第百三十五話 決着




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡八束穂 松平軍本陣 松平 元康




目の前に地獄が広がっている。天魔に刃向かった報いを受けているのだろうか。先程まで、其れもほんのつい先程まで勢いよく突貫をしていた味方の兵が次々と倒れていく。矢傷に倒れるのではない。火炎に身体を焼かれ為す術もなく死んでいくのだ。今まさに身体から火を上げ、叫び泣いている者もいる。退けばすぐ其処に川がある。既に雑兵達は我先にと逃げている者もいる。一つとなって進んでいた手勢が音を立てる様に崩れている。


此処は此の世なのだろうか。見ているものが信じられず暫し傍観していると、鼻を曲げる様な臭いで我に返った。人の焼ける臭いだ。

「殿。これでは戦になり申さぬ!此処は再起のため退きますぞ」

石川与七郎が他の選択肢等無いとばかりの物言いで儂に決を促す。

「再起か……」

再起等出来るのだろうか。決死の突貫をしていたのだ。其の突貫が見事に砕かれた。皆の心は随分と折れただろう。儂とてそうだ。此れが儂と参議の差なのだろう。


「申し上げまする!北西方面より敵の新手約一千!我等に迫っておりまする」

駆け込んで来た使いが至急の知らせをしてくる。相手は今川参議だ。ニの手三の手があると思うた方が良い。あの参議が手を緩めるわけが無いのだ。

「旗印は!?」

与七郎が使いに続きを促す。

「はっ!舞鶴に三頭右巴でありまする」

「舞鶴に三頭右巴……。庵原安房守だな。我等の横腹を突いて来たか。参議が儂の首を獲りに来させたのじゃ」

「なればこそ逃げまするぞ!殿、お急ぎ下され!退路が塞がれかねませぬ」


"掛かれ掛かれぇい!"

”松平の大将は此の先ぞ!”

新手の出現に味方の兵が逃げ足を早める。完全に潮目が変わっている。逃げた所で最早何処まで行けるだろうか。

「与七郎」

「はっ」

「儂は此処を最後の場所としたい」

「殿!」

「成りませぬぞ!」

「左様!」

与七郎だけでなく平岩七之助や米津三十郎が反対の意を述べてくる。


”ズダダダーーーン!!”

正面から今川の槍と鉄砲隊も迫って来た。既に僅かとなった手勢が必死に儂を守る。


「松平次郎三郎元康、敵に背中を見せて討たれたくない。最後まで今川と戦こうて華々しく散ってくれる」

「殿!」

「言うな!不満ある者は残らずとも良い」

与七郎が涙を流しながら儂の顔を見てくる。儂の思いが伝わったか、もう退けとは申して来ない。

「皆の様な忠義者に囲まれて儂は果報者だった」

「殿……。」

与七郎が目に雫を浮かべて儂の顔を覗いている。儂が“先に行け”と今川の陣の方へ向けて首を向けると、思い立った様に大きな声を上げて今川の陣に突っ込んで行った。


”松平の御大将とお見受け致す!”

今川の兵が近くに迫って来た。

「殿をお守りせよ!」

最後まで儂のために尽くそうと残った者達が今川兵に立ち向かって行く。既に多勢に無勢となっている。味方の兵が最後の抵抗をして今川兵を幾らか討ち取るが、次第に此方が削られていく。武勇を誇る我が家臣達が次々と散って行くのが見えた。




「次郎三郎殿とお見受け致す」

残っている者がほとんど儂だけになった頃、胴丸の鎧を身につけた将が近寄ってきた。佇まいに何処となく品がある。今川の名のある将だと感じて顔を覗くと、よく見知った顔だった。

「……安房守殿。ご無沙汰してござる」

「最早其の方を守る者はおらぬ。大人しく縄に付かれよ」

「其れは出来ぬ。儂の為に散っていった者の為にも、生きて虜囚の辱しめは受けぬ」

儂が応えながら刀を構えると、安房守殿の周りにいる兵達が儂の方へ斬りかかる姿勢になった。安房守殿が"待て"と制している。

「左様でござるか。ならば最後に申す事はござるか。御屋形様への言伝てでも良い。承ろう」

参議への……龍王丸さまへの言伝てか。何かあるだろうか。沢山話したい事があるような、さりとて何か、一言にしようとすると言葉に詰まる。


「……疲れたと」

不意に力が抜け、自然と言葉が出てきた。

儂の応えに安房守殿が驚いた顔をした後、同情する様な顔をする。安房守殿は仁徳の将だ。儂の事もよく知ってくれているし胸中を察してくれたのかも知れぬ。微かに垣間見えた表情を嬉しく思うた。

