第百六十三話 信玄
永禄二年(1558)三月中旬 近江国浅井郡 小谷城 浅井 久政
「今川権中納言が娘、今川市にございます」
「浅井新九郎景政でござる。歓迎しよう。面をあげられよ」
「ありがとうございます」
今川から遣わされた姫が面を上げると、切れ長の目をした美しい顔が見えた。美しいだけではない。まだ歳は十と一になったばかりの筈だが、聡明な印象を受ける。此の聡明に見える姫君が我が浅井にとって吉と出るか凶と出るか……。
「父上」
考えに更けて居ると新九郎に名を呼ばれた。行かぬ。
「うむ。浅井新九郎が父の下野守久政じゃ」
「ご尊顔を拝し奉る機会を得まして恐悦至極に存じます」
今川からの姫が微かに笑みを浮かべて言葉を紡いだ。ふむ。やはり聡そうな姫だ。今川の姫として来てはいるが、此の姫の出自は織田になる。織田は守護代の奉行から成り上がった家だ。決して高い身分ではない。加えて申さば、其の家は今や今川に敗れ、尾張の一部を治める領主に過ぎない。栄枯盛衰の中で此の姫も苦労をしたのだろう。少し親しみを覚えた。
「駿河から堺、京を経て参ったと聞いた。遠路遥々難儀であったであろう。此の景政、随分と心配していたのだ」
「ご心配ありがとうございます」
新九郎が親しく姫に話し掛ける。新九郎は先日、新たな主である朝倉左衛門督様から一字を頂いて景政と名乗っている。此の背景には今川権中納言様の動きがある。家格で言えば今川と朝倉は比べるまでもない。縁談を理由に、今川権中納言様から新九郎へ一字を頂いてもおかしくないが、権中納言様が左衛門督様に一字を与えて下さるよう願って下さったらしい。今川権中納言様は名門の出だが、随分と剛柔合わせもつ御方の様だ。
「堺までは船でありましたし、京までは然程距離はありませぬ。湖北に入ってからは御家中の頼もしい皆が守ってくれました故、不便はのうございました」
姫の言葉を受けて、護衛を任せた海北善右衛門がにやけた顔をしている。猛将で鳴らす善右衛門も美しい姫の虜になっている様に見えた。
「そうか。それは良かった」
新九郎が笑みを浮かべながら優し気に姫へと話しかけた後、“皆の衆”と大きな声を上げた。同席している家中の者達が姿勢を正して新九郎の方を向く。
「我が浅井は越前の朝倉を主と仰ぎ、海道の今川と盟約に至った。此れよりは六角及び一色と戦い、勝たねばならぬ。皆皆の一層の働きに期待している」
「「ははっ」」
新九郎の言葉に居合わせている重臣達が深く頭を下げた。
「恐れながら申し上げます」
「市、儂と其の方は夫婦になるのだ。其のように畏まる必要などない」
今川からの姫が言を放つと新九郎が優しく応えた。朝方まではどの様な姫が来るかと緊張したような面持ちをしていたが、我が息子も此の姫を随分と気に入った様だ。
「ありがとうございます。然れば今川の義父より輿入れ先にと預かったものがございます」
「権中納言様から?輿入れ道具は先に運んであるが」
新九郎が問い掛けると、姫が"それとは別にごさいます"と応じて後ろに控える近習達に目配せをした。
何人かいる近習達の中から一際背の高い男が前へ出て近付いてきた。姫の側に座って頭を下げる。
「直答を許す。名乗るがよい」
「はっ。今川家臣、佐脇藤八郎良之にござりまする。此方は主、今川権中納言から浅井家への贈り物に関する目録にございまする」
佐脇と申す者が目録と言った包みをいなだいて頭を下げる。家中の赤尾美作守が受け取りにいって新九郎へと渡した。
「何と……」
新九郎が中身を改めて言葉を失っている。
「如何致した」
声を掛けると新九郎が目録を儂に差し出して来た。
たった一文が書かれている。
"銭二万貫文"
と。
「こ、此れは誠であるか」
つい儂も本音が口から出た。
「殿、先程から如何されたのでござる」
