第百六十一話 代弁者
永録二年(1558)二月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 市
「御屋形様におかせられましてはご健勝の事とお慶び申し上げます」
「その様に固くならずとも良い。面を上げよ」
許しを得て面を上げると、狩衣を来た若い男が脇息に手をのせて座していた。座しているが中々の背格好であるのが分かる。顔は公家のような品の良さを感じるが
「義父の顔に何かついているか」
不意に掛けられた"義父"という言葉にどう応えたものかと窮する。
「市殿」
同席をしている鷺山殿が私の名を呼んだ。名を呼ばれて慌てて頭を下げる自分がいた。
「失礼を致しました」
「そう固くなるなと申した筈だ。余は織田の者に取って仇敵なれば思うところもあろう。だが縁あって其の方と余は親子になった。余は親として出来る事はしてやりたいと思うておる」
御屋形様が……いや、義父上が優し気な笑みを浮かべながら言葉を掛けてくださる。滅亡した家の姫など殺されるか寺に出されるしかない世の中、私はこの館で不自由のない暮らしをさせてもろうている。最近になって今川家の養女という身分を得てから暮らしぶりは一層豊かになった。義父上は兄の仇敵ではあるが悪い方ではない。まだ幾度しかお会いは出来ていないが何となく人となりは見えてきている。
「……有難うございます」
私に出来る事など頭を下げる事ぐらいしかない。深々と礼をして謝意を示した。
「うむ。林佐渡守から簡単に話が伝えられていると思うが、此度其の方は余の養女として北近江の浅井家へ嫁ぐこととなった」
「はい」
「浅井家は北近江で二十万石程を有する家だ。肥沃な近江の土地に淡海の海での水運もある。不自由はないだろう」
「はい」
「だが、浅井は北に朝倉、南に六角という大国に挟まれている。元々は南の六角に服属していたのだがな、六角が浅井の嫡男、其の方が嫁ぐ男だ。此れに嫁を勝手に送り付けるなどという粗雑な扱いをしてな。浅井の家中が六角への反発を強めていたのだ。其れで浅井は朝倉へ近づいた」
なるほど。朝倉と今川は最近親密な関係になりつつあるという。両家のやり取りの中で此の縁談が進められたということか。女子に表の背景を細かく説明下さるとは珍しい。義父上は変わった御方だと思うた。
「斯うした中で其の方は嫁ぐ。初めは何かと苦労するだろう。苦労の原因が分からねば嫁ぎ先でなお苦労すると思うてな。説明をしておこうと思うたのだ。何、初めて会うた時に其の方が歳の割に聡明だと分かったからな」
義父上が柔和な笑みを浮かべながら話しかけて来る。目の前の御仁は仇敵ではあるが、褒められると悪い気はしない。素直に頭を下げて応じた。
少しだけ静かな間があった後、“当初近江入りは田植えが終わった時期を考えていた”と声が掛けられる。田植えが終わった時期?であればまだ三月は先の話の筈だが……。
「六角が用意した嫁を浅井は付き返そうとしているのは話したな。此れが返された場合、其の方が近江に着くころには返している頃かも知れぬ。そうなるとな、流石に六角とて面子がある。兵を挙げる事になるだろう。戦になるという事だ」
「戦に……」
「うむ。だが案ずるな。六角が兵を挙げる動きをしたならば今川が尾張へ威力出兵をする。六角を抑えるためになるべく多くの兵を連れて参ろう。六角は気も漫ろになる筈だ。大事な事は六角が兵を挙げた時、其の方は今川の義父に援軍を願うと申す事だ。文も直ぐに書いて余に寄越せ。余は其の方からの要請で兵を挙げた体を取る。さすれば戦を終えた時、其の方は浅井で暮らしやすくなるはずだ」
滅した家の姫が形だけ今川の姫となって嫁ぐのだ。浅井家中の思いは複雑かも知れない。だがその為に布石を打ってくださるということか。やはり目の前の御仁はあの兄上を破っただけはある。切れる御方だと感じた。
「思召し、委細承知致しました」
「うむ。反物、簪の類いなど輿入れにあたって必要な物は取り揃えた。今川の姫として恥じない代物ばかりだ。不足あらば近江に行った後でも良い。京の赤鳥堂に発注すれば費用は余が持つ」
「何から何までご配慮ありがとうございます」
