第百二十九話 決戦前夜




弘治三年(1557)八月上旬 三河国設楽郡 長篠城 今川 氏真




輿を降りると、鵜殿長門守長照が膝を付きながら頭を下げて迎えていた。此の男とは俺が元服する前からの古い付き合いだ。どこか懐かしく感じた。親しい中だが、周りの目がある。少しばかりゆっくりと歩いて威厳を保った後、長門の直ぐ横で立ち止まって肩へと手を置いた。

「随分と待たせたな。余が来るまでの間、何倍にも及ぶ敵軍からの守備、真に大儀であった!」

長門守の周りで頭を下げる守備隊の兵達にも聞こえるよう腹に力を込めて大きな声を出した。

「有り難き御言葉。長門守、望外の喜びにございまする」

「うむ。苦しゅうない。面を上げて立つが良い。皆も楽にせよ」

俺の言葉を受けて兵達が立ち上がって起立の姿勢を取る。俺の方を見た兵達が驚く声を上げている。外套を見て驚いているのだろう。今朝方鳶ヶ巣砦を出陣する時に狩衣から鎧に着替えた。其の際に外套も身に付けたのだ。西部戦線で着るのは初めてだからな。皆が驚いている。後ろに付いて来ている井伊平次郎と狩野伊豆介が面白そうに笑みを浮かべている。今朝鳶ヶ巣で合流した吉良上野介と井伊彦次郎も笑みを浮かべてにこやかだ。


城の中へ入ろうとすると馬の嘶きが聞こえた。馬蹄が土を蹴る音もする。音の方向を見ると数騎の騎馬が此方に向かって来ていた。近習達が直ぐに俺の前を固める。俺としては相手が予想出来るだけに不要と言い掛けるが、近習は役を忠実にこなして要るのだ。それに万が一もある。用心しておこう。


"どぅどぅどぅ"

騎馬武者達が馬を慣れたようにいなして颯爽と下馬した。近寄った味方の兵に手綱を預けると、二人の武者が俺の前に寄って来て膝を付いた。

「松井兵部少輔、只今着陣致しましてございまする」

「岡部丹波守、同じく着陣してございまする」

「来たか。よし。丁度城内へ向かうところだ。詳しくは中で話すとしよう。だが、先ずは其の方等二人とも此迄よう戦ってくれた。礼を申したい。其の方の踏ん張りが無ければ今川はもっと崩れていただろう。其の方等の忠義、此の氏真終生忘れぬ」

「はっ……!ははっっ!勿体ない御言葉にございまする」

兵部少輔が目を潤ませて応じた。丹波守も嬉しそうに応じている。


松井兵部少輔は今川家の中でも猛将で知られている。史実では桶廻間で最後まで戦って壮絶な戦死を遂げた男だ。今回は義元が兵部に中島砦の攻略を命じて本隊から離れたため生き残ったらしい。誰にも言えぬ事ではあるが、俺としては一番嬉しい忘れ形見だ。


一方の岡部丹波守は、桶廻間の戦では最前線の鳴海城にあって、義元戦死の後も織田の南下を凌いでくれた。ケ號作戦で三河に戦いの場を移してからも牧野城の守りに力を発揮してくれた。坊主に随分と被害を与えたと報告を受けている。


「御屋形様こそ武田に対する大勝利、おめでとうございまする」

丹波守が嬉しそうな顔を浮かべて話し掛けて来る。久しぶりに俺に会えて嬉しく思ってくれているのかも知れない。

「うむ。武田だけで無く織田も松平も、それに坊主も撃ち破ってくれよう」

俺が威風堂々と話すと、二人の猛将が"ははっ"と力強く応じた。




長門守の案内で広間に向かうと、床几が置かれていた。腰を掛けると透かさず茶が運ばれてくる。中々に気が利くな。口に含むと緑茶の渋みと甘味が広がった。温さが丁度良い。元近習は俺の好みをよく分かっている。目配せをして褒めてやると、長門守が笑みを浮かべて照れ臭そうに頭を下げた。


