第百四十八話 伏魔殿




永禄元年(1557)十月中旬 尾張国海部郡蟹江町 蟹江城 松井 宗信




「兵部少輔殿」

名を呼ばれて振り返ると、鵜殿長門守殿が近づいて来ていた。

「長門守殿」

「服部党の一隊を撃退して来ましたぞ」

「左様でござるか。ご苦労で御座った」

儂が言葉を掛けると、長門守殿が笑みを浮かべながら首を振った。

「何のこれしき。一隊を率いて掛かったら直ぐに兵を引いて行き申した。あれは思うに誘いで御座ろう」

長門守殿が長島の方を眺めながら応えている。誘いか。我等が蟹江川の手前にある此の城を拠点に敵を迎え討とうとしているように、敵も川向こうに我等を誘い出しては叩く積もりなのだろう。


"えっさほっさ"

"此の奥じゃ!此方にもっと土を持って来い"

"ほい来た!"

普請の賑やかな声が聞こえてくる。


「また一段と延びましたな」

「かなり大掛かりに普請してござるからな。熱田の方も随分捗っているらしい。土が絶え間なく運ばれて来てござる」

「織田の旧臣達は此処が見せ場とばかりに汗を流していると聞き申した」

「某も同じ様な事を聞いて御座る。良い事ではござらぬか」

儂の言葉に長門守殿が大きく頷く。少し肌寒くなりつつある気候をものともせず、人夫達が威勢の良い声を上げて汗を流している。大量の人が動員されている普請の現場を二人で眺めながら話す。


今眺めているのは蟹江川の掘削と堤防造りだ。此の城の西側には蟹江川という大きな川が流れている。長雨が降ると頻繁に氾濫をしては近隣の田畑や村に被害を与えているらしい。今は此の川を掘削して広げ、高い堤防も設けている。堤防の構築には熱田神宮の近くで大規模に実施している干拓と、干拓によって出来た土地を新田開発するために行っている土地の改良によって出土した土を活用している。新田開発には塩気があっては不味いが、堤防を作るために問題ないからな。輜重方から借り受けた荷駄車が間断無く土を運んできている。


堤防が出来る事によって川の氾濫を防ぎ、敵からの守りに備えるだけでなく、荷留めを徹底する事が出来る。岡部忠兵衛殿によって相変わらず海が封鎖されているため、長島の坊主達は此れから益々荷が細くなるのを感じるだろう。


先日、遂に北伊勢の長野家が北畠家に降伏した。北畠の軍勢が長島の西側まで辿り着けば長島を支えるのは木曽川だけになる。美濃に入った荒鷲からの報せによれば、木曽川から荷を積載した船が津島を経由して長島方面に渡っている様だ。此の堤防の構築が終わった後は津島支配の強化が必要だな。尾張方面を担っている朝比奈備中守殿へ具申をしておこう。


「熱田の干拓でござるが、既に三百町近い土地を作ったそうにござる。土を山から運んで土地をならし、来年から水田とするそうにござる。削った山にも田畑を作るとか」

「三百町でござるか。無事に行けば一万石の収穫は堅うござるな。しかし山から土も運ぶとなると相当人夫が必要でござろう」

「其処は丹羽殿が差配している様に御座る。尤も丹羽殿の下にいる木下とかいう小者が中々機敏な動きをしている様にござる」

木下……。確か皆に“猿”と呼ばれていた男だ。一度覚えたら忘れ難い印象の男だった。

「尾張の石高が増えるのは良い事だ。御屋形様も此の先の今川にとって尾張は極めて重要な要衝と仰せであったからな」

「左様でござるな」

尾張の開発を推し進めて肥沃とさせた先に、御屋形様が見ている景色は如何なるものか。



先代の尾張征討の時よりも心が躍っている自分がいる。

当代の御屋形様が今の程度で収まるはずが無い。

今川の躍進はまだ始まったばかりだ。




永禄元年(1557)十月中旬 山城国上京 室町御所 進士 晴舎




「美濃守護代、斎藤新九郎高政にございまする。上様におかれましてはご健勝の事と、高政、心よりお慶び申し上げまする」

目の前の男が大きな体を丸めて低く頭を下げる。公方様の御顔を覗くとご満悦な表情が伺えた。骨を折って取り次いだ甲斐があったというものだ。

「斎藤殿。遥々美濃から室町への参勤大儀である。上様に置かれては斎藤殿の忠節を認め、此れより斎藤改め一色の名乗りを、更には美濃守護に任じられるとの事であられる」

「あ、有難き幸せに御座いまする」

斎藤、いや、一色殿が驚きつつも嬉しそうな表情を浮かべて頭を下げた。一色の名乗りを認めるのは事前の調整で伝えてあるが、守護に家格を上げるのは初耳の筈だ。一色を名乗る時点で守護代という事は無いのだが、田舎大名が此処迄想像するのは難しいだろう。素直に喜んでいれば十分だ。だが今回与えるのは此れだけではない。


