第百六十話 小祝言




永禄二年(1558)二月中旬 近江国蒲生郡 観音寺城 平井 定武




「加賀守、如何致した」

「お呼び立てするような形となり誠に申し訳ございませぬ」

常には評定を行っている広間で一人座して大殿と御屋形様をお待ちしていると、お二人が共にお見えになられた。先触れも無い登城だ。平伏してお詫びの意を示す。

「良い。日も暮れようとしている時に態々登城するとは何ぞ事が起こったのであろう」

段上正面に御屋形様がお座りになり、少し後ろに大殿がお座りになる。其の大殿が真剣な御顔で儂にお言葉を掛けられた。御屋形様は些か御機嫌よろしからずという御顔をされている。


「はっ。急ぎの事態が出来いたしました故、恐れながら罷り越しましてございまする」

「急ぎの事態とな。勿体ぶらず早う申せ」

気だるげに御屋形様が応じられる。やはり御機嫌は今一つの様だ。

「はっ。浅井殿に嫁いだ初姫様より報せが御座いました。どうやら離縁される模様にごさいまする」

「何だと?」

「離縁と申したか」

お二人が揃って驚きになる。無理もない。儂も先程報せを受けた時には驚いた。初の近習として付けていた者が早馬で我が屋敷に現れ、浅井新九郎殿より突如離縁が告げられたと言う。此の報告だけでは偽報、策かと疑うが、近習は初が書いたと見える文を持っていた。


「確かな報せか」

「はっ。初姫様がお書きになられた文が付いておりました。間違いござりませぬ」

文は短いものだったが実の娘の筆跡を忘れるはずが無い。短い文を書く刻しか無かったからこそ、娘は義父である大殿ではなく儂に送って来たのかも知れぬ。

「父上に送るべきだと思うが」

御屋形様が吐き捨てるように呟いた。

「斯様な事などどうでも良い。離縁が確かであれば浅井は此の六角を離反するという事じゃ。浅井だけで事を進めるとは思えぬ。後ろに必ず誰ぞ糸を引く者がいる。今川か朝倉か。対馬守を呼んで調べさせよ」

「は、ははっ」

大殿の御指摘に御屋形様が慌てたご様子で応じられる。代替わりして間もないとはいえ頼りない事だ。其れに大殿がお見えでなければ儂は叱責を受けていたかも知れぬ。そこはかとなく不安を覚えた。


「加賀守は引き続き初と連絡を取って少しでも状況を多く掴め」

「御意にございまする」

娘の無事も気になる。文を送って来たから大丈夫だとは思うが……。

胸騒ぎを覚えながら頭を下げた。




永禄二年(1558)二月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 望月 まつ




「草ヶ谷五位蔵人様がお見えになりました」

さちが現れて蔵人様の来訪を告げると、嶺姫様が“分かったわ。此方へご案内を”と応じながらお読みになっていた書物を綴じられた。姫様の御顔に少し笑みが浮かんでいるのが見えた。つい私も嬉しくなる。

「さち?」

さちが佇んでいる。

何時もなら命を受けたら直ぐに動くのだがどうかしたのだろうか?嶺姫様がお声を掛けられた。

「その、御屋形様もお見えになっております」

「兄上が?」

御屋形様が御一緒?姫様と同じ様に私も驚いた表情をしているだろう。蔵人様がお見えになる約束は承っているが、御屋形様が御一緒だとは聞いていない。

「承知したからお連れしなさい」

嶺姫様が応じながらお立ちになって下座へと移動される。私も姫様の後ろに控えて殿方の来訪を待った。




「邪魔するぞ」

「失礼致しまする」

暫くすると狩衣を召された御屋形様と蔵人様がさちの案内で部屋へと入られた。

「いらせられませ」

「「いらせられませ」」

「少しの暇だが刻が出来たので寄らせてもらった」

御屋形様がにこやかな笑みを浮かべて用意された席へ向かわれる。

「後少しでこの府中とも再び別れとなりますので兄上に会える刻も少のうなっております。歓迎しますわ」

嶺姫様がお応えになると、御屋形様が後ろに付いて見えた北條助五郎様に目配せをされた。視線を受けて助五郎様が手にしていた箱を開けられる。中には朱色に染められた杯が入っていた。


