第百二十七話 駆け引き




弘治三年(1557)八月上旬 遠江国敷知郡濱松 曳馬城 今川 氏真




「織田松平の連合軍でございまするが、長篠城の囲いを解いて西へと移動、川向こうに陣を構築し始めておりまする」

「城攻めは諦めたか。大方陣を敷いて武田の援軍でも待つのだろう」

袱紗を捌いて茶入れを清めながら呟くと、客座に座る伊豆介が"仰せの通りかと存じまする"と応じた。


「それから一向衆でございまするが、今橋から兵を退きつつありまする。どうやら長篠方面に向かうようでありまする」

柄杓を構えて釜の蓋を開けて……。

「此方も今橋が落ちぬから諦めたか」

「はっ。その様にござる。一向宗は落とした二と三の付城に火を放ってから撤兵しておりまする。中々に嫌らしい手を使ってくれまする」

茶を茶碗に入れて水指の蓋を開ける。水を少し差して茶碗に湯をいれる。芳醇な茶の香りが立ち上がる。茶筅で細やかに点てる。俺は極めの細かい泡がたっているのが好みだ。

「どうぞ」

茶を出すと、正客の位置に座っている飯尾豊前守が緊張した面持ちで茶を受け取った。客座には豊前守、庵原安房守、狩野伊豆介が座っている。豊前守は家督を継いだばかりの若年だが、曳馬城主で一万石を治める大身旗本であり、西遠江衆の旗頭を努めている。場所が豊前の城ということもあって正客を譲られていた。


「た、大変結構でございまする」

「そう肩を張らなくて良い」

豊前守が明らかに緊張している。緊張の糸を解してやろうと親しく言葉を交わすと、"は、ははっ"と応じた。


「牧野城の坊主はどうなっている」

「同じく引いておりまする。囲っていた一向宗は皆長篠方面に向かっておりまする。織田松平と連合して我等と一戦を望んでいるものと思われますが、この兵力で長篠城を総攻めされると厄介にございまする」

話を聞きながら二服目を作る。

「敵の兵力は?」

「はっ。織田と松平の連合が約八千、一向宗が二万程かと存じまする」

「ほう。坊主はもっと多いかと思うていたぞ」

出来上がった二服目を安房守に差し出すと、悠々と受け取って手慣れた様に飲んだ。この辺りは年の功だな。


「確かに一向宗ははじめ三万程おったようですが、味方の反撃で減った事と、士気が下がって脱落している者もおるようにございまする」

「二万となると油断は禁物でありまするが、内実は烏合の衆と化しているやも知れませぬな」

伊豆介の報告に、安房守が茶碗を返しながら話す。

「安房守の申す通りだが、狂信的な門徒は必ずいるはずだ。腹が減っても、味方がどれだけ死のうとも関係の無い、熱烈な門徒がな。門徒を退けるのが易いか否かは、此うした門徒がどれだけいるかによるな」

俺の言葉に皆が頷いた。


「御屋形様、聞けば今はお家の一大事。遠江には軍令の出ていない者が数多くおりまする。先の布告は棚上げし、徴収するのも一考かと存じまする。御家の為に皆が兵を集めましょうぞ」

三服目を作っていると、豊前守が意気軒高に声を上げた。来たなと思ったが、予め考えていた返答をする。

「豊前、其の方の気持ちと申し出はありがたいが、今の兵力でも勝算はあると思うておる。ならば余は布告を大事にしたい。遠江の者達には余が敗れた時に後詰を頼むだろうが、今はまだ良い。それよりも其の方は検地が滞りなく行くよう差配せよ」

俺が間髪を入れずに返答をすると、豊前守が“ははっ”と言って小さくなった。既に遠江には府中から派遣された検地部隊が入っている。石高を正確に測りつつ、様々な増産方法を伝えている。この後の戦を考えれば、遠江の兵を使えぬのは惜しい気持ちもある。だが、今の兵力で勝算が無いわけではない。ならば先の今川の為に遠江を盤石にしておきたい。


「伊豆介」

「はっ」

「坊主の荷駄部隊を狙えるか」

三服目を差し出しながら問うと、伊豆介がニヤリとした顔を浮かべながら“はっ”と応じた。敵の困り処は兵糧だ。特に坊主は困っていよう。この坊主どもの荷駄を襲う。織田と松平に助けを求めるだろうな。敵の兵糧は何時まで持つだろうな。

「出来るだけで構わぬゆえ頼む。それから武田大膳大夫に動きがあれば直ぐ知らせよ」

伊豆介がズッと飲みきってから応じた。


織田と松平は武田を使って長篠の今川を挟もうとしているのだろう。武田に援軍を願っているとすれば、長篠に来るまでは早くても十日は掛かる筈だ。ならば北畠や齋藤の進軍の方が早い筈。此の動きを察知した時に織田がどう出てくるか。

