第百二十八話 流転




弘治三年(1557)八月上旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 武田 氏信




庭が目に入ると、大勢の百姓がいるのが分かった。百姓が平伏して私を出迎えている。主君の座す席に私が座ると、後ろを付いて来た兄の上野介信顕、駒井高白斎、右京亮政直親子、それに義兄上から付けられた葛山次三郎綱春が順に縁側へと座って百姓と向き合った。

「此れより其の方らの新たな主となる御屋形様より御言葉を頂戴する。有り難く御聞きせよ」

右京亮が大きく声を上げると、百姓達が少し驚いた様な素振りをしながら応じた。集められている百姓は村に戻れば村長の立場である者達だが、あまり身形が良いとは言えぬ。小綺麗な者も居ないわけでは無いが、多くが襤褸を纏っている。府中で見てきた景色とは大きく違うと感じた。


「甲斐国主、武田六郎氏信である」

皆が平伏する中、皆に向かって声を放つ。今までに無い不思議な感覚だ。義兄上の所作を思い出して同じ様にしてみる。私の言葉に百姓達がいよいよ驚いた様子の顔を浮かべる。私の名乗りを受けて出自が気になったのかも知れぬ。どうせ小さな所領だ。皆まで言わなくとも何れ分かる。百姓達の驚きを他所に淡々と進める事にした。

「今日其の方等に来てもらったのは他でもない。次の刈り入れについて話があるからだ」

生殺与奪を握る新たな主が何を言わんとしているのか。百姓どもが緊張しているのが伝わって来る。


「次の刈り入れでは一切の年貢は取らぬ。代わりに検地を行う。何、案ずるでない。其の方等の収入を増やす内職も与える。来年は確と年貢を治めてもらう故、皆励むように」

私が話した後、静かな間が出来た。暫くすると話に理解が及んだのか百姓達が嬉しそうに声を上げた。

"あ、ありがてぇ"

"ははぁーー!"

百姓どもが嬉しそうな表情で互いをみている。


「今御屋形様が仰せになられた事は高札でも告知する。手元に入れる者などおれば厳しく処断する故、左様心得ておくように」

高白斎の言葉に百姓が改めて頭を下げた。

百姓達が地に頭をつける程の平伏をして下がっていく。

先程までの緊張した面持ちは既に無く、皆明るい表情を浮かべていた。

さて、次の儀までまだ刻がある。文でも書くとしようか。皆と離れて一人文机のある部屋へ向かう。




義兄上が城を立つ際に兵糧と金子を城に置いていって下さった。新たに領国となった巨摩郡の年貢を賄える量だ。義兄上からは兵糧を受け取ると共に、先程民に布告した施策を実施するように進められた。これから甲斐を切り取って行くに当たって、大膳大夫との違いを見せねばならぬ。其の違いを見せるには始めが肝心だとも。


武田との国境では既に人夫を集めて堀や屏を築かせている。此れも義兄上からのご指示だ。領民では早くも惰眠を貪る者はいなくなった。国境での作業には少なくない銭が払われる。国境が終われば次はこの城の改修だ。室を迎える御殿も領内に作らねばならない。仕事は幾らでもある。其れに働けば働いただけ報われるのだ。一度人足の様子を見たが、皆が良い汗をかいていた。


私も何かと忙しい日々を送っている。

今日もこの他に人と会わねばならぬ。甲斐の府中から商家が何人か来る事になっているのだ。大膳大夫に探って来いと言われたか、荷留めに苦しむ甲斐での商いに活路を求めに来たか。両方かも知れぬ。義兄上からは、相手が大膳大夫の御用商人で無い事を条件に甲斐へ荷を渡すのを許されている。寧ろある程度、戦況に影響を与えぬ程度に流せとも言われている位だ。御用商人以外に荷を流す事で、これまた甲斐や信濃での大膳大夫の権威を傷付けられるとも。相変わらず恐ろしい事を思い付かれる。


全く……義兄上の銭と人の使い方の上手さには熟と関心させられる。

血を分けた兄と義理の兄、どちらが恐ろしいかを問われれば私は迷うこと無く義兄上を選ぶだろう。




“御屋形様”

