第百四十六話 宥和




永禄元年(1557)十月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 佐久間 信盛




用宗という湊へ辿り着くと、馬車とかいう見た事もない乗り物に乗せられ、広く平坦な道を進んだ。安倍川という大きな川を渡った頃に町が一際賑やかになった。驚くほど大きく、そして賑やかな駿府の町を進むと、今川の居城へと到着した。馬車が幾台も停められた場所から徒で先を進む。門に向かう橋の前には、左右に槍を構えた兵が立っている。我等の姿を見た兵達が大きな声を上げて特異な動きをした。


橋を渡って其の先の城内へと踏み入る。いや、此れは城と呼ぶ代物ではない。水堀や塀はあるが、櫓や天守閣は無い様だ。今川館と呼ばれている様だが、その通りだと思うた。ただ、広さは城に引けを取らない。堀に掛かる橋を渡り、番所を越え、主殿だろうか。幾つもの建屋と廊下を通って会所に向かう。


屋内の廊下を随分と歩いた後、先導をしている朝比奈備中守殿が歩みを止めた。朝比奈殿の肩先から先を除くと、直垂姿の武士が迎えに立っていた。

「此れは上野介殿」

「備中守殿。遠路御苦労にござる」

「此れしきの事何でもござらぬ。此方が織田家の佐久間殿、柴田殿にござる」

朝比奈殿が儂と権六を目の前の御仁に紹介をされる。

「佐久間右衛門尉にござる」

「柴田権六にござる」

儂に続いて権六が名乗ると、目の前の御仁が“吉良上野介にござる”と応じた。吉良!御一家筆頭の当主ではないか。武衛様よりも家格が上位とされる吉良家の当主を前に、思わず膝を付いて挨拶をする。

「某は御屋形様の近習に過ぎぬ。其のような礼は無用にござる」

吉良殿が苦笑しながら応えた。吉良家当主を側用人とする今川の大きさを改めて感じた。


「此方へ参られよ。間もなく御屋形様がお見えになられる。家中は既に集っており申す」

吉良殿の案内で謁見の間に入ろうとすると、思わず足が止まった。入る様に促された其の部屋には、見た事もない豪華絢爛な景色が広がっていた。総畳なだけでない。障子や天井に豪華な絵が描かれている。此れは源氏物語の描写だろうか。息を飲む豪華さだった。

「源氏の間と申す」

吉良殿が解説するように呟く。先へ進む様に改めて促され、部屋へと立ち入った。儂と権六を挟むように今川の重臣が座っている。皆直垂や大紋、其れも見るからに上等な生地の着物を着ていた。儂も織田の使者として恥じぬよう上等な着物に着替えていたが及ばずかも知れぬ。歩を進めて一際豪華な上段の間を前に腰を下ろした。


儂と権六が座ると今川の諸将が前の方へ向いて姿勢を正す。歓談という雰囲気は無い。静かに時が経つのを待った。暫くすると水干姿の小姓が現れた。其の小性が上段の間の後ろに座ると、“御屋形様の御成ぃ!”と大きな声を上げた。今川家中が一斉に平伏をする。儂と権六も平伏をして御仁の登場を待つ。背中に汗が流れているのが分かる。宿敵の顔を望む時が来たと思うた。




永禄元年(1557)十月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「面を上げられよ」

三浦左衛門尉が許しを与えると、御簾越しに二人の男が見えた。どちらも三十辺りの年齢に見える。二人の表情を伺うと、慣れぬ場所で、其れも敵の総大将を見る事になって多少の動揺はしているように見受けられるが、僅かに察する程度だ。二人とも中年の域に達している。経験が物を言ったのだろう。


「織田家家老、佐久間右衛門尉信盛にございまする」

「同じく、柴田権六勝家にございまする」

佐久間と柴田の二人が名乗った後、再び頭を深々と下げた。此れが佐久間に柴田かと幾らか心が躍ったが、気持ちが表情に出ないよう努めていた。


「今川家家老、三浦左衛門尉義就にござる。御前におはすは今川権中納言様であられる」

左衛門尉が仰々しく俺を紹介すると、"ははっ"と織田からの使者二人が応じた。

「今川権中納言氏真だ。遠路遥々よう参った」

自ら声を上げて挨拶をすると重臣の何人かが驚いた表情を浮かべた。使者の二人も驚いた反応をしている。立場上、俺は公卿であり守護だ。目の前の二人は使者で織田家当主の代理人とは言え、抑々そもそも織田の当主が守護代の家臣と言う立ち位置に過ぎない。立場が違い過ぎる故、俺の直言に皆が驚いても可笑しくない。史実では名を残している目の前の二人も、今は陪々臣の様な立場だ。


