第百五十五話 封鎖
永禄元年(1557)十二月中旬 山城国上京 室町御所政所 伊勢 貞良
「執事様。二條太閤殿下が面会を願っておりまする」
政所の雑務を担う公人の一人が慌てた様子で告げて来る。先程先触れが来たばかりだというのにもうお見えになったか。
「相分かった。此方へ御通しせよ」
儂の言葉を受けて公人が再び駆けるように部屋を出ていく。太閤殿下を上座で迎える訳には行かぬ。下座に席を移して居住まいを正す。ふと、着物の袖口に解れを見つけた。この着物も随分と使っているから仕方が無いな。新調したいところだが贅沢は言っておられぬ。
この数日、太閤殿下からは何度か屋敷に来るようにと使者が遣わされていた。用向きは伝えられなかったが、恐らく関東での和議についてであろう。いや、進士美作守が画策している侍従殿の奥入りについてかも知れぬ。どちらにしても良い話ではない。今日は色々と苦言を呈されそうだな。もっと早く殿下と会うべきだったかも知れぬが何かと慌ただしくて後にしてしまっていた。
「邪魔をするでおじゃる」
「いらせられませ」
狩衣に身を包まれた太閤殿下が現れて上座にゆるりとお座りになる。
「はて?この部屋は以前から総畳でおじゃったかの」
「幾年か前に詰めてございまする」
「左様でおじゃったか。大層な献金を受けると聞いたでな。もしやその銭でと思うたのじゃ」
太閤殿下から流し目が寄せられる。此れは随分とご気分麗しからずと見えた。
「政所は幕府の蔵を担うところではありまするが、此れはあくまで幕府の蔵なれば政所の蔵ではありませぬ」
「ふむ。まぁよい。其の方と諍いをしても仕方がない。早速だが上杉と北條の和議を進めるというのは誠か」
「誠にございまする。既に公方様の使者が関東に遣わされておりまする」
「和議と言えば聞こえは良いが、上杉と北條は水と油の関係じゃ。時を置けば再び争うのは明白じゃ。今川が大金を積んだと聞くが今回の大樹の選択、良い結果になるとは思えぬ」
「殿下、お気持ちは分かりまするが長引く出兵によって参陣する諸将の懐が傷んでおりまする。先頃は常陸の佐竹が帰国したとの報せもありますれば、上杉の威信傷付く前に和議を結ばせるのも一手にごさいまする」
「先の関東管領を上野に戻す以外は大した定めの無い約定と聞いた。となれば北條はすぐに息を吹き返すのではおじゃらぬか?さすれば隣国の今川は背を気にせずとも良くなる。美濃へ近江へと出張って来かねぬ」
「ご心配やごもっとも。なれど此度は関東管領殿の号令によって十万の兵が動きましてごさいまする。また、今川も和議の為に幕府へ膝を折っておりまする。幕府の威光を以て安寧に導きまする」
儂が言葉を告げると太閤が不満そうに息を吐かれる。儂とて正直申せば太閤の御存念に近い。だが公方様は進士美作守や上野民部少輔から今川が屈したとそやされて悦に入っておられる。其れに小侍従殿を側室にする話に心奪われておいでだ。
「……其の方も苦労しておるようじゃな」
ぼそりと太閤殿下が呟かれる。儂とした事が顔に出ていたかも知れぬ。
「幕府の御為、むこの民の為と思わば労などありませぬ」
「御所侍従が公方の側室として上がる由も聞いた」
「面目ありませぬ」
「……公方は苦労に慣れているかと思うておじゃったがそうではないようじゃ。此れが生来の姿か、其れとも奸臣に踊らされているか」
太閤殿下の厳しい視線が儂に刺さる。逃げてはならぬ。
「某に出来る事を致しまする。さしあたっては伏見の宮様に御取り次ぎを願いたく存じまする」
「うむ。其れが良かろう。斯波の屋敷後に御所を建てるという噂も耳にしたのじゃが斯様な銭があるのじゃ。宮様にも気持ちを届けておくが良いぞ。幾らか御溜飲も下げられよう」
「承知つかまつりましてごさいまする」
「年が明けて二月には即位の礼を執り行う事となった」
「おめでとうございまする」
「目出度いものか。費えの出所は今川よ。厄介な事に大蔵が集めて来た事になっておじゃる。近衛と山科だけでない。他に誰が動いたかは明白よ。其の方はたまに茶を飲む仲と申したな。あの近衛の腰巾着よ」
忌々しそうに太閤殿下が呟かれる。高辻五位蔵人殿の事を申されているのだろう。此処は流すしかない。頷いて応じた。
「主上も中々に強かよ。麿一人を台頭させるは避けようと色々策を練られておられるのやもと思う」
