第百五十七話 奇妙丸




永禄二年(1558)一月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今井 宗久




「新春の訪れを言祝ぐとともに、年初の忙しい中に手前どもへ刻を下さりましたる事、恐悦至極にございまする」

口上を述べて頭を下げると、頭上から"随分と仰々しいではないか。苦しゅうない。面を上げよ"と御声が掛けられる。許しを得て面を上げると、今や五ヶ国を治め“海道一の弓取り”と呼ばれる権中納言様が笑みを浮かべて座していた。


「納屋に天王寺屋はよく見知った顔であるが、今日は今一人いるな。初めてであると思うが」

「堺の会合で納屋さんと手前が駿府に出向くと申したらどうしても同道したいと申されましてな。ご紹介させてもろうても宜しいでしょうか」

「うむ。直答を許す」

天王寺屋さんの言葉を受けて権中納言様が親しく許しを下さる。同席している今一人の御仁の顔を見て名乗りを促した。


「お許しを得て名乗らせて頂きまする。堺にて魚屋の屋号にて商いをしております、千宗易と申します」

魚屋ととやさんの名乗りを受けると、権中納言様が幾らか驚いた顔をされた。

「如何されました」

私が案じて声を掛けると"いや、大事ない。少し事を思い出してな。案ずるでない"と仰せになられて何時もの様子に戻られた。


「千宗易と申すか。遠路遥々よく駿府まで参った。余が今川権中納言である。歓迎しよう」

「有難き幸せにございまする」

権中納言様の言葉に宗易殿が笑みを浮かべて平伏する。宗易殿は私や助五郎さんが権中納言様と茶を一緒にした際の話をする度に感激をしていた。権中納言様御本人に拝謁が叶って感慨も一入なのだろう。

「権中納言様におかれましては尾張の平定誠におめでとうございまする。細やかではございますが堺より献上致したく存じまする」

私の言葉に続いて助五郎さんが目録を差し出す。家老である三浦左衛門尉様が目録を受け取られて権中納言様へお渡しになられた。


「ほぅ。銀に硝石か。其れに随分な量では無いか。嬉しい事をしてくれる」

権中納言様が笑みを浮かべて応じられる。やはり此の貢物にして正解だったようだ。此のところ戦続きであったせいか今川家は上方で硝石の購入を多くしている。献上品は茶器などの名物にする事も考えたが大戦のあとだ。今川が欲しているものこそ権中納言様にお慶び頂けると思うて矢銭と硝石にした。其れに今川領では金や銅は採れるが銀は採れない。銭を贈るなら銀にしようと思うたがこれも正解であったな。

「お慶び頂けたようで安堵致しました」

「うむ。何よりの献上だ。正に喜んでいる。会合衆には権中納言が甚く喜んでいたと伝えるが良い」

「皆に伝えまする」


「商いの方はどうだ」

「畿内は比較的平穏を取り戻しつつあります。お陰で商いは日毎大きゅうなっておりまする」

「であるか。其れは何よりだ」

「ただ……少々気掛かりがありまする」

天王寺屋の助五郎さんの言葉に権中納言様が眉を顰める。脇息に靠れて寛がれていた姿勢を正して"気掛かりとな。存念を申せ"とお話になられた。


「はい。納屋さんの言う通り商いは日々増えつつありますが銭が足りませぬ」

「明から銭が入って来ぬからか」

助五郎さんの言葉に権中納言様が直ぐに反応される。流石は権中納言様だ。

「今川領でお造りになっている天文通寶も堺でよく見かけまするが、商いの増加に量が足りませぬ」

「そうか。ふむ。ちょうど良いものがある。上野介、大蔵方の庵原安房守と関口刑部を呼んで来てくれ。天文通寶に関する報告と合わせてな」

権中納言様の下知に吉良上野介様が応じて部屋を出て行く。


「大蔵方が来るまで少し待とう。せっかくだ。宗易と申したな」

「は、ははっ」

「其の方、駿府に来るのは初めてか」

「その通りでございます」

「うむ。では駿府を見て何を思うた」

権中納言様の言葉を受けて宗易殿が私の顔を見てくる。存念を思うままに申して良いかという確認であろう。市井の事に御関心の高い権中納言様の事だ。初めて駿府を訪れた者の意見を聞いてみたいのだろう。宗易殿には問いがあれば率直に物を申せば良いと伝えてある。権中納言様は言葉を飾るのを好まれない。