礼を伝えると、義父上が大きく頷いて“頼むぞ”と仰せになった。何となく、“今川は其の方を上手く使こうている。だからお前も今川を上手く使えばよい”そう言われた様な気がした。姫よ花よと褒められるより、あるいは使い勝手が悪いと煙たがれるより分かり易くて余程良い。使える者は使う。何処となく兄上に通じるようなものを感じた。
「佐渡守」
「ははぁ!」
「呼んで参れ」
「御意に御座いまする」
義父上が佐渡守の名を呼ぶと佐渡が廊下を足早に進んで行った。鷺山殿から佐渡守が手懐けられていると聞いてはいたが、まるで子飼いの様な動きに笑みが零れそうになる。
「美濃も南近江も油断はならぬ。其の方は船で堺へ向かい、京、湖北を通って浅井領へ入れ。急ぎ足となるが上方で道中買いたいものがあれば買うと良い」
「ありがとうございます」
先程から礼を申してばかりだな。幾度目かの礼をすると、今着ている反物の裾に視線が向いた。上等な反物が視界に写る。尾張にいた頃は苦労こそ無かったが此れ程上質な反物を着る事など無かった。人の生とは分からないものだと感じた。
「佐脇藤八郎、お呼びにより罷り越して御座いまする」
「長谷川右近、同じく罷り越して御座いまする」
「山口長次郎、同じく罷り越して御座いまする」
「うむ。皆入れ」
「ははっ!!」
義父上の許しを得て若い男達が部屋に入って来る。確か兄上が市井へ足を運ぶ時に付き従っていた中にいた者共のような……。
「藤八郎、右近、長次郎。其の方達を我が娘市の近習に命じる。市は近々北近江の浅井へ嫁ぐことになる。共に付き従いよろしく守ってくれ」
「「ははぁっ」」
三人の男が平伏をして応じる。一番左の男は見覚えがある。確か荒子を治める前田家の出である筈だ。織田家の者を付き人に選んでくださったという事か。
義父上の御顔を眺めると、再び笑みを浮かべて応じられた。
上手く乗せられているだけかも知れない。だかこの御輿なら乗ってもいい。
そんな風に感じた。
永録二年(1558)三月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 冷泉 為和
「源氏物語において香に関する著述があるように、香というものは古来から日の本で親しまれて来たものにおじゃる。此の香を一つの道として取り纏めたのが我が祖父実隆におじゃる」
「今は亡き我が師雪斎に、其れはもう大変な才をお持ちの方であったと聞いておりまする。その逍遙院殿の系譜に連なる権大納言殿に師事出来て嬉しゅうございまする」
三條西家当主で権大納言である実枝さんのお話に、今川権中納言様がお応えになられる。出自を褒められた実枝さんが嬉しそうな表情で頷いた。
「祖父に比べれば麿は非才の身なれど、説明を致しましょう」
「是非にお願い致しまする」
今川権中納言様が頭を下げると、今回同席をしている中御門権中納言、正親町中御門権中納言、吉良上野介殿が頭を下げた。麿も同じ様に頭を下げる。
「先ほど源氏物語の事をお話し申したが、香に関する記述はもそっと前からおじゃりまする。例えば古くは日本書紀にもあるのでおじゃる。千年もの古に、香は仏教の伝来とともに日の本へと入って来たのでおじゃりまする。ただし、この時はどう作るか、どう使うかは詳しく伝えられませなんだ。此れを詳しく伝えてくれたのが伝灯大法師におじゃりまする」
実枝さんの高説に中御門さんが"唐招提寺の鑑真師であらしゃいますな"と応じると、今川権中納言様が"鑑真和尚の事でござったか"と応じる。伝灯大法師という言葉はご存知なかったようだが、唐招提寺の鑑真師はご存知だったようだ。相変わらず多方面に博学な御方だと思うた。
しかしそれにしても駿河は京に比べて過ごしやすい。弥生の暖かみを少し感じる心地良い日差しの中、狩衣を召した貴人が集って雅な香が漂っている。目の前に広がる景色にふと洛中を思い出した。
今日は今川権中納言様が香について知りたいと実枝さんに教えを乞われ、近しい間の者が集まっている。実枝さんは此の駿府に長らく下向されておられる。我が冷泉や正親町家とは家ぐるみで親しい。今川権中納言様に此の館へと呼ばれて歌会や茶会をやること少なくないが、香を学ぶ機会は珍しい。何ぞあったかと気になった。
「白檀の香りはようござりますな。某は好きな香にござる」
香炉をもって香りを聞いている今川権中納言様が笑みを浮かべながら呟かれた。
