第百四十三話 算段
弘治三年(1557)八月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真
執務室に入ると、上段の間に座る俺と下段の間に座る伊豆介とで距離があった。内密の話だと分かりきっている。扇子で膝先の畳を叩いて近くに呼び寄せる。伊豆介が上段の間に迫る所にまで近寄ってくる。
「これで良いか」
「申し訳ありませぬ」
言葉を掛けると、伊豆介が幾らか申し訳無さそうな顔をして応じた。大事が優先されるのは分かっているが、妹達を退けた事に幾らか自責の念があるのだろう。
「気にするな。それで?何があった」
「はっ。森弥次郎から火急の報せにございまする。織田上総介、落命に御座いまする」
「……そうか」
火急の報せと聞いて何となく想像がついていた。予想通りの報せに息を吐くように声が溢れた。
「誰ぞに殺られたか其れとも……仕留めたか」
微かに、正に耳打ちと言うべき小さな声で問う。
「……仕留めて御座いまする」
伊豆介が静かに、そして短く呟いた。
「で、あるか。足は付いてないな」
「はっ。市井では専ら美濃の仕業だと噂されておりまする」
「相分かった。此の事一切の他言無用だ。余も美濃の仕業だと思う様にする。良いな」
「承知してございまする」
「記録の類も忘れるな。美濃の手先と思われる者に上総介が狙われたらしい、だ。京に事を知らせねばならぬ。五位蔵人は既に商家伝手で上総介が死んだ事を知っているかも知れぬが、今川の見解としては今述べた様に
「御意」
「それから弾正忠家の家中に関する纏めを報告せよ。それぞれの一長一短を簡潔に纏めてな」
「一長一短をでございまするか」
「である。何れ織田を下すか降って来る筈だ。余は無駄飯喰らいを抱えるつもりは無い」
「成程。潰す必要のある者は此の機に潰すという事ですな。畏まってござりまする」
伊豆介が短く頭を下げ、直ぐに下がって行く。不意に一人の時間が訪れた。本来なら妹達と語らい合っている時間だ。呼べば再び三人の時間も持てるのだろうが、一人考えるのも悪くない。お気に入りの軸である"常在戦場"を眺めながら今後の事を思案する。
……大きく、ゆっくりと、長く息を吐いた。史実で三英傑と呼ばれる者の二人を討った事になる。何とはなしに己の手を眺めると、僅かに、だが小刻みに震えていた。緊張を覚えた時に出る症状だ。此の手で討った訳ではないが、俺の命で二人が命を落としたのは事実だ。この責は元より負うつもりだが、荷の重さに息が溢れた。一人の時位は息を吐くのを許されるだろう。
さて、先ずすべきは洛中の対応か。草ヶ谷五位蔵人から来ていた文に寄れば、二條から伏見宮王女との縁談が来ているらしい。蔵人の文に近衛の義兄上の反応が書いてあったが反対だと言っている様だ。だが、宮家からの縁談を上手く断る策が思い付かないと添えられていた。義兄上からは別で個別の文も来ている。内容は蔵人の文に書いてある事とほとんど同じだ。蔵人は今や義兄上の懐刀でもある。此れを失うかもと相当な危機感を募らせているのだろう。
嶺を嫁がせるというのは思い付きだ。後々になればもっと良い、此処ぞという縁談があるかも知れぬ。だが今は悪くない手だとも思っている。考えて見れば蔵人も三十手前になる。仕事人間の彼奴にこれまで縁談を持って行かなかった俺の責任でもある。
近衛も気懸かりだろうが、俺とて気懸かりだ。朝廷対応と上方での銭周りを担う蔵人を失う事は出来ぬ。伏見宮王女と縁組したところで俺から離れるとも限らないが、やりにくくなるのは間違い無い。嶺を与えて一門にするのは、家中から多少の妬みが出るかも知れないな。だが、蔵人を失う方が痛手だ。今の内に縄を付けておくのも悪くない。
