第百六十六話 猛撃
永禄二年(1558)四月中旬 近江国愛知郡野良田 浅井勢本陣 浅井 景政
味方の将兵を奮い立たせるために本陣を前線に寄せて指揮を執っていると、眼前に広がる六角勢の動きに乱れが生じた。両軍が拮抗した戦いをしていたが、味方の方が敵を押し始めたのだと感じた。
「大分押しているな」
「誘いの可能性がありまする。暫くは慎重に参りましょう」
側に控えている遠藤喜右衛門尉が声を上げて応える。儂の守役を務めてきた、家中でも指折りの知将が"待て"と言っている。家の存亡を賭けた大戦を前に、逸る気持ちを何とか自制した。
「申し上げまするっ!」
暫くすると使いが息を上げて飛び込んで来た。
「如何した」
自ら応えて直答を許す。
「はっ!!六角本陣に後退の動きがありまする」
「何だと?」
「敵は本陣より兵を抽出して御味方右翼の海北勢に向かわせる模様にございまする。右翼は海北勢が敵陣深くまで押し込んでおりまするっ!」
「相分かったご苦労っ!」
儂が応じると物見役が陣を出ていく。本陣より少し後方の丘陵で物見をするのだろう。あの者達の報告のお陰で指揮が執りやすい。戦が終わったら労を労ってやらねばならぬな。
「殿。敵の本陣が後退とあらば此処が勝負処にござる。某が先陣を切り申す」
「喜右衛門尉。いや、直経。此処は儂が出る」
あえて名を呼び、自ら敵陣に切り込む事を強く伝えると、直経だけでなく本陣に集う将達までもが驚きの表情を浮かべた。
「そ、其れは危険にござる。敵の中央は後藤但馬守と進藤山城守なれば崩すのは簡単にはござらぬ。某が先陣を切りまする故、殿は味方が更に押し始めたところで出張って下され」
「直経、危険なればこそじゃ。この戦で勝たねば浅井に先は無い。なればこそ此処は儂が自ら出る。何、若さ故の過ちと後生笑い話にすれば良い。死んだ時は其の時だ。よいか、此れは主命ぞ」
儂が主命という言葉を使うと、直経が渋い表情をした後で苦笑いをしながら"仕方ありませぬな。儂はどうも血の気の多い若様を盛り立ててしもうたようじゃ"と減らず口を叩いた。
「共に来てくれるか」
守役の顔をじっと見て問い掛ける。
「無論にござる」
直経が口を一文字にして応える。この上無く頼もしく感じた。
「皆もだ」
続いて皆の顔を見る。怯んだ表情を浮かべている者は誰一人いなかった。
出撃をするために愛馬の方へと向かう。胸にある心の臓が激しく鼓動しているのが分かる。己の耳に音が聞こえるのではないかと思う程だ。死ぬか生きるかの戦を前に、身体が何とも言えない興奮をしている。愛馬の下へと辿り着くと、儂の昂りを察してか馬が儂を落ち着かせるような仕草を取った。苦楽を伴にしてきた馬を愛らしく思うた。
守役の直経から、"戦場で兵馬は一体になる。だからこそなるべく馬と刻を過ごすように"と厳しく言われてきた。当主となってから割ける刻は減ったが、其れでもなるべく顔を見に行くようにしていた。
教えがどれだけ大事な事だったか。
今なら分かった気がした。
愛馬に股がり、呼吸を落ち着かせて腹に力を込める。
大きく息を吸って声を振り絞った。
「突き進んだ先にあるのは六角右衛門督本陣だ。あの馬印の元に右衛門督の首があるっ!良いか。雑兵には目もくれるな。右衛門督が首だけを狙え。我こそはと思う者は儂に付いてこいっ!全軍突撃っっ!!!」
「「おおぅっ!!」」
皆が雄叫びを上げて応える。
愛馬が颯爽と敵陣に目掛けて駆け出した。
直経や側近の騎馬武者が確と付いてくる。我が兵達も後ろを走って付いてくる!
