第百三十四話 劫火




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 丸山 織田勢本陣 丹羽 長秀




本陣は鳶ヶ巣砦急襲が失敗したという知らせに暗澹とした雰囲気が立ち込めていた。そんな矢先、先鋒の河尻与四郎が今川の先鋒を討ち取ったと知らせが入った。聞けば天文十九年に今川が尾張に攻め込んで来た戦で、味方を随分と苦しめた部隊らしい。其の部隊を全滅させ、敵の侍大将を討ち取ったというのだ。柵を設けていた守っていた敵陣も合わせて落としたらしい。一進一退を続けていた状況を打破する知らせに本陣は沸き、殿は"此処が攻めどころだ"とすかさず増援を送られた。その影響で今や本陣には僅かな供回りしかいない。金森五郎八、蜂屋兵庫助、毛利新介といった馬廻衆がいるが、纏まった兵は佐久間右衛門尉殿の一隊くらいしかいない。まさに全てを掛けて今川と戦っている。


「報告致しまする」

傷を負った使いが現れ、曇り声と苦しい表情で許しを請うて来た。良い知らせなら幾らか声が上擦る。悪い知らせだと思うた。

「申せ」

「はっ!」

新介が殿の代わりに許しを与えると、使いが意を決した様に大きな声で応じた。

「敵の二陣へと強襲した池田隊でございまするが、敵の反撃にあい壊滅。池田殿、御無念にございまする!」

「……なんと」

思わず言葉が出るが、衝撃の余り先の言葉が出てこない。勝三郎が討ち死するとは。信じられぬ。殿の表情を伺うと、僅かに眉が動いただけで御顔に変わりは無かった。殿の横に立たれている右衛門尉殿の表情は無念そうだ。

「どうして負けた。勝三郎はどのようにして死んだのだ。分かるか」

殿が使いの目をじっと見て報告を促している。近習の死を悼む気持ちもあろうに、先ずは事を把握されようとする斯うした殿の成されようは感心を覚えるものがある。


「はっ。敵方の右翼、其の二陣は砂が入った袋を積み上げて陣を設けておりまする。即席の代物の様ではありまするが、乗り越えようにも中々の背で、火矢を放っても水を含んでいるのか直ぐに消えまする。厄介な陣を前に、無理な力攻めは避け、東方面に進んだのが池田隊にござりまする。敵の陣の背が低くなったところを越えて進みましたが、其の先に敵が長槍の隊を配置しており、奮戦空しく討ち取られてござりまする」

「長槍とな」

「はっ!殿がご用意された三間半の長さと同じ程度の代物にござりまする」

「相分かった」

短く殿が応じられ、無言になられる。お考えをなさる時の表情だ。急かさず、静かに下知を待つ。


「申し上げまする!!」

また新たな使いが現れた。顔に筋の様な血痕がある。鎧の裾板にも割れ目や傷痕が目立つ。砲弾飛び交う戦場、前線からやって来たのだと思うた。

「申せ」

新介が許しを伝えると、使いが姿勢を一層正して応じる。

「はっ!森三左衛門尉殿、今川の砲撃を受け、傷を負われておりまする。此れを受けて今川の右翼、二陣へ突貫の御味方は一旦後退して態勢を整えているところにござりまする。森隊の指揮は河尻与四郎様が合わせて執っておりまする」

「三左までもがやられたか。命に別状はないか」

「恐らくといったところにございまする」

結構な深手なのかもしれぬ。使いの反応に右衛門尉殿が溜息の様な声を漏らされる。相次ぐ悲報に与四郎の奮闘に熱気を帯びていた本陣の雰囲気が急に冷めていくのを感じた。


“殿っ!!”

声のする方を振り向くと、簗田出羽守殿が此方に駆け寄って来ていた。近づいて来た出羽守殿に、殿が顔を僅かに向けて発言を促す。

「今川の本隊が現れ申した。丸山の南東……、此処でござる。松平の本隊が敵の本隊に向けて決死の突貫を掛ける模様でござる」

出羽守殿が盤図を指さして松平勢の動きを知らせる。敵の二陣の先ではないか。二陣を敗れば其の先には今川参議がいるという事か。……だが二陣には敗れたばかりだ。殿がどうなさるか……。


「今一度敵の二陣に攻め掛かる。総攻めじゃ」

殿が決意の御顔を浮かべながら今川の二陣の真ん中を扇子で示された。

「かなりの被害が予想されまする」

右衛門尉殿が淡々と言葉を放つ。総攻めに反対する様子ではない。副将として言うべき事を言ったといった感じだ。今川参議は常滑だけでなく熱田も津島も締め付けに来ている。此処で退いた所で先は苦しくなるだけだ。右衛門尉殿も退くに退けぬ状況だという事をご承知なのだろう。