「尾張の遠さは身を持って感じているからな。よく参ったぞ」

重ねて言葉を掛けると、二人が恐縮した様に応じた。家臣達は俺の行動と言葉に失笑をするが何かと申し出る者はいない。

「余は面倒を好まぬ。発言を許すゆえ府中にまで来た用件を述べよ」

「はっ。御許し頂き有り難き幸せにごさいまする。然れば申し上げまする。我が織田家は今川の軍門に降りたいと思うておりまする」

佐久間信盛が微かに面を上げると、覚悟を決めた表情で声を上げた。予想をしていた内容だが、織田家筆頭家老の口から降伏を告げられると、事が大きく動いたと実感をした。


「織田の当主……は童子だったな。一門と家中の意見は纏まったのか」

「はっ。当主奇妙丸の後見は織田三郎五郎が務めておりまする。此の三郎五郎は無論の事、織田家一門並びに重臣が今川家に降る事を承知しておりまする」

佐久間右衛門尉が訴えると、隣の柴田権六が頷いた。


「であるか。余の手の者の調べでは今川との決戦を望む者が幾らかいると言う報告だったがな」

低い声で流し目をくれるようにして呟くと、右衛門尉が渋い表情をした。権六に至っては驚きと困惑した表情を浮かべている。分かりやすくて良いな。


荒鷲の調べによれば、林佐渡守や島田所之助が徹底抗戦を訴え、家中が降伏に傾いてからも抗戦派の拠り所となっているらしい。織田三郎五郎とて表面的には降伏に賛成をしていても、内心はよく思っていない様だ。佐渡守等とよく会っているらしい。三郎五郎は今川との戦で活躍したからな。今川に処断されるのではと恐れがあるのかも知れぬ。


……難しいな。

徹底的に戦って根刮ねこそぎ滅ぼす手が無いわけではない。だが三河で既に其れをやっている。其れに尾張は新たな領土になるからな。土地に明るい人手が欲しいのも事実だ。降伏した後、不満分子は長島との戦で前線に立たせて擂り潰す手もあるな。嫌、此れは今川の評判を先々下げるかも知れぬ。やはり宥和策が賢明か。いつか来るだろう今日を前に彼是と考えていたが結論は出なかった。俺が黙って考えていると、使者の二人が心配そうな表情を浮かべて此方を覗いていた。家中は熟考のために黙るのには慣れているからか静かに待っている。使者の二人に取っては辛い時間になっているかも知れぬ。


「……あれは天文の十九年だったか。父上が尾張征討に兵を挙げ手痛い敗北をした」

俺の呟きに使者の二人が小さく"はっ"と応える。何処か構えている表情を浮かべている。

「余は知多方面に出張っていたが、織田の本隊の急襲を受けて其処にいる彦次郎が応戦した。彦次郎からは敵の猛攻を前に危うい所だったと報告を受けたのを覚えている。敵の先鋒の一人は柴田権六、其の方であったな」

「は、ははっ」

急に俺に名を呼ばれて柴田権六が驚いた表情を浮かべて頭を上げ、再び平伏する。


「先に三河長篠であった大戦では織田の殿軍が中々の働きをしていた。殿軍の大将は余の手の者の調べによれば佐久間右衛門尉だ。相違無いな」

「左様にございまする」

二人が責を感じる様な表情を浮かべながら平伏をしている。


「其の方らの戦働きや見事だと思ったものだ。例えて言うなら、掛かれ柴田に退き佐久間だな」

俺の言葉に二人が驚いた表情で頭を上げる。其の顔は驚きつつも何処か嬉しそうだった。

ふむ。よし決めた。


「其の方達の様な者を家中に迎えられるなら心強い。織田家の降伏を認めよう」

「「有難き幸せにございまする」」

俺の回答に使者の二人が畳に額を付けんばかりに頭を下げる。

「ただし条件がある」

「はっ」

「織田奇妙丸は駿府にて養育を行う。駿府へは織田三十郎を帯同させよ。其れから今川から織田への繋ぎ役に用いる故、林佐渡守も府中へ赴任させよ。加えて織田三郎五郎は織田家陣代とする。織田の旧臣を纏めるのが役目だ。差し当たって三郎五郎は朝比奈備中守の指揮に入るように。其の外細かな沙汰は追って行う事とする」

「国元に帰って伝えまする」

「うむ。……右衛門尉に権六。頼むぞ」

「「ははぁっ」

俺が幾らか笑みを浮かべて話しかけると二人が大きな声で応じた。



「其れから皆に申しておくことがある」

俺が今川重臣を睥睨するように見回すと、皆が姿勢を正して応じた。

「織田は今川にとって宿敵であり、我が父の仇敵でもある。織田との戦では多くの血が流れた。だが、命のやり取りは戦国の世の習いだ。我が軍門に降った今、織田の者を謗る事罷りならぬ。心得ておく様に」

「御意にございまする」

「「御意にございまする」」

俺の言葉を受けて筆頭家老の左衛門尉が応じると、皆が続けて唱和した。

織田からの使者二人が安堵した様な表情で頷いていた。




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