「さて、皆に限って人を集めたのは他でも無い。此度の戦で考えている策を話したかったからだ」

話しながら人払いが済んでいるか長門守に仕草で確認すると、"ご心配無く"と返ってきた。今は俺と鵜殿長門守、吉良上野介、岡部丹波守、松井兵部少輔、井伊彦次郎・平次郎、それに伊豆介しかいないと言うことだ。参陣している将は他にも大勢いるが、体よく連吾川の陣の構築に廻している。


「伊豆介、まず状況を説明してくれ」

「はっ。然ればこちらの図面にて説明致しまする。まず織田勢は北の茶臼山から弾正山に掛けて陣を設けてござる。敵は我等と同じように柵を設けてござる。兵は四千程にござるが、千艇に近い鉄砲を持っている模様にございまする。此の陣へ攻め掛かるのは大きな被害が出ましょう。次に松平でござるが、こちらは弾正山の南側に約五千の兵、此れは槍と弓が中心でござるが、陣を構築してございまする。一方、一向衆は設楽ヶ原に続々と到着しているところでござる。雑兵がほとんどでござるが何分多うござる。既に一万五千を超えておりまするが、門徒に柵を作る気配はございませぬ。兵の数を活かして、此方に攻め込まんとしているのかも知れませぬ」

「ふむ。坊主がどこまで増えるかにもよるが、敵は約三倍だな。元より考えてはおらぬが、此方から攻めるのは得策では無いな」

俺の言葉に皆が頷いた。伊豆介に目線をやって続きを促す。

「仰せの通りにごさいまする。我が方でござるが、庵原安房守殿が府中親衛隊と駿河衆を中心に三千の兵を率いて、柵を構築しているところでござる。連吾川を東に北から南まで広く設けておりまする」

「うむ。そうだな。安房守のお陰で鉄砲を多く拵えている我が軍が守るには有利な状況となりつつある。兵の差がある故、敵が力攻めしてくる可能性もあろうが、其の気ならまず動きがある筈だ。だが織田や松平にすぐにでも一戦を行う気配は今のところ無い。恐らく武田の援軍を待っているのだろう」

「武田の援軍でござりまするか」

俺の言葉に丹波守が訝しむように応じた。


「うむ。義弟である武田氏信から早馬があった。身延山から急ぎの使者が現れすぐにでも嶺を返したいと言ってきたらしい」

「何と。では武田の軍勢が此方に向かっているという事でございまするか」

「兵部少輔、その通りだ。既に発ったか、これから発つのかは分からぬが、此方に来るのは間違いなかろう」

「信濃方面から新手が来るとなると、今の陣形は苦しくなりまする」

上野介が扇子で伊那街道をなぞって長篠城の位置を指す。その通りだ。武田が現れた時は長篠は捨てざるを得ない。だが……


「上野介の言うとおりだ。三河で戦っていた皆は知らぬだろうが、美濃の齋藤が兵を挙げる事になっている。伊勢の北畠もだ。北畠は既に北伊勢に向けて進んでいるだろう。あとは美濃の兵が何時動くか。そして其の報せが敵の陣に入った時が勝負よ。上総介に武田を待つ余裕が無くなる」

「美濃の齋藤と手を携えられているとは驚き申した」

「丹波守が驚くのも無理はない。たまたま福が転がり込んでな。思わぬ収穫があったのだ。そういう訳でな、余の予想では斎藤が兵を挙げる報せの方が武田の着陣より早い。もし余の思うとおりになった時、上総介が何を考えるか。恐らく余の首を獲らんとするだろう」

「御屋形様の首を?」

平次郎が驚いた様に俺の顔を覗く。皆も同じような顔だ。


「そうだ。織田の皆には桶廻間の勝利の余韻が残っている筈だ。余の首を獲れば戦は終わると思っても可笑しくない。故に一つ策を考えた。余は其の策の為に此の城へ籠る。連吾川を挟んで敵と対陣する味方の指揮は上野介、其方に任せる故、三河衆と渥美親衛隊を率いて南側に陣を構えよ。丹波守は安房守と合流して川の北側、丸山付近に着陣して織田軍と対峙せよ」