「百も承知だ。良いか。一箇所に纏まれ。一つに纏まって攻めるぞ。刀で砂袋とやらを破るなり、剥がして組み直すなりして乗り越えよ。屍さえも踏み越え行けば打ち崩せるはずだ。松平が頑張っているのだ。織田も遅れを取るわけには行かぬ。今川に楽をさせるな」

殿が言葉を放たれてから立ち上がられた。自らも踏み込まれる御積もりなのだろう。

我等は殿に従い、今一度桶狭間が起きる事を信じるしかない。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡川路村 今川軍左翼吉良勢本陣 吉良 義昭




「上野介様!」

名を呼ばれて振りかえると、最前線にある陣の一隊を率いている筈の二俣近江守持長がいた。

「近江守殿ではないか。如何致した」

儂が問いかけると、近江守が言いにくそうな顔をする。内密の話しか。本陣とて喧騒の中だ。何処まで皆に聞こえるか分からぬが、相手が念を押している。廻りに漏れぬよう井伊彦次郎殿とともに近江守の方へ近寄った。


「弾薬が尽き欠けて御座る。替えの鉄砲も乏しくなって来ておりまする。手持ちの装備では後半刻と持たぬ。此れを兵達が知らば士気に関わり申す」

耳打ちをするように近江守が話す。成る程。其れで自ら本陣に来て、しかも声を潜めているのか。近江守の隊は最初から鉄砲を使っているからな。弾切れや鉄砲の煤詰まりも多いのだろう。煤詰まりを掃除している余裕など戦場であるはずも無い。其処で御屋形様が“兵数以上に鉄砲を作れば良い”と、誰にも思いつかぬ事を仰せになり、今や部隊によっては兵の数よりも鉄砲を多く与えられている。二俣隊には此れに加えて、何度か補給もされた筈だが追いつかなんだか。今一度補給をしてやりたいところだが、荷を積めている松楽寺の輜重隊からは軍備が底を尽き欠けているとの報せがあったばかりだ。勝楽寺の輜重隊は本隊に補給願いに向かったとの事だが、荷駄が届くまでには刻が掛かる筈だ。其れに本隊とて余裕があるとは限らぬ。其れだけ此度の戦は大量に武器弾薬を使うていると言うことだ。


「苦しいの。坊主の勢いに陰りが見えて来たと言うのに、此処で砲撃が止めば敵は盛り返すじゃろう。左翼は右翼に比べて鉄砲の出番が少ない。まだ余裕がござろう。砲弾と換えの鉄砲の一部を抽出して届けさせるしか手は御座らぬ」

「其れとて付け焼き刃にしかならぬな」

「左様。なれど、やらぬよりは良いで御座る」

つい心情を吐露すると、彦次郎殿が優しく、諭す様に話してきた。大将が申す事では無かったな。

「相済まぬ。愚痴を申している場合では無かったな」

自分の非を認めて詫びていると、使いが駆け込んで来た。また物資の催促だろうか。溜息が出そうになるのを堪えて使いに要件を述べさせる。


「はっ!御味方右翼側、一向衆に撤退の動きがありまする!敵の一部が崩れて逃散するように退いておりまする」

「何だと!?」

右翼という事は近江守がいた陣の方ではないか。

「敵が誘うためにしている恐れはあるか」

「門徒達は競うように逃げておりまする。策を演じているようには見えませぬ!」

使いの男が力強く応じる。そうか。崩れたか!

「上野介様。某、隊に戻って川を渡り、敵の追撃を行いまする。銃剣なれば弾は要り申さぬ」

「うむ。其れがよかろう。付近の将にも渡河を命じるように致す」

「はっ!然らば御免」

近江守が駆けるようにして陣を去っていく。


「此れは大きいの。寸でのところでござった。敵の撤退が策で無いのであれば、大勢は決しまする。機を失わずに総攻めされるのが宜しいかと存ずる」

彦次郎殿が儂に向かって決を迫って来る。

「其の通りじゃな。誰かあるっ!!!」

守りから攻めに転じようとしている。苦しかった局面が変わろうとしているのだ。此のまま坊主を押し切れれば味方は勝ち戦になるやも知れぬ。


使い番を呼ぶ声に思わず力が入った。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡八束穂 今川軍本陣 今川 氏真




「松平の本隊が此方に向かっておりまする!」

伊豆介が皆に聞こえるように告げる。本陣にいる将達が”掛かったか”という顔をすると共に、真剣な表情を浮かべる。生死を掛けた戦が迫っているのだ。其れが分からぬ将は此処にいない。

「槍襖で敵の突貫に備えよ!槍隊の後ろは鉄砲隊だ。槍隊の迎撃を鉄砲で掩護せよ。良いか!!敵は死物狂いで来るぞ!くれぐれも油断するな!」

盤図の上に置かれた駒を自ら動かして大きな声で下知をする。皆が畏まって応じた。陣形に関わる将が本陣から立っていく。


”ハパァーーン!”

