第百六十二話 吐露




永禄二年(1558)三月上旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 上杉 輝虎




政務をしていると近習が現れた。直江神五郎が登城して参ったと言う。今朝も評定を行って散会をした後だ。関東出兵に向けた準備で何かあったか、其れとも関東で何かあったか。廊下を抜けて部屋へと入ると、頭を下げる宿老の姿があった。

「待たせたな」

小さな部屋に一枚だけ置かれた畳の上に座る。部屋は狭いが信の置ける家臣と話すには都合が良い広さだ。声を張らなくても届くのも良い。

「面を上げよ。如何した」

儂の言葉を受けて神五郎がゆっくりと面を上げる。"良くない事が生じた"と顔が訴えていた。

「武蔵の太田美濃守殿が北條家に降りましてごさいまする」

「何だと?松山城が落ちたというのか。武蔵の要諦ではないか」

儂の呟きに大和守が溜め息を溢す。大方原因は想像が付くが聞かぬ訳には行かぬ。

「詳しく申せ」


「はっ。二月より北條からの城攻めに耐えていた松葉城ですが、衆寡敵せず遂に落ちたとの事でごさいまする。前の関東管領様は松山城からの再三の援軍要請に応えなかったようでございまする」

「義父上は何故援軍を出さなんだ。忍城か岩槻城辺りに手勢を幾らか差し向けてちらつかせれば、北條は気が漫ろになって戦どころでは無くなるだろう。太田が降る事も無かろうに」

「御実城様の言やごもっともにございまする。なれども其れが出来ぬのが前の関東管領様にございまする」

神五郎が嘲笑するような表情で呟く。

こうした腹を割った話をするからこそこの部屋が良いのだ。

「ふん」

「そもそも前の関東管領様が御実城様の仰せになられた軍略の出来る方なら、武蔵上野が在りし日にこれを失う事ありますまい」

大和守が吐き捨てる様に言葉を放った。厳しく、そして無礼な物言いだがその通りだ。大和守が申すように義父上が傑物なら関東管領時代に北條を降し、更には関東に覇を唱えているだろう。八万からなる大軍で北條を攻めた際に敗れる事も無かった筈だ。


「大田が降ったと言うことは武蔵の国人は北條に靡こうな」

「仰せの通りかと存じまする。既に草の調べでは幾つか寝返っておるようにごさいまする」

神五郎の話す内容に思わず溜め息が溢れる。他の者達には見せられぬが神五郎には見せてしまう。

「義父上は何と仰せなのだ」

「はっ。北條勢は既に上野に入っておりますれば、援軍を求める矢の催促が来ておりまする」

義父上からの書状は儂にも直接何度も来ている。その度に雪解けを迎え次第直ぐに援軍に行くと伝えている。文の返答では何時も太田への援軍を少しでも出すようにと促していたのだ。行かぬ。文を思い出しては怒りが沸いてくる。


「三国峠の状況はどうじゃ」

「まだかなり雪が残っておりまする。人をやって何とか取り除いておるところにございまする」

「通る事叶うか」

「無理をすれば」

「無理をせねば上野を失いかねぬ。さすれば関東は北條の旗一色になる」

儂の言葉に神五郎が"否定出来ませぬな"と呟いた。儂が無理をしてでも軍を起こすと読んでいたのだろう。この翁は昔から軍略に長けている。


「加賀も信濃方面も落ち着いている。此処は兵を多めに持っていく」

「はっ」

これも予想してたのであろう。神五郎が動じる事なく静かに応じた。

零れ出そうになる溜め息を堪えて力強く立ち上がった。




永録二年(1558)三月上旬 遠江国豊田郡龍川村峰之澤 庵原 忠胤




「久しいな三郎左衛門」

「ご尊顔を再び拝し奉る儀を得まして感激に堪えませぬ」

御屋形様が峰之澤代官の蒲原三郎左衛門殿に声を掛けると、三郎左衛門殿が嬉しそうに笑みを浮かべながら膝を付き、そして頭を下げた。峰之澤は今や今川を支える軍の物資や銭を作り続ける一大拠点だ。下手な者には任せられない。そんな中白羽の矢がたったのが三郎左衛門殿だ。出自である蒲原家は今川の庶流にあたり、御一門衆に名を連ねている。だが、三郎左衛門殿の父である宮内少輔殿は若き頃には幕臣として洛中にあり、随分とご苦労をされたようだ。今もご健在だが、御一門の出でありながら大きな事から細かい事まで卒なくこなされる。その影響を受けて育ったのだろう。三郎左衛門殿も中々に細かい所に目が届く。信のおける点と働きを買われて御屋形様が代官に任じたのだ。


