第百五十九話 苦境




永禄二年(1558)二月上旬 上野国群馬郡 厩橋城 上杉 憲政




子気味良い音とともに駒が盤面に打たれる。五二銀だと?何だ。何を考えている。

家臣である長尾左衛門尉の一手に思わず長考を強いられる。

「御屋形様、あまり刻を掛けてはいけませぬぞ」

左衛門尉が笑いながら減らず口を叩いてくる。若い衆ならば叱責をしてやるところだが左衛門尉は宿老格にあたる。古くからの長い付き合いだ。其れに左衛門尉の申す通り、先程から余は長考を強いられているのだ。

「直ぐに打つ故小言を申すでない。それ、あいや、待て」

「御屋形様、待ったは行けませぬ」

左衛門尉が笑いながら余を制してくる。先に浮かんだ手が良いか、後に浮かんだ手が良いか……左衛門尉の忠告を無視して最善の手を考える。


うむ。やはりここは……。

"申し上げまする!!"

此れだと思うた一手を指そうとすると七郎憲勝が現れた。七郎は扇谷上杉一族の出身で今は余の養子にしている。

「何事じゃ七郎。騒がしい」

「おくつろぎのところ申し訳ありませぬ。武蔵松山城の太田美濃守より報せにござりまする。北條勢が出城を落として向かって来ているとのこと。其の数約二万」

「何じゃと!?」

「約定違反にござる」

「そ、そうじゃ。美濃は扇谷上杉の家臣であったが今は関東管領の家臣。即ち我が子たる上杉弾正少弼が家臣じゃ。此れを攻めるとは先の和議に違反しておる」

「御屋方様の申される通りにござるが、相手はあの北條ですぞ。最早約定など守る積もりが無いのやも知れませぬ」

幕府が裁定した約定を守る気がないだと?ならばどうせよと言うのだ。


「だ、弾正少弼に援軍を要請せよ」

儂が声を荒げると左衛門尉が首を横に振った。

「越後との国境は雪が進軍を阻みまする。あと一月は動けますまい」

左衛門尉が厳しい現実を告げてくる。

「ならば佐竹と那須に動員を掛けるぞ。和議を破ったのは北條じゃ。大義は我らにある。諸将を集めて打ち破ってくれよう」

「檄は飛ばして見ましょう。なれど諸将の懐は随分と傷んでおりまする。何処まで参陣がなされるか分かりませぬ」

左衛門尉だけでなく七郎も暗い表情で応じる。

「大義は我にあるというに北條の横暴を許さねばならぬとは。全く不憫な世になったものよ」

余の言葉に二人が深く頷いた。


美濃守の城に二万か。敵はかなり多い。

余が旗本をかき集めても一万二千というところか。下手に動かぬ方が良いな。

「美濃は勇猛果敢な猛将じゃ。援軍無くとも暫くは北條めの攻撃に耐えてくれよう」

「美濃守殿だけの手勢では三、四千といったところでござりまする。二万を前にしては些か厳しいかと」

「左衛門尉の言も一理あるが、余が出張って一戦をしても兵力の差がある。寧ろ一戦こそ北條の狙いかも知れぬ。此処は関東諸将が集うのを待つ。一、二ヶ月もすれば弾正少弼も来よう。其れまでの辛抱よ。美濃守には左様に伝えよ」

「はっ!」

七郎が大きく頭を縦に振って足早に去っていく。


"パシンッッ!"

「此処は不動明王の様にどっしりと構えて向かえ打とうぞ」

言葉を発しながら渾身の一手を差し込んだ。




永禄二年(1558)二月上旬 越前国足羽郡一乗谷 朝倉館 朝倉 義景




「待たせたな」

部屋へ入ると前波播磨守が平伏をしていた。播磨守の横には覆いを掛けられた二つの三方があった。都か堺の土産か。其れとも今川の……。

「前波播磨守、只今駿河府中より戻りましてごさいまするっ!」

播磨守が大きな声を上げる。常から此の男は声が大きいが今日は一際大きい。其れなりに持ち帰るものがあったのだろうと思うた。

「うむ。遠路駿河までご苦労であった。其れで首尾は如何であった」

「はっ!今川権中納言様に目通りが叶い、御存念をお伺いして参りましてございまする」

「続けよ」

「はっ。今川権中納言様におかれましては、先般降しし織田家が姫を養女とし、浅井新九郎殿へ嫁がせたいとの事。ついては此の仲介を御屋形様にお願いされたいとのお申し出にごさいまする」