「左様。我等にもお知らせ下され」
「美作、善右衛門よ。目録にはただ一行、銭二万貫文と書いてある」
「な、なんと」
「二万貫!?」
雨森弥兵衛尉をはじめとした他の家中も驚いた表情を浮かべている。無理もない。二万貫など、ぽんと出せる銭ではない。今川は富裕だと聞いてはいたがまさか此れ程とは。
今一度目録に書かれた一行に目を移す。
だが、六角との戦を前に銭は幾らあっても困らぬ。其れにしても二万貫とはな。笑みが零れそうになるのを自重した。
「義父からは足りねば何時でも言って欲しい、其のように言伝てするよう受けております」
言葉の内容に驚いて顔を上げると、其処には強烈に存在感を放つ姫がいた。
永禄二年(1568)三月下旬 甲斐国山梨郡府中 長禅寺 武田 晴信
剃髪して涼しくなった頭に春風があたる。
「あとは名を授けて式は終わりであります」
正面に立たれている岐秀元伯導師が、柔和な表情を浮かべながら話しかけて来る。
「名を」
出家をするのだ。法号を貰い受けるのは分かっている。だが、先が気になってか言葉が出てこない。とりあえず導師の言葉を返して続きを待った。
「左様。此の後は機山信玄と名乗られるがよろしい」
導師が懐から名を書いた紙を取り出して儂へと見せる。其処には導師に似た響きの"機山"という字に"信玄"という字が書かれていた。
「機山信玄」
「そうじゃ。ご存知か分からぬが拙僧が属する妙心寺の開祖は関山慧玄師と申しましてな。其れはもうご立派な方であられた。其の関山慧玄師にあやかって信玄と致した」
「お気遣いありがとうございまする」
「其れに此の関山慧玄師は信州高梨の出であると言われている。信濃をより深く治めるには良い名となりましょう」
成る程。信濃に縁のある高僧の名を下さる事で信濃の統治がよりしやすくなるか。流石は我が師だ。有難い名を頂戴したと思うた。
「機山信玄の名に恥じぬよう励みまする」
「うむ。最近は稲穂の実りも良くなく民は苦しい暮らしを余儀なくされている。民を導く政に勤められませ」
「はっ」
暫くして得度式が終わると、師と二人で茶を飲む事となった。最近は慌ただしくて家中の者以外と話をする機会が乏しかった。ましてや導師となら肩肘張らずとも良い。静かに息を吐くと、導師が笑みを浮かべて"たまには肩の荷をおろしなされ"と呟かれた。
「左馬助……松操院の葬儀には導師もお越し下さり礼を申す」
「誠、惜しい人物を無くしました」
「儂の失策じゃ。此の責めは死する時まで背負って行かねばならぬ」
「刻は戻せませぬ。今此れから何をするかにごさいます。何がより最善か。此れを考える事こそ肝要にござりましょう」
変わらず優しげな声色と表情で導師が言葉を紡ぐ。
誠、此の師には心内を裸にさせられる。
ふと昔を思い出した。
「作麼生」
「説破」
儂が威儀を正して"問う"と告げると、導師も真剣な顔を浮かべて相対した。
「我が武田は如何に動くべきと思われる」
「越後と誼を結ばれませ」
「長尾と?」
「左様。甲斐の民は駿河からの荷留めによって何かと物が欠けて苦労しておりまする。取り分け塩は海を持たない武田に取って泣き所。長尾は其の塩を融通してくれております」
「兵糧を任せている跡部尾張守が申していたな。塩の欠乏が著しかったが直江津方面から幾らか入って来るようになったと」
「左様にありまする。此れを使いませ。礼を述べる使者を遣わして誼を結ぶのです。上杉は関東に手を取られております。武田を気にする余裕はありますまい。誼結べば今川や北條を圧迫できます」
「導師まで上杉と呼ぶか。守護代上がりの成り上がりに過ぎぬ長尾を」
「喝っ!!」
儂の言葉を遮る様に導師の大きな声が響く。久々に叱咤を受けて思わず背筋が伸びた。