「我等は用宗の湊に船を停めて府中に参りました。目通りが許されるまでの間、府中をまわりましたが京や堺に引けを取らぬ大きな街だと感銘を受けておりまする」

宗易殿の言葉に権中納言様が満足そうに応じられる。だが何処か物足りなそうに見えるのは気の所為だろうか。

「ただ、無礼を承知で申し上げまする」

権中納言様が興味深そうに宗易殿をご覧になった。

「構わぬ。思うところを申せ」

「はい。されば些か用宗の湊は狭うございます。行き交う船が多いのはよろしゅうございますが、湊が手狭故に息苦しゅう感じました。もそっと大きい湊が出来れば益々発展致しましょう」

「流石は天下に名だたる堺の商人よ。宗易が申した事、正しくそのとおりだ。友野屋からも同じような陳情が来ている」

権中納言様が笑みを浮かべながらお話になられる。相変わらず此の御方は内政にご熱心だと思うた。


「其れでな、今江尻の湊を大きくしようと開発をしている。あそこはまだ湊を大きくするための土地がたくさんあるからな」

江尻の湊か。三保の方にある湊であった筈だ。確か今川の水軍が使うていた筈だが……。

「水軍が使う場所は小さくする。水軍で使える湊は下田も熱海もあるからな。江尻はなるべく商人達に開放する予定だ」

私の思うた事を察してか権中納言様がお話になられた。誠に興味深い話よ。更に詳しくお聞きしようとしたところで二人の武将が現れた。庵原安房守様と関口刑部少輔様だ。お二人が権中納言様に紙をお渡しになると“うむ。此れだ。堺からの客人たちに見せてやれ”と仰せになった。安房守様から折り畳まれた紙を受け取る。助五郎さんと宗易殿とで大きな紙を広げると、そこには擦る前の墨の様な絵が何本も書かれていた。


「其の図は昨年に作った天文通寶の量を月毎に示している。左側に千、二千とあろう。此の単位は貫だ。高さで量を示しているのだ。各々の図の下に月が書いてあるだろう。此れは其の月の生産量を示している。月を経る毎に増えているのが分かるだろう。数字だけでは分かりにくいからな。斯うして分かりやすく図にするようにしているのだ」

「分からんような、いや、分かったような……。申し訳ありませぬ」

素直に存念を申すと、権中納言様が笑みを浮かべて“気にするでない。図については後で安房守と刑部少輔に詳しく説明させよう”と仰せになった。其れは有難い。堺の商人として聞かぬ訳には行かぬ。何となく良さそうな事は分かる。恐らく帳簿に使えそうな話をされているのだ。


「其れでな、足りぬという銭だが作る量を……」

権中納言様が続きを仰せになる。いやはや、此の御方は誠に刺激が多い方だ。考えを必死に巡らしながらお話に集中した。どこか丁稚になったばかりの感覚を思い出させる。久々の感覚に少し高揚を覚えていた。