「ほぅ」

思わぬ申し出に息が溢れる。織田の姫を権中納言殿の養女として浅井に嫁がせる。其れを当家が仲介するか。中々に悪くない策だ。


「ふむ。悪くない話だ。だが浅井との仲介を権中納言殿が願って来るというのが腑に落ちぬ」

「ははっ。権中納言様は畿内の情勢について大変明るうごさいました。然らば浅井家が庇護を求めてきた由お伝えした方が存念を伺えると思うた次第。某の独断にございまする。御叱りは如何様にも受けまする」

播磨守が額を床に突けんばかりに頭を下げてくる。内々の話を出したとは言え、此れで縁組の話を引き出したと考えれば咎める事は出来ぬ。全く、中々に強かな奴だと思うた。


「まぁ良い。其の結果が縁組ということなら咎めはせぬ。だが朝倉と今川は此まで接点がなかった。此れから縁を深めようとするところなれば、権中納言殿は信に足る人物か知らねばならぬ。其の方から見て人となりは如何であった」

「ははっ。権中納言様は全く威風堂々とされた御方でありました。家中は権中納言様の下、一つに纏まっておるように見えてございまする」

「ふむ」

家中が一つに纏まっているか。何かと諍いの絶えぬ我が家中とは異なるな。今川を羨ましく思うた。

「其れに権中納言様は雅さも兼ね揃える大した御仁、其の様に見えてございまする」

「雅と申したか」

「はっ。某、勿体なくも権中納言様から茶を頂く機会を得ましてごさいまする。某、茶は不調法故深くは分かりませなんだが、権中納言様の手前たるや見たこともない、其れはもう美しい所作にございました。それに……」

「それに何じゃ。続けるが良い」

「駿河府中の栄えようは京は元より堺をも凌ぐのではと思うものにございますれば、今川と縁をもつ事は良い事かと思いまする」


「堺よりも大きいとは誠か。其の方が申す事誠なれば、此の一乗谷など到底及ばぬな」

儂の呟きに播磨守が大きく頷いた。同席をさせた青木上野介が驚いた表情を浮かべつつも得心した顔へと変わる。

「府中の商人達で駿河の府中へ出向いた経験のあるもの達は口を揃えて申しまする。駿河府中の栄華たるや京は元より堺を凌ぐと。誇張かと思うておりましたが其の目で見て来た播磨守が申すのなら誠なのでございましょう」

上野介が幾らか悔しさを滲ませるような声で言を放った。上野介は府中奉行として父上の代から町の開発に従事している。一乗谷を繁栄に導いた立役者な一人な故に思うところあるのやも知れぬ。

「そうか。どうしてくれようかの」

考えを纏めようと視線を外して思案を始めると、播磨守が徐に三方をいなだいて"権中納言様からの贈り物にごさいまする"と声を上げた。外した視線を播磨守の方へ戻すと目があった。頷いて覆いを取る様に促した。


儂の指示で播磨守が覆いを取ると、其処には銭が一疋程積まれていた。

「今川領で作られている銭にごさいまする。坊主との戦の足しにして欲しいと五千貫を頂いてごさいまする」

「五千貫だと?」

「何と!?」

儂の声に続いて上野介が声を上げる。

播磨守が気持ちばかりの謝意をしていたのは此があるからかも知れぬ。坊主との戦続きで蔵は幾らか傷付いている。五千貫は大きい。


しかしこれだけの銭をぽんと出すとはどれだけ裕福なのだ。大人気なく驚いてしもうたわ。同席を上野介だけにしておいて良かった。一門の者共が銭の話を聞いたら仕分けを巡って面倒な事になる。

