、其の時はまだ呆気なさが残っていた。だが今は十と八にもなり、身体もまた大きくなった。此のまま一門の将になってくれれば良いなと親心に思うた。


「如何した」

目の前に座した織部正に問い掛けると、幾らか緊張した様な面持ちを浮かべながら頭を下げた。

「甲賀から客人が見えておりまする。六角家の紹介状も持っておりまする」

織部正の言葉に、息子が何に顔を強ばらせていたのか察しが付いた。織部正が紹介状を恭しく差し出してきた。受け取って眺める。事前の調整とほとんど変わらぬ内容だ。文にある紹介の一文が目に入る。“鉄砲の名手”か。

「客はどうしている」

「客間に通して待たせておりまする」

「なら今暫く待たせても良いだろう。少し話をしよう」

儂の言葉に織部正が姿勢を正す。儂も息子にあわせて背筋を伸ばした。


「甲賀から客人を呼ぶ経緯は先日話したな。何が目的であるかもじゃ」

「はっ。正直なところを申せば、此のような仕置には賛同しかねまする。美濃国一万五千寄騎、正々堂々と戦うべきにございまする。……なれど主命とあらば致し方ありませぬ」

織部正が不満を持った表情を浮かべて応じている。こういう所はまだ若さがあると思うた。

「思うた事を其のように顔に出すでない。此の家を、いや、此の部屋を出たら其の態度は直ぐに改めよ。良いな」

「ははっ」

「客人に任せる役目だが、其の方に話した時よりも更に大事になった」

儂の言葉に織部正が眉を潜めた。伺うような表情をして儂の顔をみてくる。


「と申されますと?」

「六角が大軍を率いて浅井領に侵攻したのは話してあったな」

「はっ」

「その六角が当主を失う程の大敗を喫した」

「なんと……!」

織部正が大きく驚いた表情を浮かべている。気持ちは分かる。儂も城で殿にお聞きしたときには随分と驚いたものだ。


「大戦の後は両軍愛知川を挟んで睨みあっていたが幕府が和議を進める様だ。幕府の後ろには三好が動いているようだがな」

「三好が……。三好と六角の仲は宜しからずかと思うておりましたが」

「伊勢方面から今川と北畠の連合軍が迫っていたのだ。背に腹は変えられぬ。六角も利を優先したという事であろう。京の動きが慌ただしくなったのを察してか、今川と北畠は兵を伊勢へと下げたらしい。全く動きが早い事よ」

儂の言葉に織部正が頷いて応じる。頷いてはいるが、まだ息子には難しい内容のようだ。だが息子は将来一色家の家老になる。一色家は今や幕府相伴衆を務める家なのだ。其の家老職になる身としてどんどん鍛えねばならぬ。


「盟約を結んだ六角が手痛い敗北を喫した事で、美濃の置かれた状況は厳しくなった。尾張から迫る今川の圧迫に対して、六角殿は当てに出来なくなったのだ」

「成る程。理解してござりまする」

「うむ。今川と北畠は下げた兵を早速長島方面へ向けているらしい。長島には今川が近江へ出張っている間に多くの兵糧を運び入れる事が出来たゆえ暫くは心配入らぬ。だが長島が落ちれば次は美濃となる」

織部正が考えを必死に巡らせている表情をする。少し愛らしく感じた。

「長島だが、耐えるのが精々で今川へ反撃をするまでには到るまい。ならば如何にして今川を崩すかとなる。其処で客人の出番となるのだ」

「…………はっ」

息子が大きく息を吸ってからゆっくりと吐いた。




「良くも悪くも今川は権中納言様が絶大な力で率いている。次代はまだ産まれたばかりじゃ。権中納言様さえ亡き者となれば音を立てて崩れる。其れは織田の比ではあるまい」

息子に言い聞かせるように話ながら、己にも言い聞かせる。

そう、此れはやむを得ぬ事なのだ。一色のために必要な事なのだと。

「権中納言様が亡き者になれば尾張は一色のものになろう。駿河は武田殿だ。美濃と尾張があれば伊勢の北畠は恐れるに足らぬ」

儂が呟いた言葉に織部正が静かに頷いた。


「案内せよっ!!」

覚悟を決めて声高に織部正へ話し掛けると、息子が"はっ"と応じて機敏に動いた。離れた所にある客間へと揃って向かう。






「お待たせ致した」

部屋へ辿り着くと、修行僧の身なりをした男が平伏をしていた。上座に座して名乗る。

「一色家家老、日根野備中守である」

「甲賀五十家が一つ杉谷の出で、今は善住坊を名乗ってござりまする」

平伏をしたまま男が応える。

「面を上げられよ」

「はっ」

儂の許しを得て目の前の男が面を上げる。男の右頬辺りには随分と黒い染みがあった。鉄砲を使うと火薬が顔に掛かる事があると聞く。頻繁に使う者特有の顔だ。六角家からの紹介状には鉄砲の長けた者を送るとあった。文にある通りの男が来たのだと思うた。