「上方で挙げる其の方らの祝言には出る事が叶わぬ。せめてもと思うてな。急ではあるが酒と杯を持って参った。盃取らす故飲まぬか」

御屋形様が話されながら杯を嶺姫様に、続けて皆に配られる。御屋形様の動きに合わせて近習の長野新五郎様が燗鍋を御屋形様にお渡しになった。嶺姫様が一頻り感動の面持ちで驚いた後、染々しんみりと"頂戴致しまする"と仰せになられて杯を向けられた。

「おめでとう」

「有り難うございます」

「皆にも取らす。二人を祝ってくれ」

御屋形様が笑みを浮かべながら部屋の皆に酒を注がれる。恐れ多い事に私にも注いで下さった。


「本当は府中で祝言を挙げる事が出来れば良いのだが、蔵人ばかり遇しては家中で要らぬ対立を生む。其の分京での祝言には公家を始め盟約先に商家からと客が来る。盛大に祝ってくれよう」

「重ね重ね有り難うございまする」

嶺姫様が事情を理解されているお顔でゆっくりと頷かれる。この姫君は聡い御方だ。府中で祝言が叶わぬ事はよくお分かりだろう。嫁ぎ先の蔵人様は御屋形様が幼少の頃から仕えられて多くの実績を残されているが家中の中では外様である事に変わりはない。其れが此度の縁組で一躍一門になられる。其れに蔵人様は今川の支援で官位も上がり続けている。府中で盛大に祝言を行えば嫉妬を買うのは想像に難くない。其の辺りを御屋形様は憂慮され洛中での式にされたのだろうと頭領が話されていた。

「余は流石に上洛出来ぬゆえ京での祝言に参列は出来ぬ。だが御祖母様が今川を代して参加される。式の様子も文でくれるだろう。嶺の晴れ姿を楽しみにしている」

御屋形様の言葉に嶺姫様が照れ隠しかうつむき加減に応じられた。嶺姫様は武田の若殿の事は少しずつ気持ちの整理が付きつつあるようだが、祝言の話になると時々二度目などと言葉を溢される事があった。負い目を感じておられるのだろう。

だが此処には水を指す雰囲気は全く無い。純粋に姫様の縁組を祝う雰囲気があった。


「嶺の主人になる蔵人だが、先の即位礼挙行に関する勲功によって春の除目で従四位下右中弁になる。其れに蔵人頭も兼ねて頭弁となる」

「は、初耳におじゃりまする」

「今始めて言うからな。加えて申せば、其の方の父は参議に上がる手筈だ。草ヶ谷は堂上家に列する事になる。いよいよ歴とした朝家の廷臣だ。朝廷の為が第一になろうが、今川の為にも引き続き励んでくれ」

御屋形様が蔵人様の肩を叩いて言葉を掛けられると、蔵人様が直ぐに膝を突いて頭を下げられた。

「其の、何と申し上げたら良いか……。何から何まで御礼申し上げまする。引き続き励みまする」

「その方の此までの並々ならぬ忠節には感謝している。其れに妹婿に出来ることをしてやりたいだけだ」

御屋形様が嶺姫様の御顔をご覧になられる。

「私からもお礼を申し上げます」

嶺姫様が指を付いて頭を下げられた。


「うむ。ほら、せっかくだから二人で館の庭でも愛でるが良い。聡子も二人に会いたいそうだ。部屋に寄って行ってくれ」

御屋形様に促されて蔵人様と嶺姫様が庭へと向かわれる。付き従おうとすると、御屋形様が"助五郎と新五郎を付ける故案ずるな"と制された。御屋形様が他の侍女たちを人払いされる。部屋には私とさち、それに御屋形様だけになった。




「まつとさち」

先程迄の声色と明らかに異なる。低い、威厳のあるお声が掛けられる。

「「はい」」

「面を上げよ。甲斐での働きは大儀であった。改めて礼を申す。引き続き表に裏にと嶺を支えてやって欲しい」

「はっ」

許しを得て面を上げると、其処には厳しいお顔をされた御屋形様がいた。


「蔵人だが、先に申した通り朝家の廷臣になる。蔵人の事だ。家の隆替がこの今川と共にある事など百も承知であろう。引き続き余と今川に尽くしてくれると思う。だが注意は怠るな。嶺は蔵人への箍でもある」

「箍……」

「そうだ。だが、此の事は蔵人にも嶺にも密を要する。二人が仲睦まじく、今川のために尽くしているなら何も気にすることは無い。其の方らは余が気にしている事を留めてさえおけば今は良い。何かあれば今までと同じく荒鷲を通じて余に報せよ」