「随分と気前がいいの」

今川権中納言という人物に益々興味が沸いた。誼を結ぶのに問題は無さそうに思える。

「今一つ献上の品がありまする」

驚きが冷めぬ間に播磨守が今一つの三方を徐に取り出す。随分と慎重な運びだ。

「其の方に任せる。覆いを取るが良い」

「ははっ」

儂の言葉を受けて播磨守が覆いを拭うと、三方の上には黒く光る茶碗があった。

「茶碗か?」

「はっ」

「近こう」

儂の命を受けて播磨守が三方に載った茶器を上段と下段の境にまで持って来る。手の届く位置に茶碗が来ると、遠目にも感じた存在感が増しているのを感じた。艶々しいわけではない。だが程よく放つ光が黒一色にありながら茶椀の美しさを高めている。温かい見た目も良い。手に馴染む腹回りに飲み口となる口縁は山道のように微かな起伏があり面白い。初めて見る茶碗だ。どちらの物であろうか。


「唐物では無いな。初めて見る茶器だが国焼か」

「今川領で作られた、其れも権中納言様の御作にございまする」

「なっ!?此れが権中納言殿の作だと?」

「ははっ!尤も火入れは人に任せたと仰せでございました。なれど手捏ねは御自らと伺っておりまする」

「左様か」

言葉を失いつつ茶器を触りながら愛でる。

見れば見る程味わいを感じる。肌触りがまた良い。愛い品になりそうだと思うた。

「黒楽茶碗と仰せにございました」

「黒楽……」

「はっ。銘は御屋形様に名付けをお任せしたいと仰せなれば伺っておりませぬ」

「そうか」

思わず笑みが浮かんだ。命名は儂に任せるか。ふうむ。中々に面白い。ゆっくりと考えるとするか。


しかし権中納言殿は随分と茶に通じている様だ。

「何時か会うて見たいの」

思うた事が溢れる様に口から発せられた。

「盟約が成れば其の機会も何れございましょう」

上野介が儂に身体を向けて話しかけて来る。府中奉行も今川との盟約に賛同の様だ。ならば良い。古参の重臣である上野介が賛意を表すなら家中は纏められるだろう。

「相分かった。今川からの話を受け入れるとしよう。浅井下野守に話を通せ。朝倉が確と浅井を庇護するが、差し当たって今川からの姫を嫡男の嫁にせよとな。ただし、化粧代として千貫を付けてやれ。ただ嫁を押し込んだ六角と差を付けられよう」

「御意にございまする」

「良き御思案かと存じまする」

播磨守に続いて上野介が応じた。


「権中納言殿への返答は浅井の回答をもって儂自ら返書を認める。土産も儂が選んでおく。其の方は浅井家に赴いて話を受けさせる事に専念せよ」

「委細承知仕りましたっ!」

播磨守が大きな声で応じてから部屋を下がっていく。上野介も儂が一人になりたい事を察してか続けて下がっていった。


一人になった後、土産は何が良いか思案をする。

単なる名物ではつまらぬ。何を用意するのが良いか。

黒楽の命名といい、久しく無い感覚が沸き起こる。

政務の鬱屈した気分を吹き飛ばす心地良い一時であった。




永禄二年(1558)二月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 尭慧




「権中納言様におかれましては尾張平定の由、誠におめでとうございまする」

「うむ。面会に至るまで随分待たせたと聞いている。済まなかったな」

「滅相もありませぬ。お忙しい政務の中お時間を下さりましたる事、改めてお礼申し上げまするとともに、其の御力によって海道に平穏が齎されましたる事、民を思う者として喜ばしく存じまする」

私が言葉を紡ぐと、段上の権中納言様がふと笑われた。

「まさか真宗の者から世辞を受けるとは思わなんだわ。許せ」

権中納言様が扇子を口元に当てて笑われている。下手に反応して勘に障っては不味い。此処は静かに待つとしよう。


「三河の一向衆で名のある者は悉く処断をしたが、行き場を失った門徒の多くが真宗の寺院を拠り所としていると聞く。良く対応してくれている様だな。礼を言う」

「派が異なるとは言え元は同じ宗門なれば、我等に出来る事をしている迄にございます」

頭を下げて応じると、“今のところは、とならぬ事を期待している”と声が掛けられた。緊張感のある物言いに心の臓の動きが高まるのを感じる。門徒が今川に弓を引く事にならぬ様に気を付けよという意味であろう。其れに権中納言様は先程から我等を真宗と呼び、刃を向けた門徒達を一向衆と仰せになって区別されている。やはり目通しを願って良かった。少なくとも今のところは我等を敵視はされていないと思うて良いだろう。

