第百三十七話 密会
弘治三年(1557)八月中旬 三河国額田郡岡崎 岡崎城 阿部 定吉
今川の陣に出向いていた鳥居伊賀守が戻って来た。崩れ落ちた大手門の瓦礫を乗り越えて此方に向かって来る。無表情という訳では無いが、何とも言えぬ表情をしていた。
「如何でござった」
「何も御座らぬ」
声を掛けると素っ気なく、いや、力を落とした様な様子で伊賀守が応じた。
「何も無いとはどういう事に御座るか」
織田からの援軍で城に詰めている佐久間右衛門尉殿が怪訝な顔を浮かべて伊賀守に問い掛ける。
「会うに及ばずと門前払いをされ申した。事前に下知がされていたのやも知れぬ。取次さえもされなんだ」
「なっ!何じゃと」
思わず声が出た。使者に回答をせず追い返すのではなく、会いもしないとは……。参議は我等の存在を歯牙にもかけていない。松平を全く滅ぼすつもりのようだ。
"全く無礼な"
"こうなっては最後まで戦うのみじゃ"
元より使者を出す事に反対していた者達が息巻いている。其の一方で佐久間殿をはじめとした織田の将が眉を潜めている。織田の将にはまだ次がある。此の局面を如何にして打開するか考えているのだろう。
「籠城するにも大手門は崩され、兵糧の用意も乏しい。此の状態で如何されると言うのだ」
佐久間殿が溜め息を吐くように呟かれる。
「無論、打って出るまでにござる」
家中で槍の名士と呼ばれる本多肥後守が大きな声を上げる。肥後守の威勢につられて幾人かが気勢を上げた。
「威勢がいいのは良いが、先程も打って出た部隊が為す術もなく今川に討ち取られたばかりではないか」
佐久間殿の傍らにいる金森五郎八殿がぶっきらぼうに告げる。
「では何とするのじゃ。佐久間殿や金森殿は如何になさる御積りにござる」
儂が問い掛けると、金森殿が口を窄めて言い淀んだ。金森殿の物言いも如何なものではあるが、儂の物言いも良くない。詰問の様になっておったと自省する。
「すまぬ。つい強く申した」
「いや、某こそ無礼を致した」
互いに非礼を詫びて此後を皆で思案する。
"ドオオォーーーン"
喧々諤々話していると、再び大きな音がして塀の一部が崩れ落ちた。
暫く止んでいた今川の攻撃が再開されたのだ。
間髪を入れず二発、三発目が飛んでくる。
”バシャッ”
”茂助どんっ!”
今度は遠くで何かが潰れる様な音がしたと思うと、雑兵が叫んでいた。男が首のへし折れた兵を抱えて叫んでいる。今川が使う大鉄砲の玉が当たったようだ。
”ひ、ひいいぃぃ”
無惨な死を見た廻りの雑兵が大手門の外に駆けていく。其れを見た雑兵が更に二、三人続いて行った。
”ズダダァーーン”
凄まじい轟音が聞こえたと同時に、逃げた雑兵が倒れる。
数人の兵を討つのに仰々しい音だと思うた。だが、一人も逃さぬと言わんばかりの今川の強い気概を感じる。
逃亡を図った雑兵の悲惨な様子を見て他の兵どもが悲壮な顔を浮かべている。正に為す術もないとはこういう事だと思うた。
「佐久間殿は織田様から刻を稼ぐよう命を受けておられると申されておられたな。であれば城の兵糧が持つ後十日は静かに耐えよう。其の後は皆で今川勢に突入して一人でも多く冥土に道連れしてくれる。此れでどうじゃ」
妥協でしか無いが、出来る事は此れしか無い。儂が皆に告げると、伊賀守がゆっくりと、だが大きく頷いた。其の伊賀守の様子を見て松平の皆が次々と応じて来る。
「異論ござらぬ。何か他に妙案が浮かべばまた相談しよう」
佐久間殿も応じて言葉を発する。今川の追撃が大して無かったせいか、入城時には“此処岡崎で勝負ぞ”と意気込んでいた佐久間殿だが、すっかり沈んだような面持ちをしていた。
……まさか今川参議が此処までの御仁だったとは。
松平を何かと苦しめた、あの忌々しい権大納言が討死して浮かれていたのだろうか。儂等の選択は間違うていただろうか。否、一時は三河を統一せんとしていた松平だ。今川とも織田とも渡り合える家だったのだ。松平として生きる道を選ぶは決して間違うておらぬ。
松平が……我等の三河が駿河者に盗られようとしている。
許せぬ。我等は最後まで戦わねば。
「……っ!」
