第百三十九話 暗躍
弘治三年(1557)八月中旬 近江国高島郡朽木谷 朽木城 二條 晴良
「み、三好を許して洛中に戻るなど有り得ませぬっ!」
上野民部大輔が唾を吐いて非難の声を上げる。先程の中務少輔といい、上野親子は姦しいな。流石に反三好の急先鋒なだけはある。
「此度の改元は主上の御叡慮ではあるが、裏で動いているのは今川でおじゃる」
"なんと"
"今川殿から幕府には何の話も受けておらぬぞ"
"御一門にも関わらず幕府を蔑ろにするにも程がある"
麿が禁裏でも内々の話を告げると、幕臣が驚いた表情を浮かべ、挙って今川を罵る。内々とは言え、少し朝廷の誰かと縁があれば分かる話だ。此の程度の状況も認識していないとは、幕府の耳は相当に衰えている。こんな奥地に逼塞などしているからだ。
「分かるでおじゃろう?今川参議は幕府の事など歯牙にも掛けておらぬ。其れに比べて、三好筑前は大樹の事を随分と気にしておじゃった。今川と三好、どちらを取るべきかは一目瞭然じゃ」
「太閤殿下、恐れながら申し上げまする。今川か三好とは如何なる御了見にございまするか」
末席に近い席に座している若い男が口を開いた。細川兵部大輔と申したかの。此の様子ということはまだ知らぬようだ。改元と言い、今川の動静の事と言い、幕府の耳は相当に衰えている。洛中にいる頃は此処までではなかった。やはり朽木などに逼塞している場合ではない。洛中に御所を構えるべきだ。
「武田が今川に侵攻して手痛く反撃に負うたのは知っておじゃろう」
麿の言葉に皆が頷く。流石に此れは存じているようだ。
「武田を破った今川参議が織田と松平、其れに真宗の者達も撃ち破った」
"なんと!"
"大軍で攻めていたのではなかったか"
幕臣達が皆で驚いている。やはり知らなんだか。
「既に今川は三河の大半を押さえ、今また尾張にまで手を伸ばしている。今回ばかりは織田も厳しかろう。今川参議が尾張まで版図を広げたら次はどうなるか。美濃、近江、山城……そして上洛となるでおじゃろう」
麿の言葉を皆が静かに聞いている。
「……どうするべきだと?」
公方がゆっくりと口を開いた。皆の視線が麿に向く。
「三好を使うべきじゃ。三好とは争うのではなく、幕府に取り込むのが良かろう。そうじゃな、筑前守を相伴衆にでもして家格を上げれば良い。筑前の立場ははっきりとしたものになる。だが此れはあくまで幕府の中で、という事になる」
麿が相伴衆と告げると、幕臣の一部が不満そうな顔を浮かべる。だが不満を口にする者はいない。妙案とでも思うているかも知れぬ。不満が口にされないのを見てか、上野親子も顔を朱くして黙っている。
「幕府あっての相伴衆じゃ。筑前も幕府の為に何かと励むでおじゃろう。幕府の事など気にも留めぬ今川か、何かと気にする三好か。どちらを選ぶかは迷うまでもない。そういう意味じゃ」
問い掛けてきた兵部大輔の顔を見た後、そのまま公方に流し目をくれてやる。今幕府がすべき事は、三好と和解して京へと戻る事だ。そして幕府を介して三好を使い、今川に備える。必要あれば幕府と三好を用いて今川を叩く。
“此れしか無い”
強い思いを込めて公方の顔をじっと見る。
互いに視線を交わした後、公方が観念した様に頷いた。
「……太閤殿下のお考えはよう分かり申した。此処は一つお骨折り願えるであろうか」
公方が思うところはあるが、一切を飲み込んだ様な表情で麿に頭を下げる。下げ具合が甘い所が公方らしいが、以前の公方なら頭を下げる事も叶わなかったかも知れぬ。少しは成長した様だ。
「承知しておじゃる」
麿が承服すると、公方に倣って皆が麿に頭を下げた。
朽木谷ですべき事は済んだな。
筑前守が相伴衆となるなら官位も上げてやるか。朝廷も期待していると思わせた方がいいな。事を運ぶためには公卿を押さえねばならぬ。近衛が目障りだが、公方が三好と和議をするのなら進めやすい。不満を申す者は武家執奏による更迭を匂わせれば黙るだろう。