「ははっ。鋭意努力致しまする」

「其の方は出が良いのに中々に殊勝な所がある。余も見習わねばならぬな」

平伏をしていると頭上から親しくお声が掛けられた。驚いて顔を上げると微かに笑みを浮かべる権中納言様がいた。

「ははっ。有り難き御言葉にございまする」

「其の方の父君には何度か蹴鞠を習うておる。機会があれば余が礼を申していたと伝えてくれ」

「畏まりましてごさいまする」

和やかにお言葉を掛けて頂いていると、突如として其の御顔に厳しさが宿った。思わず唾を飲み込む。


「ところで……先般長島に籠る一向衆の水軍が我が水軍に襲いかかってきた。存じているか」

「聞き及んでおりまする」

「うむ。手酷く返り討ちにしてやったところだ。だが我が水軍より少ない船にも関わらず、果敢……いや、最早無謀とも言える挑戦をしてきた事には少しばかり驚いていたところだ。相当に兵糧が苦しくなっているのかと思うている」

「御明察の通りかと存じまする」

「ほぅ。其の返し、何かあるな」

私の返答を受けて権中納言様が私の目を捉えられる。相変わらずお若いのに凄まじい気迫だ。だが私とて今日態々此の館にまで参ったのは今川権中納言様の真宗に対するご機嫌伺いだけではない。他でもない此の為だ。一息静かに息を吐いて気持ちを整えた。


「御内密に願いたく存じまする」

「であるか。良かろう。新次郎と宮若は下がれ」

私の言葉を受けて権中納言様が近習を下げられる。部屋には権中納言様を覗いて三人の男が残った。

「左衛門尉と備中守、其れに上野介は我が今川の家老だ。安心出来る者達故許せ」

流石に一対一になるとは私も思うていない。人払いをしてくれた事に頭を下げて謝意を示した。

「……長島の門徒を纏めている証恵上人から拙僧に内密の文が届きました」

「続けよ」

「はい。長島の中ではまだ意見が割れているようではありますが、水軍の敗戦を受けて和議を望む者達が出始めているようにございます」

私の言葉を権中納言様が縁側の先を眺めながらお聞きになる。立烏帽子を召された横顔が目に写った。公家の様な面影に飛鳥井の家を思い出す。


「まだ戦いを望む者達が多いようでありますが、証恵上人からは和議が成るか否か今川の意向を確認して欲しい、成るのであれば条件を確認したいと文が参ってございます」

「先の出撃の時に文を持った間者がいて其の方の下へと向かったか」

権中納言の問いに首を縦に振って御顔を覗く。

「思うたよりも申し出が早かったな。いや、此れは申し出ではなく単なる確認か」

「恐れながら、条件次第では証恵上人が長島を纏めると存じまする。長島は落ち延びた門徒達が今も日々入城しておりますれば、兵糧の減りは早くなっておりまする。かといって門徒を迎えぬ訳にも行きませぬ。証恵上人も苦しい立場に」

「自分達で撒いた種だ。全く同情は出来ぬ」

私の言葉を遮って権中納言様が言を放たれた。不味い。御不快を得てしまったか。

「ははっ。過ぎた事を申しました」

平伏をすると其のまま時が流れた。権中納言様が扇子を手に当てる音が聞こえる。


小刻みに聞こえていた音が大きな音とともに終わったと思うと“尭慧”と名を呼ばれた。

「はっ」

「面を上げよ」

許しを得て面を上げると、権中納言様が私の顔を真っすぐにご覧になっていた。




「武器の類い全てを城に捨て置き、其の後は我が領から出ていくなら和議を認める。但し北畠領に留まる事も許さぬ。伊賀を越えて石山を目指すのが良かろう」

徒で石山を皆で目指せと仰せになるか。雑賀の水軍を使う事出来ればもっと……いや、贅沢を申し出ては和議が流れる可能性がある。

「証恵上人に伝えまする」

「一年でも二年でも、たとえ五年でも囲い続けてみせよう。長島はどう出るかな。総出で極楽へと旅立つか、其れとも今一度俗世を生き長らえるか」

「愚僧としては無駄な死が一つでも減る事を祈っておりまする」

「進めば極楽。退かば無間地獄。門徒共にしてみれば後ろ髪を引く余はやはり第六天魔王なのかもしれぬな」

権中納言様が口角を上げながら呟かれる。


恐ろしい自嘲を前に、返す言葉が無かった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る