第百三十一話 長篠・設楽ヶ原の戦い 中
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 天神山近郊 酒井 忠次
遠くから轟音が聞こえている。鉄砲の音だろう。設楽ヶ原とは随分と離れているが、此処まで聞こえる程の砲撃がされている。織田か今川か。今川の砲撃だろうと思うた。
今川が鉄砲を撃つという事は、御味方の何れかが攻撃を開始した事になる。払暁迄は僅かに早い。松平のものが抜け駆けするとも思えぬ。功を急いて掛かったとなると真宗の誰ぞが掛かったか。
「少し早くに始まり申したな」
長谷川右近殿が儂に向かって呟いた。右近殿は織田上総介様が付けて下さった鉄砲隊を率いている。
「そうですな」
「如何されまするか。もう始められまするか」
織田勢を率いるもう一人の将である、佐々内蔵助殿が儂に問い掛けて来る。
「いや、暫くだけ様子を見よう。敵が砦を出て設楽ヶ原方面に行くなら横腹を突きたい」
佐々殿に応えると静かに頷いた。承知してくれたようだ。
"ドドドォォォォンッッ!"
轟音の質が変わった。鉄砲よりも幾分重たい音が轟く。雷鳴の様なごろごろした音が響く。設楽ヶ原での様子が気になったが、今川参議の首に勝るものは無い。目の前の事に頭の中を切り替えた。
「小五郎殿。砦近くにまで近付いて確かめて参った。敵は戦支度をしておる様にござる。今にも砦を打って出そうじゃ。設楽ヶ原方面の援軍に向かうのかも知れぬ」
悪戯小僧の様な表情を浮かべながら現れた天野又五郎が囁く。
「見つかってはおらぬだろうな」
「儂のすばしっこい所は小五郎殿がよくご存知でござろう」
「分かった分かった。なれば敵が門扉を開けて出陣して来た後、少しだけ待った後に斬り掛かる」
「鉄砲の攻撃は味方を巻き込む可能性がある。先に撃ち掛かろう」
「相分かった。ならば鉄砲隊による一斉砲撃の後、敵に斬り掛かるとしよう。その後は開いている門扉から砦内に突貫、今川参議の首を獲るっ!」
「「承知っ!」」
又五郎や他の松平諸将だけでなく、織田の将も皆が頷いている。つい先日まで敵であった織田の将と共に戦うのは不思議な気持ちだ。だが、今川の手伝い戦に駆り出されるより良い。此れは松平のための戦なのだ。
”小五郎殿、あれを”
隣にいた平岩七之助が儂の肩をそっと叩きながら砦の方を指し示す。示された方へ視線を向けると、搦手門が開けられ、敵の兵が行軍を始めていた。西の方向へ向かっている。殆ど槍武装の兵達だ。鉄砲隊は粗方設楽ヶ原方面に送っているのだろう。先の戦で尾張から落ち延びて来た兵達が砦に籠もっているのかも知れぬ。
「長谷川殿に佐々殿。鉄砲隊の準備は如何か」
「弾込めは終わっているが、少し距離がある。今少し近付きたい」
「しかし、これ以上近づくのは悟られる可能性がござるぞ」
「うつ伏せで近付く。悟られた場合はその時よ。皆で撃ち掛かるゆえ、敵が動じた所を突撃してもらいたい」
右近殿が決死の表情で儂に話し掛ける。織田勢も難しい攻撃をしようとしてくれているのだ。ゆっくりと、だが大きく頷いて同意の意を示した。
皆でうつ伏せになって前へと進む。鎧が少し音を出すが虫の声や風の音に掻き消される。肘や膝が汚れ、石や木々で所々を擦り剝く。だが、お役の大事を前にして痛みは感じない。
”酒井殿、良いぞ”
佐々殿が囁いた。よし、全てを賭けた戦を始めるとしよう。
”では行きますぞ”
儂が佐々殿と長谷川殿に声を掛けると、二人が真剣な眼差しを浮かべながら頷いた。
「鉄砲隊、放てぇぇいっっ!」
”ズダダダーーーンッ!!!”