「三郎左衛門、改めて紹介しよう。家老の朝比奈備中守、同じく吉良上野介、大蔵方の関口刑部少輔、庵原安房守、輜重方の井伊平次郎だ」

「峰之澤代官の蒲原三郎左衛門にござりまする」

御屋形様の案内に三郎左衛門殿が頭を下げて応じる。御一門衆でありながら腰の低い所も好感が持てるところだ。しかし改めて考えると凄いの。筆頭家老の三浦左衛門尉殿と荒鷲頭領の狩野伊豆介こそおらぬが今川の中枢が此処に集まっていると思うた。



"ダダァーーン!"

峰之澤恒例の試し撃ちの音が聞こえた。初めて来た時は随分と驚いたものだが些か慣れた。今日は心なしか音の量も回数も少ない気がする、と思う程度の余裕すらある。


「今まで軍備の大事なところは余が把握し、差配をしていたのだが、今や領国も広がり一人で担うには限度がある。此処は信のおける其の方達に状況を知らせておこうと思うてな。遠路此処まで足を運んでもろうたのだ」

御屋形様の御言葉に同席している皆が緊張した面持ちで頷く。今回の道中に御屋形様から内々の話しとして硝石を峰之澤で生産しているというお話を頂いた。峰之澤では鉄砲や大筒、銭が作られているのは知っていた。今川にとって無くてはならぬ拠点であるのは分かっていたがまさか硝石まで作っているとはと驚いた。

「三郎左衛門、硝石を保管している蔵に皆を案内せよ」

「はっ」

御屋形様の下知を受けて三郎左衛門殿の先導で大きな蔵に辿り着く。

「火事などの万が一を考慮して硝石の蔵は峰之澤の外れに二ヶ所、真反対に置いておりまする。此処より全くの反対にも同じような大きな蔵があり、此方と同じ量を保管しておりまする」

峰之澤には何度か来ているが、硝石を保管している蔵まで見たことはなかった。三郎左衛門殿が蔵に掛かっている鍵を解錠すると、振り返って御屋形様に今一度問うような表情を浮かべた。

「構わぬ。皆に中を見せよ」

「御意」

三郎左衛門殿が蔵の扉をゆっくりと開くと中に光が注いだ。開くに連れて明るくなり、徐々に内側が見えてくる。

「こ、これは」

「もう一つも同じようでござるか」

備中守が驚き、刑部少輔殿が問われる。儂とて驚いている。大きな蔵に対して保管されている量が少なすぎるのだ。

「同じようにほとんど空にごさいまする」

三郎左衛門殿が申し訳なさそうに応えると御屋形様が頷かれた。


「三郎左衛門のせいではない。皆、見た通りだ。此処のところの戦続きで火薬の原料となる硝石が欠乏している。硝石の生産は麻機村でもしているがあちらも残りは少ない。大きな野戦があれば数日で失のうてしまうだろう」

「遠江の街道整備で土を取られているのは此のためでごさいまするか」

「上野介は察しが良いな。其の通りだ。あれで得たお陰で長島の水軍を叩けた」

「それでも足りぬとは。買付をするしかありませぬな」

平次郎殿が呟いた。此度の峰之澤訪問は平次郎殿が各地に火薬を振り分ける際に在庫が不足しており、御屋形様に相談したところから始まっている。今足りぬ分に対して、作っても間に合わぬと判断したのだろう。

