第百三十六話 掃討




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 設楽ヶ原 今川勢本陣 今川 氏真




「空誓は西三河に落ち延びてございまする」

荒鷲の忍びが現れ、坊主の親玉が逃げたと報告をして来た。其の報告を受けて吉良上野介が苦虫を噛み潰した様な顔を浮かべ、”面目ありませぬ”と謝ってくる。

「何を謝る事がある」

俺が言葉を返すと、単なる情けだと思ったのか、上野介が口惜しそうな顔を増して頭を下げた。此れは説明が必要だな。


「上野介。余は本心から申したのだ。其の方達は坊主の大軍を前によく耐えながら戦ってくれた。其れだけで十分なのだ。其れにな、空誓を此処で処断していたら門徒共が町に村にと潜る恐れがある。だが空誓は生きている。本證寺なり上宮寺なり、何処ぞの寺に籠もり、門徒共は其処に集まるだろう。下手に此処で捉えてしまうよりも良い。手っ取り早く門徒を根絶やしに出来るのだ」

「其のように仰せ頂けると報われまする」

上野介が苦い表情を幾らか和らげ、隣の井伊彦次郎と顔を向かい合わせている。戦火を共に潜った間だからだろうか、二人が信頼をし合っているのが伝わってくる。


上野介に言った事は本心だ。松平の残党は元康が死んだところで、奴等の拠り所たる岡崎に集まる筈だ。だが、門徒達は導師たる空誓が死んでは、田畑を耕す暮らしに戻る者たちが出るかも知れぬ。そうなると残党狩りは苦労する。だから何も悔やむ必要は無いんだぞ。上野介君。寧ろ最高の形で終えてくれたと思うくらいだ。



……笑いが出るのを堪える。

軍議の前に一向衆の僧が何人か降伏を願ってきた。其の坊主達から聞いた話では、早速一向衆達は西三河での決戦をと息巻いているらしい。此度の戦で減った兵力を補うために、寺領での根刮ぎ動員まで考えている様だ。全く、此方の予想の一歩上を行く阿呆共だな。投降を願ってきた坊主達は話を聞くだけ聞いて追い返してやった。"天魔"だとか"如何様"だとか叫んでいたな。俺は彼奴らがペラペラと勝手に喋り出したのを聞いただけだ。降伏を認めるなどと一言も言っていない。

今投降を許しては降る者が続きかねん。それではせっかく効率的に根絶やし出来そうな状況を失う事になる。


三河は曲者が多くて治めにくい土地だが、坊主と松平が居なくなれば大分状況は変わる。名実共に今川の所領となるだろう。美濃の齋藤も尾張を切り取らんと動いている様だ。釘は刺すようにしたが三河平定に余り時間を掛けるのはよろしくない。


どうやって残党を屠ってくれようか。出来れば効果的に、かつ効率的にだが……。

いかぬ。先々を考えていると再び笑みが浮かびそうになる。



真面目な表情を努めて取り繕った。




弘治三年(1557)八月中旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




足音で目を覚ます。寝所の周りにある廊下は音を立てやすくしてある。其の廊下を足早に歩く者がある。隣の部屋は誰もおらぬが、儂の寝所の様に見せるため宿直をさせている。其の隣部屋をやり過ごして、一目散に此の部屋にやって来る。此の部屋の宿直も刀を抜く様子が無い。皆が何も言わぬという事は勘助がやって来たのだと思うた。

“御屋形様”

やはり勘助だ。此の夜更けに来るとは……。其れに詫びも言わぬとは相当に急ぎなのだろう。

「如何した」

「急ぎ報告したき儀がありまする」

「うむ」

「人を下げまする」

「分かった」

儂の承知を受けて勘助が小姓達を後ろに下げる。

宿直にも聞かせられぬとは余程の大事が起きたな。今川か北條で動きが……、いや、謀反の類いでも起きたか。


「其れで?如何した」

小姓達が下がり終えたのを見て声を掛ける。

「はっ。織田松平、真宗の連合が今川に敗れたようにございまする」

何と申した?織田松平が敗れた?