考えの整理が進んでくると、沸々と二條晴良への怒りが湧いて来た。中々に強かな手を打ってくるではないか。……フフフ。見ていろ。俺はただでは転ばぬぞ。伏見宮への説明は蔵人の父である権右少弁にやらせよう。権右少弁なら正五位下の位にある。禁裏では難しいかもしれぬが、屋敷を訪れるといった非公式の場なら目通りが叶う筈だ。詫びの銭を堆く積んで持たせよう。何なら今後の支援を約してもいい。逆に二條と宮家の離間を計ってくれる。
そうとなれば早いところ話をしよう。権右少弁の上洛は幾らか長引くかも知れぬ。大蔵方の仕事も引き継ぎさせよう。三浦内匠助は……却下だな。期待は出来るが三浦が力を持ちすぎる。庵原安房守と関口刑部に分けて引継ぎさせるのが良いな。二人とも内務方の仕事に通じているし信頼もできる。二人の子達にも携わらせよう。大蔵の仕事をこなすことでもう一皮剥ける筈だ。
“誰かあるっ”
「お呼びでございまするか」
大きな声を上げると、富士大宮司の嫡男である宮若が現れた。芝川の戦い以降、父の兵部少輔が親衛隊に入れたがっていたので小姓として採用しつつ親衛隊の訓練にも参加させている。まだ十を過ぎたばかりという年頃だが、流石は大宮司の息子だ。中々細やかな所に気が回る。小姓として内務を、親衛隊で泥臭い事を経験すれば一角の大将になると思っている。
「草ヶ谷権右少弁を呼べ。夕餉の後で良い。他の予定は前倒しだ。今からでも良い」
「御意。皆に伝えまする」
宮若が小姓達の控える部屋に走っていく。この後は領内の仕置きに関する時間だったな。すぐに裁定を求める文の山となる筈だ。今の内に近衛の義兄上へと蔵人への文を書いておこう。
上等な駿河用紙と筆を手に取った。
弘治三年(1557)八月下旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信
「織田上総介が領内の町にて何者かに暗殺され、尾張は混乱を極めておりまする」
「今川が尾張を手にするは時間の問題ですな」
勘助の言葉に春日弾正忠が反応した。弾正忠は近習の頃から何かと可愛がって取り立てて来た男だ。引き立てた儂を裏切る事は無い。小諸城の城代をさせていたが、長尾が関東に出張っている今、北方面の不安は少ない。暫く側に詰めさせる事にした。
「齋藤との和睦がなってよろしゅう御座りましたな。尾張が今川に抑えられては飯田から尾張への街道が今川に塞がれまする。荷の出し受けは中山道を用いて美濃方面が頼りになりましょう」
馬場民部少輔が続けて応じた。少し後ろに控える勘助も頷いている。
「馬場民部の申す通りじゃ。じゃが、美濃とて策を打たねば今川に切り取られる恐れがある。もし美濃まで今川のものになれば、武田は座して死する事になる」
「仰せの通りにございまするが、座して死を待つ御屋形様でもありますまい。如何な策をお考えに御座いまするか」
弾正忠が儂の顔を覗いて来る。昔と変わらず美丈夫な顔がある。少しだけ昔を思い出した。
「美濃の齋藤が我が武田と和睦に応じたのは、今川の勢いを気にしているからじゃろう。齋藤は近江の六角と小競り合いをしているようだが、今川が美濃を落とさば次は近江じゃ。であれば、六角、齋藤、武田の盟約が成る可能性は十分にある 」
「成る程。今川と対抗する同盟を結ぶという事ですな」
「うむ。暫くは今川との和議成立を装って時を稼ぐ。此の間に盟約を整え、然る後は六角と齋藤に今川の尾張を攻めさせる。我等は此れと協調して今一度駿河を攻める」
儂の言葉に三人が頷いた。今川との戦端は既に開かれている。どちらかが降るまで戦い続けるしかない。武田単独では乗り切れぬ。斎藤と六角を上手く使う必要がある。
後は長尾がどうなるかだな。今は小田原を囲わせて弾正少弼は鶴岡八幡宮に陣を敷いているとか。関東管領になろうとしているようだが儂は認めぬぞ。成り上がりも甚だしい。……だが、長尾が北條を圧すれば今川は周りを敵に包囲される。流石に参議も苦しくなろう。長尾との協調も探らねば行かぬかも知れぬか?
