第百三十三話 突貫
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 五反田川近郊 今川勢本陣 今川 氏真
「報告!」
川を渡り終えて隊列を整えていると、使いや荒鷲が続々と現れて戦況を報告してくる。今また新たな使いが現れた。続々と寄せられる知らせを受け、本隊がどの方面に向かうべきか思案していた。
「申せ」
庵原安房守が使いに向かって返答をしている。俺はと言えば、伊豆介が“移動時にも見る事が出来る様に”と即席で書いてくれた地図を眺めながら考え事だ。
「はっ。丸山方面で織田の先鋒を迎撃していた渡辺隊が全滅致しました。今は第二陣の山本隊が敵にあたっておりまする」
平三郎が死んだ?思わず地図から目を離して使いの顔を見る。鉄兜に第一師団の文字がある。府中親衛隊の者だ。仲間の死を悼んでいるのだろう。悲壮な表情をしていた。
「平三郎が逝ったか」
平三郎とは初めての上洛から共にした仲だ。自然と心が痛んだ。俺が絞り出すように呟くと、使いが俺の心中を察した様に頭を下げる。
「供養をしたいところだが、其れをするのは戦が終わった後だ。権兵衛が頑張っていると申したな。大丈夫か」
「はっ。渡辺隊が敵の攻撃を防いでいる間に土嚢で陣を構築しておりまする。また、岡部丹波守殿が安倍大蔵尉殿の隊を援軍として遣わした事も相まって、今のところ十分に敵の攻撃を防いでおりまする」
「で、あるか」
別の報せでは松平の本隊が渡河を始めたとの事だった。やはり本隊は織田と松平に当たるのが肝要だろう。吉良も坊主の大軍を前に苦しい戦いをしているが、戦況は好転している様だ。独力で何とかできる筈だ。
平三郎の戦死は痛いが、お陰で二陣が頑張っている。織田勢の手当ては少しばかり援軍を送れば何とかなるかも知れぬ。……となると竹千代をどうするか、だな。
「松井兵部少輔っ!」
「此方に」
「右翼の二陣が崩れては苦しくなる。其の方、丸山方面に急ぎ向かって味方を援護せよ。遠江衆と親衛隊の槍部隊を連れて行け」
「御意にございまする」
「余は松平の対応をする。仇敵織田への復讐は其の方に任せたぞ」
「ははっ!」
俺の言葉に兵部少輔が一際大きな声で応じて陣を出ていく。
「皆、余の下へ集まれ」
俺が声を上げて馬を下りると、すかさず近習が馬を預かった。俺の指示に諸将が同じようにして馬を預け、俺の下へ集まる。戦略方を担っている者達が俺の動きを察して組み立て式の机を用意している。阿吽の呼吸が良いな。手塩にかけて仕込んだ甲斐がある。さて、机に地図を広げて即席の野戦会議だ。机を囲うように皆が集まる。中々いい景色だ。将来この風景を絵にさせよう。国宝になるのは間違いないな。
「皆も聞いての通り、織田勢の攻勢は熾烈の様だが、岡部丹波守が遣わした府中親衛隊と駿河衆が奮闘している。松井兵部も派遣した故、右翼の戦線は持ち堪える筈だ。故に本隊は松平勢の迎撃に注力する。だが、真正面から向かっては消耗戦になる。其処で一つ試したい策がある」
「試したい策?」
庵原安房守が少し笑みを含んだ表情で“何を成さるつもりで”と呟いてくる。
「まぁ聞け。松平勢の攻撃には丹波守に預けた府中親衛隊と駿河衆が当たっている。此処と此処だ。此の陣と陣の間には隙間がある。此れを使う。敵に圧されている様に装って兵を北と南に退かせて隙間を広げる。隙間が広がった頃を見計らって本隊が織田勢の方に向かうのだ。毛氈鞍覆や傘袋、馬印まで此れみよがしに松平に見せつけてやれ。竹千代が……、元康が此れを見てどう出るか。釣られて突っ込んでくるやも知れぬ。我が本隊に向かってくるのであれば、皆で反転して此れを迎え打つ!来ぬのなら織田と松平が連合している此の小隊を潰し、北から松平本隊へと向かって元康の本隊を潰してくれる」