「左様な雑念など捨てて置かれませ。長尾は……上杉は関東管領になったからこそ関東に縛られるのであります。家格の事など利を考えれば些末なり。腹内で高笑いされておけばよろしい」
「利を採る……か」
「武田大膳大夫。貴方様は何時も利を追って大きくなって来られたのではありませぬか」
導師の鋭利な視線が突き刺さる。
確かに其の通りだ。
儂は何時も利を追って来た。長尾と盟約か。確かに武田と長尾が手を結べば導師が仰せの通り、今川や北條を圧迫出来る。其れに木曾方面だけの心許ない荷動きが北からも得られる事になる。長尾とて関東出兵で懐は傷んでおろう。我等に売れるなら売りたいはずだ。
「導き感謝致す。上杉との誼、前向きに進めましょう」
「拙僧で出来る事あらば協力致しましょう」
導師がゆっくりと頷いてから茶を飲まれた。
儂も手にとって茶を啜る。
何時もより円やかに感じた。
永禄二年(1558)四月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真
湯を入れて茶を丁寧に練る。
今日は天目茶碗の点前だ。天目茶碗は鋭利なせいか茶を練りにくい。何時もより慎重に手順を踏むが、所々で茶が玉になっているのが見える。玉になった茶を練ろうとして茶筅を動かしていると、立ち上がっている湯気がどんどん細くなっていくのが分かった。
行かぬ。刻を掛けすぎている。
茶が冷めつつある。
此れは……失敗だな。手を一度止めて溜め息をついた。
天目茶碗の点前が苦手という事もあるが、心が随分と乱れている。
先月、重臣を峰之澤に引き連れて行って厳しい火薬事情を話した。熟慮した上での行動であったが、いざ話してみると今度は此れで良かったのかと自問が始まった。あの中から一人でも一色や武田に寝返りでも起きれば今川の苦しい内情を知られる事になる。
今のところ皆に怪しい動きは無い。先月の評定では連戦連勝に気を良くした一部家臣が長島攻めや美濃攻めを主張したが、打ち明けた重臣等が慎重論を訴えた。新たに領土とした尾張の統治や遠江で約束した一年の慰撫もある。重臣達が口を揃えて力を溜める時だと申したので評定は内政重視の方向で纏まった。
事情を伝えた効果は出ているが不安がどうも過る。
其の不安が点前に現れているのだと思った。
"御屋形様"
玉のある冷めた茶を自服していると、狩野伊豆介の声がした。いよいよ事が動いたか。
「入れ」
軽い身のこなしで荒鷲の頭領が部屋に入ってくる。どうせ内密の話だ。近くに座るよう促した。
「如何した」
「はっ。浅井の市姫様より文にござりまする」
「来たか」
「はっ」
伊豆介が差し出して来た文を確認すると、高野瀬備中守の寝返りに怒った六角右衛門督が兵を挙げる用意をしているとあった。備中守の寝返りについては荒鷲の調べにより少し前に把握している。六角の動きについてもだ。事前の報せを受けて早々と北畠や水軍等、諸々の調整をしていたところだ。
駿河と三河、尾張から二万五千を動員する準備も済んでいる。正直なところ、後は文が届くのを待つだけだった。
「文の内容について承知しているか」
「姫君より預かった手の者より聞いておりまする」
「ならば北畠への知らせは済んでいるか」
「はっ。鳥屋石見守殿宛に向かわせておりまする」
「であるか。ならば問題ない。では直ぐに出陣しようぞ」
「直ぐにでごさいまするか」
伊豆介が微かに驚いた表情で応じる。
「明朝早々かと思うておりました」
「大戦にしてはならぬ。其のためには敵の肝を冷やす必要がある。此度は刻を掛けてはならぬ」
「畏まってございまする。直ぐに評定衆の皆様方へ伝えましょう」
「強行軍なら三日で亀山に着けるだろう。どの道亀山で休息が必要になる。北畠の援軍を待つ間に味方も待てば良い」
「御屋形様の神速に六角も肝を冷やしましょう。畏まってございまする」