「美濃守護、一色新九郎殿」

「ははっ」

儂の言葉に一色殿が応じる。

「其処元に置いては幕府より任官の推挙をしておる。ついては朝廷より其処元を従五位下治部大輔に任じるとの沙汰があった」

「は、ははーっ!」

大男が額を床に付けんばかりに頭を下げる。中々見ていて気持ちが良い平伏だ。


斎藤家から九月の上旬に上洛と上様への謁見願いがあった。政所の伊勢守が取り図ろうとしていたが、女房衆に入れた娘から情報を掴む事ができた。伊勢守は畿内を治める三好と懇ろで権勢を誇っている。此れ以上の増長を許してはならぬ。斎藤からの取次は儂が担う事とした。此のご時世に態々上洛して謁見を求めて来るのだ。忠臣と言って良いだろう。手駒にするに良いかもしれぬ。


色々と骨を折ったわ。斎藤への一色性に守護、其れに官位も添えようと二條太閤へ相談もした。幸い太閤殿下が好意的で積極的に動いてくださった。まさか与えられる官位が治部大輔になるとは思わなんだがな。今川と所領を接する事になった一色殿への期待とみるべきか、権中納言への当てつけとみるべきか。太閤殿下の事だ。両方かも知れぬ。


「治部大輔」

公方様が親しくお声をお掛けになられた。お声を掛ける事は予定にない。だが、今や守護になった治部大輔殿に将軍が声を掛けるのは自然だ。

「はっ」

治部大輔殿が平伏して応じる。


「其の方には大いに期待している。一色は由緒ある家柄だ。ついては其の方を相伴衆にも任じる故、よく余と幕府に尽くしてくれ」

「何から何迄有難き幸せに御会いまする。治部大輔、上様の御為に粉骨砕身捧げまするっ!」

治部大輔殿の言葉に公方様が大きく頷く。相伴衆まで与えられるとは儂も知らなんだ。政所の伊勢守も驚いている。気を良くした上様の思い付きかも知れぬ。上野民部大輔殿と顔を合わせて頷き合う。


大舘陸奥守が微かに顔を引き攣らせているのが見えた。最近の陸奥守は長尾の取次を担って鼻息が荒い。長尾は今や名門上杉の養子となり関東管領に就任した。上杉が小田原を囲って陸奥守も意気揚々だが良い牽制になっただろう。良い気味よ。



窮屈な朽木での暮らしではあまり感じなかったが、広々とした室町だと幕府の中に幾つか派閥があるのを感じる。上様の身近で尤も苦楽を共にしてきたのは儂や民部大輔殿達だ。洛中でのうのうとしていた伊勢守や偶々長尾の案件を拾った陸奥守殿の増長を許してはならぬ。


上様を、幕府を支えるのは我等だ。




永禄元年(1557)十月下旬 相模国足柄下郡小田原町 小田原城 北條 氏康




「父上。今川の艦隊が参りました」

海の方向を張っていた助五郎が婿殿の来訪を告げる。生憎城が囲まれているため眺めるだけになるが援軍に来てくれているのだ。迎えはせねばならぬ。

「分かった。儂も外へ出て眺めることにしよう。新九郎も供をせよ」

「はっ」

天守を出ると燦々と日差しが降り注いで来る。空を見上げると雲が殆どない晴天であった。助五郎の先導で嫡男の新九郎と共に海が眺められる場所へと向かう。助五郎の背中が随分と大きくなったと感じた。まだ成長途上だ。もっと大きゅうなるだろう。新九郎よりも大きくなるかも知れぬ。今川では良い物を食わせてもらっている様だな。そういえば娘婿殿も身体付きがしっかりしていた。


