第百四十話 派閥




弘治三年(1557)八月中旬 三河国碧海郡安城村 本證寺 今川 氏真




曇天とした空模様になって来たと思っていると、その内に雷鳴が聞こえて来た。腹の虫が酷く鳴っているような響きの後、篠突く様な雨となった。後半日、いや、一刻でも早く降っていれば門徒達にとって恵の雨になったかも知れぬ。だが、既に寺は灰塵と化し、門徒のほとんどは屍になっている。雨が亡骸へと音を立てながら無情に降り注いでいた。


門徒の大半は焼死を遂げているが、完全に焼け焦げた者は少ない。身体の何処かに生焼けとなっている部分がある。蒸し暑いこの時期だ。速やかに対応しなければ遺体は腐り、腐敗物から疫病が発生する。そうならない様にと兵達が力を合わせて堀に屍を投げ棄てていた。


「堀の水は上手く引けたようだな」

水位が明らかに下がっていくのを見て呟くと、傍らにいた上野介が頷いた。すぐ側に上野介がいる。少し前まで当たり前の事だったが、何処か懐かしさを覚える。

「水抜の栓がありました。半分程までは抜けると思いまするが、其の先は干上がるのを待つか埋めるしかありませぬ」

「であるか。天気ばかりはどうなるか分からぬ。埋める準備は怠るな」

「御意」

俺の命を受けて上野介が何人かに命を下す。すると命を下された者たちが散っていった。


「御屋形様」

呼ばれて陣幕の入り口を向くと、朝比奈備中守と朝比奈兵衛尉がいた。兵衛尉が三方を持ち、其の三方には首桶が置かれている。兵衛尉は駿河朝比奈家の当主で備中よりも歳上だが、朝比奈の本家筋で筆頭家老でもある備中を立てたのだろう。二人に対して扇子で目の前まで来るよう指し示す。首桶の中身を想像しているのか、幕僚達が背筋を伸ばして姿勢を正した。

「門徒の頭領、空誓が首にござりまする」

兵衛尉が俺に向かって恭しく三方をいなだくと、備中守が言葉を放った。

「検分をしよう」

「はっ」

俺の言葉を受けて兵衛尉が三方を机に置き、首桶の蓋を開ける。中から白い布で縛られた一物が取り出される。所々に血の滲みがあった。まだ新しい筈だ。洗っても拭いきれないのだろう。


「如何な最後か分かっているか」

「はっ。迫る火炎の中でも動じず、本堂の前で静かに座していたそうにございまする。此方は焼け残った本堂にあった亡骸から取ってござりまする。身体はまだありまするが其の内に傷むかと存じまする」

「身体の扱いは他の門徒と同じようにせよ」

「御意にございまする」

兵衛尉が大きな声で応じた後、布をほどいていく。

首と対面する。思っていたよりも静かな表情だった。




俺がじっと首を検分している為か、本陣に静寂な一時が訪れる。時折寺の方から兵達が声を掛け合う音が微かに聞こえてくるが、雨音に消されている。暫く眺めていると雨が小雨になってきた。此の程度の雨ならば、寺は結局のところ灰塵に化しただろうななどと思っていると、皆の顔が自分に向いている事に気づいた。


「此の首をどうしてくれようかと考えていた」

息を吐くように言葉を紡くと、皆が真剣な面持ちで俺の顔を見て来た。

「高田派に預けようとも思ったが迷惑であろう。其れに三河で崇められる代物になっても困る」

俺の言葉に皆が頷く。

「其処で、だ。此れは石山に送る事にした。今川と真宗の意は相容れないものであったが、己の信じたものの為に本望を遂げる姿は見事だ。後程文を書くゆえ、其れを添えて丁重に包み石山へ届けさせよ」

「畏まってございまする」

備中守が応じると、幕僚の皆が頭を下げて応じた。


「申し上げまする」

暫くすると使いが現れた。端にいた将が続きを促す。

「沓掛城の近藤様より知らせにございまする。近藤様の隊が沓掛城を落としてございまする。然したる抵抗もありませぬ。瀬名様も大高城へ向かっておりまする」

「よし」

「また一つ取りましたな」

幕僚達が盤上の地図にある沓掛城の駒を織田の黄色から今川の橙色の駒へ変える。皆が次の策を話し合い始めた。静寂な一時が訪れていた本陣に喧騒が戻って来る。


「御屋形様が丹波守殿に命じて鳴海城を落とされました故、織田の者共は慌てておるようにございまするな」

上野介が地図を眺めながら話し掛けてくる。

「であるな。兵は神速を尊ぶという事だ」

「雷撃戦、ですな」

俺の言葉に井伊彦次郎が応えると皆が頷いた。


俺は前世が軍人ではない。細かな軍略は分からないが、プロイセンもナポレオンも機動力を重視し、其の機動力で覇権を取った事位は知っている。岡崎城を攻め落とした後、地道に支城を落として行くか、戦線を突出させてでも拠点を落とすか少し悩んだ。悩んだ末に岡部丹波守に鳴海城を攻めさせた。武器弾薬や兵糧を持てるだけ持たせてだ。


