第百五十八話 龍王丸
永禄二年(1558)一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 前波 吉継
「越前守護、朝倉左衛門督が奉行衆、前波播磨守吉継にございまする。此の度は権中納言様に目通りが叶い祝着至極に存じまする」
「今川権中納言氏真である。越前から遥々来たと聞いた。道中難儀であったであろう」
「お気遣い有難うございまする」
「美濃から尾張と陸路で参ったのか」
権中納言様が気さくに問い掛けを下さる。前評判とは違う御様子に少し戸惑いを覚えつつ応えた。
「あ、いえ、近江からは淡海の海を越えて京、堺へと向かってごさいまする。その後は船で駿河に参ってごさいまする」
「左様か。遠回りの様な気もするが上方での所用も済ませられると思えば悪くないな」
「当家は美濃の一色、近江の六角と関係が良うありませぬ故、大事を取って海路を選択致してござりまする。今川様への拝謁を前に済ませる所用等ありませぬ」
儂が慌てて否定をすると権中納言様が声を上げて笑いながら首を御振りになられた。
「不満を申したのでは無い。言葉足らずであったな。越前は此の駿河から中々の遠国になる。其れで如何にして参ったのか気になっただけだ。他意は無い故許せ」
権中納言様が優しげな面持ちで言を放たれる。"仏敵"や"第六天魔王"などと言われ、容赦なく処断をされると噂の権中納言様だが、今日はご機嫌が麗しいのだろうか。
「某は何も不満を覚えておりませぬ。許すなどという立場ではありませぬ」
「であるか。然れば本題に入るとしよう。態々越前から参ったのだ。新年のご機嫌伺いのためだけに来たわけではあるまい」
狩衣を召された貴人が居ずまいを正される。我が御屋形様と同じように高貴な装いだが、権中納言様からは随分と威厳を感じる。数々の戦を勝ち戦で飾って来られた威厳だろうか。
「はっ。朝倉家は六角、一色と敵を抱えておりまする。北においても坊主と戦っておりまする」
儂の言葉に権中納言様が"今川と似たような状況だな"と仰せになった。ゆっくりと、そして大きく頷いてから声を出す。
「朝倉は今川と友好を深めたいと思うておりまする」
「敵の敵は味方か」
「はっ!」
力強く応じながら少しだけ頭を下げて権中納言様の表情を伺う。上段におはす御仁は脇息に手を僅かに掛け、襖の絵を眺めながら考えを巡らせているようであった。
「……朝倉は若狭に兵を出しているだろう」
源氏物語だろうか。見事な絵をご覧になりながら権中納言様が言を放たれる。味方の若狭出兵は最近の動きだがよくご存知のようだ。驚きを隠しながら"はっ"と応えた。
「援軍を得て守護の武田殿は順調に城の奪還を進めているようだな。此れが成れば若狭に朝倉の影響力が残る。近江の六角は面白くないだろう。遠からず朝倉と六角の衝突は避けられまい」
「我が主も同じように考えておりまする」
「であるか。左衛門督殿は如何しようとお考えなのだ」
「はっ。我が主は北近江を治める浅井家を六角より離反させたいと考えておりまする」
「浅井と言えば六角に従属している。其れに六角から嫁を迎えたばかりであろう」
やはり権中納言様は近江の情勢にかなり明るい。近衛様との縁もあるからかもしれぬ。下手な隠し事は下策だな。此処は踏み込んで話した方が良いだろう。御屋形様には後でご承知頂くしかあるまい。
「はっ。六角が強引に嫁を押し込んだ為に、当の浅井家中では相当な反発が起きておりまする。浅井家から当家に使者が参った程にございます」
「ほぅ。使者とな」
「はっ。浅井家当主の左兵衛尉殿から、我が朝倉の庇護を受けたいとの申し出を受けてまする」
「左様か。其れは大きな話だな。我が方としても美濃攻めを前に浅井家と繋ぎを得たいと思うていたところだ」
権中納言様が驚いた表情を浮かべた後で笑みを浮かべられた。大事な内情を話した事を好感頂いたと思うて良いだろうか。
「浅井家との繋ぎにございまするか」
「うむ。浅井が六角の仕置に不満を覚えているなら尚の事盟約を結びたい。最近の六角は一色と親密になりつつある。つまり浅井は今川と同じ敵を抱えているという事だ」
権中納言様が手に扇子をお持ちになって掌に当てられる。子気味良い音が立った。
「恐れながら当家としては権中納言様のお考えを今少しお聞かせ願いたく存じまする」
「播磨守殿」
三浦左衛門尉殿が苦言を呈すると、権中納言様が"構わぬ。播磨守も手ぶらで帰るわけには行かぬだろう"と仰せになられた。頭を下げて耳を澄ませる。
「先般降した織田に妙齢の女子がいる。織田は我が今川の宿敵であったが今や我が軍門に降った。此の女子の縁組を主君として考えねばならぬ。大事な織田の姫だ。粗末には出来ぬ。其処でどうであろう?余が養女とするには元来余の歳が足らぬが、事の大事を思えば斯様な事は些末に過ぎぬ。此処は織田上総介が実妹を我が養女とし、浅井新九郎へ嫁がせる。此の運び、左衛門督殿に賛意頂けるかな。賛意頂ける暁には輿入れの仲介を願いたい」
権中納言様が居住まいを正して儂に告げられる。織田の姫を権中納言様の養女として浅井家に嫁がせる……。朝倉にとって悪くない話に聞こえる。だが流石に此の内容を儂一人で回答は出来ぬ。