俺が地図をなぞり叩くと、皆が大きく頷いた。異論は無いようだ。井伊平次郎が"面白そうではありませぬか"と呟く。皆が"やりましょうぞ"と声を上げた。
「伊豆介」
「はっ」
傍らに控えている伊豆介に声を掛けると、真剣な眼差しで応じた。
「岡部丹波守に使いを出して策を説明してくれ。北の陣にいるのは井上但馬守だったな。但馬守にも続けて知らせを頼む」
「御意にござりまする」
「丹波も但馬も引き際の匙加減が難しいだろう。多少大袈裟でも構わぬ。兎に角隙間を作れと伝えよ」
「委細御意にござりまする」
「安房守」
「はっ」
「其の方は三河衆を率いて本隊のやや前を進め。松平が策に掛かったら反転して横腹を突け」
「御意にござりまする」
「内匠助も安房守に付いていけ」
「ははっ」
側用人の三浦内匠助は将来家老になる。今の内に戦の経験をさせておきたい。本隊にいるよりも前衛にいる方が良い経験が出来るだろう。其れに安房守なら内匠助を上手く使う筈だ。
元康……。
俺の方に来るか否か。
十中八九来るだろう。二度と松平が再起出来ないよう完膚無きまでに叩いてくれる。
「逆賊を叩く。逆賊の者どもを一人たりとも川向うへ戻すな。余に刃向けるという事がどういう事か知らしめよ」
「「ははっ!!」」
俺の言葉に、幕閣の皆が大きく呼応した。
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 設楽ヶ原 真宗門徒本陣 空誓
「勝佑上人からの使者が来ておりまする」
「通しなさい」
私の許しを経て近習が使者を連れてくる。ほぅ……これは。
「信佑ではないか。如何致した」
上宮寺の住職である勝佑上人の息子である信佑が使者として来た。それだけ大事なのだろう。内容は大方予想が付くが……。
「父からのお願いをお伝えに参りました」
「うむ。聞こう」
「上宮寺に連なる門徒は決死の突貫を致しておりまする。今こそ全軍で進む時にございまする。何卒本陣を前へお進め下され」
信祐が切実な表情で訴えて来る。
「お待ち下され。上宮寺の攻勢によって今川の陣に若干の乱れはござれど、まだ崩れているところはありませぬ。今少し門徒に奮起してもらわねば本隊突入の機にはならぬかと存じまする」
了親が大きな声を上げて皆を説得するように話す。陣内にいる高僧の何人かが頷いて応じている。すっかり一派を作ってくれておるな。
「了親殿!既に我が門徒は決死の思いで突貫を続けておりまする。敵の凄まじい砲撃に崩れる隊もある中、全軍で突貫を続けておる状況なれば、今以上の勢いを作るは難しゅうありまする。後は本隊の突入で今川を圧迫するしかありませぬ。空誓上人、平に、平に御決断を願いまする」
声を嗄らして信祐が訴えてくる。
「いやいや、そこは真宗門徒の……」
「信祐殿の申す事やその通りかと存ずる。本隊の突貫は速やかに行うべきでございまする。遅れる事に我等の勝利が遠のきますぞ。其れとも空誓上人は劣勢になった際は戦わずして引かれる事をお考えでありますかな」
了親の言葉を遮って下間筑後法橋が言を放つ。無礼な法橋の物言いに何人かの僧が騒いでいる。
「上宮寺の門徒の勢いが既に無いのであれば、此処は本隊が突貫したところで状況は苦しいかも知れませぬ。今暫く様子をみるのも手かと存じまする」
円光寺の順正が皆を眺めながら言を放つ。
「何を申される。左様な事をすれば忽ちに勢いは今川に持って行かれ申すぞ。此の戦は源平の戦における倶利伽羅峠の戦いにござる。此処で勝たねばずるずると今川に勝ちを取られましょう。我等の行くところは壇ノ浦になりまするぞ」
順正の発言を非難するように筑後法橋が語気を荒げる。信祐も法橋の言に頷いている。
“壇ノ浦になるとは言葉が過ぎますぞ”
“左様!我等はまだ本拠にも門徒がおりまする”
“いや、法橋殿の申す事も尤もじゃ”
“何を申される!”
