第百六十四話 動揺
永禄二年(1558)四月中旬 近江国愛知郡野良田 肥田城近郊 後藤 賢豊
「淡路守、其の方は今日だけでどの程度堤を築いたのじゃ」
「半町近くは設けてござりまする」
「ほぅ。半町か。但馬よりも長いではないか。大したものじゃ」
御屋形様が布施淡路守を褒めた後、儂の顔へ視線を下さった。冷たい表情じゃ。どうも御屋形様は儂の事が好かぬ様じゃ。好かぬのは仕方ないが、其れを態々披露せずとも良いものを。大殿が此処におわせば御叱責頂けるだろうに、残念ながら御屋形様しかおらぬ。京方面では幕府と三好の関係が落ち着き、表面上は平穏な状況となっている。美濃方面も我が六角と一色とで盟約が結ばれ落ち着いて来た。此度御家に背いた高野瀬備中守の謀反は"余裕をもって鎮圧出来る状況"ということで大殿が御屋形様に出陣を命じられた。
御味方は今回の戦で二万三千もの大軍を動員している。此れだけの大軍であれば高野瀬備中の居城である肥田城を力攻めすべきだ。だが、初陣に華を沿えようと御屋形様が水攻めを主張された。全く要らぬ入れ知恵をしたのは誰ぞ。お陰で不要な刻と銭を使う事になっている。
「恐れながら申し上げまする。高野瀬の兵は千か多くても二千なれば、力攻めにて直ちに落とすが肝要にござりまする」
儂が存念を具申すると、御屋形様が舌打ちをして不快感を露にされた。
「また其の話か。だから堤作りに力が入らぬとでも言いたげだな。よいか。此度の戦は高野瀬を潰すだけが目的にあらず。高野瀬が寝返りした先の浅井にも六角の武威を示す事こそ目的なのだ。此処で水攻めを行い完膚なき迄に高野瀬と浅井を叩くっ!北近江の国人衆は六角の、いや、余の威光に平伏す事になるだろう」
「浅井は今川と盟約を結んでおりまする。何が起こるか分かりませぬゆえ刻を掛けるのは得策ではありませぬ」
「今川が何するものぞ。我等は今川と領国を接しておらぬ」
「今川は天下でも有数の富裕な大名でござれば、遠国であっても手を打ってくる恐れがありまする。足元では急に兵糧の値が異常に上がっておりまする。今川の策か否かは分かりませぬが、長い戦は懐を傷めまする」
「傷むからこそ浅井には出来ぬ戦であろう。其れに孫子曰く、百戦百勝は善の善なるものに非ざるなりと申す。余は兵法に則った戦いをしておるのだ」
「恐れながら申し上げまするが、水攻めで城を囲っている時点で戦になっておりまする。其れに某も兵法を否定は致しませぬ。兵法には斯様な言葉もありまする。兵は神速を尊ぶという言葉にござりまする」
「言葉が過ぎるぞ。其の方は余にものを申すか」
「某は大殿より此度の戦奉行を仰せ使っておりまする。必要とあらば御家のために申し上げまする」
「余は六角十六代当主ぞ。其の余が水攻めを行うと申しておるのだ。此れ以上の異議はいらぬ」
御屋形様が扇子を膝で叩いて語気を強めて言い放つ。此れ以上の具申は無理だな。どうも御屋形様は尊大な態度でいる事と威厳を混同されている様に見える。迎えの床几に腰掛ける蒲生下野守殿がゆらゆらと首を振っている。此処は諦めよと言う事であろう。儂が言葉を続けるのを諦めると、御屋形様が鷹揚に頷かれた。満足気なお顔だ。儂を論破したとでもお思いなのかも知れぬ。
再び堤の構築状況を報告する場が始まった。皆が競って報告をしている。表面上は活気を帯びたような雰囲気を前に沈むような冷めた気持ちに陥った。……六角は大きな家だが度重なる軍事行動によって蔵は必ずしも余裕とは言えない。其のような中で水攻め等という刻のかかる策は愚策だ。どう説得をしたものか。悩んでいると乱波な様な男が現れて三雲対馬守殿の方へと向かった。風の様な動きだ。やはり乱波だな。随分と急いでいるように見える。何か火急の用件でも出来したのかも知れぬ。蒲生下野殿も男の動きに気付いて儂と目があう。乱波から耳打ちをされた対馬守殿が目を大きくした。いよいよ何か起きたのだと思うた。
「あっはっはっはっ!そうか。越後守は一町も築いたか。大儀であるぞ」
近習の三井越後守が報告をして御屋形様が大層喜んでおられる。一町か。今日一番の報告かも知れぬ。人夫が疲弊しておらねばよいが……。
「恐れながら申し上げまする!」
場の雰囲気を遮る様に対馬守殿が神妙な面持ちをしながら前に出て大きな声を上げた。
「対馬守か。如何した」
「はっ。手の者から火急の報せにございまする」
「勿体ぶるな。よい。申せ」
「はっ。然れば申し上げまする。今川と北畠の連合軍が伊勢より南近江へ進軍しておりまする。其の数三万を下りませぬ」
「なんだと!」
「「なんと」」
「「さ、三万!」」
御屋形様が驚かれるとともに場に集う諸将が大きく動揺している。普段は冷静な下野守殿も驚いた表情をされている。無理もない。敵は伊勢から南近江に進軍していると言う事なら下野守殿の領国が危うい。此れは益々水攻め処ではない。
「な、なぜ今川が現れる。其れに今頃報せるとはどういう事じゃ」
「たった今捉えた動きなれば申し訳ござりませぬ」