室へ向けた文を書いていると、私を呼ぶ声がした。

「右京亮か」

「はっ」

名を呼ぶと右京亮がすぐに応じた。焦ったような声色が気になる。

「如何致した。入れ」

許しを得て右京亮が近くまで寄って来る。


「申し訳ございませぬ。先触れも無く急ぎの使者が参っておりまする」

「急ぎの使者?どこからの使者だ」

「身延山でござりまする。詳しくは申しませぬが、武田太郎の御内室に関する事だとか」

「義姉上の件?」

「左様にございまする」

「相分かった。会おう」

「御意。然らば某は使者を連れて参ります故、御屋形様は謁見の間に向かってくださいませ」

「うむ」

右京亮が足早に去っていく。

義兄上からの話では身延山から使者が来るのはもっと先の予定であったが義姉上に何かあったか。それとももしや……。

嫌な予感しかしなかった。




弘治三年(1557)八月上旬 相模国足柄下郡小田原町 小田原城 北條 氏規




「長尾勢は忍城を拠点として関東の将へ檄を飛ばして兵を集めておりまする。既に常陸の佐竹、下野の宇都宮や小山、武蔵でも成田や太田と言った将達が参集した模様にございまする」

重臣の松田左兵衛佐が報告すると、父上が息を吐きながら"左様か"と呟かれた。

「長尾勢の今後でありまするが、恐らくは南下して河越城、玉縄城へと進み、さらには其処より東の鎌倉、西の小田原を目指して来ると思いまする。既に長尾勢は関東管領の元に四、五万の大軍との事なれば、全軍で打って出て一挙に叩く一戦を設けるか、城に籠って戦うか決を下さねばなりませぬ」

左兵衛佐が決を仰ぐように言葉を続けると、父上が鼻を鳴らして笑われた。


「宇都宮や小山だと聞いて笑いが込み上げてくるわ。つい先頃まで鍔迫り合いをしていた者同士ばかりではないか。ならば態々一戦等設けずとも、時が立てば敵は自然に崩れる筈じゃ」

父上が左兵衛佐に向かって悠々と応じる。

「しかし、野戦にて一挙に打ち倒せば我が北條の武名はいよいよ高まり、関東管領や長尾頼り無しと風向きが代わりましょう。此処は全軍で打って出る策も一考かと存じまする」

家老の清水左衛門太郎尉が父上に身体を向けて野戦を主張した。清水家は早雲公以来の譜代で伊豆衆筆頭を務める家柄で水軍も率いている。だが、今川家との戦で北條が伊豆を失陥してからというもの、清水家は所領を失い禄を受け取る身となった。水軍は相模湾に拠点を移して活躍しているが、確たる拠点と所領を得ようと意気軒昂な事を申す事が多いらしい。


「左衛門太郎尉の心意気や見事じゃ。なれど敵は烏合の衆とは言え大軍を率いておる。野戦は寧ろ敵が望みたい所だろう。ここは味方の主だった城で籠城策を取る事とする。幸い今川の支援もあって兵糧には事欠かぬのじゃ。焦る必要は無い」

父上が左衛門太郎尉を諭す様に話した後に私の方へ顔を向けられる。他の重臣からも視線が来る。皆優しげな面持ちだ。兵糧を運び入れた事を評してくれているのだろう。全て義兄上の差配ではあるが、皆の役に立てているようで嬉しく思うた。


「今川と言えば武田を退け三河に向かったと聞いている。今川は三河を片付ければ暫くは落ち着く。籠城で時を稼げば今川からの援軍も望めるやも知れぬ。其れに武田との盟役は終わった。事、此処に至りては武田からの援軍は望めぬばかりか、武田からの侵攻への備えをせねばならぬ。此処は不用意に動くのではなく籠城で情勢を見極める事こそ肝要である」

「「ははっ」」

父上の言葉に広間の家臣が挙って頭を下げる。


既に河越城の大道寺が籠城のために兵を城へと詰めて防備を固めていると言う。玉縄城の左衛門大夫も玉縄衆を率いて城に籠ったらしい。左衛門大夫はかつて関東管領の八万と号する大軍に攻められた時に、河越城代として城を最後まで守りきった男だ。


