第百三十八話 難色




弘治三年(1557)八月中旬 三河国額田郡岡崎 岡崎城 今川勢本陣 今川 氏真




床几に腰掛けながら点前を進める。前世で手習いを受けた立礼の手前を思い出しながら茶を点てている。時折大筒の音が響いて空気が揺れる。良い茶を点てよう。其の一心で一服の茶を点てる為に感覚を研ぎ澄ませていくと、徐々に身体が手順を思い出して来た。


立礼の点前は足が痺れなかったから色々と記憶に残っている。此の点前は明治初期に京都で万博が開かれた際、外国人を饗すために当時の裏千家家元が考案したと習った。正座で行う点前が多い中、此れは椅子に腰掛けたまま行う点前だ。陣中の鎧姿で行うには丁度良い。


此の点前が発案された頃、江戸時代は加賀藩と松山藩からの御用達で栄えた裏千家も、明治維新と文明開化の波にのまれて凋落の一途を辿っていた。其の中で、当時の家元である玄々斎宗匠が外国人にも馴染みやすいようにと知恵を絞って考えたのだろう。背景を知ると感慨深いものがある。二百五十年余と徳川の封建主義が続いた後、維新から僅か数年で此の点前を考えた玄々斎の革新性には学ぶ所大だ。




屋外だからと少し多めにした香が、熱灰の熱を受けて良い塩梅に焚かれている。視界にある雅な景色と香りに反して、再び大筒と鉄砲の轟音が聞こえた。戦場での茶、中々癖になりそうだな。……よし。良い湯加減だ。湯を茶碗に入れ丁寧に茶を練る。


"失礼を致しまする"

上野介の声がした。

「入れ」

茶を練りながら応えると、吉良上野介が中に入って来る。予め用意しておいた床几に腰掛けさせる。自服も良いが、丁度良い茶が入った。やはり人に飲んで貰えるのが何よりだ。だが半東がいない。自分で運ぶとするか。

「どうぞ」

自ら点てた茶を上野介の前に運ぶと、上野介が恐縮したような、だが嬉しそうに受け取った。


「茶が冷めてしまう。先ずは飲むが良い」

俺の言葉を受けて上野介が茶碗をいなだいてから口に含む。大人しく茶を飲むという事は火急の知らせではない。水を釜に一勺汲んだ後、袱紗を畳んで飲み終わるのを待つ。


「大変美味しゅうございまする」

「で、あるか」

「某も少々嗜む様にしておりますが、御屋形様の点前には遠く及びませぬ」

「余とてまだまだだ。ゆっくりと茶を点てる暇が今少しあれば良いのだがな」

呟く様に話すと、上野介が苦笑いを浮かべて応じた。


「それで?何用であった」

「はっ。打って出てきた松平の手勢を全て殲滅させてございまする」

「此方の被害は?」

「ありませぬ」

「そうか。良くやってくれた」

「はっ」

上野介が残りの茶を美味そうに飲んでいる。


先刻、松平からの使者を黙殺して追い返すと、暫くして織田の一隊が城から出撃して来た。予め"織田の部隊が出てきたら我が軍に向かって来ない限り迎撃せずとも良い"と伝えてあった。織田軍は堀沿いに西方へ向かって一目散に駆けて行った。其の後、織田軍の撤退を見た松平の兵が挙って城から出てきた。逃げる織田軍を見て、自分達も逃げ果せるとでも思ったのだろう。だが、松平の兵には即反撃するよう命じてあった。打って出て来た兵は悉く討ち取った様だ。


「城には如何程残っていようか」

「数百といったところですな。譜代の将と郎党、後は引っ込んだ雑兵がおりまする」

「数百か。良い頃合いだな。詰将棋で友軍を失う必要もあるまい。降伏を促す使者を出せ。名のある将の自害、元服している者は諸共だ。此れが果たされるならば残った城兵の命は助けよう」

「畏まってございまする」

上野介が幾らか緊張した声で応じた。厳しいと感じただろうか。

「使者の者が討たれる可能性がある。先ずは矢文で知らせれば良い」

「ははっ」

上野介がはっきりと応じた後、飲みきった茶碗を返しに来た。

茶碗受け取って湯を入れ、建水に空ける。



「おしまい、に致しまする」

"おしまい"の部分を強調して話すと、上野介が笑みを浮かべながら頭を下げた。




弘治三年(1557)八月中旬 美濃国厚見郡井之口 稲葉山城 庵原 忠胤




「今川家臣、三浦内匠助正俊にございまする。此の度はお目通りをお許し頂き祝着至極に存じまする」

「うむ。齋藤范可高政である。苦しゅう無い。面を上げられよ」

齋藤家当主の許しを得て内匠助殿と同時に面を上げると、大柄な男が此方をじっと見ていた。


「其処におるは日根野備中守じゃ。今川殿への使者として遣わせた」

「存じておりまする。備中守殿が我が主に会われる折、某も同席致しましてございまする」

内匠助殿が応えると、范可様が”左様であったか”と述べられた。


「さて。今川殿の使者が何用かな。備中が約した尾張出兵は今正に行っている最中だ。家中からの報告に寄らば、岩倉を囲み犬山に至っては此れを陥落せしめたとの由。織田上総介にしてみれば、我が軍勢を前にして苦しい状況であろう」