考え事をしていると目的の場所にある櫓へと辿り着いた。海側を見るには場内で尤も良い此の場所には、一門の宗哲や今川との外交を担う遠山甲斐守、水軍を率いる清水太郎左衛門尉らがいた。

「今川の水軍は現れたか」

「御覧くだされ。見た事も無い大船団ですぞ」

宗哲が幾等か苦い表情をしながら手で海の方を指し示す。其の先には海原を埋め尽くさんとばかりの船団が浮かんでいた。思わず息を呑んだ。銭を喰う水軍をあれだけ揃えるとは今川に随分と差をつけられたと感じた。


「何だ。あの黒い大船は」

艦隊の中心に特に目立つ船があった。やや離れて後続にも同じ大きさの大船がある。其の船を指して助五郎に問い掛けた。

「新造の旗艦、駿河と同型艦の遠江でございまする。駿河には義兄上が座乗されているはずです」

「凄い数の艪だな。あの船一隻で相当な人手を掛けて動かしておろう。ところで何故あの船は黒いのじゃ」

「義兄上の指示で鉄板を張っておりまする。鉄の板を張る事で火矢の類も効かぬようになると仰せで……父上、駿河から信号が出ておりまする」

鉄の板だと?貴重な鉄をあれだけ大きな船に惜しみも無く使うとは。どれだけ余裕があると言うのだ。

「父上」

考えを巡らしていると、助五郎から大きな声で呼ばれた。

「何じゃ」

「駿河から信号が出ております。祝砲を撃ちたいとの由にござります」

「祝砲?何じゃそれは」

「今川では祝い事や決戦という時に砲を撃つ習慣があります。鏑矢の様なものです」

「左様か。構わぬ。許してやれ」

儂が許可を出すと、助五郎が腰に差していた旗を振って奇怪な動きを始めた。よく見ると、駿河とかいう船の櫓にも旗を振る者がいる。赤と白の旗でやり取りをしている様だ。

「何じゃそれは」

「手旗信号と呼ばれておりまする。予め動きによって音が定められておりまする」

「便利じゃな」

此れは戦場でも使えるの。宗哲と顔を合わせると同じ事を思うたらしい。互いに頷いてから視線を海に戻した。




“ドドォーーンッッ!!”

「「おぉっ」」

「「なんじゃ」」

黒い船から黒い煙が出たと思うていると、唸るような轟音が響いた。居合わせる幕僚達が驚いて声を上げる。


「大筒にございまする」

助五郎が艦隊を眺めながら応える。

「大筒……。武田の軍勢を粉砕したという代物か」

「左様でございまする」

「船にも積めるものなのか」

「義兄上が改良を加えさせたと聞いておりまする」


助五郎の返事を受けて宗哲と顔を見合せる。宗哲が儂にしか聞こえない程度の微かな声で"今川様は随分と恐ろしい存在になりましたな"と呟いた。"春を輿入れさせて正解だったわ"と呟くと、宗哲が"仰せの通りですな"と応えた。


「助五郎」

「はっ」

「婿殿へ連絡出来るか。援軍痛み入るとな」

「お任せ下され」

儂の意向を受けて助五郎が旗を振る。傍らの新九郎が驚いた様な表情で助五郎の仕草を眺めている。助五郎は春が若年故人質として出したが、今川では良い手習いを受けているらしい。


「父上。駿河から返信です。ブ・ウ・ン・チ・ヨ・ウ・キ・ユ・ウ・ヲ・イ・ノ・ル、武運長久を祈る、です」

助五郎が相手の動きを解読して知らせると皆が声を上げて大きく驚いた。儂とて動じておらぬように見せるので一杯だわ。

「ハッハッハッ。此れから戦に行くのは寧ろ婿殿だが、我等の心配を貰ったようだ」


「新九郎」

一頻り笑うた後、真面目な表情を取り繕って嫡男へ声を掛けた。

「ははっ」

「今川と北條は春を通じて縁戚にある。此の縁組が崩れぬ限り今川へ弓引く事許さぬ。此れは儂の遺言と心得よ」

「は、ははっ。承知してございまする」

儂の言葉に新九郎が驚いた表情をした後、膝を付いて頭を下げた。


“何時か北條は今川に膝を折る日が来るかも知れぬ”

小さく、宗哲にだけ聞こえる声で耳打ちをすると、翁が悟った表情で"そうかも知れませぬな"と応えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る