目の前の六角兵が我等を前に日和ったのか横へと避けた。
皆を信じて前へ前へと突き進む。
隅立て四つ目の旗が先程より大きく見えていた。
永禄二年(1558)四月中旬 近江国蒲生郡観音寺城 六角 義賢
「失礼を致しまする」
床を大きく踏みつける音がしたかと思うと、重臣の目賀田摂津守の声がした。大方浅井との戦に進展があったのだろうと思うた。文机の書を綴じて入室を促した。
「お寛ぎのところ申し訳ありませぬ」
「構わぬ。近こう寄れ」
儂の言葉を受けて摂津守が近くに寄ってくる。其の顔には悲壮感が漂っていた。悪い報せだなと思うた。
「聞こう」
居住まいを正して摂津守に相対する。摂津守が苦悶の表情を上げて声を絞り出した。
「肥田城を包囲していた御味方が浅井勢と見敵して激突してございまする。浅井勢の猛攻を前に御屋形様が……、御討ち死なされたとの事にござりまするっ!」
悪い知らせは予想していたが、あまりの内容に腰を抜かした。
「な……んだと?討ち死?右衛門督が?」
「ははっ!御屋形様の討ち死によって御味方は大きく崩すものの、その後間も無く楢崎壱岐守が敵の横っ腹を突いて浅井勢を崩したため立て直しを図っている所との由にごさいまする」
「他に被害は?家中はどうなっている」
「はっ。主だった将はまだ健在の様にござりまする。ただ今は進藤山城守殿と後藤但馬守殿が全軍をやや後退させて陣を再構築し、敵の南下を防いでおるそうにござる」
右衛門督だけが死ぬとはどういう陣形で戦こうていたと言うのだ。限られた報せを前に苛立ちが募る。一呼吸をすると息子を失ったという悲しみが沸いてきた。当主たる右衛門督の死を前に雫が頬を垂れそうになる。だが、此のままでは六角自体が危うい。悲嘆に暮れそうになるのを堪えて策を必死に考える。
……肥田城はもはや仕方ない。高野瀬備中守には憤懣やる方ないが、此処は捲土重来を図る事にして一先ず兵を引かせよう。大事な事は浅井を此れ以上南下させぬ事だ。此れ以上南下を許せば国人が浅井に靡き、今川や北畠の北上を易くしてしまう。
「……摂津守」
「はっ」
「掻き集めたら兵はどれだけ集まる」
「何とか五千といったところでございましょう」
五千か。うむ。行けるな。
「此の城なら千もいれば簡単には落ちぬ。四千を永原安芸守に預ける。直ぐに出撃させよ。水軍を使うて高島郡から湖北へ陣を敷かせるのだ」
「成る程。浅井は総出で此方に来ておれば、湖北は厳しいということにござりまするな」
「うむ。朝倉が動きをみせている様だが手伝い戦だ。腰は重かろう。多少の無理は仕方ない。血を流してでも湖北で暴れて浅井の目を引き付けさせよ」
「御意にござりまする」
「それから進藤山城守と後藤但馬守に野良田方面の全軍を指揮する権限を与える。下知は二つだけだ。敵の南下を防ぐ事。其れから今より兵を少なくして守る事が出来るならば浮く分の兵を日野方面にまわす事だ」
「畏まってございまする」
「以上の差配が済み次第、其の方は上洛せよ」
儂の言葉に摂津守が目を丸くして"上洛にございまするか"と応じる。
「そうじゃ。幕府や三好の力を借りる事があるやも知れぬ。直ぐに使者として赴けるよう洛中にて用意をしておくのじゃ。三好に借りを作るのは気が進まぬが、例えば大和で三好が牽制の兵を挙げれば今川と北畠も無下には出来まい」
「成る程。仰せの通りでございまする」
六角が大きく崩れては、幕府に協力的な武田や一色が孤立する。
せっかく幕府の威光が戻りつつあるのだ。公方様も幕府よりの大名を助けようと力を貸して下さるだろう。