鳴海城攻めは途中の支城を粗方無視して行った。飛び石作戦とも言えるかも知れん。織田方はいきなり喉元へと剣先を突き付けられて慌てていると見える。今また近藤久十郎が城を落とした。然したる抵抗も無くだ。今のところ我が策は上手くいっていると言えるだろう。


坊主の殲滅も経て三河全土を納めるのも見えてきた。尾張への侵攻も鳴海という拠点を取り戻した。そろそろ一度府中に戻るとするか。甲斐の狸が気になるし北條の動向も確認せねばならん。となると西部方面の司令を誰にさせるか……。


順当に行けば吉良上野介だが、上野介とは今後の三河について話をしたい。駿河へ連れて行こう。此の場は朝比奈備中守に任せてみるか。若いが将来の為に経験も積ませたいしな。副将に松井兵部少輔を付ければ安心だろう。鳴海に丹波もいるのだ。大丈夫だろう。

「備中守」

「ははっ!」

俺が呼び掛けると、筆頭家老の席に座る泰朝が大きな声で応じた。




弘治三年(1557)八月中旬 山城国上京室町第 伊勢 貞考




「何卒、今川との和睦を仲介頂きたくお願い申し上げまする」

「お願い致しまする」

二人の男が必死に頭を下げて協力を求めている。幕府を此処まで頼って来ているのだ。銭まで用意してきているという。何とかしてやりたいと思う気持ちが何となく沸くが、肝心の上様が此処にいない。

「村井殿に丹羽殿、気持ちは分かるが上様が京におらぬ」

儂の言葉に二人が驚いた表情を浮かべる。溜め息が出そうになるのを堪えた。


「しかし三月の上洛では……」

「村井殿」

傍らの丹羽という男が窘める。言いたい事は分かる。だが幕府にも体裁がある。聞こえぬ振りをしてやり過ごした。


確かに今年、上様は六角の支援で洛中に戻られていた。だが、三好筑前と些細な事で対立して再び朽木に退いている。六角の支援で洛中に戻っただけだったのだが、何を気が大きくなったのか三好を過少評価し、三好一門や其の家臣達の怒りを買った。筑前守殿は何かと上様や幕府に心を砕かれるが、一門や重臣は必ずしもそうではない。


力無き幕府は力あるものを上手く使い、又は取り込んで体を保つしかないのに、其れが上様にはお分かり頂けぬ。幕府が大名を"利用している"のを、細心の注意を払って"利用させている"ように見えるよう務めるのだが、何時も上様が徒労に終わらせる。些か嫌気がさして今回の朽木落ちも辞退させてもらうた。上様や他の幕臣は儂の事をよく思うておらぬだろう。


織田からの使者二人に、"上様が都落ちをして朽木にいる理由"を言葉を飾りながら説明をする。三好を怒らせて追い出されたなどとは流石に言えぬ。全く……何度目かの溜め息を押し殺す。


「幕府を頼みにと遥々京にまで参られたのじゃ。上様への面会がなるよう文を書こう」

「は、ははっ。有り難き幸せにございまする」

村井と申したか。幾らか年のいった方が頭を下げると、若い方の男が続く。朽木に行くとは思うていなったのだろう。少し困惑した表情を浮かべていた。

「朝廷にも奏上するとの事であるが武家伝奏への取り次ぎは儂からできる。どのようになるかは分からぬが広橋参議様と勧修寺権中納言様に繋いでおこう」

儂が取り次ぎを約すると、二人の表情が明るくなった。成り上がったばかりの織田が公家と縁があるとは思えぬ。先代の当主は山科卿等と親交があった様だが、卿は既に今川と深い関係をお持ちだ。手を貸してくれるとは思えぬ。

「二條太閤殿下と近くお会いする予定がある。織田殿の意向を伝えておこう。お力になってくれるやもしれぬ」

二人の顔が今また明るくなる。深々と頭を下げてから前を下がっていった。


太閤殿下は丁度朽木に行かれているところだ。京を立たれる前に儂の所にお立ち寄りになられた。上様へお会いになられた後も此方にお越しになる予定だ。殿下は三好を幕府に取り込む事で畿内の秩序を取り戻そうとされている。儂からすれば有り難い動きよ。今川が尾張まで押さえるとなると些か大きすぎる。三好の脅威にもなるかも知れぬ。三好か今川か。二択なら三好の方が良い。太閤殿下も同じお考えの筈だ。