長谷川殿の下知を受けて鉄砲隊が揃って撃ち始める。今川の砲音に勝るとも劣らない凄まじい音だ。今川の兵が何人か倒れる。……だが、今川兵の動きがどうもおかしい。儂が下知する声を聞いて彼らも動いて無かったか?しゃがむ動作をしていた様な……。
「小五郎殿、突っ込むぞ!」
傍らで又五郎が大きな声を上げる。確かにもはや迷うときではない。
「砦を強襲するぞ!掛かれぇいっっ!」
”オオォォウッッ!!”
儂の命を受けて、兵達が雄叫びを上げながら砦に向かって駆け出す。松平も織田も無い。宿敵今川参議の首を獲らんと皆が一斉に向かって行く!
”放てぇっ!”
喧騒の中、微かに下知する声が聞こえたと思うと、砦の方から矢が雨のように降ってきた。
”ぐはぁっ”
先を行く味方の兵が次々と倒れる。だが突撃の勢いは緩んでいない。身体に矢が当たっても進もうとしている者もいるぐらいだ!
”総員、槍衾用意!”
敵の侍大将らしき武者が大きな声を上げると、砦の外にいる敵兵が我等の方へ向きなおって槍衾を作った。動きが早い!
”パァーン”
乾いた音がしたと思うと、白い煙……狼煙だっ!狼煙が長篠の方面に向かって上げられている。
不味い!敵の動きは明らかに我等の奇襲を読んでいるものだ。
”御屋形様は此処にはおらぬぞ!”
”まんまと掛かるとは愚かなりっ!”
砦の方から罵詈雑言が聞こえてくる。味方の兵達がざわめき出した。
「惑わされるな!目の前の敵を倒す事だけを考えよ!!」
「その通りじゃ!行くぞっ!付いてまいれっ!」
儂が皆の動揺を鎮めようと発破をかけるが、始めよりも勢いが鈍っている。その勢いを付け直そうと又五郎が兵を率いて奥へと進んで行く。敵の中に突っ込んで行く!
調べでは確実に砦に参議がいるとの事だった。
参議の輿や鞍覆が砦に入ったとも。……!!
……そうか。嵌められたのか。
参議にとっては守護等ただの飾りに過ぎぬのだ。
何故其処まで読まなかったのだ!殿の横に座る冷徹な参議を見ていた筈だろう。浅はかな己を忌々しく思うた。
"掛かれ掛かれっ!"
"逆賊の首を獲るのは今ぞ"
此方の動きが鈍ったのを見て次々と敵が砦から打って出てくる。
"申し上げまするっ!"
刀や槍が交差する音が響く中、使いが新たに現れた。
「如何した!」
砦の様子を眺めながら応える。
「姥ヶ懐砦の方面から敵の新手が現れておりまする!正確な数は分かりませぬが二、三百はいるかと思いまする。今は松平主殿助様が応戦しておりまする」
「小五郎殿。此処は儂が引き受けるゆえ、其の方は全軍の指揮を執ってくだされ」
七之助が儂の肩を叩いて砦の方へ駆けて行く。確かに七之助の申す通りだ。此処は立て直しが必要だろう。
逸る気を抑えて少し後ろに下がり、今の状況を確認する。
「久間山砦方面からも新手にございまする!」
別の使いが現れて新手の報告をしてくる。行かぬ。完全に囲まれようとしている!
だが味方は三千もいるのだ。今川の兵は此方よりも少ないとの調べであったが……。兵を伏せていたのか。
どうしたものか。考えが纏まらない間に時だけが流れる。
「敵の数が続々と増えている!此のままではもたぬ。押され始めるぞ」
佐々殿が儂の元へと駆け寄ってきて言を放つ。
「更に?長篠城からも出て来たと言う事であろうか」
「狼煙が上がっておったからの。そうかも知れぬ。此処はいよいよ引き上げて設楽ヶ原方面に向かうのが肝要かと存ずる」
苦虫を押し潰した様な表情で佐々殿が儂へと訴える。
引き上げか……。
"ダダァーン!"
俊巡をしていると、搦手門の上にある物見櫓から鉄砲を打ち込まれた。
簡単に作られた簡素な櫓ではあるが、狭間が付いていて其処から銃身が覗いている。何時の間にか鉄砲を持った敵兵が何人か昇っている様だ。
"ダダァーン!"