「殿下、些か御言葉が過ぎるかと……」
「ん?何か麿が申したかの」
冷徹な御顔が儂を捉える。全く自信を帯びた御顔をされていた。
「いえ、何でもありませぬ」
儂の言葉に"左様か"と殿下が鷹揚に応じられた。
暫く雑談を交わすと太閤殿下がお帰りになられた。辺りは既に夕日が指している。
今や朝廷は二條太閤を中心とする派と近衛関白を中心とする派、其れに中立な派が幾つかに分かれている。太閤殿下は最早近衛卿との対立を隠される事も無くなってきた。大きな衝突をする日も近いかも知れぬ。
三好は此の現状を如何様に見ているか。
其れに六角がどう出て来るか。考えねばならぬ事は少なくない。
幕府にとって何が最善か。常に己の軸となっている考えを改めて思い起こしながら物思いに更けていた。
永禄元年(1557)十二月下旬 越前国足羽郡一乗谷 朝倉館 朝倉 義景
儂が点てた茶を座に出すと、重臣の青木上野介が受け取って客人の前に置いた。客人が茶碗を受け取って一服をする。不調法とまでは言わないが、決して“洛中で管領まで務めた御仁とは思えぬ所作”に溜め息が出るのを堪えた。此の御仁あって今の京兆家ありと言ったところだと思うた。
「御服加減は如何にござる」
「うむ。まぁ程々よの」
儂の言葉に細川右京大夫殿が淡々と応える。捉えようの無い返しにとりあえず"左様でござるか"と取り繕って返すと、上野介が少し顔を顰めているのが目に入った。儂が出した茶を右京大夫殿が疎放に扱ったのが気に食わぬのだろう。
「さて。態々坂本から一乗谷迄見えたのでござる。用向きを伺いましょう」
「うむ。そうじゃな。六角が三好と和議を結んだのでな。居心地が悪うなった」
右京大夫殿が儂の視線から茶碗を持ち上げて続きを呑む事で避ける。まるで子供の様な御方よ。
「左様でございましたか。六角殿から当家に何かあるわけでは無いのでござりますな」
「無い。此度の下向は余の意向じゃ」
右京大夫殿が口を尖らせている。やはりそうか。この時期に儂の元へ来るという事は六角からの言伝を預かっているか、或いは六角と三好の和議を受けて近江に居辛くなったかのどちらかだと思うていたが居辛くなった方であったか。考えてみれば西の三好、東の斎藤と結んだ六角が我が朝倉と誼を結ぶ筈もない。むしろ北を制しようと画策をしている筈だ。
「公方様は元々考えを頻繁に返られる御癖があられた。三好と和するのは其の御癖によるものじゃ。なれど六角が三好と和議を結ぶとは驚きじゃ」
右京大夫殿が疲れた様に、だが怒りを込めた呟きをする。何かと翻意にするのは御手前も同じであろう。斯様に思うたが無用な怒りと面倒を買うだけだ。かつての義父を前に言を慎んだ。
「朝廷の中の動き、幕府の動きと色々絡んだ結果にござりましょう。六角は今後此の越前を侵して来る筈。一向一揆との戦が続いているというに苦しゅうなりまする」
暗に助ける余裕は無いと伝えると、右京大夫殿が口角を上げて笑みを浮かべる。
「一向衆の最大の敵は目下今川じゃ」
「存じておりまする」
「本願寺の法主殿は三條家の姫を迎えている。まぁ此の姫は余の養女としての扱いもあるのじゃが、同じく此の姫は先の六角管領代が猶子となっている。六角の娘が本願寺に嫁いだという事じゃ。朝倉の北も南も一向衆と縁のある敵だと言う事ぞ。古来敵の敵は味方と言う。誼を通じてみるのも如何かな」
「今川と結べと言う事にござるか」
「はほほ。公方様は今川を抑えようとされている。三好、六角、斎藤の誼はその為よ。武田も加わろうな。今川は振りかかる火の粉を払わねばならぬ。甲斐か美濃か。もし此れ等を切り取りでもすれば其の先は上洛をする事になろう。其の時には畿内の秩序の為に管領が必要となろう」
「成る程……左様にござりますか」
右京大夫殿の申したい事は分かったが、全く面倒な事だと思うた。我が朝倉は父の代に中央の政によく関わって家格を上げた。だが中央に関わって朝倉の領土が増えた訳ではない。あまり畿内の政に巻き込まれるのは得策ではない。だが今川との誼は通じておく必要があるかもしれぬ。確かに一向衆は仏敵今川とまで唱える程今川を嫌悪している。其れに三国湊の商人が今川の当主殿は随分と茶や和歌に通じていると誉めそやしていた。歳も然程離れておらぬ筈だ。多少興味を惹かれるのは確かだ。