今川参議が苦々しい顔を浮かべている様を想像して溜飲を下げる。
「用を済ませて参る」
儂が告げると、三人が頭を下げた。半ば執務室になっている厠に向かう。厠に近づくにつれて沈香の香りがして来る。小姓達は確と役をこなしている様だ。
京に行っている甘利左兵衛尉に指示を出さねばならぬ。厠で落ち着いて書くとしよう。
弘治三年(1557)九月上旬 山城国上京 室町御所 二條 晴良
「どうぞ」
差し出された茶を口に含むと、円やかな味が広がった。
「ふむ。良い茶でおじゃるの」
自然と褒める言葉が出ると、茶を点てた伊勢伊勢守が“宇治の茶にございまする”と応えた。
「やはり宇治の茶か。最近世間では駿州の茶が随分と持て囃されているらしいが、やはり茶は宇治が良いの」
「お気に召して頂けたようで何よりにございまする」
伊勢守が静かに笑みを浮かべている。政所を恙無く差配する此の男の事だ。麿の好みを把握して出しているに違いない。
「一両日中に大樹が戻って来る。其の方においては苦労する事になろう」
麿が言葉を掛けると、伊勢守が静かな笑みを浮かべて応じた。伊勢守は与えられた役目に忠実なだけだが、朽木に落ちた者達からの評判が良くない。
「公方様が御所におはしてこその幕府にござる。幕府の為と思えば、某の苦労など大したものではござりませぬ」
淡々とした表情と声で伊勢守が応える。此の男の中には常に“幕府”がある。朽木に行った幕臣達と、此の男の違いは、幕臣達が“大樹こそ幕府”と考えているのに対し、此の男は“大樹を幕府の一部”と見ている事だ。
此の男の判断は“幕府に利があるか”が優先される。であれば此度麿が持ち込む話は成る可能性が高い。
「尾張の織田が揺れている」
「当主が暗殺されましたからな。専ら美濃の手によると言われているとか」
返した茶碗に伊勢守が湯を入れながら応える。
「誰の手だとしても尾張が今川の手に落ちるのは遠くあるまい」
「左様に思いまする」
「となると今川の次の目標は美濃か伊勢となろうが、今川と北畠は親しい間柄じゃ。其れに武田との事を思えば美濃を落として囲繞せんと思うかも知れぬ」
麿の言葉に伊勢守が頷く。
「美濃の次は近江、その次は上洛と思うが道理。其の時は幕府がどうなるか。其の方、あの今川参議が幕府を重んじると思うでおじゃるか」
「……思いませぬ」
「左様。麿も思わぬ。今川が上洛するのは互いに都合が悪い。そうでおじゃろう?」
麿が問いかけると、ゆっくりと伊勢守が応じた。
「今川の上洛を快く思わぬのは三好も同じじゃ」
「今川が上洛という事は三好は京を追われるという事にございまする。京を失えば大きく力を削がれます故、抵抗しましょうな」
「じゃが、東海道から美濃、近江まで抑えられては三好とて抗うのは苦しいかもしれぬ。此処はそうなる前に手を打つ必要がおじゃる」
「……三好と六角の和睦でございまするか」
伊勢守が茶を点てるための道具を店仕舞いしながら話し掛けて来る。流石は政所執事だ。麿の言いたい事を先読みしてきた。
「大樹じゃが、三好筑前を相伴衆にするのは承知しておじゃる。朝廷としても筑前の官位を上げるよう手配しよう。後は六角左京大夫に適当な役を与えてやれば三好と六角の和議は成るでおじゃる。そうじゃの。管領代が良かろう。父に続いて管領代になる。六角は管領代の家だとでも言えば擽られもしよう」
「誠、あなた様はお人が悪うございまする」
「其の方には叶わぬ。そう言えば左京大夫は息子の元服を考えているらしいの」
「その様ですな」
元服する者にも官位をくれてやろう。さすれば六角左京大夫は落ちる。そうだな、右衛門督が良いだろう。かつて朝倉の当主を左衛門督に任じた時、畿内の大名は何かと小言を言っていたらしい。左衛門尉ではなく左衛門督とは何事かとな。督は少々奮発だが、“管領代と右衛門督”で六角が落ちれば安いものだ。
「元服する子には武官の官位を用意しておこう。右衛門督あたりをの。和議が成れば与えるとな」
麿の言葉に伊勢守が“やはり悪い御方だ”と言って不敵な笑みを浮かべた。
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