第百三十話 長篠・設楽ヶ原の戦い 上




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 設楽ヶ原 真宗門徒の陣 了意




「間も無く明るくなりますな」

「はっ。そうですな。攻撃まで今暫くですな」

儂が隣にいる蜂屋半之丞殿に声を掛けると、儂の顔を僅かに覗いてから緊張した面持ちで応じた。半之丞殿の隣にいる渡辺半蔵殿も倣う様にかぶりを動かしている。二人は松平の殿が門徒の指揮を助けるためと派遣してきたが、大方役目は儂も含めた勝曼寺に属する門徒の目附だろう。


尤も、半之丞殿と半蔵殿とは昔から真宗としての縁がある。儂は此まで二人と接する機会が直接は無かったが、二人は勝曼寺に属する末寺で手習いに励んだ身だそうだ。其の影響もあってか儂に気遣って強く出てくる事は無い。となればやる事がある。


「方々、そろそろ門徒達に仏敵撃滅の檄を飛ばしたい」

「まだ我が主から知らせがありませぬ。それに暗くもごさいまする。払暁には今少し刻がありまする」

儂が抜け駆けの示唆をすると、半之丞殿が驚いた表情で声を上げた。半蔵殿も頭を何度も横に振って応じている。


上宮寺の勝祐上人が門徒を多く集めている。どうせ火付けにあった寺の被害でも喧伝して人を集めたのだろうが、何人集めたかという結果は大事だ。良い知らせとして石山にも報告されるだろう。儂は勝祐上人に遅れを取ることになる。空誓上人はこの戦で勝利を収めれば評される御方だ。儂だけ除け者となるのは避けねばならぬ。とあらば先陣を切って勝利に貢献するしかない。逆に言えば先陣まで勝祐上人に取られる訳にはいかぬ。


「何を仰せになられる。東の空が明るくならんとしている。見よ。此、まごう事無き払暁なり」

「お、お待ち下され。確かに明るくなろうとしておりまするが、まだ僅かな明かり、曙光にごさいまする。もっとこう、僥倖と申しますか、煌々とした光になるのを待つべきにごさいまする」

「いやいや、拙僧には光輝な、否、炯然けいぜんとした様に見えまするぞ」

「兎に角本陣に確認を」

「何をまごついた事を仰せになられる。払暁をもって総攻めと決めたではありませぬか。ほらご覧あれ。今また光は燦然さんぜんとしてきましたぞ」

「な、なれど」


「よいか!皆の者っ!よく聞けぇい!」

半之丞殿の制止を無視して門徒に向かって大きな声を張り上げると、皆が儂の声を聞き逃さんと振り返った。


「目の前に対陣するは仏敵今川参議である!仏を仏と思わず、悪虐非道の限りを尽くす第六天魔王である。今こそ仏敵に罰を下す時なり!案ずるでないぞ。皆の諸行は御仏が御覧になっている。必ずや皆の前には極楽浄土が広がるであろう。よいか!進めば往生極楽、退かば無間地獄なり!さぁ行くぞ!仏敵撃滅っ!」


"ドンドンドンドンッ!"


儂の檄を受けて、予め指示をしておいた者達が太鼓を打ち鳴らす。陣太鼓の大きな音を受けて、最前列に配置している熱心な門徒達が渡河を始める。"仏敵撃滅"と雄叫びを上げながら前へと突き進んで行く。その門徒の姿を見て、他の門徒達が遅れまいと動き出した。よし、狙い通りよ。東三河の城攻めで門徒の一部に疲れや今川に対する恐れが生じていたが、人は周りの様子に流される。この様子なら敵陣へと皆が突っ込むだろう。


「こ、困りまするぞ。まだ本陣は動いておりませぬ」

半之丞殿が目の前の光景を見て困惑した顔で呟く。

「何、此のまま敵を圧迫して勝利を収めれば、咎めを受けるどころか勲功第一と褒められましょうぞ」

「さ、左様でありましょうか。いやしかしっ!……やはりここは本陣に知らせを……」

儂の甘言に半之丞殿が納得したような、まだ不安を残したような曖昧な表情で言を放つ。今さら俊巡したところでもう遅いわ。今頃は織田も松平も我等の動きを察していよう。


"ダダァーーーン!"

凄まじい轟音を受けて戦場へと目を戻すと、川向こうにある柵の向こうから煙が上がっていた。今川の鉄砲が火を噴いたのだろう。相変わらず凄い数よ。城攻めしていた時よりも更に多くなった気がする。参議が駿州から持って参ったか。敵の砲撃を受けて、最前列にいる味方の兵が倒れる。少なくない数だ。だが熱烈な門徒で固めた前線部隊の足は鈍っていない。障害はもはや膝丈まである水だけだ。門徒達が必死に川を渡ろうとしている。


「向かう先は極楽ぞっ!臆するな。進めぇい!」

「「おおぅ!」」

儂の発破に門徒達が前へ前へと進む。勝祐上人の陣が騒がしくなってきた。遅れを取り戻さんと動き始めようとしているのかも知れぬ。これ以上手柄を取られては叶わぬ。よし、我が陣を今少し前にして更なる檄を飛ばそう。

「拙僧も前に出でるとしよう。拙僧は皆と共にあるぞっ!」

"おぉ!上人様がっ"

"ありがてぇっ"

儂の言葉に周りの門徒達が目を輝かせて応じた。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡川路村 今川軍左翼吉良勢本陣 吉良 義昭




