第百六十五話 野良田の戦い




永禄二年(1558)四月中旬 近江国愛知郡野良田 野良田 六角勢本陣 進藤 賢盛




「申し上げまするっ!」

本陣に使い番が駆け込んで来ると、陣に集っている将が使い番を一瞥してから御屋形様の方を向いた。だが、御屋形様は俯いて独り言を呟いておられる。反応が無い。察した三井越後守が使いに許しを与えて報告を促した。

「中央に布陣する後藤但馬守殿の陣が押されておりまする!被害も甚大なれば後詰めの要請がありましてごさいまする!」

「但馬守が押されている?口程にも無い奴め」

御屋形様が使いに反応したかと思うと、但馬守殿を侮蔑する様な一言を発せられた。


早朝、肥田城への援軍に来た浅井勢と見敵した。物見の報せでは浅井の兵が一万と二千程だと言う。多くても八千程度だと思うていた味方は大慌てだった。急いで城攻めの陣形を解いて浅井勢を迎撃する陣形へと転換するが、浅井勢はその間にも両軍を隔てる宇曾川を渡河して来た。其のような中で御屋形様が但馬守殿を酷く叱責し、軍師たる但馬守殿に先陣を切るよう命じられた。今は浅井勢の攻勢が尤も熾烈な中央を但馬守殿が率いる手勢が踏ん張って防いでいる。

「御免っ!!左翼の平井加賀守様より伝令にござりまする」

息をつく暇もなく新たな使いが現れた。土埃を被り、鎧には流れ矢を受けている。激戦の真っ只中を走ってきたのだと思うた。

「申せ」

「はっ!敵方の猛攻甚だしく、今のままでは半刻と持ちませぬっ!何卒増援を願いまする」

「相分かった。下がれ」

「あ、いや、はっ、ははっ!」

使いが困ったような表情を浮かべながら下がっていった。皆思う所はあるが、戦の冒頭に"余自ら指揮を執る"と仰せになった事を気にしているのだ。大目付を命じられている但馬守殿ならものを申せるのだろうが、残念ながら此処にはいない。指揮を執ると仰せになられた以上御屋形様に判断をして頂かなければならぬ。


だが我慢にも限りがある。多少の失敗は御屋形様の先々にとって有益だと思うていたが、そろそろ手を打たねば取り返しのつかぬ失敗となる。此処は御家の為に言わねばならぬ。

「恐れながら申し上げまする」

「なんだ」

儂が声を上げようとすると、楢崎壱岐守殿が先に言を放った。


「此のままでは左翼が崩れまする。中央とて安心出来ませぬ。此処は両陣へと後詰めを送って支えるか、右翼から敵へ奇襲を掛け、圧迫をする事が必要にございまする」

「右翼から圧迫とな。壱岐守、詳しく申せ」

「はっ。左翼と中央は苦しい戦いを余儀なくされてござるが、右翼は頑張っておりまする。此処はあえて後詰めを右翼へまわし、右翼から敵陣を崩す手がごさいまする」

「壱岐守殿。其処元の考えや良い手ではござるが、但馬守殿と加賀守殿らが何時までもつかに掛かっておる。兵力は味方がまだ優勢でござれば、此処は中央と左翼に後詰めを送る常道で進めるべきじゃ。其れに但馬殿が崩れては本陣が危のうなる」

「進藤山城守の言やもっともじゃ。じゃが壱岐守の策も捨てがたい。此処は壱岐守の策も採用しよう。ただ、本陣が危うくなるという山城守の言も無視する訳には行かぬ。其処でじゃ。今少し本陣を後ろに下げる。さすれば何かあった時に対応も出来ると言うものじゃ。どうじゃ。中々に良き策であろう?」

御屋形様が嬉々とした表情で仰せになる。本陣を下げるだと?それは何よりの愚策だ。皆の士気が下がる。愚策も愚策だが、目の前の御仁は心底妙案と思われているようだ。溜め息が出そうになるのを飲み込んだ。


「恐れながら申し上げまする。御屋形様の馬印を下げるのは固く反対にござりまする。前線で戦こうている味方が本陣は退却したのかと誤解しまする」

「ならば使いを各々遣わして陣形の変更を伝えればよかろう」

「両軍入り乱れている中、全軍に報せるには刻がかかりまする。本陣は何卒此のままに願いまする」

「此のままでは本陣が危ういと申したばかりではないか。よし。ならば山城守には但馬守の後詰めを命じる。六角の両藤と呼ばれるくらいじゃ。但馬守も喜ぶだろう。その他の後詰めは右翼じゃ。此れならば文句はあるまい」

「御下知通り某は但馬守殿の後詰めに向かいまする。なれど本陣は何卒此のままに」

「分かった分かった」

儂の言葉に御屋形様が手を振りながらお座なりに応えている。事の大事をお分かり頂いているのか不安が過ったが、事は決まりだとばかりに御屋形様が使いの者達へ次々と下知を飛ばしている。全く童子の頃から此の御方は周りから聞く耳をお持ちになっていない。悪い御癖だと思うた。