「六角左京大夫様から鉄砲の名手と聞いている」

儂が男の表情をじっと眺めながら呟くと、暫しの間があった後"勿体無い御言葉にござりまする"と静かに応えて来た。眉一つ動いていない。寡黙な男だが、己の腕には自信があるのだろうと思うた。


「お役目については聞いているか」

「左京大夫様より直々に」

一言呟く様に男が応える。草の調べによれば、目の前の男は甲賀の中では悪くない出の様だ。実の娘が左京大夫様の妾になっているという知らせもある。直々にお目見えしたと言うのも嘘では無いのだろう。

「ならば話は早い。今川権中納言様を仕留めて欲しい。分かっていると思うが足はつけるな」

儂が小さな声で男の耳元へ向けて囁くと、"はっ"と頭を下げて応じた。


「出来るか」

「出来る出来ぬではなく、やらねばなり申さぬ。そう思うておりまする」

言葉の少ない男が多くを呟いた。覗く様に表情を伺うと、決意のような眼差しの中に少しだけ諦めのような感情が伺えた。権中納言様が亡き者となれば今川は崩れる事など今川家中は百も承知だろう。元より権中納言様が最も分かっておられる筈だ。厚い警護の中で目標を仕留めるのは容易ではあるまい。だが六角は今川の策に敗れたばかりだ。左京大夫様にも"必ず仕留めよ"とでも詰め寄られたのかも知れぬ。男が浮かべる表情の理由を探り、心中を察すると微かに同情を覚えた。


「当面の金子じゃ」

懐から銭の入った袋を取り出して男の目の前に置くと、男が"はっ"と応じた。

「役を成し遂げた暁の恩賞は心配なさるな。我が殿が存分に報いるだろう」

「はっ」

男が大きく、そして一言だけ発して深々と頭を下げて来る。寡黙な男だ。だが口が軽い者より好感が持てる。


立ち上がって廊下へと出た。

ふと男が気になって部屋を振り返ると、変わらず平伏をし続けていた。

瞑想をしているような横顔が目に映る。

頼りに感じる事もあれば、哀愁を感じる気がしなくもない。




不思議な感覚を覚えながら場を後にした。





永禄二年(1558)四月下旬 尾張国春日井郡 小牧山城 織田 信広




今川……いや、主家である今川家で、駿府へと在住している重臣達が居並んでいる。織田弾正忠家の居城で今川の重臣達が揃って座っているという景色に、己の身が置かれている状況を改めて痛感した。

宿敵であった今川の当主を御屋形様として、主君と仰いで其の到着を待っている。


重臣が上座から広間の両袖に座り、儂が中央に座して家中は下座に座っている。家中での席次を考えれば何の問題も無い。だが、家中が何か粗相をせぬかと不安が過る。部屋は表向き静まっているが、張り詰めた空気が漂っているのだ。


御屋形様は北近江の浅井家支援の為に南近江へと出馬されていた。出陣していた御味方は浅井家勝利の報を受けて帰国の徒に着かれる事となった。御屋形様は伊勢から海路駿府へと向かわれるのかと思うたが、急遽我が小牧山城へお越しになる事になった。岡部丹波守殿が城代として入城する清洲ではなく小牧山城にだ。此方に御見えになるとは如何なお考えであろうか。


元は仇敵にあたる我が織田だ。

其の織田の城へと堂々お越しになるとは変わった御方だ。

幸いにして、織田の家中は思いの外厚遇をされている。林佐渡守からの報告によれば、御屋形様は実力本位の方なのだそうだ。確と働けば報いて下さる御方だという。佐渡守からの文は文字を見るだけで小躍りしているのが分かるような代物であった。駿府での暮らしは悪くないのだろう。





暫くすると若い男が現れて御屋形様の御成を告げる。男の着物には二つ引の紋があった。吉良上野介殿なのだろう。名門吉良家の当主も今や今川の家臣なのだ。世の流れというのを感じた。