「右京大夫殿が言、よう分かり申した。まずは今川に使者を遣わしてみまする。其れから右京大夫殿には我が領内に屋敷をご用意しましょう。其の御力をお貸しくだされ」
「おぉ、済まぬの。うむ。任せてくれ」
言葉とは裏腹に大して済まそうに感じさせない右京大夫殿の所作に腹立ちを覚えつつも先の点前を続ける。
余り近くに置いて騒がれても面倒だ。客将扱いにでもして若狭攻めに使うか。衰えたとはいえ管領なのだ。靡く将もいるかも知れぬ。敦賀郡司の孫九郎に預けるとしよう。我が一族は席次を巡って醜い争いをする事が少なくない。名目の大将などに添えれば使えるかも知れぬ。
「どうされた」
「いえ。何でもござらぬ」
右京大夫殿問いかけに首を振って応える。
無礼な邪推をして出た笑みを押さえて真剣な表情を装った。
永禄元年(1557)十二月下旬 伊勢国桑名郡長島 長島城 本願寺 証恵
「津島の町は粗方焼き尽くされた様にございまする。難を逃れた人々で今川に降るを良しとしない者達が此の長島に落ち延びて来ておりまする」
下間筑後法橋が淡々と報告をすると、服部権太夫が“困りましたな”と声を上げた。
「兵糧を気にしておるのか」
香取法泉寺の空珍院主が呟かれるように応じた。
「如何にも。今川の水軍によって海からの補給は滞っておりまする。頼みの綱は川を使った津島からの補給にござったが、此れが封じられたとあっては何れ御坊は干上がりまする」
「まだ西側が完全に封じられたわけではあるまい」
「空珍院主の指摘は御尤もでありまするが、長野が北畠に降った事で日毎物の動きは細くなっておりまする。北畠は今川と親密なれば、我等に対して敵対行動に出ておりまする」
「権太夫。斯様に申すが、ならば後どれだけ持つと言うのじゃ」
「凡そ一年は持ちましょう。なれど落ち延びてきた者を受け入れると一月、いや、二月は早くなりまする」
「十月持てば良いかというところか」
儂の呟きに権太夫が頷き、皆が騒ぎ始めた。
「どうしたものかの」
何となく己の中で答えは出ている。だが儂が言を放てば其れが答えになりかねない。狡猾かと思うたが筑後法橋の顔を捉えて問い掛けた。
「勝敗は既に決してござる。無闇に門徒を死なせる訳には行きませぬ。此処は今川に和議を願って長島を退去するしかありますまい」
やはり筑後法橋は儂と同じ考えであったか。先に話させて正解であった。父祖が興した此の地を離れるのは痛恨の極みであるが門徒を死なせる訳には行かぬ。此処は……。
「今川と一戦も交えず長島を捨てるとは言語道断にござる!長島門徒十万が裂帛の気合を以て仏敵今川に当たれば必ずや道は開けまする。進めば極楽、退かば無間地獄にござる!!」
石山より派遣された下間豊前守頼旦法橋が唾を吐くようにして声を上げる。此の若き師の激を受けて若い衆が続いて声を上げている。
「豊前法橋。其処元の言や尤もに思う。なれど筑後法橋の言も尤もじゃ。儂とて此の長島を退くのは惜しい。誠に口惜しい。じゃが門徒の命を我等の怨恨だけで失わせる訳には行かぬ」
「何を仰せになりまする。目の前に迫るは仏敵今川にございまするぞ。十万もの門徒を従えておきながら一戦も交えぬとは理解できませぬ。此処は戦をすべきにござる」
「なれど」
「兵衛督殿」
豊前法橋が儂の前に近付いて来て儂を見下ろしながら言を放つ。己の方が立場が上だと言わんばかりの物言いだ。
「何でござろう」
「此れより申すは法主の言葉と思われよ」
“法主”の言葉に皆が驚いて頭を下げる。確かに豊前法橋は石山から法主の名代として来ている。法主を出されては儂も頭を下げざるを得ぬ。
「はっ」
「長島一帯の門徒を率いて仏敵今川と決戦を行うべし!」
「「おぉ!!」」
豊前法橋が勝ち誇ったように儂や皆に告げる。豊前法橋と思いを同じくする若い衆達が元気に声を上げた。ふと隣の筑後法橋の顔を覗くと目があった。悲嘆にくれた顔を浮かべながら頭を振っている。今川に勝つ場面があったなら、其れは三河だったと言いたいのだろう。以前に斯様に申していた。聞いた其の時はよく分からなかったが島を囲まれた今なら分かる。
鬱屈した気分で血気盛んな皆を眺める。
どうするべきか心内で御仏に縋ってみるが、残念ながら道が示されることは無かった。
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