筑後法橋の物言いに皆が声を荒げる一方で、強硬派の一部が法橋に同意し始めた。
「本證寺門徒を無為に死なせる訳には参りませぬ。此処は慎重に……」
「了親殿は日和られたか。勝曼寺の門徒も上宮寺の門徒も進めば極楽の言葉の下に進んでおるのでござる。本證寺の門徒だけ無傷で帰る訳には参りますまい。ならば戦うしかござらぬ。そして戦うなら直ぐにでも本陣を前にする必要がありまする。空誓上人、重ねて申し上げまする。本陣を前に出されませ」
筑後法橋が鬼気迫る表情で具申をして来る。法橋の傍らには上宮寺の信祐がいた。信祐も厳しい表情で儂に訴えて来ている。確かに我が寺の門徒だけ無傷で帰る訳には参らぬ。儂の立場が無くなる。其れに帰るのではない。此処で仏敵今川を撃滅するのだ。……うむ。突貫が必要だな。
「具申相分かった。其処に今川がいて叩かぬ訳には行かぬ。本隊も全軍で今川に向かう。良いな」
「……ははっ」
「はっ!」
儂の言葉に皆がまばらに応じた。
本隊は何時の間にか一枚岩では無くなっていた。
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 丸山 織田軍先鋒 池田 恒興
凄まじい鉄砲の射撃に、味方の兵が次々と倒れる。渡河を終えた味方の鉄砲隊が応射をするが、敵は鉄砲を放ってはすぐに陣に隠れてしまうので当たらない。まるで土竜だな。厄介な奴等だ。陣を越えて攻めたい所だが、中々背がある。
「これでは被害が増えるだけじゃ!側面に回り込むぞ!儂に続け!」
声を張って周りにいる兵達に伝える。幾つもの戦いを共にした手練ればかりだ。直ぐに近くへと集まって来る。皆を引き連れて東の方へと向かう。走る間にも撃たれて倒れる者がいる!
「立ち止まるな!行くぞ!」
「「おぅっ!」」
東方面に走り続けると、積み上げられた麻袋のような陣に切れ目が見えた。陣の背も低くなっている。今少し向こうへ向かわば越えられると思うた。敵の鉄砲隊も此方までは配備仕切れなんだか、散発的になってきている!
「よし、彼処から行くぞ!続けぇい!」
袋が二、三段と、申し訳程度に積まれた陣を駆け越える。此のまま回り込んで敵の背をっ……!?
少し先に隊列を見事なまでに整えた敵の槍部隊が視界に入った。
”総員槍衾ぁぁっっ!構えぇい!”
敵の侍大将の大きな声が聞こえる。
敵は既に此の方面を手当てしている。いや、もしかすると此方に誘い込まれたかも知れぬ。
三間はあろうか。敵兵が長槍を持って槍衾を作っている。
味方の長槍隊が持っているものと変わらない長さだ。本陣の兵になら長槍もあるが、先遣隊に長槍を持っているものはおらぬ。どうするか。一度引くか?一先ず味方の兵を立ち止まらせて考えを巡らせる。長槍は重いからな。穂先を叩いて近くに走れば勝機もある。突っ込むのもありだな。
”槍隊は膝付けぇい!”
敵の侍大将が再び大声をあげると、槍襖を作っている兵達が膝を付いて中腰になった。槍隊の奥に敵兵が見える。鉄砲隊が立ちながら此方に向けて構えていた。此れは不味い!!
「皆、引くぞ!!急げ!一旦引けぇい!!」
”撃ち方ぁぁ始めぇぃ!!”
”ズダダダーーーンッ!!!”
急いで撤退を促すが、駆け出し始めたところで轟音が聞こえる。
「ぐおぉおぉぅっ!」
右脚に何発か当たった。体勢を崩して地面に転げる。痛みが酷い。走りたくても走れぬ!
「殿っ!」
家臣の片桐興三郎が寄って来て儂を背負おうとしている。取り合えず肩を借りて片足で撥ねる様に前へと進む。
“槍隊は立て!続けて槍衾のまま前進。駆け足!進めぇい!”