「御屋形様は如何されるのでございまするか」

上野介が俺に問い掛けて来る。陣代と聞いても然程驚いていない様だ。三河の戦いで成長したように見える。頼もしいじゃないか。


「先に申した通り余は此の城に籠る。だが、只籠る訳では無いぞ。兵部少輔に一芝居を打ってもらう。この軍議が終わり次第、兵部少輔には俺の外套を預ける。俺の影武者となるのだ。味方にも敵にも俺が鳶ヶ巣砦に向かったと思わせよ」

「お、御屋形様の影武者を某が?」

兵部少輔が驚いた様に声を上げる。此奴は無骨者だからな。だが今回の役は台詞もがあるわけでは無い。大丈夫だろう。

「面頬で顔を隠して外套を身に付け、直ぐに輿に乗ってしまえば分かるまい。守護を示す毛氈鞍覆も白傘も持っていけ。常には無用の長物だが、今回は役に立つかも知れぬ」

俺が幕府を蔑む物言いをすると皆が静かに笑った。

「鳶ヶ巣に御屋形様がいると思わせる事で織田や松平をおびき寄せるという事でございましょうが、兵部少輔殿に影武者を演じさせるのは何故でございまするか。御屋形様が鳶ヶ巣砦に向かわれればよろしいのでは?」

「彦次郎の疑問は尤もだ。余が鳶ヶ巣砦に籠ったと知れば、敵は兵を分けて豊川の南を静かに動き、天神山の方から奇襲を仕掛けてくるだろう。何、参議は父の死の二の舞をせんと後ろに下がったとでも言えば疑われはしまい。敵がいざ攻めてきたら本陣は長篠だと明かす。其の時は余も此の城から鳶ヶ巣に向かって兵を進めよう。敵は出鼻を挫かれ様な。敵の奇襲部隊はそれだけで崩れるかも知れぬ。奇襲部隊を退けたら連吾川へ返す刀で向かう。敵は奇襲を悟られぬよう派手に戦を仕掛けて来ている筈だ。全て散々に蹴散らしてくれよう」


「しかし織田や松平は兵を向けて来るでしょうか。もし来なければ川を挟んで対陣している味方に兵を差し向けた方が兵の劣勢を少しでも補えて戦い易うございまする」

兵部少輔が一抹の不安を吐露するように呟いた。今川において軍議での発言は自由だ。歓迎するぞ。


「余は敵が兵を鳶ヶ巣砦に差し向ける様に手を打った。敵は必ず来る筈だ。もし万に一つ、敵が来ないなら兵を主戦場へ差し向ければ良いだけの事。設楽の戦場においても柵を設けて容易く押し込まれぬ様にした。織田や松平も馬鹿では無い。何処かで敵を崩したいと思う筈だ。織田が桶廻間で勝利してからまだ三月ぞ。織田は一か八かの夢から醒めていない筈だ。うむ。やはり来るとしか思えぬ」

本当は史実を参考にしているだけなのだがな。歴史は変わっているのだから来ない可能性もある。だが、俺は来ると確信している。

「御屋形様の御慧眼、恐れ入りまする。詰まらぬ事を申しました」

「軍議の場ぞ。何を謝る必要がある。敵が奇襲に来なんだら、貸し与える余の外套を其のまま其の方にくれてやろう」

「其れは良いではないか。羨ましいの。間違いなく家宝となるぞ」

丹波守が場の空気を読んで明るく話すと、皆が声を出して笑った。兵部少輔も頷いて笑みを浮かべている。




皆の手を借りて鎧を着替え、兵部少輔に外套を着させる。俺の方が少し上背があったが、特に問題は無さそうだ。逆に俺も兵部少輔の鎧がしっくりと来た。血の染みた後がある。今川の為に戦ってくれた跡だと思って胸が熱くなった。