これで近衛よりも幕府を動かせる麿の方が有利よ。
近衛と蔵人の苦い顔を思い浮かべると片田舎にまで足を伸ばした苦労も悪くないと思うた。
弘治三年(1557)八月中旬 美濃国厚見郡井之口 稲葉山城 斎藤 高政
「国境の確定によって諍いを収めたい、か。大膳大夫殿の申し出は当家にとっても興味深い内容じゃ」
武田家からの使者が突如訪れて来た。朝廷と幕府に赴く途中と言う。使者は若いが筆頭家老を務める甘利左兵衛尉だ。名だけは聞いた事がある。面構えは悪くない。
国境の確定か。本音を申さば願ってもない内容だ。武田との小競り合いには苦労してきた。東美濃の国人衆からは何かと兵を出してくる武田に手を打つよう訴えが来ている。国境の内容に問題が無ければ是非に結びたい内容だ。だが大膳大夫の腹は何を考えているか……。今川との盟約を破って侵攻し、敗れて和議を結んだ男だ。我等とて簡単に破棄されかねぬ。
「使者殿には申し訳ないが、盟約とて当てにならぬ世じゃ。関心は覚えるが如何したものかと思案している」
暗に武田の批判をすると、儂の反応を予想をしていたのか動じる様子なく左兵衛尉が儂の顔を覗いて来た。やはり若いが出来る男の様だ。
「此れより某と此処にいる浅利右馬助は上洛して朝廷や幕府の歴々とお会いする所存にござりまする。其の際に武田と斎藤の和議が成ったと報告致しましょう」
左兵衛尉が自信あり気な表情で儂に訴えて来る。流石は名門武田だな。上洛して然るべき者に会う事が出来ると見える。それに幕府だけでなく朝廷もか。公家から室を迎え入れているだけはあるな。
「相分かった。其処迄申すのならば信じよう。細かな取り決めはさておき、当家と武田家の和議、異論ござらぬ」
「有難き幸せ。祝着至極に存じまする」
儂の言葉を受けて武田からの使者二人が深々と頭を下げる。
上洛か。
この際儂も考えてみるか。
……それにしても今川の使者よりも此の者達が先に来ていれば違った結果もあったかもしれぬ。
胸の内にふと過(よぎ)るものがあった。
弘治三年(1557)八月中旬 三河国碧海郡安城村 本證寺 今川 氏真
「申し上げまするっ!」
伝令役が陣幕の中に入って来た後、喧しい戦場の音に負けぬようにと声を張り上げている。
「申せっ!」
朝比奈備中守が負けず劣らぬ大きな声で発言の許可をする。
「はっ!鳴海城に向かっていた岡部丹波守様より報告にござりまする。鳴海城、陥落せしめてござりまする。味方の損害は僅かにござりまする!」
「うむっ!報告ご苦労っ!丹波に大儀であったと伝えよ。余が喜んでいたとな」
俺も声を張り上げて応える。
「はっ!」
伝令役が再び駆けて行く。既に大戦を終えて明るい雰囲気の本陣が更に明るくなる。だが、桶狭間で大敗を喫しているだけあって不必要な油断、楽観的な雰囲気は無い。……やはり必要な事だったな。大きな敗戦ではあったが、先の今川の為に必要な挫折だったと感じた。
"仏敵今川っ!"
"第六天魔王っ!!"
今朝方、火攻めを開始してから姦しくなった罵詈雑言が一際強くなる。寺の方角を振り向くが、陣幕に隠れて寺その物は見えない。だが黒々と立ち上る煙が見えた。
「全く喧しくて叶いませぬな」
関口刑部少輔が吐き捨てるように呟いた。松平掃討の戦を終えてから刑部に元気が戻ってきた。吹っ切れたものがある様だ。刑部は内務方として優秀な男だからな。腐らず尽くしてくれるなら何よりだ。史実の氏真のように殺める必要も全く無い。
「少し早い蜩の声と思えば風情も感じよう。其れにもう聞く事も無くなると思えば、一抹の寂しさもある位だ」
俺が渾身の一言を告げると、幕閣達が驚いた顔を浮かべて鎮まった。ん?余り面白く無かったか?
