第百五十六話 人心収攬




永禄二年(1558)一月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




仕覆を丁寧に脱がして茶入れを取り出す。歳月を経た年代物の妖艶な姿が露わになる。肩衝の形をした唐物茶入れだ。薄く掛かった鉄釉が静かな光を放つ。煌々とした光ではない。だが此の静かな光が寧ろ茶入れの存在感を厳かにし、価値を高めていると言っていいだろう。作も銘も分からぬ品ではあるが流石は津島の豪商よ。中々に良い品を持っていると思った。


ふむ。考えてみれば名が無いのなら俺が付ければいい。

たまにはこうした遊興も一考だな。さて、何が良いか。

袱紗を真に捌いて件の唐物茶入れを清める。前世で唐物茶入の清めはやり難くて苦手だった。国焼の茶入れならば清める時は茶入れを反時計回りにまわす。其の場合は左手の人差し指を伸ばして回すのに難くなく、美しい所作が出来る。だが唐物の時は扱いが逆になる。此れが中々に難しいのだ。しかし本当に気に入った唐物茶入れを手にした時は違うものなのだと思った。逆回しがあまり気にならない。慈愛の念の様な感情を思いながらゆっくりと清める。清め終わった茶入れをそっと畳に置いてから一度息を吐いた。手前座の隅に置いてある箱が僅かに視界に入る。此の茶入れが入っていた木箱だ。箱の隅にある焼けた跡に視線が止まる。此の箱を献上に来た林佐渡守の事を思い出した。




津島は今川に従うのを良しとしなかったため、岡部丹波守と佐渡守が協調して討伐した。津島の商人達は美濃の一色や長島、北伊勢の豪族らに援軍を願った様だが兵を出した勢力は無かった。相良油田の石油を含んだ火矢を前に為す術もなく徹底的に焼かれたらしい。師走の乾燥した空気の中だ。よく燃えた事だろう。此の茶器は焼けた跡の町から掘り出されたものだ。誰ぞ津島の豪商が土に埋めていたのだろう。箱が焦げているのは焼かれて熱くなった土に侵されたからだ。


町を焼くだけなら大した労は無いが、佐渡守が愛い奴と感じるのは織田弾正忠家を動かした事だ。小牧山への転封で慌ただしいだろう中、織田は千の兵を出して丹波守に合力した。皆の前で此れを誉めてやったら随分と嬉しそうだったな。安堵した表情もしていた。やはり佐渡守は内務方として使えそうだ。此れからもどんどん使っていこう。




余燼よじん

脳裏に言葉が過った。

此の名が良いな。後で箱書きをしよう。

此の唐物の名は余燼だ。


多少は惜しい気持ちがあるが道具は使ってこそ意味がある。

余燼と名付けた此の茶入れ、林佐渡守に褒美としてくれてやろう。

下賜する時は茶器の名に被せて申し添えてやるとしようか。


其の方、余人を以て替えがたしとな。

多分喜んでくれる筈だ。




永禄二年(1557)一月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「晴吉、長旅ご苦労であった」

「は、ははっ」

目の前に美丈夫が座っている。春吉は隅にいる春日弾正忠と並んで良い男であったが、京の風に当たって益々良い男になった様だ。新年挨拶の目出度き場でもある。諱で親しく声を掛けた。横に座る馬場民部少輔が儂を窘めるような表情をしている。その横に座る勘助は静かに無表情で座っている。民部少輔の迎えに座る原美濃は笑みを浮かべていた。鬼虎とまで呼ばれる美濃守は儂より一回り以上も年上であるが、父信虎の頃より武田に仕え始めた新参者だ。武田の恩顧を何よりも感じている。信頼が出来る男と言って良い。左馬助の代わりにまではならぬだろうが同席を命じた。


「粗方其の方から文で報告を受けているが、改めて京での動きを聞こう。特に最近の動きをな」

「はっ。京は落ち着きを取り戻したようにございまする。三好家と六角家が和議を結んだこともあって幕府の威信は高まっている様に思いまする。公方様は各地の大名に文を盛んに出されておりまする」

