百四十五話 永禄




弘治三年(1557)九月下旬 尾張国春日井郡清洲村 清州城 丹羽 長秀




今川に降るか徹底抗戦をするか。毎日同じ儀を話し合っては結論が出ず散会になる。今川の先代に攻められ、亡き殿が出陣を決めるまでの評定が思い起こされる。あの時も同じ様に評定が繰り返されたが、突如城を打って出た殿に皆が慌てて付いていった。


今、此の評定で降伏を主張しているのは佐久間右衛門尉殿や柴田権六殿だ。先日、遂に常滑が今川の手に落ちた。織田下野守様の乱こそ皆で協力して鎮圧したものの、弾正忠家の劣勢は日を追う毎に増している。右衛門尉殿や権六殿は上総介様亡き今、今川に降って戦を終える事が肝要と訴えている。片や、林佐渡守殿や島田所之助ら内務方が徹底した抗戦を主張している。常滑が落ちた今、お家の懐事情は悪化の一途だ。刻一刻と悪化する状況だが、内務方が徹底抗戦を主張して止まないのは今川に降っても先が無いからだろう。右衛門尉殿や権六殿の様な戦働きに自信がある者は今川に仕官しても取り立てられる可能性がある。だが、吏僚はそうとは限らぬ。今川には譜代の吏僚が数多くいる。冷飯を喰うことになるのは想像に難くない。


和睦を唱える者が抗戦を唱えるものを押し切れないのは、抗戦派が上総介様の遺志を継ぐと訴えているところだ。確かに、今川に降るのであれば桶狭間の戦などせず降伏すれば良かった。亡き殿は相容れぬと思うたからこそ刃を交えたのだ。徹底抗戦を主張する者達は此処を訴えている。


儂はと言えば、正直なところを申せばどうなろうと構わない。力尽きたとでも言うべきか。殿の御為に京で奔走をしていたが、主命の達成を目前にして殿が落命したとの報を聞いた。村井喜兵衛殿と急いで荷支度をして清州へと走った。殿の死が真であると知ってからは空虚な気持ちばかりが起こって何事も身に入らない。今川の侵攻は日に増しているが、まだ清洲に戦禍は訪れていない。城やその周りの田畑、木々や川の流れは上洛前と変わらないのに、同じ景色を眺めても心に大きな穴が空いたような気がするのだ。


「笠寺が落ちた今、那古野まで敵が来るのは時間の問題にござる。那古野も今川を防ぎ切れまい。然れば力のある内に降る方が懸命にござる」

「此れは異な事を申す。力があるなら一戦交えるべきじゃ。尾張の奥深くにまで今川が来襲とあらば、地の利は我にある。先の桶狭間と同じく乾坤一擲を与える絶好の機会ではござらぬか。其れにまだ熱田が頑張っている。我等はまだ戦えるのじゃ」

権六が降伏を訴えると、佐渡守殿が抗弁をする。此処数日繰り返される景色だ。厠にでも行って其のまま何処かの部屋に入って茶でも飲もうかとしていると、廊下を走る音がした。直ぐに荒い息使いの簗田出羽守殿が現れた。


「出羽殿、如何された」

皆が出羽守殿の方を向く中、 右衛門尉殿が声を掛ける。

「あ、熱田が今川に降り申した」

"なんと"

"まさかっ!"

広間にいる多くの者が声を上げて驚いている。熱田は味方の重要拠点だ。守りの要所というだけでなく、矢銭の出所でもある。頻繁に使者を送って今川との戦をどう進めていくか策を練ってきた。その熱田が降ったとなると相当に織田は厳しくなる。熱田の大宮司である千秋家は、先の今川との戦で当主を失っている。仇敵の今川に熱田が簡単に降るとは思うていなかったが……。


「熱田が落ちた今、今川は那古野、そして此の清洲へと参ろう。籠城をしたところで援軍の望みは御座らぬ。此処は降伏もやむ無しに御座る!」

森三左衛門殿が皆の顔を見ながら声を上げる。

「な、なれど」

「佐渡守殿っ!其処元は乾坤一擲をと申されるが、抑々そもそも此度の今川軍に参議はおりませぬ。遠く駿府で我等が滅するのを見ておるだけじゃ。機は無いのでござる!」

三左衛門殿に続いて権六殿が今一度大きな声を上げると、抗戦派の諸将が口籠った。


「出羽守。今川との繋ぎは得られたか」

右衛門尉殿が出羽守に声を掛けると、出羽守殿が"はっ"と応える。

「鳴海城の岡部丹波守殿と繋ぎが得られておりまする。丹波守殿からは然るべき内容に、然るべき立場の者が来るなら朝比奈備中守殿に取り次ぐとの事に御座る。備中守殿は尾張攻めの総大将に任じられておりまする」

