第百五十一話 津島




永禄元年(1557)十一月中旬 駿河国有渡郡用宗村 今川 氏真




「ご無事のお帰り、何よりに御座りまする」

笑みを浮かべた顔で三浦左衛門尉が出迎える。左衛門尉の隣には息子の内匠助がいた。二人の他には関口刑部少輔、庵原安房守と狩野伊豆介がいる。出陣に連れ立った吉良上野介や久能余五郎等を合わせて、何時もの主だった顔触れが揃う。

「出迎えご苦労。不在の間に特段の事はあったか」

俺が問い掛けると、左衛門尉等府中に残った者達が顔を見合わせた。何か面倒が起きたと思うた。


「何だ」

「はっ。津島が斎藤からの荷を長島に流しておりまする」

左衛門尉が声を押さえて俺に伝えて来る。斎藤の荷?長島が欲しがる物か。大方兵糧だろうと思った。

「兵糧をか」

「はっ。兵糧は無論の事、材木、武器も流しておりまする。長島は此の材木で守りを固めようとしておりまする。銭は石山から上方経由で受け取っておるようにございまする」

伊豆介が物と銭の流れを報告してくる。兵糧に材木、武器まで流しているか。垂れ流しのオンパレードだな。此れでは長島の士気はあまり下がっていないだろう。

「気に食わぬな」

俺が呟くと、皆が同意とばかりに頷いた。


「熱田はどうだ」

「はっ。今のところ怪しい動きはありませぬ。従順に従っておりまする」

「であるか。朝比奈備中からも同じような報告を受けている。熱田が手中にある今、津島に拘る必要も無いな」

俺の呟きに幕僚達がもしやと言う顔をしている。どうせまた俺が火を付けるとでも思っているのだろう。すっかり俺は"必殺火付け人"のようだ。ま、当たらずも遠からずなのだが。

「今一度津島には釘を刺す。其れでも斎藤に便宜を図るなら焼いてくれる。そうだな。釘を刺す使者には林佐渡守を当てがおう。織田の旧臣として評定に参加している佐渡守に大きな仕事を与えたい。其れに佐渡守は中々外交に長けていそうだ」

「美濃との何時か戦を迎えるだろう中、尾張の旧臣をしかと取り込んでおく事は大事ですからな」

「流石は筆頭家老だな。余の心内をよく心得ている」

俺が褒めると、左衛門尉が満更でも無さそうに応じた。


「佐渡守が役に専念出来る様、次の評定では大層怒ってみせよう」

「御屋形様がお怒り遊ばす姿を見たら、佐渡守もこの上なく役に励みましょう」

安房守が頭を下げつつも笑みを浮かべて話しかけて来る。

「良いか。皆は確と平伏するのだぞ」

「無論にございまする」

「畏まってございまする」

俺が笑みを含んで皆に下知をすると、皆が笑いながら仰々しく応じた。立て続けに起きた大戦を終えたからか、皆の表情が一際柔和に見えた。




永禄元年(1557)十一月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 草ヶ谷 之長




「関東への援軍からお戻り遊ばされた早々に刻を頂戴して申し訳おじゃりませぬ」

父が頭を下げるのに合わせて麿も頭を下げる。今は権中納言様が執務に使われている部屋に親しく通されている。甲斐、三河、関東と立て続けに戦があった後だ。"常在戦場"と掲げられた軸の重みを感じた。此の軸を揮毫された雪斎禅師も今や鬼籍に入られている。益々もって感じる事の多い軸だと思うた。


「洛中に遣わせていた権右少弁が帰国してきたのだ。其れに此度は蔵人が帯同しているという。であらば何よりも先ず会わねばなるまい」

「ありがとうおじゃりまする」

「それで?論功行賞に向けた評定があるからな。色々と準備がある。あまり刻が無いのも事実だ。積る話をしたいところだが用件を聞くとしよう」

「はっ。洛中は権謀術数が行き交う都と化しておじゃりますが、武力を持つ三好が畿内の大半を治め、また公方様を奉じた事で表面上は平穏が訪れておじゃりまする。其のような中で主上が叡慮を関白殿下に溢されておじゃりまする。即位の礼を執り行いたいと」