永禄二年(1558)一月下旬 若狭国遠敷郡 後瀬山城武田館 武田 義元




「申し上げまするっ!」

使い番の男が走り込んで来て大きな声を上げる。

時折火の粉を撒きながら燃える焚き火の音に負けまいと声を張り上げたのであろう。申せと続きを促した。

「はっ!手筒山に朝倉勢約四千が着陣。旗印は松笠菱にございまする」

「松笠菱……。相分かった。ご苦労であった」

「細川右京大夫様の旗印ですな。どうやら朝倉家からの文は正しかった様にござりますな」

使い番が走り去ると、傍に控えていた実弟の彦五郎信方が声を上げる。煩わしそうに感じるのは気のせいではあるまい。


「その様じゃ。援軍は有難いが、まさか大将が管領殿になるとはな」

溜め息が出そうになるが、少し離れた場所には家臣達がいる。何処で聞かれているか分からない。此処は嬉々としておくのが正解かも知れぬ。

「じゃが丹波守護でもある右京大夫殿が味方になってくれるなら三好の後楯を得ている逆賊の逸見は厳しくなるだろう。援軍の勢いそのままに押し込んでくれる」

「そうですなぁ」

儂の言葉に彦五郎が苦笑いを浮かべながら応じた。


そもそも贅沢を言っていられる状況では無い。

今若狭の国は正統な支配者たる儂と、隠居した父上とで争っている。事をややこしくしているのは、重臣の逸見駿河守が父に味方しただけでなく、三好の後ろ盾を経ている事だ。逸見は丹波から三好の兵を入れている。丹波も一枚岩では無い。今はまだ三好の兵は少ないが時を経るとどうなるか分からない。余り戦に時を掛けてはならぬ。だからこそ朝倉に援軍を依頼したのだ。


家中には若狭に朝倉の兵を入れる事に反対の者達もいた。重臣である粟屋越中守は特に反対をして今は居城に引き篭もっている。全く困ったものよ。

父上は父上で六角領にあって虎視眈々と若狭を狙っている。逸見討伐にもたつけば六角が兵を送ってくるに違いない。


「逸見の軍は三好の手勢を入れても三千に満たない。対して我らは朝倉の援軍を得て倍以上の兵力になる。此処は一気に叩いてくれる」

「公方様も其れをお望みでありましょう」

「其れを言うでない」

儂の言葉を受けて彦五郎が苦々しい表情を浮かべる。


我妻は先の公方様の娘にあたる。其の事もあってか公方様から武田は格別の期待を寄せられている。幕府へ逆賊の討伐を"朝倉へ助力を願って解決しようと思うている"と知らせると、直ぐに御内書が朝倉家へと発信された。朝倉の援軍が早かったのは公方様の文による影響もあるのかも知れぬ。その代わりに公方様から儂に対しては"朝倉の援軍を以て早期に若狭を平定し、かかる後は上洛すべし"と書かれた文が届いた。


まるで将棋の駒でも指すかのような文の内容を思い出して堪えていた溜息が溢れる。

行かぬ。此処は沈んでいる場合などではない。気持ちを切り替えなければならぬ。

「先の事は逸見を叩いてからじゃ。そうであろう?」

「間違いありませぬ」

「うむ。では行くとしよう」

「御意」

彦五郎と共に家臣達が控えている場所に向かった。




永禄二年(1558)一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 織田 帰蝶




「御屋形様のおなぁぁりーっ!」

あどけなさを残す小姓の高く大きな声が響くと、足早な音と共に人が上段の間に入って来た。指を付いて頭を下げる。

「御屋形様よりお許しが出ている。御方は名乗られよ」

暫くすると家老だろうか。上段の間の近くに座する男から声が掛けられた。

「織田上総介が室、帰蝶にございます」

早々に名乗りを終えるが、中々と声が掛けられない。無礼かと思うたが夫の宿敵の顔が見たくなった。静静と頭を上げる。


御簾越しには狩衣を着た若い男がいた。部屋が明るいせいか御簾越しでも表情が伺える。少々驚いたような、妾を値踏みするような、何とも捉えようの無い表情をしていた。若いが随分と迫力を感じる。御簾や豪奢な此の広間が醸し出しているのではない。いや、其れもあるかも知れぬ。だが目の前の男自身が存在感を放っているのだと思うた。