「相分かった。丹波守殿に取り次ぎを願ってくれ。儂が出向く。権六、供をせい」

「承知仕った」

右衛門尉殿と権六殿のやり取りに抗戦派の諸将が困惑した表情を浮かべるが、抗弁をする者はいない。


「方々、宜しいな」

皆を眺めながら右衛門尉殿が大きな声を上げると、降伏を主張していた諸将が直ぐに応じる。

其の様子を見て、抗戦派の将達が困った顔を浮かべて佐渡守殿の方へと視線を向ける。皆の視線を受けた佐渡守殿が観念したように“承知した”と述べた。




結論が決まって静まった広間に、ひぐらしの鳴き声が無常に響いていた。




永禄元年(1557)十月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 吉良 義安




御屋形様が文を御覧になって険しい表情をされている。先程三浦内匠助殿が草ヶ谷蔵人殿からの文と言っていたものだ。


今は御屋形様の執務室に三浦左衛門尉殿、内匠助殿、儂、井伊彦次郎殿、関口刑部少輔殿、庵原安房守殿、狩野伊豆介がいる。皆で尾張の仕置きや武田、北條と長尾の戦の状況を確認していた。一両日中に織田方から使者が来る事になっている。恐らくは降伏の使者だ。尾張方面の終局が見えている中、話は甲斐や関東の事が中心になった。今後の策について皆が談議をしていると、荒鷲の者が蔵人殿からの文を持って現れた。今は洛中の動きがきな臭い。御屋形様が先に文を読む故、皆に待つよう仰せになられた。



「三好と六角の間は和議が結ばれ、三好筑前守は幕府から相伴衆に任じられたらしい。六角左京大夫は管領代になるようだ。幕府からだけではない。朝廷から今月の除目で筑前守は修理大夫に、六角は左京大夫殿の嫡男が右衛門督に任じられるらしい」

文を読み終えた御屋形様が声を上げられた。

「幕府も朝廷も大盤振る舞いでござりますな」

「左様。幕府だけでなく朝廷も三好と六角の和議に動くとは大きな力を感じますな」

関口刑部が呟くと、庵原安房守が続けて声を上げる。

「そうだな。余程に俺は嫌われているらしい」

「と申されますと?」

内匠助殿が御屋形様に問い掛ける。問い掛けられた御屋形様が自嘲するような笑みを浮かべられた。


「今回の動き、朝廷と幕府で主だって動いたのが誰かと言うことよ。幕府は政所執事の伊勢伊勢守、朝廷は二條太閤殿下だ。俺は幕府を大事にしないからな。政所執事の伊勢守は今川が此れ以上大きくなって上洛でもしたら困るとでも思うたのだろう。二條太閤はと言えば、何かと幕府を大事にしている。太閤は俺が縁戚となっている近衛の関白殿下との相性も良くない。何かと反発されているということだろう」

「三好と六角が組むとなると大きな勢力になりまする。厄介にござりますな」

「彦次郎、敵は其れだけではないぞ。武田が洛中に使者を遣わせているようだ。其れに美濃の齋藤も上洛の機を伺っているらしい」


「武田と齋藤が?」

「そうだ。今川に対する大きな盟約でも結ぶかもしれん」

「斯様な事になれば、甲斐から畿内迄を貫く大きな盟約になりまするな」

彦次郎殿が嘆息するように呟くと、御屋形様が低いお声で"望むところよ"と仰せになった。皆が驚いた顔で御屋形様の御顔を覗く。

「関東管領が八万の大軍で北條を攻めて敗れ、寧ろ滅んだように烏合の衆など恐れるに足らぬ。油断は禁物だが過度に恐れる必要は無いという事だ。確と情報を集めて敵の突き処を探れば良い。其の点では蔵人と伊豆介には苦労を掛ける事になる。頼むぞ」