「……で、あるか」

腹の底から出たようなお声で権中納言様が応じられた。今の父の言葉で全てを察してお見えなのだろう。さて、如何にお考えか御顔、身体の動きで察しねばならぬ。


目の前の御仁は脇息に凭れて寛いだ姿勢を取られている。右手には扇子を持って左手に当てて音を取られていた。お考えになる時によくされる仕草だ。少し懐かしく感じた。

「費えの問題は無い。こう言っては何だが、蔵人の兵糧がまだ随分と残っている。食うに困る大名も少なくないようだが、我が今川は余裕綽々よ。兵糧は高値になっている市場で売り捌けば、即位の礼の費え分処か随分と儲かろう。問題は費えではない。朝廷と幕府よ」

「朝廷と幕府」

父が続きを促すための呟きをすると、権中納言様が庭先に視線を移して"うむ"と応じられた。

「まず幕府だが、幕臣どもが室町に帰るや早速中で対立を始めた。政所に進士美作守、それと大館陸奥守の派閥争いが凄い様だな。此の事は其の方達からの文にもあった筈だ。中立の幕臣達はさぞかし呆れ、疲れているだろうな」

「其の通りにおじゃりまする」

父が頭を下げて応じる。"其の方達からの文にも"と言うことは麿達の他にも洛中の細かな様子が報告されている事だ。関白殿下か荒鷲か、将又他の貴人か。


「幕府は三好が奉じているからこそ体を成している訳だが、公方も幕臣も幕府の復権が成りつつあると勘違いしている。公方は何かと文書を各地の大名に発給して忙しい様だな」

権中納言様は"公方"と呼び捨てて敬称をお付けにならない。我々にだけ親しく心中を溢されて頂いているのかも知れぬが、将軍家や幕府に対するお考えを垣間見た気がした。

「公方様が予てより親しくされていた長尾が……今は上杉におじゃりまするが、関東へ出張っておじゃりまする。此の上杉は京へ頻繁に使者を派遣しておじゃります。此れを受けて幕臣達の中には畿内から関東にまで幕府の威光轟きたると意気揚々の者もおるようで」

「愚かな。皆が都合良く幕府を使っているだけだ」

吐き捨てるような言葉だった。全くその通りだ。父と共に頭を下げて応じた。


「だが、辛うじてとは言え体を成している幕府を無視するのは厄介になる可能性がある。此れが先に言った幕府の問題だ。今一つの懸念は如何に叡慮とはいえ、今川が表立って進めては二條太閤に正面から対抗する事になる。此れが朝廷での問題だ」

権中納言様が庭先をご覧になられていた視線をゆっくりと我等親子に向けられる。存念を問われているのだと思うた。

「関白殿下の旗色がよろしくおじゃりませぬ」

父の言葉に権中納言様の眉が動く。

「続けよ」

「二條太閤が三好と幕府の和議を纏めてから多くの公家は二條太閤に寄っておじゃります。幕府の中が対立しているのは確かでおじゃりますが、公方様も政所をはじめとした幕府の各派閥も、朝廷との折衝は勧修寺大納言殿や広橋参議殿と行う事が多うおじゃります。此のお二方は太閤殿下の腹心におじゃりまする」

父の言葉に権中納言様が溜め息を付かれながら"義兄上は思ったよりも劣勢か"と話される。父と二人、ゆっくりと頭を下げて応じた。


「洛中は上杉の小田原攻めが上手く行っていない事を知りませぬ。長陣を幾らか訝しむ御仁こそおじゃりますが、勝って欲しいと思うてか、皆が見て見ぬ振りをしておじゃりまする。今川の水軍が関東管領方にある水軍を悉く蹴散らした事、洛中へ報せが届けば幾らか挽回するかも知れませぬが……」