「どういう事じゃ。出陣の支度を前倒しして、我等は間もなく出撃というところであるのに、何故織田松平は今川と戦に走ったのじゃ!」

つい声が大きくなった。

「美濃が動いてございまする」

勘助が静かに応えて来る。

美濃?齋藤か!


「参議の手筈か」

「恐らくは」

儂の問いに勘助が声を曇らせて応えてくる。美濃の動きまで把握出来なかった事を悔やんでいるのかも知れぬ。勘助の気持ちはよく分かる。儂とて同じ気持ちよ。

「中へ入るが良い」

障子越しでは話がしにくい。其れに勘助なら信がおける。部屋への入室を促すと、ゆっくりと扉を開け隅に座った。


「明かりを付けさせよう」

「要りませぬ。せっかく下げた人を呼ぶ必要もありますまい」

儂が小姓を呼ぼうとすると、勘助が頭を振って制してきた。

「左様か」

今宵の月は半月だ。幾らか明かりはあるが暗さは否めない。

僅かに差す月明かりの中で、髭を蓄えた勘助の顔が映る。深い業を背負っているような、淀んだ表情を増した顔が照らし出される。左馬助を失った戦の時からだ。目の前の男は日ごと己を追い込んでいる。


「戦がどうなったか詳しく分かるか」

「大まかではありまするが分かりまする。此度の戦は今川本隊が籠もる長篠方面に松平の一隊が奇襲を掛けるところから始まったように御座いまする」

「うむ」

「松平の奇襲は易々と参議に追い返されると共に、設楽ヶ原では一向宗の一部が抜け駆けをして逐次兵力を投入する形となり、続けて織田松平が突貫をするものの、今川の各部隊に跳ね返されたように御座いまする」

「続けよ」

「今川にも苦しい局面はあったようでありまするが、終わってみれば松平は当主以下、参陣した将のほとんどが討ち死、織田も幾らか将を失っておりまする。真宗は数千からなる屍を築く大敗にござる。ただ、空誓上人は落ち延びたように御座いまする」

勘助の報告に思わず舌打ちする。三河は今川のものに遠からずなると思うた。

「参議の妹は既に返してしもうた。今川との和議はいつ切れてもおかしくない」

勘助の目をじっと見て溜息を吐くように言を放った。


「一つ策が御座いまする」

勘助が少し顔を上げて話して来る。

「ほぅ。申してみよ」

「はっ。朝廷と幕府に使者を出されては如何かと存じまする」

「朝廷や幕府とな」

「左様に御座いまする。今川と和議が成った。成ればこそ参議の妹も返したと報告するのです」

「成る程の。和議が成ったのは事実じゃ。其れを我等に都合良き様に広めてしまうという事か。ふむ。良いかも知れぬ。三河平定に尾張攻めも控える今川じゃ。斯様に広められては武田は後回しにする筈じゃな。……後は得られる刻を使うて守を固めるというところか。しかし上方を動かすとなると銭が掛かるの」

「……はっ」

勘助が頭を下げて応じる。


「責めている訳では無い。其の方の策は妙案じゃ。進めるとしよう。じゃが、穴山を潰して得たばかりの銭が直ぐ出ていくと思うてな」

「……はっ」

儂の呟きに勘助が無表情で応じる。

「京には甘利左兵衛尉と浅利右馬助に向かわせる。左兵衛尉は当家の両職を務める筆頭家老じゃ。使者として不足はあるまい」

「はっ」

勘助が淡々と応じる。


「両職と言えば板垣弥次郎が今一人おるが先の戦でも役に立たなんだ」

左兵衛尉と共に筆頭家老を務める弥次郎だが、亡き駿河守信方に似ず才に恵まれていない。今川との戦でも右往左往するばかりで何の役にも立たなかった。今の武田に無駄飯喰らいはいらぬ。