「報告っ!」

使いが駆け寄って来て親衛隊式の敬礼をする。すかさず受け礼をしながら報告を促す。

「瀬名隊と近藤隊の対面に陣取る一向衆が渡河を始めておりまする。鉄砲の射程に入ったため既に瀬名隊が応戦を開始してございまする」

「抜け駆けでござろう」

隣にいる井伊彦次郎殿が呟いた。

「やはりそう思われるか。儂もそのように思うた」

「うむ。独断で大戦おおいくさを始めるとは思えぬ。恐らく今日辺りに戦を始める算段だったのでござろう。他の敵陣の動きが遅いからの。今動いている部隊は手柄欲しさの抜け駆けでござろう」

「同意にござる。ならば暫くは他から兵を回して敵の先陣を叩くのが肝要でござろう」

儂が策を述べて彦次郎殿の顔を覗くと、"異論ござらぬ"とにこやかに応じた。


「其の方、続けて吉良左兵衛佐の隊と二俣近江守の隊へ使いを頼めるか。瀬名隊の方へ鉄砲隊を一部寄せて渡河する敵を叩けとな。松平の陣に動きあらば直ぐに戻るように伝えるのを忘れずにな」

「御意にございまするっ!」

命を受けて使いが走り出す。


一向衆は数が多い。鉄砲隊を厚くしても何れ川を越えて来る筈だ。次にする事は……。

「新次郎」

「はっっ!」

傍にいる井伊新次郎に声を掛けると、若さを感じるよく通った大きな声で応じた。

「手投げ弾の支度をせよ。一向衆が柵に近付いたら鉄砲隊を下げる故、手投げ弾を放り込め」

「はっ」


御屋形様考案で作られた手投げ弾は織田の水軍を完膚なきまでに駆逐したという。川を渡ったと安堵した一向衆が、此の攻撃を受けてどの様な顔をするか楽しみよ。


渡河する前に出来れば敵を片付けてしまいたいと思う自分と、渡河した坊主に手投げ弾を浴びせたいと思う自分がいた。


戦場でこれ程心待ちにゆとりが有るのは初めてだ。

不思議な感覚であった。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 弾正山 織田軍本陣 柴田 勝家




"ズダダダァァーーンッ!!"

何度目になるだろうか。遠くからけたたましい音が聞こえてきた。凄まじい迄の鉄砲の音だ。噂に聞く今川の鉄砲隊が火を噴いたのだろう。それにしても大きな音だ。我が軍とて結構な数の鉄砲を持っている。松平の軍とともに半分が出て行ったが、此処にあるだけで五百丁になる。此だけ揃えている大名は中々おるまい。だが、この音たるや数百丁で撃っているように聞こえる。


"ズダダダァァーーンッ!!"

再び轟音が鳴り響いた。間違い無い。

此処まで何度も撃つという事は、此れは威嚇射撃ではない。何処かの隊が動いて敵が反撃しているのだ。

「大方坊主が我慢出来なくて突っ込んだのだろう」

今まさに儂が思うた事を殿が口にされた。

「そんなところでしょうな」

殿の呟きに佐久間右衛門尉殿が合わせている。


「申し上げまするっ!」

「直答を許す」

現れた使いに殿が直ぐに応じられた。

「はっ!真宗の了意上人が隊が渡河を始めております。此に対し、今川方は真宗の先方が渡河している川の先に兵を集めて反撃を始めておりまする」


"ズダダダァァーーンッ!!"

再び轟音が響いた。確かに、変わらず大きな音だが、初回に比べると小さい気がする。駆け付けた鉄砲隊が撃っているのかも知れぬ。だが、そうだとすれば一体今川は鉄砲を何挺持っているのだろうと思うた。


「やはり坊主が抜け駆けしたか。堪え性の無い奴等よ。まぁ良い。今川の目を坊主の方に向ける事に役立ってはくれよう。長谷川や酒井には都合が良い」

「我等は如何致しまするか。打ち掛かりまするか」

「うむ。一呼吸おいてから総攻めとするぞ。敵を惹き付ける為にも派手にやる必要があるが……。皆、死ぬなよ」

「「ははっ」」

殿の周りにいる家中が挙って応じた。今川権大納言を破った殿を蔑むものはもはやいない。此処にいる皆は殿が今一度の奇跡を起こすのを信じている。

「松平にも知らせよ。全軍で突撃せよとな」

「はっ!」

殿の命を受けて使いが陣を急いで離れていく。


"ドドドドォォォーン"

遠くから鉄砲とは違う音が聞こえて来た。雷鳴の様な響きだ。

陣幕にいる将達が驚いた顔を浮かべている。

「何の音でござろう」

「狼狽えるな。何があろうとする事は変わらぬ。ならば動じるだけ無駄ぞ」

「「はっ」」

本陣の将に動揺が走るが、殿が瞬く間に鎮められた。

確かにそうだ。何があろうと総攻めする事に変わり無い。此処で退いても我等に先は無いのだ。ならば殿の仰せの通り前へと進むだけだ。


「犬っ!」

「はっ!」

「一つ舞う故、鼓を」

「御意っ!」

殿が先程投げ飛ばされた扇子を拾って広げられた。

前田又左衛門が鼓を取り出して音を奏でると、殿が敦盛を舞われる。


“人間五十年”

舞の最中にも遠くから轟音が聞こえて来る。

“下天の内を比ぶれば”

殿は動じることなく舞を続けられる。

“夢幻の如くなり”

先の戦でも殿は敦盛を舞って清州城を飛び出したと言う。

“一度生を享け 滅せぬもののあるべきか”

遠くから大きな音が響く中、本陣には静かな時が流れる。


「皆、行くぞ」

「「ははっ!!」」

殿の言葉に、皆が大きな声で応じた。



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