「相分かった。義兄上の立場が此れ以上弱くなるのは今川としても好ましくない。朝廷への献金を行おう。必要なだけ申せ。銭は幾らでもある」

権中納言様が流し目をくれる様に我等親子を御覧になる。“銭は幾らでもある”か。関白殿下を支えるために出た強いお言葉かも知れぬ。此れも我等にだからこそお話頂いたのかも知れぬな。幾らでもあるなどと、困窮に喘ぐ公家が聞いたら皆が口惜しむ事だろう。幕臣に至っては発狂する者すら出るかも知れぬ。


謝意を伝えて頭を下げていると、“それと幕府だが”と声が掛けられた。

「上杉と北條の和議を依頼する。今川も幕府を頼る姿勢を見せるとしよう。ただし此れは今川の単独で進める訳には行かぬ。北條の義父上に急ぎ使者を遣わして承諾が得られたら進めるとしよう」

小田原は囲まれていると聞くが、何の懸念も無いように権中納言様が仰せになる。やはり上杉の北條攻めは上手く行っていないのだろうと思うた。


「関東で兵糧が不足していると聞きまする。上杉は早晩戦えなくなるとお読みでおじゃりますな」

「うむ。流石は大蔵を担う権右少弁だ。上杉は幕府から和議を命じられれば幸いと撤退すると見ている。問題は今川を良く思わない幕府が和議仲裁の要請に応じるかだ」

「公方様は御所を改めたいと常々仰せだと聞き及びまする。新たな御所の造成が成るだけの献金あらば心揺らぐやも知れませぬ」

洛中で耳に挟んだ事を麿が具申すると、権中納言様が片頬笑まれた。

「其れは良い事を聞いた。一万貫でも二万貫でも構わぬ。義兄上にも骨を折ってもらえばよい。何としてでも公方を落とせ」

権中納言様が語尾を強めて話される。我等に期待を頂いているのだと思うた。大きな役を背負う事になるが、此れだけ銭を用意頂けるなら事は成る可能性がある。

「力の限り役に励みまする」

麿の言葉に権中納言様が真剣な面持ちで頷かれた。今一度深く頭を下げて応じた。




「……事が上手く行き、御所が新たに成りし時は洛中に噂を流せ」

少しの間があった後、頭上から言葉が掛けられた。

「噂でおじゃりまするか」

頭を上げて御顔を覗くと、権中納言様が扇子を口元に当てて不敵な笑みを浮かべておられた。まるで権謀渦巻く禁裏にいる公家の様な御顔だ。

「左様。新たな御所は銭に靡いた、幕府の魂を売って建てたものだとな」

権中納言様の笑みが消え、冷徹な御顔を受けて己が背が伸びるのを感じる。幕府の器は立派にするが其の信は折ると言う事か。相変わらず容赦の無い御方だ。だが頼もしい。

「御意向、委細承知しておじゃりまする」

承知した旨を申し上げると、権中納言様が満足気に頷かれた。


「北條の返答が来るまでは幾らか日があろう。二人とも久しぶりに評定に出るが良い。其れと嶺に顔を出して行け」

「は、ははっ」

急に話の話題が変わった。先程までの冷徹な表情はすっかり消え失せ、揶揄からかう様な御顔で話しかけられる。もしや嶺様の件があるやも知れぬと構えていた成果が出た。

「此度の件、有難く存じまする」

様々な事情があっての事とは言え、権中納言様の実妹を娶る事が出来るのだ。礼を申さねばならぬ。


「うむ。嶺だが今は亡き夫の事を憚って喪に服しているが婚儀には前向きの様だ。嶺の心持が整理出来たら早く婚儀を上げさせてやりたいと思っている」

「苦手な分野でありまするが、懇ろな間柄になるよう努めまする」

「そう固くなるな。其の方なら常の様に振舞えば良い。我が妹を頼むぞ」

権中納言様が上段を降りて来られて麿に近付き、肩へと手を差し伸べられた。


妹を案じている、優しさを感じる手だった。



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