狼煙が三発放たれた。計画通りの陣形を敷けという合図だ。狼煙を受けて、各部隊が速やかに動く!淀み無い動きだが、その間にも松平の本隊が迫って来る!時の流れが随分と遅く感じる。自分の鼓動が早い。此れ程鼓動が早くなる事は武田との戦でも無かった。焦るな。大将はじっと構えるものだ。皆に気取られぬよう努める。




”ズダダダーーーン!!”

鉄砲隊の砲撃が始まった。味方の砲撃を受けて松平の先鋒が崩れるのが小さく見えた。此の本陣から松平の本隊に向けてなだらかな斜面になっている。お陰で敵の動きが見える。

”ズダダダーーーン!!”

凄まじい砲撃を受けながらも、松平の本隊が中央を厚くして突貫を試みて来るのが分かる。必死に駆け上って来る。松平の幟旗らしきものが見えた!竹千代がいるかも知れぬと思うと不思議な気持ちだ。


「中央が押されておりますな。敵も必死なれば勢いがありまする」

伊豆介が遠くを眺めながら傍らで呟く。

「策を仕上げるには都合が良かろう。後は頃合いをどうするかだな」

俺が淡々と呟くと、陣にいる石貝十郎左衛門や一宮左兵衛尉が鬼神でも見ている様な表情で俺を見て来る。

……そろそろかな。


「関口刑部っ!」

「ははっ」

俺が本陣に詰めている関口刑部少輔を呼ぶと、幾らか緊張した面持ちで刑部が応じた。

「出番が来たぞ」

刑部少輔からは松平の部隊に一撃を与える機会が欲しいと懇願を受けていた。元康が突っ込んで来るならと考えていた“仕上げの策”に一人必要だった。此の任は松平に思う所ある者の方が務まるだろう。刑部なら適任よ。

「御屋形様のご配慮有難く存じまする」

「先にも申したが、全ての責は余が負う。其の方は余の命を遂行することだけを考えよ」

「ははっ!」

刑部が俺の顔をじっと見て応じる。ゆっくりと、だが大きく頷いてから“行け“と促すと、刑部が覚悟を持った表情をした後、俺の指示通り火矢部隊と荷駄部隊を率いて出ていった。






本隊の第二陣と松平本隊の交戦が始まった。互いの陣の先頭にいる槍部隊が激しく穂をぶつけ合う。

"掛かれ掛かれぇい!!今川参議は目の前ぞ!"

"討ち獲れば恩賞は思いのままぞ!"

松平の侍大将だろうか。兵を鼓舞する声が此方まで聞こえて来る。直ぐ其処にまで敵が迫っているのだと感じた。松平の幟旗も先程より近くに迫っては来ているが、元康の顔を肉眼で確認出来る距離ではない。此れ以上我が方へ詰めるのは無理だろうな。家臣に翻弄されただろう男の顔を拝んでやろうと思ったが叶いそうに無い。ま、元康も頑張った方だろう。


"うわぁ"

"なんじゃ!つ、冷たいぞ"

関口刑部が率いている荷駄隊が柄杓を思い切り振って油を撒いていく。味方の槍部隊と松平の槍部隊を越えてその後ろ辺りにいる敵兵に掛かる。油が掛かった敵兵が何事かと驚いた様に声を上げている。相楽油田の油は超が付くほど軽質油だ。精製をしなくても石油の様に澄んでいて、投げれば良く飛んでくれる。まるで塩田での水撒きの様な光景になっている。


「弓隊構えぇい」

関口刑部の声が響く。刑部の命を受けて、火矢部隊が矢を放つ構えをする。距離を稼ぐため、兵が弓を山なりに放つ構えをしている。

「放てぇ!」

刑部の命が発せられるや、火の玉を抱えた矢が放たれ敵陣に向かう。矢が敵陣に落ちると、瞬く間に火が燃え広がった。


突然の発火に敵兵が驚き、多くがのたうっている。皮肉な事に、のたうつ度に周りの敵兵に火が燃え広がっていく。今や松平の陣は阿鼻叫喚さながらの光景となっていた。


“ひっ、ひぃいい!”

“熱い熱い熱いっ!!”

“み、水をくれ!た、助けてくれぇ!!!

発狂したような甲高い声が遠吠えの様に此方に聞こえて来る。


燃え盛る劫火を前にして、松平勢の勢いがすっかり無くなった。気概には限度があるからな。

並の将なら此処で手を緩めるのだろが、俺はそんな事しない。他の陣の味方が苦しんでいるのだ。早いところ松平を始末出来るなら都合が良い。此処で手を強めるとは、後で何と噂されるか分からぬが、もう言われているようなものだ。今更鬼神と思われようが天魔と呼ばれようが構わぬ。効率を最優先しよう。


「目の前にいるは逆賊ぞ!手を緩めるな!!」

俺の命を受けて、油を撒いている兵達が緩めていた動きを再び早める。




“火に油を注ぐ”という諺の状態が目の前で起こっていた。



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