「今川権中納言氏真である。遠路遥々御苦労であられた」

低いがよく通る声で権中納言様が声を上げられる。高い声色だった亡き夫とは対照的だと思うた。

「お気遣いありがとうございまする。船を差配下さりましたのでそれ程苦労しておりませぬ。あれ程遠いと思うていた駿河府中が此程近いものなのかと驚いているくらいにございまする」

妾の言葉に権中納言様の表情が少し笑みを帯びる。

後ろに控える林佐渡守が溜息を付いて平伏するのが分かった。妾の嫌味を気にしたのだろう。


「奇妙丸殿も無事に着いたと聞いている。無理を掛けてすまなんだが、先ずは安堵しているところだ」

「お言葉有り難く存じます」

奇妙丸を府中まで出頭させるよう命が届いた時は随分と不安を感じた。まだ産まれて間もない赤子を殺める為に態々駿府行きを命じたのかとも思うた。だが今川側は赤子の容態を鑑みて年明けまで移動を待ってくれた。其れに陸路ではなく海路であったのも助かった。我が養子は大きな安宅船の中で静かな波に揺られて気持ちよさそうに寝息を立てていた位だ。此の配慮には素直に礼を言うべきだろう。


「道中数々の配慮、織田家を代して改めて御礼申し上げます」

「うむ。大事ない。奇妙丸殿には此の府中を己が里と思い、大きゅう育って欲しいと思うている。今はまだ早いが、時が来れば確かな傅役を付けよう」

「ありがとうございます」

「住まいは府中にある上屋敷街に邸宅を用意している。何か不足があれば申されるが良い」

「されば一つ願いがございます」

妾の言葉に同席している今川家中が少しばかり構えた表情をする。権中納言様は全く動じた様子は無い。

「お聞きしよう」

権中納言様が居住まいを正して妾の顔を眺められる。やはり若いが貫禄を感じさせられると思うた。


「私は既に父にも夫にも先立たれました。此後は髪を落として供養をしたいと存じます」

「で、あるか」

今川は妾を何処かの後家にして使おうとしているのかも知れない。若しくは美濃の一色との交渉に使うか。だが、何方も御免被りたい。権中納言様の表情を睨むように捉えて訴える。後ろで佐渡守が"御方様"と小さく声を上げているのが聞こえる。頭を下げよとでも言いたいのだろう。それとも無礼を控えよという意味かも知れぬ。だが奇妙丸の世話を約束すると申された今、妾に失うものなど無い。仇敵の顔をじっと捉えて背筋を伸ばした。

「佐渡。構わぬ」

「ははぁっ!」

権中納言様の言葉に佐渡守が快活に返事をする。亡き夫とは何かとあった佐渡守だが、目の前の若い男は早くも手懐けているように感じた。権中納言様が小性を呼び付けて御簾を上げるよう指示された。御簾が上がると公家の様な装いの、だが武家である事を確実に感じさせる男が微笑を浮かべていた。男の視線が妾をはっきりと捉えている。


「流石は蝮と呼ばれた御仁の娘なだけはある。堂々とされたものよ。良かろう。好きにされるが良い。但し寺については追って沙汰する」

「ありがとうございます」

素直に頭を下げた。


「いつか」

下げた頭に言葉が掛けられる。

「いつの日かで良い。茶でも共に飲みたいものだ。御方の気が許すのならばな。上総介殿の話を聞かせて欲しい」

「夫の」

「うむ。上総介殿は銭の大事に気付かれて何かと策を打たれていた。そして我が父を討ち取ってもいる。何かと気になる存在であった」

権中納言様の言葉に思わず息を呑んだ。 亡き夫も国を豊かにし、先駆的な取り組みをする権中納言様をよく見ていた。其れはもう恋い焦がれるようにであった。


話せる事は沢山ある。

だが今はその気になれぬ。

いつか胸の内にある蟠りが消える時が来るのだろうか。

目の前の御仁は急がないと仰せになった。初めは冷徹に見えた表情だが、今は穏やかな表情に感じる。




「いつの日か」

ゆっくりと声を出して応えると、権中納言様が満足そうに頷いた。




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