「許されるなら来世では御供に加えて欲しい。此後は冥土にて覇道を見守っているとお伝え下され」

「……承った」

同情する様な顔を強くして、ゆっくりと安房守殿が頷く。さて、最後の戦だ。刀を握る手に今一度力を込めた。


「参りますぞ」

儂の言葉を受けて安房守殿が手を上げる。儂が僅かに動くと、安房守殿が手を振りかざしながら"掛かれ"と号令する。


瞬く間に幾つもの槍や刀で斬り付けられた。

死に場所を求めていただけだ。散った家臣達には悪いが、もはや安房守殿や今川の兵を傷付ける必要も無い。形ばかり刀を向け、後は今川兵にされるがままにしていると、儂の意を察した安房守殿が"お見事にござる"と述べた。




認めてもらえた様な、悪く無い気持ちの中で目を閉じた。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 丸山 織田勢本陣 佐久間 信盛




前線で総攻めを行っている柴田権六が遣わして来た使いが現れ、敵の二陣に斬り込みを始めたと報せてくる。味方は夥しい被害を出しながらも、少しずつ敵を押し始めた。だが、敵の二陣も頑強に抵抗しているらしい。敵味方が入り組んで戦っているようだ。味方が敵を圧迫するのは良いが、被害も多ければ直ぐに打ち破れそうな状況でもない。独力で今川を押してはいるが、押し切るのは難しかろう。皆言葉には出さぬが、松平本隊の突貫を気にしている。先程は大分押し込んでいると知らせがあった。


「ご注進っ!ご注進にございまする」

本陣に駆け込んで来た使いが、荒い息を吐きながら声を上げた。随分と急いでいる。大事な知らせに違いない。皆が耳を傾けた。

「今川本隊に向かった松平勢は敵の火攻めにあって総崩れにござる。松平の将は尽く討ち取られ、御大将も討死なさったご様子にございまする!」


”バァンッ!!”

殿が扇子を盤図に叩き付けて立ち上がる。其のまま我等に背中を向けられた。

「松平勢が崩れたとなると、我が方への圧迫が増す。殿、権六が厳しくなりまする」

殿の背中に向かって撤退を仄めかす。松平が崩れた今、織田だけで戦線を維持するのは厳しい。


「申し上げまする!真宗の陣が今川に押されておりまする。逃散する門徒も見えておりますれば、総崩れも近いかと存じまする」

使いによって次々と良くない報せが齎される。最早潮時だな。残念ではあるが此の戦は負けだ。

撤退の命を下して頂きたいが、相変わらず殿は背中を向けたままだ。次郎三郎殿の死を悼んでいるのやも知れぬし、次の策をお考えなのやも知れぬ。いや、両方であろうな。


「五郎左」

「はっ」

殿が背を向けたまま言葉を放たれた。丹羽五郎左が姿勢を正して応じる。

「其の方は急ぎ陣を離れて清洲に行け。清洲で村井吉兵衛と合流し、速やかに上洛すべし。朝廷に和議の仲介を願え。行き違いで戦に至ったが、織田は天文十九年に結ばれた今川との和議を大事にしたいとな。摂家の二條や九條を訪れるのが良かろう。今川を良く思うておらぬ。其れから幕府もな。熱田と津島の土倉を多少脅してでも銭を出させよ」

「御意にござりまする」

背を向け続ける殿に頭を下げた後、五郎左がすぐに陣を後にする。朝廷と幕府を使うか。妙案ではあるが織田の願いを直ぐに聞いてくれるものか懸念があるが……。


「右衛門尉!」

殿が振り反って儂を呼んだ。殿の方へ姿勢を直して応じる。殿は目を赤くして厳しい表情をされていた。

「其の方に殿を命じる」

殿が儂の顔をじっと見て命を下される。

「御意」

本陣に儂が隊を率いて詰めているのは万が一の為だ。殿しんがりの命に驚く事は無かった。

「其の方には二百ばかり鉄砲隊も預ける。初めに築いた柵を上手く使って敵を防げ。其れから最後は岡崎城に入るように」

「岡崎にこざいまするか」

此れは予想していなかった命だ。思わず聞き返す。


「岡崎には松平の城代や家老等、今川憎しの者共が詰めている。奴等には今川に降ったところで先は無い。最後まで戦う事を選ぶだろう。其の方は松平の者らと合力してなるべく長く城を守れ。その間に和議を纏める」