「我が主に伝えまする」
「うむ。宜しく頼む。せっかく来たのだ。少しはゆっくりしていくが良い。我が手の者に府中を案内させよう」
「有難き幸せにございまする」
権中納言様が親しくお声掛けを下さる。
目の前の御仁には威厳がある。だが一向衆が唱える様な第六天魔王、殺戮者といった感はしない。
「宜しく頼む」
「ははぁっ!!」
今川権中納言様が奥へ向かわれると、疲れがどっと出て来た。
心の臓の鼓動が早い。随分と緊張をしていたのだと感じた。
永禄二年(1558)二月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真
ふうむ。上手い。
領内で作られた和三盆糖を使った干菓子を食べて気を落ち着かせる。
自服するために点てたばかりの薄茶を口に含むと、和三盆の甘みと茶の苦味がうまく調和して奥深い味わいを感じた。正しく至福の時だ。
新たな特産として砂糖は飛ぶように売れている。和三盆は砂糖の派生商品として新たに開発した物だが、飛ぶ鳥どころか蒸発するように売れている。かなり先々まで予約が入っているらしい。公卿からの人気も絶大だ。義兄上の関白前久からもおねだりが頻繁に来る。蔵がまた必要だな。物を買って、或いは街道整備等の公共事業で貨幣を市中に大量供給しているのだが、すぐに今川に返ってくる。全く笑いが止まらん。いかぬ。無粋な事を考えていたら手順を間違えた。
茶と言えば千宗易がやっと堺へ帰っていった。どうしてもと懇願をしてくるので一度茶室に招いて饗応をした 。
"此の手順の意味は"
"此れはどういう主旨で"
などど逐一煩かった。全部お前とお前の子孫が考えた事だと言いたくなった位だ。
だがそう言うわけにはいかぬ。
“魚屋は後進に譲るので駿府で隠居する。だから弟子にして欲しい”と言われた時には流石に焦ったな。"余の茶はまだ未熟ゆえ刻が来たら"と適当に返したら"其れだけ極めつつあるのにまだ未熟だとは"と神仏でも見るような視線を感じた。
宗易とのやり取りを思い出していると再び手順を誤った。やはり雑念は行かぬ。茶に集中せねば行けないな。
茶を飲みきって片付けをした後、灰に撒いた香の香りを楽しんでいると大きな足音が近づいて来た。いよいよ動きがあったと鼓動が少し早くなる。
「中納言様っ!」
障子を開けて入ってきたのは六條美代だった。聡子の下向から付き従ってくれている侍女が珍しく髪を揺らしている。
「産まれたか」
「はい。元気な、誠に元気な和子さまにあらしゃいます」
「そうか!」
和子か!嬉しく思うと同時に身体が動きそうになる。だが前世を思い出して自制をした。
「聡子は無事か」
「は、はい。御台様も無事になさっておじゃります」
「あい分かった。聡子と子に会えるか」
美代が驚いた顔をしつつも"ご案内致します"と返してくる。
前世では初産の時に子供が産まれた事が嬉しくてつい妻の扱いがおざなりになった。何かの拍子に思い出しては"あなたは私よりも子供の方が大切ですからね"と小言を言われたものだ。今生では同じ轍を踏まぬ様にしよう。此の辺りは人生二週目だからこその理性が働く。
館の廊下を歩み進むと、赤子の鳴き声が聞こえて来る。考えてみれば今川館に赤子はいなかった。鳴き声を聞くのは久し振りな気がする。
「御台様。御屋形様が御見えになりました」
「「おめでとうございます」」
俺が部屋に入ると美代の声を受けて出産を手伝った皆が頭を下げてきた。
「うむ。皆ご苦労であった。礼を申す」
俺の言葉に皆が笑みを浮かべて応じる。
「無事で何よりだった」
聡子の手を握って言葉を掛ける。
「ありがとうございます」
聡子が声を出すが流石に細い声だ。
「無理はするな。一にも二にも身体を労ってくれ」
「ありがとうございます。彦五郎様。子を抱いてやってくだされ」
「うむ」
侍女の一人である長野綾が赤子を俺に渡して来る。まずまずの重さを感じた。
「元気な和子で何よりだ。此れより此の子は龍王丸と呼ぶ」
俺の言葉に部屋にいる皆が再び頭を下げる。聡子も微かに首を動かして嬉しそうだ。
「聡子。昔冷泉卿に習うた歌を思い出したぞ」
聡子の耳元に向けて話し掛ける。
「お聞かせ下さいませ」
聡子が顔を俺に向けて呟いた。
背筋を伸ばして腹に力を込める。
"
詠み終わると、聡子が感慨深そうに“憶良であらしゃいますね”と呟いた。すぐに作者が浮かぶとは流石は公家の出だ。
「うむ。今の余の心情を表すに何よりの歌だ」
「此の子にも彦五郎様のように雅に育って欲しいと思います」
俺のように雅に?聡子は何か勘違いをしていると思ったが余り長居をして疲れさせては行かぬ。
後の事を皆に託して執務室に向かった。
嫡男が生まれた。
この大事を知らせるために近衛の義兄上をはじめとして盟約先や旗頭に向けて大量の文を書かねばならぬ。
常なら億劫に感じる作業だが、今日は自然と筆を持つ手に力が入った。
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