「承知致しました」

「畏まりました」

「其の方らの今川への忠節、甲斐における動きで良く分かっている。まつとさち。引き続き頼むぞ」

御屋形様が頼むと我等にお言葉を掛けて下さる。何と有難い事であろうか。

さちと共に深く頭を下げると、御屋形様が"難しい話しは終いだ"と仰せになられた。



「蔵人に命じてある。其の方達二人の為に上方で何か見繕っておけとな。知恵を絞って吟味せよと言っておいた。楽しみにしておくが良い」

御屋形様が先程より明るいお声で親しく声を掛けて下さった。




永禄二年(1558)二月下旬 美濃国厚見郡井之口 稲葉山城 一色 義龍




「近江の義父上殿より浅井と手切れになりそうだと文が届いておる」

儂が呟くと側に控える日根野備中守が驚いた表情で応じた。

「六角が浅井家へ送り込んだ養女を浅井が返して来る様子なのだそうだ。近江は六角の下に落ち着くと思っていたがそうではないらしい。全く困ったものよ」

「近江が揺れては尾張に専念出来ませぬ。此処は六角様に頑張って欲しいものですな」

「隼人正の申す通りよ。今川を何とかせねば美濃に先は無い。西と東に関わっている余裕などないからな」

儂の呟きに備中守と長井隼人正が応じた。


「今川と言えば長島の水軍と争って此れを叩いたとか。長島は随分と苦境にあるように御座いまする」

「……チッ」

備中守の報告に思わず舌打ちをする自分がいた。草からも今川の水軍が長島を叩いたという知らせは受けている。尾張の統治が日に進んでいるという事も……。

「津島を焼いたからな。先々の不安を覚えて水軍で戦をしかけたのだろう」

長島に籠っている坊主や門徒は数万を下らない。これを攻めるのは今川とて難儀な筈だ。だからこそ美濃から川を通じて兵糧を送れば長島は落ちない、美濃を守る砦になると思うたが今川権中納言……。中々に一筋縄で行かぬ男よ。まさか津島を焼き討ちするとはな。津島を焼いたとて人心が今川から離れぬ事にも驚かされる。

「犬山辺りに向けて兵を出し、今川方を動揺をさせる手も考えられるが」

「今川と泥試合になりかねませぬ。六角や武田との連携は此れからと言う時に此方から踏み込むは愚策でしょう」

隼人正の意見に備中守が首を振る。儂も備中と同意見だ。

「備中守の申す通りだ。今一色がすべきは六角と武田との縁を深めて守りを固める事じゃ。武田が力を入れている木曽の街道整備は我が一色からも人を出そう」

武田が力を取り戻せば今川は甲斐との国境を気にし続けなければならない。尾張方面に捌ける兵力は減る筈だ。

「差配致しまする」

備中守が真剣な面持ちで応じた。


「今川に一泡拭かせる策は無いものか」

儂の呟きに隼人正がゆっくりと顔を向けて来る。其の顔には獣の様な瞳孔があった。……此の顔は何か策があるな。顎を動かして続きを促した。

「今川の当主である権中納言様は政務に御熱心な方とお聞きしまする。領内を視察に出る機会も多いとか。ならば此処は一思いに……」

隼人正が不敵な表情を浮かべながら呟いて来る。やはりその手か。

「皆迄言わずとも分かる」

儂の言葉に隼人正がゆっくりと頷いた。孫四郎や喜平次と同じように一思いにやれと言うことだろう。安易な暗殺は威信に関わるが備中守も否とは申さない。


「何時ぞや織田の上総介が死んだ時は俺が刺客を送ったのだと噂されたな」

「左様な事が御座いましたな」

「何処の手の者か分からんが忌々しい噂を流してくれると思うたものよ」

弟達を殺めている儂だ。巷は幾らかあの噂を信じた様だが、醜聞を広められたとて美濃は収まった。家中に大して動揺は無かった。ならば殺める人が今一人増えたところで大事あるまい。



権中納言の暗殺か。

権中納言には嫡男が生まれたらしいがまだ赤子だ。其れに今川は身内が少ない。

権中納言さえ殺れば今川は終わる。

大きく、とてつもなく大きく揺れるな。効果は絶大の筈だ。


殺るとは言わない。

一色家当主として、幕府相伴衆として暗殺という手段を口にするのは憚られる。

だが、ゆっくりと頷いて己が意を伝える。

目の前に座る二人が黒い影を帯びた表情で頷いた。




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