「励みまする」

御屋形様の視線に伊豆介が力強く応える。京の蔵人殿も嶺姫様を迎えて一門になる。今川の為に益々励んでくれるだろう。


「うむ。美濃、近江、畿内まで人を入れよ。銭が掛かるだろう。足りねば申せ」

「上方の商いで十分に潤っておりまする」

「ハハハ。であるか。朝倉の動きも気になる。越前に人を入れるのも忘れるなよ」

「既に手配してござる」

「流石は荒鷲だな」

御屋形様が笑われながら伊豆介を褒めると、皆で笑い合った。甲斐と尾張での大戦を終えたからこその笑みだ。


「尾張の仕置きが片付き次第、余は水軍を率いて関東に出陣する」

「関東に?相模にいる北條の助五郎様を呼びまするか」

助五郎様は北條家から人質として来ている御方だ。北條の当主である左京大夫様の四男であられる。長尾と北條の戦が生じてから今川の水軍とともに小田原へ援軍に向かわれているが呼び戻されるかも知れぬ。儂が問いかけると、御屋形様が僅かに首を御振りになった。


「助五郎と伊丹権太夫は其のままだ。寧ろ余が合流をする形になる。新たに建造させていた船が幾つか完成してからな。堺の南蛮商人から硝石も買えた。常滑も落とした今、尾張に派遣している船にも幾らか余裕が出てきた。里見の水軍と一戦設けようと思う」

「おぉ。いよいよやりまするか」

左衛門尉殿が驚きながら嬉しそうな表情を浮かべる。房総半島に拠点を置く里見の水軍が兼ねてから今川の水軍へ嫌がらせを続けているらしい。水軍を率いる伊丹権太夫からの知らせによれば、里見の水軍は矢を射かけてきたり、突貫をしてきたりするが、此方が応戦すると直ぐに引いていくらしい。


本格的な応戦をしたいところだが、無理をして補給の為の船が減っては困る。相模へ出張っている船は尾張へ派遣している船が沈めば配置転換する事もあり得る。其れに甲斐と尾張の戦で火薬を大量に使っているため、海戦で何処まで使ってよいか悩ましく、半端な反撃をするだけに留まっている様だ。権太夫殿からは定期的に府中へ文が来ている。左衛門尉殿は鬱憤が溜まっているのだろう。


「春も実家が気掛かりなのか元気が無い。情に流された訳では無いが、丁度よい機会だ。手塩に掛けて育てた我が艦隊が何処まで物になっているか見る事にしよう」

御屋形様が文を片付けて愛用の扇子を手に持たれる。閉じた扇子を左手に当てて小気味良い音を立てられた。

「尾張の目処が付き次第関東へ出陣する。論功行賞は暫くお預けだ。皆許せ」

「御家の方が大事に御座いまする」

御屋形様の言葉に左衛門尉殿が応えると、皆も姿勢を正して応じた。


「尾張征討と関東の方が付いた後は暫く内政に力を入れる事になろう」

暫くすると不意に御屋形様が呟かれた。

「盟約の動きは手を打たずともよろしいのでございまするか」

内匠助殿が怪訝な表情で問いかける。

「此度の戦で尾張、三河と随分と所領を大きくした。三河は元々我が今川が抑えていたが、松平の一党を粗方根切にしたからな。今川の支配を盤石にしておく必要がある。地固めしている間に見えて来るものがあろう。其れから策を考える」

御屋形様の言葉に皆が頷く。尾張と三河が駿河の様に栄えれば今川が強固になるのは間違いない。


「其れから改元が行われた。新たな元号は永禄らしい。長らく伏せておられた先の帝も御隠れになり、朝廷は何かと慌ただしい様だ」

御屋形様の言葉を受けて皆が“永禄”と呟く。院も御隠れか。御屋形様の仰せの通り洛中は慌ただしいだろう。やはり今の内に足元を固めるのが肝要だ。


「余も従三位権中納言に上がる様だ」

御屋形様が失笑する様なお声で呟かれた。

「おぉ!おめでとうございまする」

「「おめでとうございまする」」

皆の賛辞を受けて御屋形様が“黄門という歳でも無いのだがな”と小さく呟かれた。


昇進が御歳に比べて早いという事だろうか。公家であればもっと早い方は大勢いる。武家でも北畠の当主は既に権中納言であられる。言葉の真意を測りかねていると、儂の顔に気づいてか御屋形様が“何でもない”と仰せになった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る