今この広間にいる者の多くはこの小田原城に籠る事になるだろう。だが此処に皆は、最後の勝利が北條にある事を疑っていない。

大丈夫だ。此度も北條は大事を乗り越えるはずだ。




弘治三年(1557)八月上旬 三河国設楽郡 織田・松平連合軍本陣 松平 元康



「空誓、了意、上祐の各上人から檄を飛ばされた門徒達が、大挙してこの長篠に向かう手筈を進めておりまする。恐らく明日か明後日辺りには着陣しようかと」

織田上総介殿とその重臣、我が重臣が集う中で本證寺に出向いていた夏目次郎三衛門と内藤弥次右衛門が報告をしている。報告を聞くや上総介殿が小姓に墨を持たせて筆を動かす。短い文を書き終えると、小姓に"急ぎ熱田と津島へ"と言葉を掛けてお渡しになった。一向宗は二万から三万の兵力でこの長篠に向かっていると言う。平井神社に兵糧が堆く積まれていたが、一向宗を食わせるとなると話は違う。それに武田がこの地に援軍に来るとなれば味方はかなりの大軍になる。必要な糧食は桁違いになる。

「また、此度は空誓上人が自ら門徒の指揮をお取りになると言う事でありまする」

弥次右衛門殿の報告に味方の将が何人か驚く一方で、織田方の将が煩わしそうな顔をしている。儂としても胸中は穏やかでない。次郎三衛門と弥次右衛門からは先に報告を受けている。どうも宗門は武家の事を下に見ていると。数も多い一向宗が陣形を乱すような事があれば目も当てられぬ。暗澹とした気持ちを飲み込んでいると、隣に腰を掛ける上総介殿が小さく儂に向かって"坊主の身勝手にも困ったものだ"と呟かれた。


我が家臣には熱心な門徒も多い。他の者に聞かれぬよう"苦労してござる"と応えると、上総介殿が小さく笑った。

"報告!"

盤上の地図を眺めながら軍議を進めていると、使い番が現れて今川の先遣隊らしき部隊が到着したとの事だった。場所は連吾川を挟んで対岸に三千程らしい。先遣隊が三千か。やはり今川の兵力は一万前後と見ていいだろう。


今や一向宗と今川本隊が到着するまで戦況は動かない。新たに置かれた駒を眺めていると、慌ただしく使いが現れた。


「申し上げまするっ!」

使い番の若い男が駆け込んで来て大きな声を上げる。切羽詰まった顔をしている。旗指物に目線を移すと水野沢瀉紋が目に映った。となると伯父上からの使者かも知れぬ。胸騒ぎがした。

「前へ!」

柴田権六が大きな声で使いに指示を出す。使いの男が前に進んで膝を付いた。

「許すゆえ報告せよ」

「はっ!今川の水軍が常滑を急襲してございまする。既に佐治水軍は完膚なき迄に打ちのめされ海を封じられております。ただ、今川方には上陸の気配無く、海から此方を睨んでおりまする」

「佐治の水軍がやられたか」

「はっ。敵は接近した佐治の船に爆発する投げ物を使うて被害を与えておりまする。今また、三隻の大安宅船からは鉄の玉を城に向けて撃ち込んで来ており、被害も出ておりまする。何より、城の兵が怯えておりまする」


「鉄の玉に、はでる代物か。其れに常滑が半ば押さえられたか……」

上総介殿が眉をひそめて呟かれた。常滑は織田の大事な銭処だ。此れを封じられるのは喉元に刀を突き付けられているに等しい。それに海を押さえられたという事は熱田や津島も大きく制限を受ける可能性がある。

"武田が来るか否か。来るなら其れまでの辛抱だ。来ないなら打って出るしか無いかも知れぬ"

上総介殿が小さく儂に耳打ちをして来た。海を塞がれては兵糧の仕入れも難しくなる。時は掛けられぬという事か。


武田に向かった使者が帰って来るのは早くても明後日になるだろう。援軍が来るとしてもそれからさらに半月程度は掛かろうか。常滑が封じ込められた事で兵糧の心配に銭の心配が加わった。


何だろうか。

胸騒ぎが収まらない。

今川参議の掌で踊らさせれているのではないかという不安を必死に振り払う。


この戦に勝たねば松平も織田も先は無い。

今川に取って織田は仇敵、儂は謀反人だ。

死ぬも生きるも最早一蓮托生なのだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る