振り向くと、敵の槍隊が我等に向かって来ていた。かなり早い!敵の陣だった、袋が積み上げられた場所にまで何とか辿り着く。
「興三郎、儂を背負っていては其の方も助からぬ。行け」
「し、しかし!」
「何度も言わせるでない。二人で死んでどうする。其の方は戻って状況を味方に報せよ。敵の増援が現れたとな」
「……殿っ!」
「早う行け!!」
敵の槍兵がすぐ側に迫って来る。もう半町も無い。興三郎が儂の手を僅かに強く握って離れて行った。
今川の砂袋を背もたれにして槍を構える。一人二人位は道連れにしてくれよう。考えている間に敵兵が直ぐ其処にやって来る!
「ぐはぁぁっっ」
敵の長槍が儂の肩と膝の部分を突き刺して来た。何の迷いも無く鎧が無い隙間を狙ってくる。肩から血が溢れ出る。くそう!儂の槍は全く届かない。
右腕に力が入らない!
大切な槍を落としてしまう。
脇差に手を掛けたところで鋭利な穂先が目の前に迫るのが見えた。
其れが最後に見た景色だった。
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 連吾川東 松平勢本陣 松平 元康
「殿っ!」
石川与七郎が此方へ向かって駆けて来る。前衛の偵察から戻って来たようだ。
「如何であった」
「はっ。今川の本隊を発見し申した。
「誠に本隊か。それに数はどうであった」
「三千程と見ました。馬印もありまする。今川本隊に間違いござらぬ」
与七郎の報告に陣にいる者達が静かになる。儂の決を待っているのだ。
「殿、今川の誘いの可能性もありまする。此処は今攻めている敵陣を確と抑えてから……」
「と、殿ーーっ!」
鳥居彦右衛門が話し始めるが、大きな声が此れを遮る。名を呼ぶ方を向くと、渡辺半蔵と蜂屋半之丞が向かって来ていた。
「半蔵と半之丞ではないか。真宗の陣は如何した」
「わ、我等がいた陣は今川の反撃の前に全滅してございまする。今は上宮寺の門徒が攻め掛かっておりまするが勢いは弱まっており、真宗は苦しい戦いを強いられて御座いまする!」
半蔵が面目なさそうに話して来る。そうか、真宗が苦しい状況となったか。やはり此処は行くしかない。
「皆、今川本隊を急襲するぞ」
「「おぅ!!」」
「殿!危険にござりまする」
陣にいる多くの者が呼応する中、鳥居彦右衛門が儂を制しにかかる。
「危険な事など百も承知じゃ。今川の策かも知れぬ事もな。だが此のまま戦っていて此の戦に勝てるか?儂は勝てぬと思う。此の戦で勝つには今川参議の首を獲るしか無い」
「しかし、此れ以上突貫しては退路が無くなりますぞ。よしんば参議の首が取れても戻れませぬ。殿の御命が危のうございまする」
「松平は一門が多い。儂の代わりなど幾らでもおる。だが戻れぬやもとの具申、その通りじゃ。よし。彦右衛門は此処に残って味方を纏めておけ。儂は必ず参議を討ち取る。だが討ち取っても戻れぬやも知れぬ。其の時は其の方が皆を纏めよ。参議さえ討ち獲れば松平に道は開ける。儂が散ったとしても松平は散らぬという事だ。良いな」
彦右衛門が何か言いたそうな顔をするが、儂の気迫を前に黙って首を縦に振った。
彦右衛門に僅かな兵を残して皆で前へと進む。味方が果敢に戦って僅かな隙間を作る。
押し開いた先に今川本隊の馬印が見えた!
儂は死んでも良い。あの参議を討ち取れるのなら構わぬ。だが只では死なぬ。死なば諸共にしてくれる。
策だろうが何だろうと突き進んで見せる。突き進んだ先に活路が有る筈だ。
「目指すは今川参議の首!三河武士の心意気を見せる時は今ぞ!皆掛かれぇい!!」
「「「おぅ!!」」」
儂の言葉に、本隊の皆が今川の本隊に向かって競うように駆け出した。
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