「此れは同じ白檀でも中々品のある香りにおじゃる。白檀は良い香りがするものでおじゃるが、確と保管をして置かねば直ぐに香が損なわれるものでおじゃる。友野屋で買われたと仰せでしたかの。今川さんに乞われて友野屋も良い物を捜したのでおじゃりましょう」
「左様でございまするか。ならば後日友野屋に会うた時には礼を申しておきましょう」
実枝さんの高説に談笑が続く。全く優雅な一時よ。織田との戦や武田との戦と、今川も戦で随分と慌ただしかったが、此処に来てようやく落ち着いてきた。よい刻の流れだと思うていると、今川権中納言様が“一つ聞きたい香がござりまする”と仰せになった。実枝さんが“何でおじゃりましょう”と応じられた。
今川権中納言様が懐から徐に包みを取り出される。
「此方にござりまする」
「何でおじゃろう。興味が惹かれますな」
実枝さんが関心を持った表情を浮かべながら呟かれる。今川権中納言様が丁寧に包みを取られると香木が幾つか入っていた。
「先般、越前の朝倉殿から頂きましたものにござりまする。礼の文を書きたいのでござるが、何分不調法故何と書いてよいか分からなんだのでございまする」
今川権中納言様の話を聞きながら、実枝さんが香木の欠片を丁寧に持たれて布の上に置かれる。
「此れは伽羅におじゃりますな」
「伽羅……。言葉は聞いた事がございまする」
「伽羅は沈香の中でも特に良い物でおじゃりまする。沈香は火で熱くしてこそ香りを強く出すのでおじゃるが、伽羅は常でも良い香りが致しておじゃる」
実枝さんが布の上に預けた伽羅を今川権中納言様に向けられると、権中納言様が顔を近づけられて香りを楽しまれる。
「ほぅ。確かに良い香りが致しまする。成程。伽羅でございまするか。朝倉左衛門督殿には丁重に礼をしておきましょう」
「貴重なものですぞ。それがよろしかろう。せっかくでおじゃる。一つ香りを聞いてみましょう」
実枝さんの問い掛けに今川権中納言様が“是非に”と応じられた。伽羅か。随分と高価な香なだけに久しく楽しめていない。ご相伴に預かれるとは嬉しいの。
朝倉家から進呈されたという伽羅を熱すると、忽ちに芳醇な香りが辺りに漂った。正親町中御門権中納言が"良い香でおじゃりますなぁ"と声を上げた。麿も同じ様に思う。雅な景色が香りも相まって一層雅なものとなる。此れは中々に良い香だ。手に入れるのも其れなりに難儀であっただろう。
朝倉と今川は思うたよりも親しい間の様だ。尾張を手にした今、今川は美濃と対立している。其の美濃は最近では近江や甲斐と親しいという。そうか。そういうことか。朝倉とはよろしくやろうとしておられるのやも知れぬ。
越前は公家が幾人か下向する場所だ。親しくしている中にも四辻権大納言殿が頻繁に越前へ下向されている。何か介添え出来る事があれば致そう。
我が冷泉は今川には先々代、先代、当代と世話になっている。
今また当代は若くして尾張をへいどんし美濃を伺う勢いだ。後から下向してきた公家に遅れなど取れぬ。
今川の隆盛は冷泉の隆盛でもあるのだ。
永禄二年(1558)三月上旬 伊勢国桑名郡長島 長島城 本願寺 証恵
「水軍が敗れて以降、細々と続いていた補給が無くなった。物は入らない一方で島へと流れ着く門徒の数は増え続けている。今川は我等を食うに困らせる積もりなのじゃろう」
儂の言葉に筑後法橋が大きく頷いている。石山から来ている下間豊前守頼旦法橋は全くの無表情だ。何を考えているのか分からぬ。
「今川の所領を追われた熱心な門徒は大事な仲間なれば、此れを受け入れぬ訳には行かぬ。だが台所事情は苦しい……。誠に苦しい。なれど引き続き長島への受け入れを続けねばならぬ」
続けて話した私の言葉に筑後法橋が再び頷く。今、此の長島には毎日門徒が流れ着いて来ている。今や此の長島は"仏敵今川と戦う聖域"、"仏敵今川の野心を砕く矛"などと言われているらしい。狂信的な門徒が唱えているところもあるのだろうが、こう呼ばれる事になった要因には、どうも今川の乱波が暗躍している様に感じる。尾張三河の熱心な門徒は勇んでこの長島へと来ているが、我等は人が増える度に強くなるどころか兵糧の減りが早くなって苦しくなっている。今川は長島へ入る事は許すが出る事を許さないのだ。
服部党の水軍が壊滅して以降、蔵の米は減る一方だ。
此のままでは当初見立ての十月などとても持たない。夏を越えられるかどうかというところだ。
