第百四十一話 災厄




弘治三年(1557)八月下旬 遠江国佐野郡掛川 掛川城 吉良 義安




「どうぞ」

御屋形様が点てられた茶を儂の前に置かれた。有り難く頂戴して頂く。上手い。温度といい、濃さといい、口当たりの何れをとっても申し分ない。茶菓子として頂いた干菓子の甘さを茶が心地よく流す。


今朝方、曳馬城を後にして東海道を東に進んだ。明日には駿河府中へと入府が叶うだろう。それに明日からは馬車での移動になる。戦続きに遠距離の移動と疲れが出ているが身体の負担はかなり減る筈だ。

「遠江の諸将は御屋形様の威に平伏しておりましたな」

隣に座る井伊彦次郎殿が呟くと、詰めに座る狩野伊豆介が頷いた。御屋形様がお点て下さった茶は薄茶だ。濃茶に比べて気楽に飲める。彦次郎殿は歓談しながら頂こうとしたのだろう。恐らく御屋形様も其れを御望みだ。


「苦しい戦いであったが元々尾張入りしていた遠江衆以外は使わずに退ける事が出来た。遠江は飯尾を旗頭としつつも、戦に参加した松井兵部と井伊内匠助が固めれば上手く纏まるだろう。内匠助が遠江では要諦になる。同じ井伊の彦次郎と平次郎には駿河か伊豆で所領を与える。故郷から離れるが許せよ。但し此れを機に別家を立てる事を正式に認める」

「最早某にとって故郷は駿河であり伊豆でありまする。平次郎も喜びましょう。有り難き幸せにございまする」

感慨深そうに彦次郎殿が応じる。"ようござりましたな"と伊豆介が労うと、彦次郎殿が噎せるのを抑えて応じていた。先代義元公は彦次郎殿と平次郎殿に切腹を申し付けようとしていたと聞く。其れを御屋形様が拾われて親衛隊と輜重方の担当に据えたとも。二人は居場所を得ようと並々ならぬ努力をされたに違いない。彦次郎殿が"御屋形様の為なら何でもする"と話していたのを聞いた事がある。彦次郎殿を温かくご覧になる御屋形様の表情に二人の信頼が如何に深いかを感じた。


「御屋形様」

「何だ」

込み上げるものを抑えながら彦次郎殿が声をあげると、御屋形様が茶を練りながらお応えになった。

「良い機会にございまする。某はそろそろ息子の新次郎に家督を譲って隠居しとうございまする」

彦次郎殿の言葉に御屋形様の手が止まる。茶筅を仮置きして彦次郎殿の方へ御顔を向かれた。


「そうか」

御屋形様の御顔に幾らか哀愁を感じる。御屋形様に此の御顔をさせる彦次郎殿を羨ましく思うた。胸が熱くなる。

「はっ。此度の戦で親衛隊も十分に形となっているのが確認出来ました。形になっておれば何時までも某のような老体が出しゃばるのは良くありませぬ。此処は潔く退き、所領の開発に励みたいと思いまする」

頭を下げる彦次郎殿を前に、御屋形様が再び居住まいを正して茶筅を手に取り、丹念に茶を練り始める。


茶筅が揺れる音が止まると、しなやかな動きで茶筅を取り出し、続けて茶碗を定座にお出しになられた。彦次郎殿が受け取りに躙り出ると"隠居の件、相分かった"と言葉が掛けられた。

「だが、まだ身体が動くのに所領で逼塞させるには勿体ない。余の相談相手として御伽衆の役を設ける故、定期的に府中へと登城せよ。直親を育てる必要もあろう。評定衆の役は直親に継がせる事を許す」

御屋形様の御言葉に彦次郎殿が驚いた顔を浮かべて言葉を詰まらせる。格別の計らいだな。だが彦次郎殿は今や精鋭部隊である親衛隊育ての親なのだ。此の計らいを僻むものはおるまい。

「……ちょ、ちょうだいいたしまする」

隣の御仁が男泣きを必死に抑えながら茶碗をいなだいている。




目に光るものを浮かべた彦次郎殿を御屋形様が優しげな眼差しで御覧になっている。一向衆の坊主共は御屋形様の事を鬼神の様に言うが、御屋形様の事をまるで知らぬからこその言だ。寧ろ此の御方は国を富ませ、民の暮らしを豊かにし、我等の働きにこうしてお応え下さる仕え甲斐のある方だ。


……やはり御屋形様の御側にいたい。此の御方の御側で今川がどうなっていくのかを見てみたい。心の底から其のように思うた。三河から遠江までの道中、御屋形様から今後の三河について意見を求められた。御屋形様は儂を旗頭として三河を纏めたいと仰せであった。吉良の家にとって有難い話の筈なのだが、嬉しい気持ちとともに何処か落ち着かない心情が沸いた。胸の奥が疼いていたのだ。


彦次郎殿を見ていて得心がいった。儂は御屋形様の御側に居たいのだ。幸い吉良は弟の左兵衛佐が上手く取り纏めている。左兵衛佐とて儂が戻っては面白くない部分もあろう。ならば儂が出る事で無用な争いを避ける事が出来る。府中に戻ったら御屋形様に願い出よう。