放たれた鉄砲が狭間から仕舞われたと思うと、直ぐに新たな鉄砲が覗いて放たれる。
五つある狭間から立ち代わり鉄砲が放たれる!
「申し上げまする。長篠方面から新手が迫っておりまする。その数約二千。今川参議かと思われまする」
使いが現れてまたもや新手の知らせを告げる。しかも敵の大将が迫る。討ち取ってやりたい気は山々だが、如何せん陣形が悪過ぎる。
「ここまでじゃな。参議迫る中、此れを討てぬのは無念だが、味方は形が悪すぎる。此のままでは総崩れじゃ。此処は引いて立て直すが肝要でござろう」
儂が呟くと佐々殿と傍らに駆け付けた長谷川殿が頷いた。
「殿は儂が自ら務める。長谷川殿と佐々殿の鉄砲隊は今引かば上手く難を逃れる事叶うはずじゃ。設楽ヶ原に向かって見敵必殺を願いたい」
「……承知仕った」
儂が急かす仕草をしながら伝えると、それ以上は何も言わず二人が引き上げに取り掛かる。さて、松平の兵も一人でも多く返さねばならぬ。
だが、ただ引くだけでは敵を勢い付けるだけだ。
此処で誰かが粘らねばならぬ。此度の策は儂の策じゃ。儂しかおるまい。
前線に向かって歩いて行く。
「うっ!」
思わず悲鳴が零れる。何かが目の前を掠めたと思った刹那、左手にじんとした痛みが走る。籠手が砕けている。
痛みを無視して分け入って進むと、見知った背中が見えた。
「徳千代」
敢えて幼名で呼ぶ。
「此れは小五郎殿。大将が斯様な所まで如何されました」
「此の策は外れじゃ。今川参議に嵌められた。このままでは総崩れじゃ。儂が殿を務める故引けっ!」
「一人では辛うござりましょう。儂も手伝い申す」
駿府で共に苦節を乗り越えた供が、頼もしい言葉を返して来る。正直申して助かる。
「左様か。済まぬ。一人でも多くの味方を殿の下へ帰そうぞ」
「おぅ!」
徳千代が儂の前に出でて、槍を構えながら大きな声で応える。
府中では小さかった背中が、今は大きく見えた。
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 設楽ヶ原 真宗門徒の陣 了意
敵兵が放った玉が鉄砲とは違う大きな音を轟かせて爆ぜる。
大きな音と共に、味方の兵が肉塊となって辺りに飛び散る。川向うで、先程まで人の形をしていた男の一部が飛んでいるのが見えた。頭であった事を伺わせる形を辛うじて保っている。寧ろ其れがおぞましい。肉の焦げる腐臭も相まって、阿鼻叫喚さながらの景色を呆然と眺めていると、誰かに背中を押された。
「な、何をする!」
"上人様がおりゃあ恐くねぇべ"
"んだんだ。一緒に先へと行きますだ"
門徒達が儂を前へ前へと誘おうとしている。足が川に掛かる!
「ま、待て!儂は指揮を獲らねばならぬ。これ以上進むのはまだ早い!」
門徒達へと声を掛ける。だが、皆心此処に在らずとばかりの顔をしている。目が死んでいる様にも見える。
"さっきから上人様には弾が当たらねぇ。やっぱり上人さまはすげぇ"
"んだんだ!上人様が前にいてくれれば恐くねぇべ"
門徒達が念仏の様に呟く。
「ま、待てっ!儂には指揮があると言うに!りょ、了護、了親!」
御供に声を掛けるが、随分と後ろにいる。名を呼ばれた二人が儂の方へと向かおうとするが、彼の者達も周りの門徒に踊らされている。とても儂の元へとたどり着けそうに無い。
門徒達に為されるまま川を進む。
対岸がよく見えて来る。至るところに肉片が落ちている!
……此れが人の成す様とは信じられぬ。やはり今川参議は仏敵に違いない。
"ドドドォーーーンッッ!"
