第百三十二話 長篠・設楽ヶ原の戦い 下




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡川路村 今川軍左翼吉良勢本陣 吉良 義昭




「瀬名伊予守様より伝令!」

「申せ」

「はっ!一向衆の部隊で高僧らしい者を撃ち取ったとの事」

「相分かった。敵の二陣らしき部隊がやや北側、右翼寄りに渡河を始めている。後続も多そうだ。伊予守の隊は吉良左兵衛佐の支援に向かうよう伝えてくれ」

「御意にございまする。伝えて参りまする!」

伝令役が駆けて行く。


「門徒の攻撃に緩みが出始めたと思うたが、然るべき者を討ち取ったか。敵の先陣が大きく崩れておる。此のまま人の波が続けば危ないところじゃった」

隣に副将として控える井伊彦次郎殿が息を吐きながら呟く。翁の言葉の通り、先頃から先陣を切ってきた一向衆の勢いが鈍った。何かあったとは思うたが将を討ち取る事が出来たらしい。

「確かに薄氷の上を歩く様でござった。だが、何とか崩したお陰で敵の二陣に対しては厚く構える事が出来そうだ」

「なれど炮烙玉がもう無くなりますぞ。残りは鉄砲で凌ぐしかありませぬ」

押し寄せる一向衆を散々に駆逐した手投げ弾がもうすぐ無くなる。後は鉄砲隊で防ぐしかない。どうするべきか……。御屋形様なら如何されるだろうかと考える。


「此の陣の予備も全て投入しよう。手投げ弾が飛んでこなくなったと敵を勢い付けさせたく無い。持てる鉄砲を全て使うとしようではないか。右翼に兵が回せなくなるが、此処は丹波守殿を信じよう」

思い切った判断を告げると、鵜殿長門守殿や蒲原伯耆守殿が驚いた顔をした。だが批難の声は無い。やがて彦次郎殿が”宜しいかと存ずる”と言を放つと、場が決した。


使いが方々に放たれて陣が慌ただしくなる。

何時の間にか高くに昇った太陽が身体へ照り付けて来る。

暑くはあったが、雨で砲撃が手間になるよりは良いかと思うた。



”御免!御免っ!御免っっっ!!”

本陣を動かす手筈を整えていると、馬に乗った使いが大きな声を上げながら近づいて来た。親衛隊らしき格好をしている。直ぐそばまでやって来ると、親衛隊の腕章が見えた。使いが馬を落ち着かせながら騎乗のまま手を伸ばして敬礼をして来る。余程急ぎなのだろう。刀の鞘に赤鳥と丸に二引の紋が見えた。恩賜の組か。彦次郎殿がにこやかに応じられている。知っている顔なのかもしれぬ。儂も受け礼をして応えた。

「火急の報せにございまするっ!」

親衛隊の使いが大きな声を出す。敢えて皆にも聞こえる様にしているのだと思うた。

「如何致した」

「はっ!松平勢が鳶ヶ巣砦を強襲致しましたが、御味方は此れを悉く撃退してございまする」

"おぉっ!"

"流石御屋形様じゃ!"

陣にいる幕僚達が笑みを浮かべて喜んでいる。一向衆の波に苦しい戦いを強いられている皆の声が明るくなった。


「御屋形様は如何されているのだ」

「はっ!松平勢の残党を暫し追撃された後、長篠城へ御戻りになりました。武具の整えをされてから直ぐ此方方面に向かわれるとの事!今頃は城を出て見えるやも知れませぬ」

「相分かった!此方は全軍で一向衆に当たるところだ。敵の一隊を退けたところだが手投げ弾が無くなりかけていてな。御屋形様が此方に向かわれるとの報せは心強い」

「状況お伝えしておきまする」

使いが儂の言葉に頷いた後、敬礼をして去っていく。


「御屋形様が此方に見えるとしても、丸山方面に向かわれるでしょうな」

彦次郎殿が盤図を見ながら呟いた。

「ま、そうでござろうな。じゃが、御屋形様の兵がお越しになれば織田松平は苦しくなろう。とすればじゃ、我等が坊主に負けねば此の戦は今川の勝利という事じゃ。方々、頑張ろうぞ」

儂の発破に、陣にいる将達が大きな声で応じた。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 丸山 織田軍先鋒 河尻 秀隆




“どうりゃぁぁ!”

何合か打ち合った後、敵将が右隣の味方に気を取られた。僅かな隙が生まれる!逃さず槍を振りかざすと、敵将の右脇から穂先が食い込んだ。人の身体に刺さった時の感触が伝わって来る。

“ごほぉっっ!”