さてと、次は上杉からの使者が来る予定であったな。関東管領の使者を此の部屋で迎える訳にはいかぬ。着替えも必要よな。

慌ただしく感じたが、久々の政所らしい忙しさに悪い気はしなかった。




弘治三年(1557) 八月中旬 山城国上京 内裏 広橋 国光




「大樹は室町に戻る事を承知しておじゃりまする。また、三好筑前守も此れを承知しておじゃりますれば、此の後は京に静謐がもたらされると思いまする」

二條太閤殿下の言葉に、列席している公卿が顔を明るくする。洛中に静謐が訪れるのは多くの者が歓迎する内容だ。今一つ表情がはっきりしないのは近衛関白くらいだろう。


「幕府と三好の諍いが収まるのは何よりの事じゃ。大儀であった」

主上が御言葉を発せられる。御簾越しで表情は伺えないが、淡々とした声色に聞こえた。

「二條さんが芥川に行かれたと聞いた時には驚いたが、其の後に朽木谷に向かわれたとお聞きして尚驚いていたところにおじゃる。其れが大樹と三好の仲介をなさっていたとは頭が下がる思いにおじゃる」

九條太閤が二條太閤の事を持ち上げると、皆の賛辞が続いた。

「何の何の。麿に出来る事は何かないかと思うただけにおじゃります」

二條太閤が皆に礼を述べながら主上に向かってお話になる。


「天下の乱れを正す為に、此れからも皆が力を尽くしてたもれ」

主上が御言葉を発せられた後に奥へと下がられていく。皆々が頭を下げてお送りする。

“いやはや、二條太閤殿下の……”

“左様、まさか三好と幕府に”

主上が下がられると、場にいる公卿が二條太閤へまた賛辞を送り出した。此のところ主上は近衛関白を重用されていたが、二條太閤の動きは無視できまい。二條太閤の勢いを感じているからこそ近寄っている公卿もいる筈だ。其の様な中、西園寺右府と三條西権大納言が下がって行く。二人はどちらにも付かない中立派だからな。三條西殿は駿河下向も多いから本音は今川寄り、近衛公寄りかも知れぬ。だがはっきりとその様にみられる行動は慎んでいる様だ。




続けて関白殿下と草ヶ谷五位蔵人が下がろうとする。

「そう言えば束ぬ事を聞くが、蔵人は独り身でおじゃったの」

二條太閤が五位蔵人に言葉を掛けられた。場に残っている皆が何事かと振り向いている。

「はっ」

話を振られた蔵人が太閤殿下の方へ身体を向けて頭を下げる。此の落ち着いた様がどうにも鼻につく。


「麿の室は伏見宮家の出であってな。其の縁あって宮様とは親しくさせてもろうておる。其れで宮様から王女の嫁ぎ先について相談があっての。末娘の王女じゃ。既に二人の娘を寺に出していての、末娘迄寺へ出すのは忍びないらしい」

太閤殿下のお話に関白殿下が顔を曇らせる。蔵人も眉が動いた。此の先に続く内容を察しているのだろう。


「誰ぞ良い者はおらぬかと問われたのでおじゃるが、麿は蔵人がよいのではないかと思うてな」

扇子を口元に翳して二條太閤が蔵人の顔を眺める。蔵人の眉が微かに動いた。一見すると何時もと変わらぬ様に見えるが、幾らか動揺しているように見えなくもない。

「有難きお話なれど、少し考えさせて頂きとうおじゃりまする」

少しの間をおいて蔵人が言葉を発した。

どうせ今川参議の意向を聞くのだろう。蔵人が事実上今川の臣であるのは周知の事実だ。

だが親王家からの縁組だ。余程の理由がなければ断る事など出来まい。


「うむ。色好い返事を待っておるぞ」

二條太閤が蔵人の肩に扇子を当ててから下がられて行く。誰かが“良いお話でおじゃりますな”と誉めそやしている。賛辞を受けて二條太閤が満更でもなさそうな御顔を浮かべながら足を進められる。二條太閤に続いて多くの公卿が下がって行く。何時もより太閤に付いていく者が多い。麿も背を追うとするか。関白に挨拶をして二條太閤の背を追う。


しかし二條太閤の動きには驚かされるな。矢継ぎ早に策を打たれている。……伏見宮様から姫を迎えるなど五位蔵人には勿体ない話であるが、関白と蔵人離間の策だと思えば溜飲も下がる。幕府と三好との和議に続いて関白の懐刀を離間させようとは……。フフフ、俄に面白うなって来た状況に自然と笑みが零れた。




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