武田がもし援軍の派兵を決め、此れが思いの外早ければ、長篠の地はくれてやるしか無いな。細い連絡路ではあるが織田松平と武田を繋がせる事になる。


ま、そうなったとしても、既に今川が海を押さえて熱田津島と常滑は死につつある。 今橋さえ落とさせなければ、織田松平武田の連合は時を経る度に弱っていく筈だ。大膳大夫、和議を結んだばかりだがどう決を下すかな。


最後に自服するための茶を点て、茶碗を押し戴いてから茶を飲む。苦味の中に甘さを感じる茶が、喉の奥へと流れていく。旨いな。

よし、明日は鷲ヶ巣砦に向かって出陣しよう。その後は連吾川を挟んで対陣かな。


武田が来るのが先か、織田が北畠や齋藤の動きを察知して痺れを切らせるのが先か。それとも武田は来ず、織田松平が苦しくなるか。敵は既に三倍近い数がいる。心配の種は尽きないが、高揚している自分がいる。


長篠の戦いか。良いじゃないか。今川の大勝利にしてくれよう。




弘治三年(1557)八月上旬 三河国設楽郡平井村 平井神社 織田軍本陣 松平 元康




我が軍の本陣から馬に駆け乗って織田の本陣が構えられている平井神社に向かう。神社は西に半里程しか離れていない。直ぐにたどり着いた。境内の手前で馬を降り、供の兵に任せて中を進むと、立ちながら文を書いている上総介殿が目に入った。

「上総介殿!」

儂が大きな声で読んだが、目線は此方に来ない。

「竹千代か。如何致した」

この御方はまた儂の事を竹千代と言う。傍らにいる酒井小五郎と阿倍徳千代の手前、次郎三郎と呼んで欲しかったが斯様な事に労している刻は無い。


「今川方が長篠城の先にある鷲ヶ巣山に砦を築いておりまするぞ。今川も長陣を覚悟しているのかも知れぬ」

「であるか」

上総介殿が儂の言葉をやり過ごして文を書き続ける。お家の大事が掛かった戦を前に、前の御仁が悠々としている事に苛立ちが募った。

「随分と悠長でありませぬか!」

儂の非難めいた声を上げると、上総介殿が筆を止めて"付いて来い"と言って社務所の中へと入っていく。上総介殿に目配せをされた織田の重臣が何人か付いていった。儂も供を連れて後を追う。


建屋の中では織田の荷駄役だろうか。屈強な男達がせっせと米俵を運んで並べている。織田はまだ兵糧に余裕があると見える。儂が此処に来た理由の一つに兵糧がある。もし今川が長陣を覚悟しているのならば我が軍の兵糧が心許ない。無理をして兵を集めている影響で我が軍の兵糧はあと一月も持たない。借りを作るのは気が進まぬが、後で織田に融通を願おう。腹が減っては戦は出来ぬ。


「此処で良かろう」

上総介殿が奥の部屋に入って振り向かれる。部屋には儂と小五郎、徳千代に上総介殿に佐久間右衛門尉、柴田権六、簗田出羽守になった。

上総介殿が大きく息を吸われた。


「竹千代っ!何処に目があるか、耳があるのか分からぬのじゃ。あの様な場で大将が斯様に大声を出してどうするっ!たわけ者がっ!」

先程までと打って変わった様に上総介殿が大きな声と、凄まじい形相で儂を見ている。成る程。そういう事であったか。流石に死線を何度も掻い潜っているだけはある。織田殿の言に理があると思うた。


「面目ござらぬ」

己の否を素直に詫びると、上総介殿が"ふんっ"と息を吐いて部屋の棚に置かれた置物を眺められる。

「で?今川が鷲ヶ巣山に砦を築いているのだったか」

上総介殿が置物を触りながら儂に問い掛ける。蓋を外されている。どうやら置物は香炉のようだ。


「左様でござる。鷲ヶ巣山はこちらを見渡すに中々よい見晴らしの場所なれば、敵は本陣を構える積もりやも知れぬ。麓では無く山頂に陣を設けると言うことは長陣を睨んでいるやも知れぬと思うてござる」

「揺さぶりかも知れぬ。銭に厭目を付けぬ今川参議の事だ。人足を雇って砦を作らせ、我等に長陣だと思わせて置きながら街道を西に進むかも知れん」

「……成る程。我等への奇襲でござるか」

「もしくは奇襲と見せかけておいて鷲ヶ巣山にどっしりと構え、我等や坊主が米に困るのを待つ算段かも知れぬ」

「なっ!一体どちらでござるのか」

儂が声高に叫ぶと、"分からん"と渇いた声がした。

儂の苦悩等まるで興味が無さそうに、上総介殿が"フッ"と息を吹き掛けて香炉の埃を取っている。


「ならば如何様にされようとしているのでござるか」

詰問する様な声色になってしまったやも知れぬ。だが短気だと思うていた上総介殿は、儂の態度を気にした様子もなく手に持っていた香炉を棚へと戻されている。

「少なくとも今川参議がこの戦場に入るまでする事はない。我等は粛々と陣を固めるだけよ。既に武田には使いを出した。共にこの地で今川を潰そうとな。今川が長陣を張るなら武田と挟めばよし。奇襲に出るなら陣で迎え撃って逆襲すれば良い。大事な事は次郎三郎っ!」