成程。そういう策でござるか。

「相分かり申しました。岡崎にて今川の攻撃を防いでみせまする」

「うむ。松平の残党も岡崎を目指すだろう。それなりの兵力になる筈だ。城から出なくとも良い。刻を稼ぐ事を任とせよ」

「ははっ」

簡単に仰せ下さるが、まず岡崎まで殿をせねばならぬ。

一人でも多くの味方を尾張にまで戻さねばならぬのだ。


「金森五郎八っ!」

「はっ」

「其の方、急ぎ権六の下へ出向いて撤退を伝えよ。その後は右衛門尉の指揮下に入れ」

「御意にございまする」

五郎八が殿に頭を下げてから儂の顔を覗いてくる。

鉄砲だけでなく五郎八も預かれるのか。此れは有難い。

殿が馬に跨って儂に“頼むぞ”と言って退却されて行く。

馬廻りの者達も儂に頭を下げて続いていった。



さてと、今生の別れにせぬよう励まねばならぬ。

己を奮い立たせんと大きな声を出して気合を入れた。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 設楽ヶ原 真宗門徒本陣 下間 頼照




「勝曼寺の一隊が崩れて敵の逆襲を受けておりまする!今川の兵が連吾川を渡河して来ておりまする」

勝曼寺の検分をしていた僧が苦戦を報告しにくると、本陣に詰める僧達の多くが慌て出した。


「此のままでは横を突かれかねませぬ。此処は一度後退し、敵を迎え撃つ陣形に整えるのが肝要かと存じまする」

了親殿が迎撃のための策を献じる。たわけ者が。武士や僧兵ならまだしも、門徒達に殿の様な戦が出来る筈も無い。一度後退を命じれば退却としか思わぬ筈だ。了親殿の策は絵に描いた餅に過ぎない!

「其の様な策が上手く行くとは思えませぬ。既に全軍に突貫の命が下され、本陣の皆が今川に向かっているのでござる。北からの敵には、まだ渡河していない部隊を差し向けて防ぐ方が良かろうと存ずる」

儂が盤図を指し示して策を献じると、了親殿が立ち上がって盤図を叩いた。


「其れでは本陣に万が一があり得まする。本陣に万が一とは、此れ則ち空誓上人に何事かが起こり得るということでありまする。空誓上人に事があれば、三河門徒の崩壊に繋がりまするぞ。此処は上人をお守りする事が何より大事!本陣だけでも下がるべきでありまする!!」

了親殿が語気を強めて持論を展開する。周りの僧達が賛意を示し出した。


「何度でも申しますぞ。此の機に本陣を後退させる等、門徒達が退却と勘違い致しまする。其れこそ全軍が瓦解致しまするぞ。拙僧は反対にございまする。北に一隊を差し向ける!此れしか御座らぬ!!」

儂が積極的な攻勢を具申すると、了親殿が周りの高僧達の顔を見回して不安煽る様に言葉を放つ。

「もし本陣の後退で全軍が崩れる事あらば、本陣だけでもそのまま後退すれば良い。愚僧こそ何度も申しまするが、空誓上人様さえあらば我等は一つとなりて今川に立ち向かえまする」

"左様!"

"其の通りじゃ"

”一度立て直しを図るべしじゃ!”


いかぬ。

此処におる者達はまるで戦を分かっておらぬ。

織田と松平と組んだ此の戦で勝てぬのに、此の後の戦で今川に勝てるものか。ずるずると今川に押し込まれるのが目に見えている。いや、其の猶予さえ無いかも知れぬ。三河は瞬く間に失陥するやも知れぬ。長島とて危うくなる恐れがある。


石山に報せなければならぬ。

仏敵今川……。手強さは朝倉の比では無いな。長尾よりも手強い相手と言えるだろう。



後退の作業に慌ただしくなった真宗本陣を、一人醒めた思いで見ていた。




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