「うむ。よく似合っているぞ」

「それでは某は鳶ヶ巣砦に向かいまする」

兵部少輔が決意の表情を浮かべて俺に正対する。

「うむ。敵が現れたら狼煙を挙げよ。狼煙が上がり次第余も直ぐに向かう。敵の出鼻を挫いてやろう」

「御意にございまする!」

逆賊討伐を前にして気が高ぶって来た様だ。兵部少輔が力強く応えた。


「そうだ。兵部、一つ忘れていた」

「はっ」

脇差を抜いて兵部少輔に向けて翳す。

「面頬に余の鎧、それから外套をすれば、皆が其の方を余だと思うて疑う事あるまいが、些末な事で失敗をしとうない。此れも貸しておこう」

義元の忘れ形見である脇差しを差し出すと、兵部少輔が声と手を震わせて受け取った。此奴は先代と過ごした時間も長いからな。思うところ大なのかも知れぬ。俺が改めて"頼むぞ"と言葉を添えると、兵部少輔が口を一文字にして力強く頷いた。


さて、今打つべき手は全て打った。

俺はこの城にいない事になる。部屋から殆ど動けない事になるだろう。ま、伊勢と美濃の動きが敵に入る迄やる事も無い。其れに報せが入るのはそう遠くあるまい。

どうしようかね。元来じっと出来ぬ性分だ。野点の道具で茶でも点てて待つとするか。今は鎧姿だが、此れもまた良しだな。一度やってみたかったのだ。




婆娑羅だねぇ。

まるで自分が佐々木導誉にでもなった様な気がした。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 弾正山 織田軍本陣 松平 元康




「今川参議は長篠城の更に奥、鳶ヶ巣砦に籠った模様にございまする」

「それは確かな知らせでありまするのか」

織田の諜報を司る簗田出羽守が今川参議の動きを報告すると、真宗の空誓上人が疑う様に問い掛けられた。

「真にござる。某の手の者が長篠城から輿に乗って出立する今川参議を確認してござる。また、守護在陣を示す毛氈鞍覆と白傘も今は鳶ヶ巣砦にあるとの事なれば間違いはござりませぬ。今川の御大将は桶廻間の二の舞を踏まぬ様に大事を取っているものと思われまする」

疑いの目に出羽守が気分を害した様な表情を微かに浮かべて弁を振るった。


「それから、伊勢の北畠家が兵を挙げた模様にございまする。この時期の急な出兵を受けて長野も関も苦しい状況の様にございまする。この頃は北畠の優位が続いておりました故、北伊勢は北畠が統べるかも知れませぬ」

「尾張にまで来るかも知れぬと言う事か」

眉をひそめるようにして上総介殿が話される。


「それは分かりませぬが、長野城も亀山城もまだ落ちてはおらぬ模様なれば、来るとしても今暫くは時がござりましょう」

出羽守の言葉に皆が息を飲む様な顔をしている。儂の顔を覗くよりも上総介殿の顔を覗く者が多い。悔しいが戦の経験は敵わぬ。此処は上総介殿に決を仰ぐとしよう。

「松平は上総介殿の判断に従おう」

儂が上総介殿の判断に委ねると話すと、真宗の御仁達がざわめき始めた。"北畠の動き如何では長島が……"等と呟きあっている。伊勢長島の心配をしているのかも知れぬ。


「うむ。次郎三郎殿がそう言ってくれるなら、俺は武田からの援軍を待つ。我が家中の者が武田大膳大夫殿に会うて来た。大膳大夫殿は今や今川からの室を返す段取りを進め、援軍の中心となる信濃衆へ下知もされているところだ。早ければ十日もしない内に援軍が来る筈だ。長篠の東から武田の新手が表れては今川も苦しかろう。今橋と遠江に後退する筈だ」