平伏をして御屋形様を待つ。直ぐに速い足音が聞こえたかと思うと"皆面を上げよ"と言葉が掛けられた。ゆっくりと面を上げる。


「権中納言氏真である」

陣羽織を召された若い貴人が其処にいた。品格がある。上総介様とは違う、だが溢れるような威厳もあった。此れが権中納言様か。迫力に押されそうになった。

「其処元が織田三郎五郎か」

急に自分へと声が掛けられる。姿勢を正して応じた。

「ははっ!!織田三郎五郎信広にござりまする。この度は御屋形様のご尊顔を拝し奉る悦を賜り、恐悦至極にござりまする。織田家中を代しまして御礼申し上げまする」


「そう畏まらなくて良い。津島への出兵においては城替えで忙しい中、誠に大儀であった。礼を申すぞ」

「勿体無い御言葉、感激に堪えませぬ」

「うむ。尾張はまだ落ち着かぬゆえ所領をくれてやるという訳には行かぬが銭を届けさせる。城替え費用の足しにすれば良い」

「有り難き幸せにござりまする」

御屋形様の言葉に家中が"おぉ"と 声を上げる。確かに城替えで織田の懐は傷んでいる。滅ぼされてもおかしくない事を思えば家が残っているだけでも有り難いのだが、加えて銭を頂けるとは助かる。此処は林佐渡守の上申に感謝だな。


「余は此度の織田の働きには随分と満足している。ついては三郎五郎に余の名より一字を与える。今後は真信と名乗るが良い」

不意に御屋形様より名を頂ける事になった。御屋形様の威信がなさるのだろうか。自然と喜んでいる自分がいた。

「あ、有り難き幸せにござりまする」

礼をすると御屋形様が立ち上がられて小姓から刀を受け取った。

「此れは領内で作らせた太刀だ。最近の打ち物の中では中々の上物になる。銘は自分で付けるが良い。真信に進ぜよう」


太刀を賜る……。

急な事で言葉が出てこない。身体も動かなかった。

上野介殿が"三郎五郎殿"と儂へ声を掛ける。上野介殿の声で気を戻す。

恭しく拝領して頭を下げた。

「有り難く頂戴致しまする」

「うむ」

儂に刀を遣わした後、御屋形様が席へと戻られた。広間に集う皆をゆっくりと端から端まで睥睨された。


「皆に伝える事がある」

幾らかの間があった後、御屋形様が低い声を上げられた。広間に集う皆が頭を下げて応じる。

「七月の盆に北畠殿と清洲で集う事となった。其れにあわせて清洲で馬揃えを行う事とするゆえ皆は参集せよ。馬揃えの準備は岡部丹波に任せる。家老衆と協議して事を進めよ」

「は、ははっ」

尾張旗頭の丹波守殿が頭を下げる。

清洲で馬揃えか。町人らに今川の支配を見せつけるためであろうな。


「三郎五郎」

不意に名を呼ばれた。そうそう何度も驚いてはおられぬ。御屋形様の方を向いて姿勢を正す。

「はっ」

「長島成敗と津島の成敗では少ないながらも兵を失のうた。供養が必要であろう」

「……はっ」

御屋形様の発言の意図が察せぬ。下手な発言は危険だ。相槌を一つ打つだけにして応じた。

「馬揃えにあわせて此度の戦で命を落とした者共の供養を行う。場所は……そうだな、萬松寺で構わぬ。織田の者共の供養もあわせて執り行って良いぞ」

御屋形様の言葉に家中の皆が驚き感銘を受けた様な面持ちを浮かべる。


此れか。

仇敵今川の当主と相対しながら何処か居心地が悪くないのは御屋形様が寛大な御方であるからだ。此の御屋形様だからこそ今川の家中も我らを侮蔑してくるような事が無いのだと思うた。

「有り難き幸せにござりまする。此度だけでなく、過去の戦で命を失うた御霊も浮かばれましょう」

「うむ。死した御霊に敵も味方もない。誠意をもって送るように」

「御意にござりまする」

「話は以上である。今日は城替えの普請を確認して明日発つ事とする。真信は供をせよ」



御屋形様が立ち上がって奥へと下がられる。

上野介殿が立ち上がられて"参りますぞ"と儂に声を掛けてくる。皆が平伏する中、慌てて御屋形様の背を追った。




去り際に広間を垣間見ると、緊張で張り詰めていた部屋はがらりと高揚の場へと雰囲気を変えていた。



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