頭が急に重くなる。痛みまで出てきた。押し潰されるような頭痛が急に増していく。身体がふわりとぐらついた。
「大蔵殿っ!」
伊賀守殿が儂の身体を支えてくれる。何か話している。
だが上手く聞き取れぬ。
「かっ…いがの」
言葉が上手く出てこない。
直ぐに視界が暗くなった。
弘治三年(1557)八月中旬 尾張国海東郡津島村 堀田 正道
「失礼致す」
我が邸宅の最も奥にある部屋に客人が見える。日頃は銭勘定をする部屋だ。一人で使う事が多い部屋だが、奥にあって周りに声を聞かれる心配が無い。内密の相談をするには都合が良い。
「お待ち申しており申した」
勘定の台帳を閉じて客人を迎え入れる。見慣れた剃髪姿が目に入った。熱田の加藤図書殿だ。其の後ろには息子の図書之介殿が続く。
「夜分呼び立てして申し訳御座らぬ」
「勘三郎殿、何を申される。お会いしたかったのは此方も同じに御座る。お気になさるな」
図書殿が嗄れた声で儂を労う。お家の大事を前にして老体に鞭打って来てくれたのだと思うた。
「上総介殿の使者に矢銭を払われたとお聞きした」
儂が単刀直入に問うと、図書殿がゆっくりと頭を縦に振って応じた。隣の図書之介殿も頷いているが、顔には不満そうな表情が漂っている。
幾ら収めたかは無粋な問いだが聞かねばなるまい。儂から申すか。
「我等津島衆は八百貫文をお出しした」
「左様か。我等は一千貫文じゃ」
儂が隠す事無く応えると図書殿が僅かに笑みを浮かべて応えてくる。
そうか、熱田は一千貫文払うたか。
「我らにも一千貫文の要求があったが、今直ぐにと申されるゆえ八百貫文として頂いた。遠からず催促があろう。熱田は一千貫文を払うたとな」
儂が溜息を吐くように応えると、図書殿が声を上げて笑われた。
「今回の銭は捨て銭の感が酷いの」
一頻り笑い終えた図書殿が吐き捨てる様に呟く。隣の図書之助殿が頻りに頷いている。
今川との決戦は織田松平の完敗に終わった。今や今川は東三河を併呑し、西は岡崎にまで達している。真宗も苦しい状況だ。上宮寺と勝鬘寺は既に灰燼と化すまで焼かれ、門徒は本證寺に詰め寄せているらしい。本證寺は堀に囲まれた大きな寺だ。門徒は寺に籠って気勢を上げているらしいが何処まで持つか。岡崎も落城寸前らしい。松平は降伏の使者を出したが、今川参議が会いもせず突き返したとの事だ。
「仇敵と逆臣相手とはいえ厳しいものよな。今川は」
図書殿が呟きながら儂の方を覗いてくる。此れは探りだな。
「たが、先代とは異なり当代は筋が通った事をしてござる」
「筋が通るとな」
「左様。今は熱田も津島も荷留の如き仕打ちをされ厳しゅうござるが、当代は先代とは異なって買い付けによって荷を留めておるだけでござる。脅すだけの先代とは違ってござる。言わずもがな、此の荷留は今川に物を売る商家がいるから成り立っているのじゃ。苦しいのは我等だけで堺や京で不満は出ておりますまい。ま、今川の懐は痛んでおる筈じゃがな」
「儂が知るところでは、今川の買付は衰える事を知らぬようにござる」
図書之介殿が疲れたように声を上げる。加藤家は熱田神宮とつながりが深い。神宮からの情報で色々と掴んでおるのだろう。
津島に来る荷の量も相変わらず細々としたものだ。今川が変わらず買い占めているに違いない。
さて、余り長々としていては織田様に気付かれぬとも限らぬ。そろそろ本題に入るとしようかの。
「態々お越し頂いたのは他でも無い。儂宛てに今川参議様からの文が届いた」
儂が会うてまで話をしたかった本題を切り出すと、図書殿が"やはりそうか"と応えた。
「其のお応えとなるとそちらにも?」
儂が問い掛けると二人が応じた。
今朝方、夜明け前に行商の身形をした男が訪れて来た。行商の者とて、伊勢に行けば今川が高値で買う事など知っている。此の屋敷に来る等、何処ぞの乱波かと思うた番頭が帰そうとしたが、駿河参議からの文を届けたいという。驚いて男に会うと、触った瞬間に高価な代物と分かる紙質の文を渡された。
「儂宛の文には津島が織田と縁を切るなら、儂の首と引き換えに服属を認めるとあった」