上総介殿が前に置かれた大盤図を扇子で指差しながら話される。織田の重臣や我が家中が頷いている。


「我等の兵力は敵軍の倍を越えまする。仏敵に仏罰を下さんと意気も軒昂なり!我等が裂帛の気合いで攻めれば今川何ぞ恐るるに足りませぬ。来るかどうかも、いや又、何時来るのかもはっきりとしない武田を待ってどう致しまする。此処は数の力を活かし、全軍で力攻めする時かと存じまするぞ」

「左様!空誓上人の仰せの通りにありまする」

「如何にも!仏敵を前にして静観するとは真理に背く行為でありまする。今こそ全軍で渡河して今川を撃滅すべき時でありまするぞ」

空誓上人が力攻めを主張すると、空誓上人を挟む様に腰かけている了意上人と勝祐上人が声を上げる。溜息が出るのを必死に堪えて何と発するべきか思案する。真宗の皆は大軍を擁しているからか、この陣に到着してから太々しい態度なのだ。


「敵の倍処か、十倍近い兵で攻めて破れたのが目の前の今川であり、其の今川を破ったのが俺だ!その俺が暫し待つべきと申しているのだ。戦の事は武家に任せてもらおう」

「なっ!如何に織田の大将殿と言えども、三河真宗門徒を率いる御方に無礼でありまするぞ」

「その通りじゃ。言葉が過ぎまするぞ」

「何をっ!」

「方々こそ殿に無礼なっ!」

了意、勝祐上人が姦しく騒ぐ。織田の家臣達が売り言葉を買おうとしている。間に入って止めんと、制するように立ち上がると、馬が走って来る音がした。軍議をしている陣幕の直ぐ側まで馬が入って来るとは余程の事だろう。皆が事の大事を察して静かになった。


“おぉ”

“馬が潰れたぞ”

陣幕の外が騒がしくなる中、若武者が現れた。織田木瓜の旗指だ。尾張から急いで駆けて来たのだと思うた。

「申し上げまするっ!」

「許す」

「はっ。美濃の齋藤勢が国境を犯して侵入してきておりまする。既に木曽川を超え、岩倉方面に向かっている模様。その数およそ八千!」

“なんと”

“斎藤が!?”


「参議めっ!やってくれおる」

上総介殿が手にした扇子を盤面に向かって投げながら叫んだ。

「今川参議が美濃を動かしたと?」

「そうとしか思えぬ。参議を囲んでいるつもりが囲まれていたのは我等だったのだ」

上総介殿が険しい顔をしている。今川参議……。やはり我々は転がされているのだろうか。

「織田様、申し上げたき儀がござりまする」

小五郎が不意に儂と上総介殿の前に出でて膝を付いた。


「何だ」

「はっ。恐れながら申し上げまする。美濃から兵を差し向けられては、織田様が此の地に留まる猶予は無いはず。なれど此処で一戦せねばどの道我等にも織田様にも先はありませぬ」

「小五郎」

「良い。真の事じゃ。其れよりも先を申せ」

儂が小五郎の無礼を咎めようとすると、上総介殿が続きを促した。


「はっ。なれば申し上げまする。今川参議は鳶ヶ巣砦に籠ったとの事。ならば此の鳶ヶ巣砦を奇襲し、参議の首を挙げたく存じまする。豊川の南には三河の地に詳しくなければ分からぬ道がござりまする。此処を密かに通れば砦の背を刺せまする」