出来の悪い茶を飲み干して片付ける。此度の策が上手く行けば近江は暫く落ち着く。六角は揺れ、一色を助けるどころでは無くなるだろう。戦の後に今一度台天目をやろう。其の時に落ち着いた心で美しく、旨く出来れば良い。
「北畠は事前に承諾しているとはいえ念には念を入れておく方が良い。先程報せを遣わしたと申したな。戻ったら滞り無かったか報告せよ」
「御意にございまする」
六角を脅すにはどうすべきかと考えたが、北畠と調整して亀山方面から近江へと兵を進めて圧迫する事にした。北畠は六角と縁が浅く無い。事前の調整では反対意見も出るかと心配したが、意外にも具教はすんなりと承諾した。
今川の支援で長島を除く北伊勢を平定したのが効いたらしい。家中も親今川で纏まっているようだ。
松坂や大湊の商家にも美味しい思いをさせてやっている。長島を囲う水軍の兵糧補給は北畠家の許可を得た上で、なるべく北畠の湊を活用している。其の時に少し色を付けてやっているのだ。お陰で北畠の御用商人から今川はすこぶる評判がいい。金の切れ目は縁の切れ目とはよく言ったものだが、銭に浸けられるとどうなるか。今のところ伊勢は良い具合だ。此のまま行けば将来は今川の属国に出来るかも知れぬ。
だが、裏切りが当たり前の戦国だ。確認を慎重にしておいて悪い事はない。
「近江方面への出兵を理由に長島の包囲を意図的に薄くする。美濃から荷入れがあっても見逃せ」
「御意にござりまする」
「北畠はどのくらい兵を出せるかな」
「一万近くは動かしましょう」
「三万と五千になるか。此れはいよいよ六角も後ろが気になるだろう」
「仰せの通りにごさいまする。ただ」
「うん?」
「甲賀方面への進軍は危険にごさいまする」
伊豆介が厳しい表情で呟いた。
「分かっている。甲賀を無用に刺激するのは避ける」
前世の知識で織田が甲賀攻めには中々苦労した記憶がある。うろ覚えで間違った記憶かもしれない。だが触らぬ神に祟りなしだ。甲賀への深入りは避けよう。
「甲賀には進まず六角の重臣である蒲生の居城、日野城を目指す。三万を超える大軍が此処まで兵を進めるのだ。六角とて迎撃の兵を回さねばなるまい」
「それはそうですな」
「其の先は浅井の奮闘に期待だな。余に出来るのは此処までだ」
「十分なご支援かと思いまする」
伊豆介の返答に頷いてから立ち上がって部屋を出る。
縁側に櫻の花弁が落ちていた。庭には満開を迎えた櫻が何本か見えている。
「今年もゆるりと櫻を眺められなんだ」
「来年こそ出来るとようございますな」
「うむ。公家衆や家臣を呼んで盛大に花見をやるとしよう」
「それはようございますな。京からは益々をもって駿河御所と呼ばれましょう」
伊豆介が声を上げて笑いだす。
最近今川館は一部の者から“駿府御所”と呼ばれているらしい。上方の商人が言い出したようだが、二條をはじめとして反今川の公家達が増長甚だしいと怒っているらしい。全く俺は何の関与もしていないのに酷い言われようだ。
春の除目で頭弁になった草ヶ谷の義弟からは二條太閤の勢いが増していると報告を受けている。朝廷、幕府、三好との関係を太閤が上手く調整しているらしい。曲者揃いをよくもまぁ調整していると関心すら覚えるが、近衛の義兄上からは上洛を促す文が来る時もある。其れだけ苦しくなっているのかも知れん。
残念ながら今川は暫く動けぬ。暫くは耐え忍んでもらうしかない。
虚勢を張るのも楽ではないな。
また溜息が零れそうになった時、櫻の花弁が肩に舞い落ちて来た。ふと、歌の師であった冷泉卿に習った一首を思い出す。
“今年より 春知りそむる 櫻花 ちるといふことは 習はざらなむ”
溜息をつく代わりに和歌を詠んだ。少し心が落ち着くとともに、過去の学びに感謝した。
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