本陣を後にして馬に股がる。

「我が手の者は但馬守殿を救いに行く事になった」

儂の言葉に皆が直ぐに事を理解して厳しい表情で頷いた。怯んだ表情をしている者はいないのが嬉しかった。

「皆勝手に死ぬなよ。死ぬも生きるも共々だ。付いてこい!!」

大きな声と共に馬の腹を蹴ると、死線を何度も共にしてきた家臣達が後を付いてくる。


壱岐守は家中でも戦上手な方だ。

此処は中央で何とか踏ん張って右翼の活躍に期待するとしよう。

……これ程迄に苦しい戦は久しぶりだな。


厳しい筈なのにどこか状況を楽しむ自分がいた。




永禄二年(1558)四月中旬 近江国愛知郡野良田 野良田 六角勢本陣 六角 義治




進藤山城守や楢崎壱岐守を送り出した後、本陣には奇妙な静寂が訪れた。

遠くから刃を合わせる音や馬の嘶きが聞こえては来るが、どこか他人事の様な、奇妙な感覚に陥いらされる。暫くすると、静寂を破るようにして勢いよく使い番が現れた。新たに現れた使いも矢傷を負っている。戦いはすぐそこまで迫っていると感じた。

「申し上げまする!」

「如何した」

余の変わりに側に控える永原安芸守が応える。安芸守の許しを得て使いが口を開く。

「平井加賀守様から今一度援軍を求める使いにござりまするっ!敵の猛攻熾烈なれば……、僅かでも構いませぬっ!何卒増援を願いまするっ!」

使いが悲壮な表情で訴えてくる。陣内の皆が余に目を向けてきた。

「……暫く下がって待っておれ。追って沙汰する」

「御意にござりまするっ!!」

余自ら言葉を伝えると、使いが大きな声で応じて陣幕の外へと下がっていった。




さてどうしたものか。床几を立ち上がって目の前に広げられた盤図を見渡す。

「壱岐守に右翼から敵を突けと兵を渡したばかりだ。加賀守には何とか耐えてもらわねばならぬ」

余が駒を眺めながら呟くと、本陣に集う将が苦い表情を浮かべながら頷いた。


敵の兵力は一万と二千程だと言う。

対して味方は一万六千だ。総数では上回っているが、肥田城の牽制に三千程兵をとられている。浅井との兵力差はほとんど無いのだ。

厳しい戦況を痛感して沸々と但馬守への怒りが汲み上げてくる。よくも浅井の兵は精々八千等などと言ってくれたものよ。


いや、待て。

……此れは天運かも知れぬ。

何かと目障りな宿老二人を潰すためのな。

此のまま中央で二人を擂り潰せば消えてくれるかも知れぬ。

だが単に潰すだけでは醜聞が立ちかねん。此処は加賀が使えるな。

口角が上がりそうになるのを抑えて腹に力を入れる。


「安芸守は本陣の兵二千を連れて左翼への救援に向かえ」

「しかし其れでは本陣があまりにも手薄になりまする。御屋形様が危のうござる」

「致し方ない。少しだけ本陣は後ろに下げる」

「しかし其れでは味方に不安を……」

「各々に使いを出して報せる。其れよりも加賀守が気掛かりだ。増援を求める使者を二度も送って来ているのだからな。加賀を……、六角にとって大事な加賀を余は見殺しに出来ぬ」

「お、御屋形様」

余が発した加賀守を案ずる言葉に、安芸守が感銘を受ける様な面持ちで応じる。

皆も同じ様な表情だ。


フフフ。

楽なものよ。

本陣を下げる案に批判の声は其れ以上出なかった。




両藤がいなくなれば残る宿老で目障りなのは蒲生下野位か。

下野一人なら造作するのに苦労はあるまい。


余が威光で六角の輝きを増して見せよう。




永禄二年(1558)四月中旬 近江国愛知郡野良田 野良田 六角勢右翼 楢崎 賢広




「急げ急げぇい!急がねば味方が総崩れするぞ」

「「おぅっっ!!」」

儂の言葉に手勢の者達が大きな声で応じて付いて来る。

右翼で戦っている池田次郎左衛門殿の陣を更に回り込んで敵の左翼の横腹を突く。後少しだ。今少しで横腹を突くことになる。此の攻撃が成れば浅井勢は体制を大きく崩す筈だ。


「と、殿!」

家臣の鳥居重三郎が儂の背から声を掛けて来た。

「なんだ!」

振り向かずに声を出して応じた。

「本陣が後退しておりまする」

「……なんだと?」

重三郎の言葉に驚きながら本陣の方へと視線を向ける。

隅立て四つ目の家紋をあしらった旗印が後退しているのが見える。山城守殿があれだけ下がらないよう忠告してくれたと言うのに……。


「我等に出来る事をしよう。先へ進むぞ」

「しかし本陣が下がっているのでござれば、我等だけ奥に行き過ぎる懸念がありまする」

「此のままでは半端にしかならぬ。主命は浅井左翼への突撃じゃ」

「……御意にござりまする」

重三郎が奥にものが詰まった様な言い方で応じた。

皆の足が明らかに重くなっているのを感じる。


厳しいな。

本陣の後退で完全に勢いを削がれた。

儂も何処か後ろ髪を引かれる様な思いで駆けていた。



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