「たわけぇっっっ!」

小五郎が策を具申し終わると、急に上総介様が大声を上げられた。


「今川の陣に三河の者がどれだけおると思うておる。愚策も愚策よ」

上総介殿が鬼の形相で小五郎を叱責している。

「上総介殿、我が家中の無礼は某の無礼。お詫び申す」

儂が頭を下げると、上総介殿が溜飲を下げた様な表情で静かに応じた。

「斯様な策が成功するとは思えぬ。奇襲の為に兵を分けるよりも、事此処に至っては空誓殿の申す通り、大軍を活かして総攻めをする方が良かろう」

上総介殿が名指しをして顔を向けると、空誓上人が驚きつつも、内心で喜んでいる事を彷彿させる表情で“ほぅ”と応じた。


「だが、今日は日暮れまで然程刻も無ければ、総攻めには支度もいる。今宵は闇に紛れて静かに支度し、払暁とともに今川へ総攻めとするのは如何か」

「松平は委細異議なしにござる」

「我等も承知致しましたぞ」

揉めていた軍議が思わぬ形で決すると、各々準備のため自陣へと下がって行った。

さて、儂も松平の陣に戻るとするか。騎乗の人となって道を進む。


駒を動かしているのか動かされているのか。行かぬな。することが無くなるとどうも今川参議の顔が脳裏を離れない。机を隣に雪斎禅師の手習いを受けた時の顔が思い出される。あの方は何時も涼しい顔をされていた。今も淡々と差配しているのやも知れぬ。


明日が決戦か。東三河攻めが停滞してからというもの何時終わるかも知れなかった状況が一転しようとしている。勝つにしろ負けるにしろ明日が勝負か。……行かぬ。投げやりになっている気がする。


元康!気弱になるな。

気合を入れろ!

“おぅっ!”

己を奮い立たせようと大きな声を上げてみるが、脳裏によぎる参議は消えてくれない。

周りにいる家臣達が“いよいよですな”“殿に負けるな”と奮っていた。




弘治三年(1557)八月中旬 三河国設楽郡 弾正山 織田軍本陣 酒井 忠次




佐久間右衛門尉殿の案内で織田の本陣を訪れると、奥に一人の男が腰かけていた。上総介様だろう。右衛門尉殿が殿と儂を奥まで連れて行く。随分と近くにまで連れられてきた。

「上総介殿。話があるとの事だが何用でござろうか」

「お呼びにより酒井小五郎、罷り越してございまする」

殿に続いて上総介様に向かって挨拶をする。先程皆の前で叱責された不満が顔にあるかもしれぬ。殿に迷惑を掛けてはならぬと直ぐに頭を下げ、己の表情を見られぬ様にした。

「小五郎忠次」

肩に何かを……馬鞭だ。"トン"と当てられたと思うと、上総介様が親しく儂の名をお呼びになった。

「……はっ」


「先程其の方が具申した策だが」

"パシンッ"と再び強く肩を叩かれた。まだ叱責足りぬのだろうか。

「良い策だ」

「は?……は、ははっ」

思いがけぬ言葉を受けて拍子抜けした声をあげてしまった。気を取り直して応じた。


「何処に耳があるか分からぬ。先程は人が多かった故、あのような態度を取った。許せ」

左様であったか。流石は小さな所領から尾張を手にされた方だ。ただの男では無いと思うた。

「お気になさらずに願いまする」

「俺は鉄砲を千艇持ってきている。半分の五百を其の方に預ける故、参議の首を獲ってまいれ。次郎三郎殿、小五郎に十分な兵を割いて欲しい」

「分かり申した。兵を半分預けまする」

「旗印の類は全て陣に置いていくようにな。別動隊が動いていると悟られぬようにせねばならぬ。加えて、明朝の戦は全軍で今川に攻め掛かる。今川も設楽ヶ原の方に気を取られよう」

上総介様の申される通りだ。乱波の調べでは鳶ヶ巣方面の今川本陣は二千程との事だ。三千の手勢を預かれるなら桶廻間の再現が出来るやも知れぬ。



「幸い今宵は天気が良い。月明かりも程よくさしている。坊主が何時抜け駆けするか分からぬ故事を急ぎたい。この後直ぐに発って鳶ヶ巣砦に向かうようにせよ。砦の手前に付いたら小休止し、払暁とともに攻め掛かれ」

「御意にござりまする」

「砦から兵が出て来るようであれば参議がいるか見極めよ。最後の判断は其の方に委ねる」

「委細承知してございまする」

「明日が勝負だ。本隊は明け方から全軍で攻め掛かる。移動の後の戦続きで苦労を掛ける事になるが其の方に掛かっている。頼んだぞ」

今度は肩に優しく手を掛けられた。

心から“はっ”と応じた。



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