「買付はしているが使う量が多くて中々満たされぬ。あと二年だ。二年を耐えれば峰之澤で手掛けた大量の種土が硝石として恒常的に供給されるようになる」

「二年」

「そうだ。それまではなるべく大きな戦は避けねばならぬ。特に火薬を山のように使う野戦はな」

御屋形様の言葉に幕閣の皆が息を飲んだ。二年か。短いようで長い。


「長島は如何致しまする」

上野介殿が御屋形様に問い掛けた。

「無理には攻めぬ。此のまま干からびるのを待つ」

「力攻めはしないということですな」

「そうだ。力攻めをすると大量の門徒が血眼になって出てくる事になる。其の門徒を撃退する程の……火薬がないからな」

御屋形様が口惜しそうに仰せになった。鉄砲や大筒があれども満足に使えない。急にそこはかとなく不安を覚える。

「不安になったであろう」

御屋形様が苦い笑みを浮かべながら儂に話し掛けられる。行かぬ。顔に出てしまっていたか。

「今まで御屋形様は此の不安を一身に背負って来られたのかと思うと感嘆の思いにございまする」

「嬉しい事を言ってくれるでは無いか」

「本心でござりまする」

「うむ。さて、長島の話であったな。長島の存在は使い様によっては我等を利する可能性もある。寧ろ此れを上手く使わねばならぬ」

「長島が我等を利するとはどういう事にごさいまするか」

「良いか備中。長島にはおよそ十万の門徒が籠っている。打って出てくる事も考えれば、島を囲う兵は常に一万は必要だろう。尾張の兵はほとんど此れに取られる事になる。尾張衆は美濃や近江処では無くなるということだ」

「成る程。下手に長島を落として次は美濃だと恐れさせるより長島に兵を取られていると思われる位の方が良い。そういう事でごさいまするな」

備中守殿が応えると御屋形様が満足そうに頷かれた。


「其のためには長島にもう一踏ん張りしてもらわねばならぬ」

もう一踏ん張り?御屋形様は何かお考えの様だ。一戦を設けるのか?だが火薬が心許ないと話したばかりだ。分からぬな。伺うしかない。分かった積もりが一番行かぬ。恥を書き捨ててでも聞かねばご期待に添えぬ。

「恐れながら御屋形様の見立てを伺えまするか」

儂が問い掛けると、同じ事を考えていたらしい。幕閣の皆も御屋形様の方を向いて姿勢を正した。

「近々浅井と六角との間で戦があると見ている。場合によっては美濃の一色も六角へ援軍を出すかもしれぬ」

「浅井が六角、一色と戦でございまするか。浅井単独では苦しゅうございまするな」

「うむ。だからな。余は娘として嫁がせた市から援軍の要請が来れば兵を上げるつもりだ。威力出兵のな。其の時は出兵を理由にわざと長島の囲いを緩めてやっても良い。坊主は嬉々として兵糧を積み込むだろうな。此れも見過ごす。硝石が潤沢に整うまで持つ程度の兵糧を詰め込んでくれると良いな」


成る程。浅井への援軍を理由にわざと囲いを緩めるということか。流石に熱心な一向衆と言えど腹が減っては戦は出来まい。だが逆に言えば兵糧が整えば奴らは降ってこないということか。

「兵糧を得て打って出てくる様にならねば良いですな」

「長島は守りやすく攻めにくい場所だ。全軍で打って出るのは難しい。一、二度は打って出て来て叩く必要も出るかも知れぬ。其のくらいの火薬は心配するな。其の後は厭戦気分にでもなってくれるといいのだがな。さすれば朝廷か幕府でも使って和議にする。時間は稼げるだろう」

御屋形様が朝廷や幕府を駒として使うお癖を見せると、幕閣の皆が声を出して笑った。

「公方様がお聞きになったら顔を真っ赤にしてお怒りになりましょうな」

「刑部少輔の申す通りだ。だからこそ今日話した事、見た事は内々の事であるぞ。良いな」

御屋形様が悪戯をする童子の様な表情で話し掛けて来られた。皆が笑って頷く。

「幸い銭は山とある。銭を使うて少しでも状況が良くなるよう余も骨を折る」

「「ははっ」」

そうだ。今川には銭がある。不安の霧が少し晴れた気がした。



「苦労を掛けるが皆頼むぞ」

暫くして御屋形様が真面目な表情を浮かべて言葉を紡がれた。

「「ははっ」」

我等も知恵を絞り、力を出さねばならぬ。幕閣の皆で顔を見合って頷き合った。




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