茶を飲み切ると、雲が掛かったような気が晴れ、爽快な気分になっていた。




弘治三年(1557)八月下旬 尾張国海東郡津島村 柴田 勝家




「熱田と津島の者共の殺伐とした表情と言ったら、思い出しただけで笑いが込み上げてくるの」

津島の豪商、堀田家の屋敷を後にすると、殿が笑いながら声を上げられる。皆の前で此処まで声を上げて笑われるのは珍しい。張り詰めた空気の後だ。お気持ちを溢される理由がよく分かった。だが、屋敷の中での襲撃は防げたものの、此の先に伏兵を伏せてあるかも知れぬ。大勢で後ろを突いてくる可能性もある。後ろを気にするよう配下の者に命じて殿の側に寄る。話は何だったか……そうじゃ、屋敷の中の話であったな。


「あれは明らかに奥の部屋に人を配置しておりましたな。何時もより多く中に人を入れてようござりました」

儂の言葉に殿が"で、あるな"とお応えになる。何時も通りのご様子だ。紙一重で御命を失われたかも知れぬと言うのに、此の御方は胆力があると申すか何と言うか。


今川と和議をするために朝廷と幕府を動かす。其の為に必要な銭を熱田と津島に出すよう命じた。熱田はすぐに銭を出したが、津島が僅かに渋った。渋るだけでなく、此の後に如何する見通しか説明を求めてきた。商家は事を知るのが早い。織田の苦しい状況を知っているのだろう。


殿は銭の力を大いに使って敵を撃ち破って来られたが、今は其の銭の力を削がれつつある。熱田と津島の窮状然り、常滑も今川の水軍が囲んで船が入る事も出る事も出来ない。陸の方とて今川は一気に鳴海を攻めに来た。途中の城や砦を無視して奥まで食い込んで来たのだが、此の動きに国境の国人が動揺をしている。


一重、二重に策を打ってくる強かな今川を前にして、此の織田がどう立ち回るのか確認をしたかったのだろう。殿は"加藤や堀田が優れた商人だからこそ気になるのだ"と仰せであられた。大金を出させている手前、無下に依頼を断る訳にもいかぬ。誰か重臣を派遣しようと思うていたところ、殿が自ら出向かれると仰せになった。


以前から熱田や津島には殿が自ら向かわれる事が多かった。此度の今川との戦の後、それも大きな敗戦の後に家臣へと任せては、熱田や津島を疑っていると捉えられかねぬ。殿が自ら赴くと仰せになったのはそう言うお考えからかも知れぬ。だが万が一が無いとも限らない。何時もより人を多めに中へと入らせた。結果から見れば此れが奏功した。


堀田勘三郎には“内々の話だ”と奥の部屋へ通されたのだが、其の部屋には更に奥の部屋があった。微かではあったが、奥の部屋から刀の揺れる音がした。何人かが控えていただろう。機を伺っていたに違いない。


「何時押し入って来るかとヒヤヒヤしておりましたぞ」

「俺もだ」

儂が思うた事を其のまま申すと、殿が茶化した様な物言いで返してくる。声は笑われているが、御顔を覗くと目は笑われていない。殿も本心を仰せになられたのだと思うた。


周りを警戒しながら進んでいると、町の外れに差し掛かった。宿が立ち並んでいる区域だ。今川の荷留めを受けているせいか人通りは少ない。仮に和議がなったとしても此の荷留めをどう打開するか。此れは頭の痛い課題だ。


「まぁ此れで何とかなった。商家どもの腹の内迄は分からぬが、先ずは……」

殿が馬をいなしながら悠々と進んでいると、

"パパァァーン"

と乾いた音が響いた。鉄砲の音だ!

一丁や二丁ではない。数丁を使った音だ。数軒先にある宿の二階から煙が立ち上っている窓がある。彼処だっ!!


「殿っ!」

刺客がいるとおぼしき場所を示して声を上げようとした時、後ろから前田又左衛門の声がした。咄嗟に振り向くと殿が力なく頭を落とされている。落馬しようとされている!!

「と、殿っ!」

すかさず御身体を受け止めた又左が大きな声で殿へと呼び掛ける。肩から凄い勢いで血が滲んで来ている。そうか。弾が当たったのか。


"ヒヒィーーンっ!"

馬の嘶きが聞こえた。

鉄砲の音がした建物の奥、いや、裏側だ。

「あの宿じゃっ!あの建物の二階から敵は撃ってきた。逃がすでないぞ。はよう追えぃ!」

声を荒げると近習の何人かが建物に走っていく。何騎かが建物の裏に向かおうと大回りをしていった。


一通りの指示を終えて殿の下へと駆け寄る。又左衛門の背が見えた。必死に刺客を追っている時は聞こえなんだが、又左が涙を流して嗚咽を上げている。其の又左が殿の御身体を抱えるようにしていた。此れは……事切れておられる。肩から血が溢れ出で御召し物を赤く染めていた。僅かに……ほんの僅か前まで生きて見えた殿が力無く倒れている。


人通りが少ないとはいえ主要な街道だ。何事かと次第に人が集まって来る。喧騒が徐々に大きくなって来た。此れは隠しようが無いな。遠からず織田上総介様が死した事は広まる。

何か……、何か今すべき事がもっとある筈だ。


だが、心の柱を失った空虚な気持ちが、考える事を許さなかった。



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