敵将が大量の血を吐いて倒れる。渡辺とか言ったか。見事な迄のしぶとさだった。残った数名の敵兵も味方の兵が討ち取っている。


敵の一隊は最後の一人迄戦いを続けて来た。一人として後ろに引く者はいなかった。お陰で味方に随分と被害が生じた。だが、尾張で見えた時と違って此度は押し切った。討ち取ったのだ。身体中の血が震える様な興奮を覚えた。

「敵将、討ち取ったり!!!」

「「おおっ!!」」

儂が勝鬨を挙げると、味方の兵達が咆哮するように呼応した。


「与四郎!」

「おぉ!三左衛門殿」

名を呼ばれて振り返ると、森三左衛門殿がいた。肩を叩かれる。

「其の方に先を越されたの」

「何の。戦はこれからにござる。まだまだ上げる首は沢山残ってござるぞ」

「左様っ!次は某が敵将の首を獲ってくれましょうぞ!」

後からやって来た池田勝三郎が元気よく叫んで先を行く。

“我が隊も行くぞ。続けぇい!”

三左衛門殿が大きな声で兵を引率して先へと進んで行く。儂も手勢を進めたいところだが少し立て直しをしてからとしよう。其れに一番槍を獲れたのだ。少しは味方に譲らねばやっかみを買う事になる。


目を凝らすと、麻袋の様なものを積み上げて構えている敵の二陣が見えた。我等が敵の先鋒と戦っている間に作ったか。全く、味方を助けず陣を作るとは摩訶不思議な奴等よ。まぁいい。あそこに見えている敵陣を打ち破れば完全に敵の横腹を突くことになる。今川はいよいよ苦しくなる筈だ。此のまま押し潰してくれよう。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 設楽ヶ原 真宗門徒本陣 了親




「勝佑上人の集団が渡河を進めておりまするが、勝鬘寺の集団が崩れたので今川に構える猶予を与えておりまする。此処は本隊の兵を幾らか割いて今川に猶予を与えない事が肝要にござる」

空誓上人の前に広げられた戦地図を指しながら下間筑後法橋が声を上げる。筑後法橋は今川の圧迫を受けて苦境に落ちつつある長島の様子を見るために石山が派遣して来た。伊勢長島におられたが、東三河の攻城戦が今ひとつ停滞しているところと、野戦による決戦になるやもと聞いて飛んで来たらしい。了意上人が戦を急がれたのも此の御方の前で良い所を見せたかったのかも知れぬ。其の御方に真っ向から異を唱えるのは憚られるが、地獄絵図其のものと言って良いあの場所に戻る等とんでも無い。御仁の策を潰さねばならぬ。


「お待ち下され。今は勝祐上人率いる上宮寺の門徒が果敢に突貫をしておりまする。敵は此の攻撃に備えんとしておりますれば、今少し待ってから……そうですな、敵が横腹を見せた所を急襲する事が肝要かと思いまする」

勝祐上人が門徒を率いてせっかく勢い良く突っ込んでいるのだ。本隊が重ねて行く必要等無い。いや、確かに大軍で制する事に理があるやも知れぬ。だが儂は行かぬぞ。行かなくて済む様に尤もらしい意見を具申する。空誓上人の御顔が僅かに頷く様に動かれた。よし、此れなら行ける!


「しかし戦には勢いというものがあり申す。今川は爆ぜる代物で了意上人の一団を退け、正に此れからと思うておるだろう。此の芽を摘む為には全軍で人の束となって押し掛ける必要がある。好機を失ってはならぬ」

「拙僧は何も攻めぬとは申しておりませぬ。筑後法橋様の策よりも、少し間をおいて敵の横腹を突く方が味方の損害も少なく、何より勝利への近道と申しておるのですっ!!」

語尾を荒げて闘争心がある様に装う。儂の勢いに本陣に座している僧達が頷いて応じる。皆も何処かで我が身を可愛く思っている筈だ。儂の策の方が危険は少ない。尤もらしい理さえあれば儂の策に追従する筈だ。

「空誓上人。了意上人は兵を前に出し過ぎて敵に撃たれました。門徒と共に前へ出る事は勇気ある行動でありまするが、門徒の為に前へ出たいと逸る心を落ち着かせ、全軍のために指揮を執るのも此れ又勇気にございまする。あなた様は三河門徒の光なれば、拙僧は此の念を益々強くしてなりません。どうか自重を願いまする」

“了親の儀も尤もじゃ”

“左様な意であれば了親の策の方が良いのではないか”