「適当な寺に閉じ込めまする」

勘助が静かに応じた。うむ。この辺りの読みは衰えていない。まだ此の男は使えると思うた。

「詰問状を書く故使うが良い」

「承知仕りました」

「墨を持って来るよう人を読んで参れ」

「はっ」

勘助が前を下がって行く。


文机の前に座って文の内容を考える。

弥次郎の不行跡は幾つかある。書くにはあまり困らないだろう。

……板垣を潰す。

板垣は駿河守の頃から何かと使いにくい家だった。旧領は子飼いの家臣に分け与えれば良いな。

また一つ儂の力は増すが、此れに不満を覚える家臣も出て来るだろう。

差し当たっては一門衆の勝沼五郎に不穏な動きがある。暫くは泳がしておいて、後でまとめて処断するとしよう。何かと忙しい事よ。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国額田郡岡崎 岡崎城 今川勢の陣 松井 宗恒




「全門撃ち方用意」

「一番砲から全門、撃ち方用意っ!!」

儂が下知をすると、副将の巧野主税助が大きな声で繰り返す。誠に大きな声だ。この夜陰の中ではよく響く。味方だけで無く城の中の敵兵にも聞こえているだろうと思うた。


「一番砲から順次撃ち方始め」

「一番砲からぁ十五番砲までぇ、全門順次撃ち方ぁぁ始めぇぇっ!!」

”ドオオォーーーン”

大きな音を轟かせて一番砲が放たれる。撃たれるのは此れだけではない。


”ドオオォーーーン”

続けて二番砲が放たれた。火花で辺りが一瞬だけ明るくなる。

更に続けて三番砲だ。十五番砲まで繰り返し砲撃が続けられ、また一番砲の砲撃が始められる。

砲撃は日夜交代で一日中続けられている。煤払いで中断する事こそあるが、止まぬ砲撃に城内の者の気持ちを思うと微かな同情を覚える。


設楽ヶ原の戦で勝利を収めた後、御屋形様はすぐさま峰之澤に使いを出された。修理中の物は此れを急がせ、新造で試し撃ちをしている物は幾つか手筈を省略した。其の後は荷駄部隊が昼夜を問わず大急ぎで運び、とりあえず十五門が届けられた。軍の西進自体は大筒の運搬より先に行われ、岡崎城を既に囲んでいる。松平の残党と共に城へと入った織田勢は始めから籠城策を決めていたらしい。大筒が届けられる迄の間、大した衝突も無く睨み合いが続いていた。


今朝方、大筒が戦場に到着するや敵の弓が届かぬ距離から砲撃を加えている。一度大手門から敵が打って出てきたが、味方の鉄砲隊の前に敢え無く散っていった。敢えなく叩かれてから敵は城に籠もったままだ。


”ガラガラガッシャーン”

順次発砲の様子を眺めていると、大きな音が城の方から聞こえて来た。

「報告!」

観測係が儂の方を向いて敬礼をしてくる。

「うむ」

「七番砲が大手門に着弾。大きく崩れておりまする」

「何発で崩れた」

「はっ!九発であります。特に九発目は門の扉の真上に当たったため、大きく崩れてございまする」

「うむ。戦闘詳報に当てた数、場所を確と書いておくように」

「承知致してございまする」

御屋形様が大筒をわざわざ運ばせたのは城攻めに何処まで使えるかを調べるためだ。詳報には出来るだけ細かく記載したほうが良い。


……しかし、大手門が崩れた城で籠城するなど落ち着かぬな。もし儂が松平の者だったらと思うと鳥肌が立つわ。いや、御屋形様の狙いには此の事もあるのかも知れぬ。大筒の音に慣れた味方の兵は交代で休んでいるが、敵兵は気を緩める時も場所も無い。今又大手門が崩れて城は裸になりつつある。


敵の士気も何時まで持つか……。

おや?武士が幾人か城から出てきた。白旗を翳している。此方への使者かも知れぬ。

「撃ち方止め」

「撃ち方ぁぁ止めぇぇ!」

主税助が大きな声で復唱すると、砲撃が止まった。


「只の時間稼ぎかも知れぬ。今の内に煤を払って次の射撃に備えよ」

「承知」

儂があくまで砲撃準備を命じると、主税助も同じ考えだったようだ。頷いて砲兵達に命を下して行く。


腹もこなして置くか。

後方の荷駄部隊に握り飯を用意させよう。

腹が減っては戦は出来ぬからな。 




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