「何かあるか」
「いえ、ありませぬ」
「上洛には次郎を連れ立ってくれ」
「次郎様をでござりまするか」
「うむ。右衛門督が死した今、いずれ次郎に家督を継がせねばならん。上方に顔を広めておく良い機会じゃ」
「委細承知してござりまする」
摂津守が深く頭を下げて応じた。
話を終えて摂津守が下がると、大きな溜め息が溢れた。
寂寥感が襲ってくる。
摂津守には多くの役を押し込んで悪いが、今すべき下知は粗方済ませた筈だ。
今この瞬間位は悲しんでも良いだろう。
……今川に北畠に浅井め。
全く忌々しい連中よ。
家督を譲ったばかりだったが、再び此の六角を率いて行かねばならなくなった。
今思えば右衛門督には甘くし過ぎた。次郎は……、次郎には厳しく行こう。
大きな溜め息が自然と出た後、何とはなしに縁側へ身を乗り出した。
庭の隅には紫の美しい花が咲いていた。都忘れの花だ。
鎌倉の幕府を倒幕せんとして失敗し、佐渡に配流された順徳帝が京を忘れようと名付けた名だ。
都忘れ、か。
息子を失い、悲しみを忘れたい自分の気持ちに、どこか重なるものを感じた。
永禄二年(1558)四月中旬 近江国蒲生郡 日野城近郊 今川・北畠連合軍本陣 今川 氏真
「此方が御所様の鷹が捉えた獲物にごさいまする」
北畠家お抱えの鷹匠が大きな雁を差し出すと、隣にいる北畠権中納言具教が"此れが余の獲物か"と"嬉しそうに応じた。
「随分と大きな雁ではないか。そうは思わぬか氏真殿」
「此れは随分と見事な雁にござりまする。流石は具教殿でござる」
俺の言葉に具教が心底嬉しそうな笑みを浮かべている。確かに大きな雁だ。今のところ今日一番の獲物だろう。
「具教殿は芸事だけでなく武芸にも秀でておられる。是非に見習わねばなりませぬ」
「嬉しい事を言ってくれる。だが余も其の方を見習わねばと常々思うておる。戦に強く、国を豊かにする其の才覚をな」
笑みを浮かべながら具教が話掛けてくる。俺も笑みを浮かべて応じた。
表情を豊かにして応じながら、今のところ接待は上手くいっているなと邪な事を思っていた。
今は六角の重臣、蒲生下野守の居城である日野城を大軍で牽制しながら、近くの山奥へ鷹狩に来ている。目的は具教との親交と、六角領で悠々と狩りを行ったという実績を作るためだ。先々の調略がやりやすくなるのではないかと期待している。だが、第一の目的はやはり北畠中納言との親交だな。今川と北畠の仲はもっと深くしておいた方が良い。此れから長島との戦が長く続く中、北畠は畿内方面からの弾除けになる存在だ。
其の為に少し策を講じた。
鷹が狩る獲物を探す役目の勢古達に、予め大きな獲物が見つかったら北畠中納言の鷹に喰わせるよう下知をしておいたのだ。別に此れはイカサマでも何でもない。単なる営業、接待の一環だ。
北畠の鷹匠は俺の狙いを何となく察している雰囲気がある。だが己の主人が上機嫌なのだ。態々不興を買う必要はない。"お見事にございまする"などと当たり障りのない言葉で具教の悦に花を添えている。
此の鷹匠……出来るな。後で餌代として黄金でも下賜してやろう。鷹の餌代は幾らあっても困らないからな。具教も反対はしないはずだ。北畠の鷹匠の機嫌を取っておくのも悪くない。
さて、次は俺の番だ。
俺も具教のように自ら鷹を飛ばすために準備を始めると、自陣の方から人が現れた。荒鷲の森弥次郎だ。北畠家中の目を気にしてか袴姿だ。余り見慣れない姿に口角が上がった。
「近こう寄れ」
北畠の家中が何者かと気にしている。あえて自ら側に寄れと話しかけた。
「浅井に動きあったか。其れとも六角か」