「我等が長島に籠城してはや三月。その間六角殿にも一色殿にも幾度と無く打倒今川の挙兵を促した。だが皆も承知の通り兵を動かす気配は無い。此のままでは十万の門徒が共々に餓えで苦しむことになる。拙僧には門徒を苦しめる事は出来ない。此処は今川との和議も致し方ないと思」
「何を仰せになられるっっっ!」
儂が話し終える前に怒号とも呼べる声で下間法橋が声をあげた。突然の咆哮に集う老師の何人かが狼狽える。此処で怯んではならぬ。儂は身を投げ捨てでも皆を救わねばならぬのだ。
「蔵の米は食する量を減らしても半年も持たぬ。三月も持たぬかも知れぬ。此処は和議も致し方」
「まだ三月も戦えるではありませぬか。十万の門徒が一つとなって今川に向かえば光明は必ず開けまする。それに仏敵今川に降るなど到底考えらませぬ!!」
「教えも大事だが過ぎたるは身を滅ぼす。我等は十万門徒の命を預かっているのだ」
「進めば往生極楽、退かば無間地獄にござる。地獄を案内する事こそ十万門徒に反する行いでありますぞ。それに今川権中納言が和議に応じるかなど分かりませぬ。我等は最後まで戦い抜くのです。仏敵の気分に流される事など必要ありませぬ。我等は皆、一蓮托生に散る事こそ本望にござる」
下間法橋が心からそう思うているような、陶酔した表情で大きな声をあげる。若い僧達が迎合して声を上げた。……やむを得ぬ。此処は権中納言様とのやり取りを伝えるしかない。
「実は内々に今川権中納言様とやり取りをしておる。権中納言様は我等が全て武具を捨てて皆長島を出でて石山に向かうなら和議を受け入れるとの事だ」
「兵衛督殿は仏敵今川と交渉されていたと申されるのか!」
下間法橋に付き従う若い坊主達が声を上げた。下間法橋だけでなく若い衆に官途名で呼ばれるとは行かぬな。若い坊主達は下間法橋に感化されて儂を敬わなくなってきた節がある。
「証恵院主に無礼であるぞ」
「何を!仏敵と勝手に交渉をする兵衛督殿こそ我等に無礼でありまする」
香取法泉寺の空珍院主が若い衆を嗜める言を放つと、先程の若い僧が続けて強気に声を上げた。相も変わらず若い僧達が此れに迎合をして大きな声を上げる。
老師達の多くは儂の行いを過ぎた行いと思いつつも、やむを得ぬといった表情をしている。やはり血気盛んな下間法橋と其れに従う若い衆をどう説得するかに掛かっているな。
「十万門徒の為じゃ!」
「法主の……、此れは法主の命に明らかに反する逆心行為ですぞ」
儂が語気を荒げて説得を試みると、下間法橋が法主の名を出した。
"法主……"
"わ、我等はいかがすれば"
法主の名に少なく無い者が動じる。愚か者な。
「法主には目処が着いたら許しを得るつもりだ。繰り返すが門徒の命の為じゃ。法主もご理解下されよう」
「命が惜しくなっただけの行いとしか思えませぬ。方々!此処に内通者がおりますぞ。仏敵と通じる異端者にござる!」
"内通……"
"異端じゃと"
下間法橋の強い言葉に皆が動揺をしている。
「ぶ、無礼な。儂は門徒の為に今川と交渉を」
「法主は仏敵撃滅を命じておられる!今川との戦いこそ我等が歩むべき道にありまするぞ!」
"左様!"
"仏敵撃滅!!"
下間法橋の声に若い僧達が迎合する。老師達は同情の表情を浮かべつつも傍観の域を出ない。
「我等に勝ち目は」
「勝てるか負けるかではござりませぬ。仏敵と戦う事こそ我等が使命でありまする。証恵院主と筑後法橋を捉えよっ」
「な、何をする!」
若い僧達が何人かで儂の腕を押さえた。
「法主の名代として命じる。証恵院主と筑後法橋は気を動じておられる。部屋で休まれる必要があろう。お元気になるまでは部屋でゆっくりと休んでもらうのだ。連れていけ」
「ま、待て!話しは終わっておらぬ」
老師達の表情を覗くが皆が立て続けに目を反らしてくる。空珍院主の顔を頼みにと覗くが、申し訳無さそうに顔を背けた。
「……うぐっ」
若い僧の二人に着物を強く引っ張られる。取り押さえられた姿勢の中、下間法橋の顔が視界に入る。微かではあったが、涼しい顔で口角を上げているのが見えた。
「お連れせよ」
法主の名代を語る男が部屋の出口に向けて手を差し向けると、儂と筑後法橋が荒々しく引き連れられた。
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