「其の文の影響か最近では長尾と北條が和議を結んだと聞いた」

「仰せの通りにございまする。今川が北條と上杉の…、いや、長尾との和議を斡旋したようにございまする」

左衛門尉が儂の視線を受けて長尾の呼び名を言い直す。守護代の出に過ぎない弾正少弼が上杉を名乗って関東管領だと?全く忌々しい。儂は認めぬ。


「幕府の威信が高まるのは良い事よ。長尾と北條の和議斡旋の報せを受けた時は幕府も余計な事をしてくれたと思うたが、此の和議をするために今川が幕府に頭を下げたという。武田も今川も幕府から認められた守護なれば、一先ず駿河と甲斐の国境は平穏が訪れよう」

儂の言葉に勘助が頷いた。

「其の他の動きでは、六角家と一色家との間で縁組が結ばれるそうにございまする」

「ほぅ、左様か。一色とは荷のやり取りをしているところじゃ。幸い一色治部大輔の反応は悪くない」

やはり上方から此の甲斐に至るまでの盟約を結ぶのが肝要だな。関東で北條が息を吹き返せば此のままでは孤立しかねぬ。


「長尾は此度の関東遠征で随分懐を痛めたであろう。信濃を攻める余裕はあるまい。本年は木曾路の街道整備に注力をしよう。ついては弾正忠」

「ははっ」

「其の方に街道の整備を命じる。甲斐から信濃、そして美濃迄の街道を整えよ」

「御意にございまする」

「整備は山縣三郎兵衛尉も遣わす。手分けして整備を急げ」

「委細承知してございまする」

春日弾正忠が深々と頭を下げた。

三郎兵衛尉は太郎義信の傅役を務めていた飯富兵部少輔の弟にあたる。燻っていたので山縣の姓を名乗らせたところだ。汗を流して心持も整えてくれると良いがと思うた。


北條が関東で勢力を戻せば我が武田は東からも圧迫を受ける事になる。西の一色とは縁を深くしていかねばならぬ。だが一色のみでは心許ないな。やはり長尾との協力も探らねばならぬか……。

だがまずは街道の整備だ。銭が必要だな。金堀衆も増やさねばならぬ。やらねばならぬ事は多い。刻を無駄にしてはならぬ。




永禄二年(1557)一月中旬 駿河国富士郡吉原村 善得寺 北條 氏康




「間も無く主が参ります」

今川の小姓が現れて婿殿の到着を告げる。すぐ後ろに控えている新九郎と助五郎が姿勢を正す。新九郎は婿殿とは初対面になる。少し緊張した面持ちをしていた。

「お待たせ致した」

暫くすると足音が聞こえてすぐに婿殿が現れた。颯爽と現れた若い男は狩衣の装いをしていた。婿殿は日頃から狩衣を好んで着ると聞くが、今や官位は従三位権中納言にある。立場がそうさせるのか、経験がそうさせるのか。目の前の男は十二分な威厳を漂わせていた。

「お待たせして申し分けありませぬ」

「いや、早く来たのは此方なれば構わぬ。年始で予定も多かろう。お気になさらぬよう頂きたい」

大事な面会に遅れる訳にはいかぬ。少し早めに寺へと邪魔をしたが、婿殿は殆ど約定の刻限に現れた。斯様な事はどうでも良い。此度は援軍の礼を伝えに来たのだ。先ずは頭を下げて謝意を示した。


「早速ではあるが此度の援軍は誠に助かり申した。北條家当主として御礼申し上げる」

儂が頭を下げると、後ろの息子達が同じように頭を下げた。

「堅苦しい挨拶は不要にござる。北條は我が室の実家なれば援軍を出すのは当然にござる。其れに北條家が関東を抑えてくれれば今川は西に力を注げまする。北條の勝利で利を得るのは今川も同じなれば気遣いは無用にござる」