「此れは流石御屋形様にござる。いやはや、蜩にござりまするか!」
井伊彦次郎が膝を叩いて笑い出すと、漸く皆が笑い出した。
日頃の行いが過ぎたかな。どうも受けが今一つのようだ。
"ズダダダァーーン!"
暫くすると鉄砲の音が轟いた。
大方、大火を避けて逃げようとした門徒が鉄砲隊に迎え撃たれたのだろう。
掃討戦は今のところ順調に進んでいでいる。皮肉なものだが、立派な堀がある故に門徒達が逃げ出す場所は限定される。門の前に鉄砲隊を構えて置けば後は撃つだけだ。希に堀を泳いで来る者がいるが、弓で射られるか槍で刺されて冥土に旅立っている。
だが、信長が伊勢長島で苦しんだ事を思えば油断は出来ぬ。本證寺に籠もる門徒を片付ければ一向衆は片が付くのだ。慎重に、そして確実に屠っていかねばならぬ。此の場が片付けば後は高田派に頼めばいいだろう。
事が順調に進む中だが、困った事がある。火薬の残量だ。今回の戦で膨大な量を使った。まだ幾らかあるのだが、同じ規模の戦が起こった時は足りない。輜重方の井伊平次郎に遠江と三河の街道整備を命じねばならぬな。道の拡張と共に街道沿いの家を立て直そう。その際にこっそり、そしてごっそりと床下の土を回収だ。後は峰之澤に運んで硝石の大量生産だな。とりあえずは堺や南蛮からも仕入の手筈を整えておくか。
考え事をしながら時折幕僚達と他愛もない話をしていると、見知った忍びが現れた。目線が合う。目で近くまで寄れと指示すると、忍びらしい素早い動きで近くに寄って来た。
「どうした。弥次郎」
荒鷲の西部方面を司る森弥次郎に問い掛けると、弥次郎が"内々のご報告がありまする"と呟いた。今川中枢を司る幕僚達がいる中で内々の話か。余程の事が起きたか。
「分かった。伊豆介と弥次郎だけ付いてこい。皆は坊主の掃討を続けよ」
俺が伊豆介と弥次郎を引き連れて茶のために設けた奥の陣幕に向かおうとすると、皆が総立ちして頭を下げた。
「して、如何した」
茶道具が置いてある奥の空間で声を抑えて問い掛ける。外が喧しいからかなり近い距離感だ。
「熱田と津島に不穏な動きがございまする」
弥次郎が応えると隣の伊豆介が眉を顰める。伊豆介も初耳の様だ。
「不穏な動き?」
「はっ。御屋形様からの文を熱田と津島に届けたのでございまするが、暫く様子を見させておりました。どうもきな臭くございまする。織田上総介を手討ちにしようとしている可能性がありまする」
「商家が上総介を?」
伊豆介が問い掛けると弥次郎がゆっくりと頷いた。
「余への手土産の積もりか」
「そうかも知れませぬ」
「余が謀ったと思われる。迷惑な話よ」
「……止めまするか?」
弥次郎が少し間を置いて問い掛けて来る。少し間があったのは必ずしも悪い話ではないという気持ちがあるのかも知れぬ。横にいる伊豆介も思案顔だ。どう転ぶか先を考えているのだろう。
「織田は上総介という大きな大黒柱で成り立っている。此れが亡くなればまた身内で諍いを起こすだろう。上手くいくなら悪く無い。なれど……」
伊豆介と弥次郎の顔を交互にじっと見る。
「今川が暗殺をする家だと醜聞を立てられるのは今後がやり難くなる。斯様な謂れをする位なら事を止めたい。だが、我等の仕業だと思われぬよう……そうだな、例えば斎藤の謀略とでも見せられるのなら是非に仕留めよ」
「承知仕ってござる」
伊豆介が静かに、だが決意を滲ませる声と表情で応じると、弥次郎と共に下がって行く。
尾張攻めは経済封鎖で疲弊をさせて調略で進めようと思っていたが、もしかすると一気に進むかもしれん。
さてどうなる事か。少しばかりの高揚を覚えながら、先の事を考えようと思っていると自然と風炉の前に腰掛けていた。折角だ。自服をするための茶でも点てるとするか。居住まいを正して柄杓に手を掛けた。
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