右の方で凄まじい轟音がしたと思うと、打ち付ける様な風が押し寄せてきた。熱い。それに右耳がきんきんと耳鳴りを立てている。頭が狂いそうだ。
……そうか、皆はもう狂っているのだ。
藁にもすがる思いで儂の元へと来たのだろう。
"上人様!"
"上人様!!!"
ぶつぶつと念仏を唱えるように皆が儂の方を見ている。
"ダダァーーーン!"
鉄砲の音がしたと思うと、己の身体が揺れた。
何かが当たった様な気がする。
熱い。
いや、寒い。
いやいや、熱いのかも知れぬ。
い、息苦しい。
何かを話そうとするが、喉奥から血が涌き出るばかりで言葉にならない。そうか、弾が当たったのか。
気付いた瞬間に目の前が暗くなった。
弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 丸山 今川軍最右翼 渡辺 頼綱
"掛かれ掛かれ掛かれ掛かれぇっ!"
敵の侍大将だろうか。一際大きな声を出して兵を差し向けてくる。
味方の砲煙弾雨の中を掻い潜って敵が現れる。敵の大将たるや見事だと思った。敵は味方の最も弱い所を突いて来た。此の陣だけで言えば敵の兵力は何倍にもなる。苦しい戦いを強いられている。
"ダダァーーーンッッ!"
味方の兵が何人か倒れた。織田方からの発砲だ。敵の鉄砲隊は川向こうに自ら築いた柵に今やよじ登り、高いところから撃って来ている。鉄砲による攻撃は今川のお家芸だと思うていたが、織田も中々やってくれる。同じ武器と戦法となれば兵の数が物を言う。炮烙玉が有れば良いのだかな。数が多い坊主向けに使われていて此方にはまわって来ぬ。
目を凝らすと、敵の先頭に黒母衣を身に付ける男が見えた。思わず失笑が溢れる。あれは槍使いに長けた敵将だ。親衛隊が尾張の地を初めて踏んだ時、随分苦労をさせられた記憶が甦る。あの男がいるとなっては退けるのは用意ではない。敵も最精鋭が来ているという事か。
「権兵衛」
「はっ」
副長を務めている山本権兵衛に声を掛ける。
「敵は単純な縦列、長蛇の陣で来ているようだが、寡兵の我等には厳しい状況だ。此処は敢えて兵を分散して刻を稼ぐ。先陣は儂が担う故、其処元は其の間に二陣を構築せよ」
「しかし其れでは……」
権兵衛が何かを悟った様な顔で儂の顔を覗く。
「此れは先任の命である」
「……承知致してござりまする」
「それから岡部丹波守殿へ使いを出すように。丹波守殿も苦しいと思うが、幾らか兵をまわしてもらえ。此処が崩れたら右翼から味方が崩れる事になる」
「委細承知にござる」
「一期の兵は貰うぞ」
儂が親衛隊設立の時から苦楽を共にしている仲間、通称“一期”と呼ばれている兵を連れて行くと伝えると、権兵衛が“無論”と応えて来た。
「どうか御無事で」
権兵衛が右手を真っすぐに伸ばして敬礼をして来る。受け礼は久しぶりだ。確と交わした後、僅かに頷き合って別れる。
敵の方を確認すると、織田の先鋒が川を渡り終えて此方の柵に達しようとしている。
「総員着剣っ!!」
儂の指示を受けて皆が銃剣を取り付け槍衾の様に構える。一切淀みの無い動きだ。怯む者も一人としていない。
“織田上総介様が家臣、河尻与四郎秀隆!何時ぞや振りの名のある御方とお見受けいたすっ!”
黒母衣を身に着けた男が大きな声を上げた。無視してくれようかと思うたが、敵が此方に向くなら此れも良しだ。腹に力を込めた。
「今川家旗本恩賜の組、府中親衛隊の渡辺平三郎頼綱!いざ御相手致す!」
儂が大きな声で応えると、“相手にとって不足なし!”と返って来る。
「御屋形様の御恩情に応える時は今ぞ!一人残らず撃退してくれよう!!」
御屋形様から拝領した刀を抜いて皆に檄を飛ばす。
刀の鍔に彫られている丸に二引と赤鳥の紋が目に入る。刀を握る手に力が入った。
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