置いた香炉を眺めていた上総介殿が急に大声を上げて儂へと振り返る。

「な、なんでござろう」

「慌てぬ事じゃ。桶狭間の時もそうであった。じっと構えてここぞと思うたら一気に駆ける。駆ける迄は鋭気を養っておけば良い」

再び静かな声色で上総介殿が儂に話し掛ける。同席している織田の重臣がゆっくりと頷いている。


目の前の御仁が急に大きく見えた。

この御仁は常に大きな敵を撃ち破って来た。

やはり参議様とは違う魅力がある。

改めて上総介という男に魅せられていた。




弘治三年(1557)八月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「今織田と松平の連合軍は長篠城の付近に陣を構築しておりまする。武田の兵が伊那街道を下って背後を付けば今川は挟撃を受ける形となり窮地に陥りまする。兵糧の都合は我が織田がつけまするゆえ、大膳大夫様におかれましては何卒援軍を願いたく存じまする」

猿の様な顔をした男が額を床に擦り付けて頭を下げている。守護代、いや、その家臣筋だったな。成り上がりの家らしい如何にも貧相な身形の男だ。


「しかし今川参議とは九月一杯、正解には九月頃までに今川からの室を返す。ついては其れ迄の間和議を結んだばかりでの。この和議は日蓮宗総本山たる身延山の尽力も貰っている。蔑ろにはできぬ」

「左様な事、勝ちさえすれば如何様にも出来まする。身延山とて宗門に何かと厳しい今川が蔓延るより、理解ある武田が勢威を増す方が嬉しいはず。文句は言いますまい」

木下藤吉郎と言ったか。猿の様な男が強かな顔を浮かべている。顔と身形は貧相だが、頭は悪くない様だ。


「援軍の要請、分からんでもないが武田が動くのはあくまで姫を返して以降じゃ」

「ならば姫のお返しをお急ぎ下さいませ。今川を打ち破る千載一遇の好機ですぞ。何卒ご出兵を願いまする」

「……。」


織田の使者が目に涙を浮かべながら嗄れた声で必死に訴えてくる。中々に役者だと思うた。織田の使者の言い分は一理あるが、まだ足元が固まっていない。ここで出兵をするには危険が伴う。何か大きな見返りが無ければ検討に値せぬ。

「織田と松平とは盟約があるわけではござらぬ。其処元は先程、我が武田の援軍に当たっては兵糧の都合を付けると申したが足らぬ。其れなりの利が無ければ我が家中は納得せぬだろう」

「しかし、今川を粉砕するは武田にとっても利となりまする。大膳大夫様はこれだけでは足らぬと仰せになりまするかっ」

「……中々言うではないか」

思わず声が出た。織田の使者が雫を床に落としながら鬼気迫る顔を浮かべた。全く表情豊かな奴だ。同席している馬場民部少輔も感心した様な顔を浮かべている。同じく同席している勘助は無表情だ。


「ご無礼を承知でお頼み申し上げまする。千載一遇と言える今川撃滅のこの好機!武田様の挙兵を願いまするっ!」

再び織田の使者が声を上げて額を床に擦り付けて平伏している。まぁ良いだろう。恩を売る形には出来た筈だ。勘助に目線を向けると僅かに頷いた。"是"という意味だろう。

「……相分かった。三河への出兵を約束しよう」

「ま、誠にございまするか!?」

織田の使者が騒がしい声を上げながら面を上げた。


「うむ。じゃが先に申した通り、今川には姫を返さねばならぬ。その姫を返してからの出兵になる。重ねて、先に幾らか兵糧の都合を付けて貰いたい」

「畏まってございまする」

「まぁ今月の下旬か来月頭の出兵になろう。其れまで織田と松平には粘って貰いたい」

「ははぁーーっ!」

織田の使者が水を得た魚の様に頭を下げた。"直ぐに兵糧の都合を付けて参りする"と声を上げている。身形は貧相だが、やはり仕事は出来る様だ。


今川との再戦か。思うたよりも早く来たな。

表だって儂に不満を覚えている者は既に処断した。儂の出陣で燻るものがいるなら上手く隠れている者を炙り出す良い機会になるやも知れぬ。援軍は信濃衆だけで良かろう。何とか一万は出せる。甲斐の兵は芽を摘む為に使ってくれよう。




今川に痛撃を与えて兵糧も得て、さらには織田と松平には貸しを作る。

フフフ、結果として良いことばかりになりそうだ。




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