「空誓上人、確かに了親殿の策にも一理ござる。だが、此処は全軍で攻めるのが吉にござる。畿内、加賀で戦を見て来た拙僧を信じて頂きたい」

筑後法橋が語気を強めて具申される。実績を訴えるが三河者ばかりのこの場で上方を匂わすのは愚策だ。

「全軍で攻めて空誓上人が倒れられたら如何なされる。貴殿が指揮を変わられると申されまするのか。御仁は我々にとって空誓上人が如何に尊い存在かお分かりになられておりませぬ。門徒は空誓上人だからこそ付いて来ておるのですぞ。其処を確と抑えて頂けなければなりませぬ」

儂が空誓上人を擽る一言を申すと、空誓上人が立ち上がられた。


「皆々の意見は分かった。此処は了親の具申を採用したい」

「空誓上人、それでは」

「此れは三河の戦にござる。我々にお任せくだされ」

筑後法橋の言葉を遮って空誓上人が話される。筑後法橋様がまだ意見を述べようとするが、空誓上人が制される。空誓上人の決断を受けて皆が頭を下げる。よし、何とか本隊の前進は阻めた。


安堵した表情を皆に見られまいと頭を一際深く下げた。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 連吾川 松平勢本陣 松平 元康




「殿っ!」

本陣を連吾川の手前に前進させ、この先をどうすべきか戦況を眺めて思案していると、平岩七之助の声がした。振り返るとやはり七之助だ。此方に向かって歩んでくる。

「七之助か。戻ったか」

「はっ。只今鳶ヶ巣砦を急襲して戻ってまいりました」

苦虫を潰した様な顔を浮かべて七之助が膝を付く。血と泥で鎧が随分と汚れている。何となく先を察したが、聞かない訳には行かぬ。“聞こう”と呟いて報告を促した。


「砦急襲は完全に今川に読まれておりました。すぐに方々を敵に囲まれ兵を引くことになり申した。酒井、天野、阿倍の三名が殿について御座いまする。恐らく……討ち死にしたものと思われまする」

“なんと!”

“小五郎殿までも”

幕閣の皆が驚いて声を上げている。儂も一人であれば泣きたいところだった。府中の苦節を共にした多くを失った。……そうか。今川参議に策は読まれていたか。悔しさが無いわけでは無い。悲しみとて多くある。だが、何処かで納得している様な気持ちがあった。複雑な気持ちだ。家臣達に知られる訳に行かぬ。小五郎や又五郎の死を想って苦衷の表情を装った。


「兵は如何ほど連れ戻った」

「はっ。二千は率いておりまする。織田様から預かった部隊はほぼ無傷でお返ししておりまする。今頃は織田軍の陣に着いている頃かと存じまする」


「相分かった。ならば共に参れ。我等は目の前にいる今川勢を叩くとしよう。中央を制すれば北の織田殿、南の真宗と連携を取る事が叶う。急ぐぞ!今川参議が来る前に川を渡る!」

「殿、本陣まで渡河するのは些か尚早ではありませぬか?兵を引くのが難しゅうなりまする」

小姓として控えている鳥居彦右衛門尉が意見を具申してくる。彦右衛門は鳥居伊賀守の子になるが、伊賀守によく似て物怖じせず何かと具申をして来る。

「此度の戦、松平に兵を引く選択は無い。ならば進むだけだ。岡崎に戻りたい者がおれば此処に留まるが良いぞ」

「殿、某はその様なつもりで申した訳では」

彦右衛門尉が顔を朱くして荒げた声を出している。儂より少し歳が上の筈だが分かりやすい時がある。

「分かっておる。じゃから行くぞ。皆もじゃ」

儂が皆を急き立てると、皆が決意の顔を浮かべて応じた。




参議の、いや、これはもっとお若い顔だ。龍王丸さまの御顔がまた脳裏を過った。

ふと、自分が渡ろうとしている川は三途の川ではないかと思えて来る。

川の先では新たな策が待っているのでは無かろうか。次から次へと不安が過って来る。


元康!弱気になるな。何度目になるか分からぬ自分への奮起を促す。

御爺様なら迷わず川を渡って敵陣へと突っ込む筈だ。父とてそうするだろう。

儂は松平の当主ぞ。

三河から今川を駆逐し、祖父よりも松平を大きゅうして見せるのだ。

圧し潰されそうな緊張と胸の高鳴りを抱えて前へと歩みを進める。


脚が川の水に浸かる。

……三途の川か。

其れもいいかも知れぬ。狂った様な気持ちを抑えながら前へと歩みを進めた。




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