「ええい。どうするのだ。余はどうすれば良い」
御屋形様が大きな声を上げて辺りを彷徨かれる。全く落ち着きが無い。将たるもの泰然と構えねばならぬと言うに。
「蒲生下野守殿は兵を引き上げて居城を目指すしかありますまい。黒川玄蕃助殿や山中橋内等、甲賀と伊賀方面の将は迎撃に向かわせた方がよろしいでしょう」
儂が声を上げると御屋形様が不満気なお顔を向けて来られる。御屋形様は不満そうだが、儂に名指しをされた者達は頷いている。儂が申し上げた策は奇策でも何でもない。常道なのだ。
「其れだけ兵を割いては……す、数千もとられるではないか」
御屋形様が今度は床几にどすんと腰を掛けた後、不満を隠さずに呟かれる。浅井との兵力差が減ることに不安でも覚えられたのだろう。先程まで意気軒昂と堤の報告をしていた者達が口を噤む。全く仕方ないものよ。儂が申すしかあるまい。
「三万を下らぬと言う事では、伊賀や甲賀、南近江の者にとっては今川と北畠の動きの方が気になりまする。国元が脅かされては致し方ありませぬ」
「しかし浅井征伐も大事で……」
御屋形様がもごもごと呟かれている。下野守殿等を戻しても御味方は一万と六、七千にはなる。浅井は頑張っても八千程だろう。其れにまだ小谷城から出張って来るかも分からぬ。
まだ倍の兵力はあるのだ。悠々と迎え撃てば良い。よし。
「背を固めねば大軍も崩れまする。下野守殿を戻しても味方は浅井の倍にはなりましょう。問題はありませぬ」
儂の言葉に暫く悩まれる仕草をされた後でお立ちになった。
「……下野守らの帰陣を認める。高野瀬備中を成敗し次第余が援軍に向かおう。其れまでよく防ぐべし」
「「ははっ」」
御屋形様の言葉に伊賀甲賀方面の家臣や国人衆が頭を下げる。
援軍の約束をされたのは良い事だな。敵は三万との事なれば、皆不安を覚えていよう。本隊の援軍があると思えるなら士気が変わってくる。
「水攻めは中止し、力攻めすべきと心得まする」
具申をすると御屋形様が儂の顔を睨みつけるようにしながら“分かった”と呟かれた。
永禄二年(1558)四月中旬 近江国浅井郡 小谷城 浅井 景政
「六角方は肥田城を囲う形で堤を築こうとしておりまする。恐らく水で城を沈めようとしているのかと思いまする」
「何と壮大な……月日も銭も掛かる攻め方でごさいまするな」
海北善右衛門が盤上の地図に堤に見立てた石を並べる。其れを見た磯野丹波守が溜め息混じりに呟いた。六角が取る策の大きさに驚いているとも、呆れているとも言える何とも言えぬ表情をしていた。
「しかし権中納言様は誠に兵を動かされましょうか。鈍重としていると六角の大軍を前に肥田城が落ちてしまいますぞ」
家中の阿閉淡路守が案ずる様に呟く。こういう声は伝播する前に潰さねばならぬ。
「淡路守。市は必ず来ると申していた。儂も奥を信じている。今暫く辛抱せよ」
「は、ははっ。失礼を申しました」
淡路守が姿勢を正して頭を下げる。
六角勢が二万五千近い兵で肥田城を囲んでいる。
味方は約一万二千の兵力を集めて準備をしている。急ではあったが、今川がくれた矢銭のお陰で予定よりも随分多くの兵を集めることができた。給金も弾んでいる故に兵の士気も高い。其れに越前と近江の国境では朝倉勢が周りへの睨みを効かせてくれる事になっている。今川の援軍で六角に乱れがあれば直ぐに出陣が出来る状況なのだ。
暫く気を揉むような刻が流れた後、庭の砂利を大きく踏み締める音がして甲冑を着けた男が現れた。背の高い男……佐脇と申したな。報せがあったのかも知れぬ。
「申し上げまするっ!」
佐脇が膝を突きながら大きな声を上げる。
「如何した」
「はっ!今川よりの報せにございまする!今川勢二万五千、北畠勢一万、合わせて三万五千の兵にて南近江へ進軍!只今は六角重臣の蒲生下野が居城、日野城へ攻め掛かっておるとの事にございまするっ!!」
「三万五千とな!」
「大軍ではないか!!」
広間に集う家中達が明るい声で膝を叩く。ほんの先程まで漂っていた暗い雰囲気が吹き飛んでいくのを感じた。
「も、申し上げまする!」
佐脇への労いをしようとする間も無く味方の使い番が現れた。
「如何した!」
「はっ!肥田城を囲う六角勢に動きありましてごさいまする。六角は一隊を帰国させる模様にございまする。残る兵は約一万六千程度かと思われまする」
使いの報せに皆が色めき立つ。
"やはり"
"今川様の援軍が効いたのだ"
等と声を上げている。
「新九郎」
隣に座する父に名を呼ばれる。
「はい」
「刻が来た」
顔を覗くと真剣な表情でゆっくりと頷いて来た。行って来いと言う事だと思うた。
「よいか皆の者っ!」
「「ははっ」」
「此れより六角本隊を叩きに出陣致すっ!積年の恨みを晴らす時は今ぞ。皆付いて参れっ!!」
腹の底から声を出すと、皆が咆哮する様な声で応じた。
油断は禁物だ。
だが、負ける気がしなかった。
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