「浅井にも六角にも動きありましてございまする」
弥次郎の言葉に今川の者だけでなく、北畠の者までも静かになる。侍の他に此処には鷹匠達がいるが、鷹狩の伴は側近中の側近だ。聞かせても問題は無いが、弥次郎が俺に"良いのかと"問い掛ける視線を送ってくる。"構わぬ。続けよ"と促した。
「はっ。北近江での戦でございまするが、浅井家当主様自ら先頭にたっての突撃により六角本隊が大崩れし、六角右衛門督様が討死されてございまする」
「「おぉっ!」」
「浅井が勝ったか!?」
「弥次郎、具教殿の下問にお答えを」
「はっ。六角勢は本隊が崩れますが、其の後直ぐに六角の別働隊が浅井の横っ腹を突いて浅井勢も陣形を崩しておりまする。只今は両軍陣を整えて睨み合っておりまする」
弥次郎の続く報告に皆が一喜一憂している。
そうか。睨み合いか。野良田方面は膠着状態になるかも知れないな。
「六角にも動きがあったと申したな。それは何だ」
「はっ。戦に関する知らせは既に観音寺城にも届いていると思われまする。其の影響あってか、六角左京大夫様が兵を掻き集めておりまする。数は約五千」
「息子の死を悼むより先ずは手を打ってくるか。流石は左京大夫だな。戦慣れしている」
「はっ。加えて、志賀郡の堅田水軍に動きがありまする。集めた兵を乗せる可能性がありまする」
「湖北に兵をもっていくためかも知れないな」
俺が呟くと弥次郎が"如何にも"と応じ、具教が"成る程のぅ"と呟いた。
「湖北に兵を運ばれては浅井も苦しいの。朝倉が何処まで頼りになるかに掛かっておるが」
「具教殿が申される通りだ。……どうした弥次郎。何か言いたそうだな」
俺の振りを受けて弥次郎が頭を下げる。何かを掴んだか。だが内密な事かも知れぬ。北畠に知らせるには憚られる内容ということか?
「京か」
俺の言葉に弥次郎が小さく"はっ"と応えた。
成る程な。京での諜報能力を北畠に何処まで知られて良いのかを気にしているのだと思った。ふむ。北畠に荒鷲の力を示しておくのも悪くない。
「具教殿は大事な盟友だ。許すゆえ京に関する報告をせよ」
堺や朝倉に関する報告もあるかも知れぬ。制限のない報告はさすがに危険がある。“京に関してだけなら良いぞ”と暗に線を引いて発言を促した。
「観音寺城から使者らしき一隊が京に向かって出ておりまする。行き先は禁裏か幕府か……もしくは飯盛山か」
「三好……か」
弥次郎の言葉に呟いて応えると、具教や北畠の重臣が渋い顔を浮かべた。
「大和から三好が出てくると面倒になるな」
具教が俺に向かって囁いて来た。流石は北畠最大版図を築いた男なだけはある。史実で具教は織田に暗殺されたせいか評価は今一つだが愚か者ではない。中々筋の通った考えをしている。
「此処が引き際ですな。六角右衛門督を討ち取ったのです。浅井は北近江の支配を固める事が出来ましょう。今後の調略も優位になるはず。幕府や三好が出て来ては話がややこしくなりまする。我等は兵を引くべきでござりましょう」
「うむ。余も其れが良いと思う。十分に利は取った筈じゃ」
具教が捉えた雁を眺めながら呟く。戦の益と狩りの益を掛けているのだろう。名門の当主らしい品のある物言いだな。
「某、国に戻ったら鷹狩りに励みまする。次は具教殿よりも大きい獲物を捉えて見せましょう」
「ハッハッハッ。楽しみにしておるぞ」
俺の言葉に具教が嬉しそうに応じた。また一つ、距離が縮まったと思った。
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