范可様が饒舌に語っている。范可様と織田上総介は確執深い仲だ。尾張の深くまで味方の兵が食い込んでいると知らされて心踊っているのやも知れぬ。

「……其の尾張出兵について話したき儀がございまする」

内匠助殿が間を取ってからゆっくりと口を開いた。

「ほぅ。出兵についてとな。聞こう」

「はっ。我が主としては、齋藤家に願ったは威力出兵であり、尾張を切り取るに非ず。尾張は今川氏親公が那古屋に城を築いてより今川に縁ある土地でありまする」

「成程。今川が尾張に縁あるのは知っておる。じゃが織田の手に落ちて久しい事も知っておる。上総介は見せかけだけの出兵に怯む男では無い。確と切り取ってこそ相手に武威を示せるというものじゃ」

内匠助殿の言に、鼻で笑われる様な物言いで范可様が話される。


「……我が主は齋藤家が尾張を切り取る事を快く思うておりませぬ」

内匠助殿の発言に范可様が不快感を露わにした表情を浮かべる。内匠助殿が怖気無いではっきりと物を申している。中々ではないか。御屋形様に日頃から鍛えられているだけはある。

「約定していた兵糧は払えぬと?斯様に申したいのか」

眉を顰めて范可様が我等に問い掛ける。

「左様な事は申しておりませぬ。今川は約定した事は守りまする。御約束の兵糧は遠からず美濃に届きましょう」


「ふむ。其れを聞いて安堵致した。ならば何も問題は無かろう。なに、今川殿は織田松平を討ち破って意気軒高と見える。じゃが織田はまだ滅んだわけではござらぬ。此処で確と息の根を留めねば再び力を取り戻し兼ねぬ。当家にとって織田は積年の敵。此の敵に留め指す機があらば逃さず捉えるのが世の習いじゃ。今川殿には左様に伝えられよ」

范可様が言い放って席を立とうとされる。廊下に向かった范可様に“お待ち下さいませっ”と大きな声が響いた。


「遠からず我が今川は尾張を併呑致しましょう。其の時、斎藤家は今川家に弓引く御積もりだと、左様に持ち帰ればよろしゅうござりまするか」

内匠助殿が范可様の背に向かって腹から声を出している。思わず唾を呑んだ。

少し間があった後、“何故そうなる”と言葉が返って来た。

「繰り返しになり申しまするが、尾張は今川所縁の地なれば、斎藤家におかれましては撤兵を願いたく存じまする。此れが約されぬのであれば、斎藤家は我が今川と戦をされるものと捉えまする」

内匠助殿が果敢に言葉を続ける。踏み込んだ発言ではあるが、御屋形様の意に沿った内容だ。訂正をする必要はあるまい。しかし冷や汗をかいて来たわ。無事に此の城を後に出来るかの。そう思うていると范可様の身体が我等の方を向いた。内匠助殿では無く儂の顔をご覧になっている。内匠助殿が先走っているだけではないかと念を押して来たか。儂も一芝居打つ必要がありそうだ。

「三浦内匠助の言、我が主今川参議の意に相違ござりませぬ」

儂も腹から声を出し、出せる貫禄を一杯にしてゆっくりと頭を下げた。


「……分かった。兵は退かせよう」

先程よりも長い間があった後、范可様が息を吐くようにして話された。

「恐悦至極に存じまする」

内匠助殿が頭を下げるのに合わせて儂も同じように頭を下げる。



頭を下げる前に微かに見えた范可様の御顔は能面の様な無表情だった。

返って不気味なものを感じた。




弘治三年(1557)八月中旬 近江国高島郡朽木谷 朽木城 三淵 藤英




「御上が改元をお決めになられた。先帝たる院の御具合がかなり悪い。御上は改元が無事に相成った事を院に知らせたいご様子なれば、予定よりも早く事を準備しているでおじゃる。年内には改元が成される事でおじゃろう」

二條太閤殿下が禁裏の様子を話されると、公方様が御不快の様相を浮かべられた。

「元来改元は朝廷と幕府が協議して来たもの。昨日今日ではありませぬ。綿々と行って来たものなれば、此度は何故何の相談も無く既に改元が決められているのか。太閤殿下、ご教示願いたく存じまする」

上野中務少輔殿が厳しく言葉を放たれると、批判もどこ吹く風と言った様子で太閤殿下が扇子を口に当てて“話をしたくとも公方が洛中におらぬでの”と仰せになった。


太閤殿下の御言葉に同席している幕臣達が不満そうな顔を浮かべる。だが仰せになっている事は事実だ。早いもので此の朽木に逼塞して既に三年の月日が経つ。年を経る毎に上様に訪れる者が減っているのを感じる。

皆、思う所はあるが返す言葉が無く鎮まった中で、太閤殿下が“朽木に赴く前に芥川山に行って参った”と仰せになった。芥川山?三好の居城ではないか。三好憎しの幕臣達が構えたような表情をする。


「三好筑前は公方を京に是非迎えたいと申しておる。どうでおじゃろう?麿が間に入る故、京に戻られまいか」

太閤殿下が真面目な御顔でじっと上様の御顔をご覧になっていた。



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