「父上宛の文も同じような内容にござる。父の首と引き換えに熱田の服属を認めると。まだ津島も熱田も織田領の内じゃ。其れで服属を迫るとは何をお考えかと思うておりまする」
図書之介殿が吐き捨てる様に呟いた。
「熱田も津島も織田の領内ではあるが、我等は既に今川の策で苦しんでいる。大店はまだ持ち堪えようが、小さな店は既にかなりの不安を覚えている。織田様が破れた今、時が経てば益々苦しくなるのは目に見えている。我等に猶予は然程無い」
儂が呟くと、図書殿が目を閉じながらゆっくりと応じた。
「……其処まで申されると言う事は、勘三郎殿は既に御覚悟を決めている様にお見受けいたす」
目を閉じながら図書殿が話しかけて来る。
「某への文には津島を全て焼いて友野屋や堺の豪商に支店を出させてもよい。なれど其れでは町が町らしくなるまで幾らか刻が掛かる。故に津島に最後の機会を与える、とあり申した。此れは今川参議の、いや、参議様の本心かと存ずる。儂の首一つで津島が残るなら迷う余地などあり申さぬ」
「ふむ。儂とて同じよ。織田様には二度機会を与えた。一度は乗り越えたが、二度目は無かった。致し方ござらぬな。幸い参議様は商いに随分と通じておられる。上総介様も商いを大事にされたからこそ我等はお支えしたわけだが、此れ以上は難しかろう。後は我等が今川に服属するのを如何にして進めるかじゃ」
閉じていた瞳を見開いて図書殿が儂の顔を覗く。互いに腹の中を探り合って競ってきた仲だ。同じ事を考えていると思うた。
「先に申した通り、遠からず織田様から当家に使者が参ろう。銭を出せとな。其の際にごねてみよう。銭を出せと言うばかりで戦の結果も今後の見通しも説明されぬとは如何なものかとな」
儂の言葉に図書殿がにやりと笑みを浮かべる。此の御仁はやはり同じ事を考えているな。図書之介殿はもしやと察しつつある様だ。驚いた表情なのは結を予想出来たからであろう。図書殿は中々の息子に恵まれたようだ。
「織田様にとって今銭は幾らあっても足りぬ。一千貫も取るのじゃ。流石に説明に誰ぞ遣わそうとするじゃろう。今少しごねて、説明には上総介様にお越しいただくように致す。……其の時じゃ」
内に秘めた決意を見せるようにゆっくりと、だがはっきりと伝えると、図書殿がゆっくりと頭を縦に動かした。
「手練れに不足は無かろうか。当方にも信のおける者はござる」
「上総介様が此方にお越しになる時は多くて二十騎。中に迄入るのは二、三じゃ。何とかなるとは思うが必ず仕留めねばならぬ。御力お借りできるか」
儂の応答に図書殿が“承知した”と短く応える。
「討ち取った後、某は速やかに自害する」
「其れでは堀田家ばかりが汚名を被る事になる。当日は熱田衆も説明を受けたいと申していると伝えられよ。織田様の手が今日の我等の動きを察していたとしても、説明を求める段取りを話していたと思われよう。上総介様との席には儂と図書之介が同席する。事が終わり次第、儂は其の方と共に自害しよう。儂と其の方、其れから上総介様の首は此処にいる図書之介に運ばせる。図書之介、良いな」
「……はっ」
図書之助殿が緊張した面持ちで応じた。微かに目に雫が浮かんでいるのが見える。既に図書之介殿は図書殿の下で熱田衆を差配している。此れしか我等に道が無い事は分かっているのだろう。互いに目を見合って頷く。証文の代わりだ。
「此の事、今知っているのは此の三人だけじゃ。儂は後三人に話す。腕に自信があって口の固い者達じゃ」
「儂も三人じゃ。皆一族に連なる者じゃ。剣も使える」
儂が念を押すと、図書殿が分かっているという表情で応じた。
「うむ。お越しになる際は当家の広間を使うとしよう。隣に水屋がある。刀は隠しておいて茶坊主の様に見せよう。近習の調べはやり過ごせる」
「承知した。……さてと。話したい事は話せた。一献やりたいところだが色々と支度がある。今日の所は失礼致すぞ」
図書殿が立ち上がる素振りを見せると、隣の図書之助殿が直ぐに動いて支える。
「冥途ではゆっくりやりましょうぞ」
儂が冗談を申すと、図書殿が“其れは良いの”と笑いながら応じた。
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