婿殿の言葉に心持ちが軽くなる。我等を気遣って話してくれたのであろうが、半分は本音であろう。


「其のように申してくれると有難いが、小田原への補給、里見水軍の討伐、更には幕府への献金と、北條は今川に大きすぎる借りを作った」

儂の言葉に婿殿がゆらゆらと首を振る。

「お気になさりますな。其れよりも後ろの御仁を紹介頂けまするかな」

此度の借りは大きな事であるが、婿殿が"大した事ではない"とばかりに話を変える。息子達の前だ。せっかくだから此処は気遣いに乗らせて貰うとしよう。

「おぉ。此れは済まぬ。嫡男の新九郎じゃ。新九郎、挨拶をせよ」

「はっ。北條左京大夫が嫡男の新九郎氏政にござりまする」

「今川権中納言氏真にござる。確か新九郎殿とは歳も同じであった筈だ。今後は昵懇に願いまする」

「某こそよしなに願いまする」

婿殿と新九郎が互いに顔を見ながら挨拶を終えると、婿殿が助五郎の方へ姿勢を向けた。


「義兄上、ご無沙汰しておりまする」

「うむ。助五郎においては何かと大儀であった。戦場で男が磨かれたかな。凛々しく見えるぞ」

「大した事はしておりませぬ」

「謙遜する事は無い。其の方の働きが上杉撃退の一助になったのは間違い無い。胸を張るが良かろう」

婿殿の言葉に助五郎が感動した面持ちで嬉しそうに応じている。隣の新九郎も熱いものを感じているようだ。新九郎の表情に影は無い。此れなら案ずる事もなかろう。


新九郎は元々今川に大して良い感情を持っていなかった。河東や伊豆を我が北條が失陥した原因である婿殿に対して不満がある様子であった。今は亡き義元殿が我等を家臣の様に扱った事も影響しているだろう。だか今の表情に蟠りは無さそうに見える。此度の交渉に連れて来て正解だったな。北條にとって今川は最早なくてはならぬ存在だ。


しかし、此の婿殿の様子は……。何と言うか、威厳に加えて人滴しの才まで伸ばしたようだ。全く末恐ろしい御仁よ。

「せっかくこうして顔合わせて談義が出来るのじゃ。此処は今後の展望をどうお考えか婿殿にお聞きしたい。我が北條には何を望まれる」

腹に力を込め、威厳のある表情を意識して話しかける。和やかな雰囲気をあえて崩して緊張した雰囲気を作った。儂の表情を捉えて婿殿が柔和な顔を崩す。大名の顔が其処にはあった。

「ならば申し上げまする。新九郎殿には申し訳無いが武田の姫は甲斐へ送り返してもらいたい」

「既に其の手筈を進めている。問題ござらぬ」

儂の言葉に婿殿が満足そうに頷く。

「御義父上に置かれては此の後は関東を取り戻しに動かれるので御座りましょう?」

「無論じゃ」

「ならば上野を抑えし暁には甲斐と信濃方面への荷留めに協力頂きたい」

上野……。幕府の裁定では前の関東管領の所領とされたが、婿殿は其の事をまるで歯牙にも掛けていない。思わず笑いが込み上げる。

「ハッハッハッ。良かろう。北関東を抑えし暁は武田への荷留に協力すると約定しよう」

「甲斐は守り易く、攻めるには難儀な場所にござる。我が祖父氏親は甲斐を切り取らんと随分苦労されたが結局手に入らなんだ」

「北條も甲斐攻めには何度か援軍を出しておるな」

「戦をしようとするから行かぬのです。甲斐も信濃も海のない内陸なれば荷を留めれば干上がりまする。腹が減っては戦は出来ませぬ」

冷徹な表情を浮かべて婿殿が淡々と語る。小田原を守り抜いた後だからこそなおの事感じる。食うものに困らなければ国や城は易々とは落ちぬ。となると……。

「うむ。中々に良き策かと思うが、美濃攻めが肝要となるな」

「御義父上の仰せの通りにござる。武田を干上がらせるためには美濃も押さえねばなりませぬ。なれど美濃は肥沃な土地で、此れを治める一色治部大輔は家臣をよく纏めておりましてな。美濃攻めには少々時が掛かるかも知れませぬ。先ずは美濃の交易相手となっている長島を潰しまする。徐々に美濃も苦しくなりましょう」

長島は一向衆の一大拠点な筈だ。此れまた淡々と潰すと申すとは。婿殿の表情と言に新九郎が緊張した面持ちを増している。我が嫡男は決して愚息では無いが婿殿を前にすると平凡に見えてしまう。良い方向に影響を受けてくれれば良いのだがな。


「今川の考えは承知した。当家からは遠山甲斐守を遣わすゆえ引き続きよく連携を取ろうぞ。助五郎も続けて預かり願いたい」

「承知致しました。引き続き頼むぞ、助五郎」

「ははっ」

助五郎が笑みを浮かべて頭を下げる。

「堅苦しい話はこの辺に致しましょう。せっかくお越し頂いたのでござる。某から一服差し上げましょう」

婿殿が再び柔和な笑みを浮かべて話し掛けて来る。


やはり人滴しだと思いながらも嬉しく応じた。




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