第百二十六話 消沈




弘治三年(1557)八月上旬 三河国碧海郡安城村 本證寺 夏目 𠮷信




「田貫村が御寺の兵に貯めていた米を徴発されたと訴えをしてござる。村の怒りは相当なものにござる。これは真にござるか」

「待たれよ。其処元はまるで当寺の者が事を成したかの如く語られるが失敬千万ですぞ。当寺の者が斯様な所業をする訳ござらぬ」

内藤弥次右衛門殿が問い掛けると、上宮寺の勝祐上人が顔を朱く、そして唾を吐くような剣幕で否定をされた。弥次右衛門殿の問いが詰問の様に聞こえたかもしれぬ。


「そ、その様に声を荒げになさいまするな。某は事実を確認しているだけにござる」

弥次右衛門殿が手を翳して宥める様に言葉を放つ。随分と緩い追及だ。弥次右衛門殿は熱心な門徒だからな。あまり強く出る事が出来ないのかも知れぬ。これでは真が何か分からぬ。

「それよりも我が寺が何者かに火を付けられ伽藍に大きな被害を被っておる。火消しの場に居たものに寄れば下手人は松平の者ではないかとの事であるが」

勝祐上人が厳しい表情で我等の方を見てきた。


「それこそ無礼千万にござる!松平の者が斯様な事をするはずも無し!粗方今川の謀略であろう」

勝祐上人の不遜な物言いを受けて急に頭に血が上った。自分でも驚くような声を上げて言葉を放つ。

「まぁまぁ。双方の気持ちは分からんでもない。じゃが上宮寺の火付けに関して言えば次郎三衛門殿の申される通り今川の策かも知れぬ。その今川と言えば武田を打ち破り参議が濱松に入ったとの知らせが有り申した。仲間内で争うている時間は無い。三河に間も無く参議が現れますぞ」

勝鬘寺の了意上人が笑みを浮かべて話される。優しい声色に自分が大人気なかったと思わされる。勝祐上人と目を合わせて互いに気まずそうな顔をした。


「今橋城攻めで既に相当な数の門徒が浄土に旅立っており申す。なれど今橋の城に落ちる気配は無い。兵糧に不安がある今、城攻めを続けるのではなく一戦にて勝敗を決するのが肝要でありましょう」

了意上人が続けて声を上げる。今橋城の守りが固い事は皆が承知の事だ。一向衆は松平では落とせなかった出城を陥落させて始めこそ意気軒高だったが、おびただしい死者を重ねるうちに門徒達の士気は下がっている。今や陣によっては形だけの城攻めをこなしてすぐに引っ込んでしまう位だという。


「一戦とは申されるがどうされるお考えじゃ」

今まで寡黙であった本證寺の空誓上人が話されると、場にいる皆が上人の方に身体を向けた。

「我が寺の者の調べでは長篠城を囲っている織田と松平の軍勢が囲いを解いて陣を構築しようとしているとか。武田との連絡のために此の城の攻略は重要なれば、今川も此の城を守るべく兵を向けましょう。参議自ら向かうやも知れませぬ。ならば我等もこの場に門徒を引き連れて参陣し、兵力の差を持って敵を圧迫するのが宜しいかと存しまする」

了意上人が儂等の方を向いて言を放つ。我等の動きをもう察知しているとは中々耳に聡い様だ。腹の中を探られぬよう涼しい顔で応じた。


「決戦か」

「左様にございまする。織田松平の連合に我等が加われば三万は下りませぬ。駿河方面から来る今川参議は多くても一万程でありましょう。彼我の差は明らかなれば我等の勝利は揺るぎませぬ」

「悪くなさそうだな」

空誓上人がゆっくりと頷くように応じられる。不味い。戦力を集中するのは好手の時もあれば悪手の時もある。今は明らかに悪手だ。釘を刺さねばならぬ。

「お待ち下され。長篠方面は我が軍と織田軍とで抑えておりまする。すでに味方は長篠城から西へ軍を動かし陣を構築中にござる。今また更に、織田方より武田へ援軍を要請する使者も出ている所なれば、真宗の援軍は不要にござる。寧ろ今川の兵を今橋やその他の城に釘付けするためにも、引き続き付近の城の攻略にあたってもらいたい」

門徒衆は数は多いが緩慢な動きをする者も少なくない。大戦には邪魔になりかねぬ。いや、はっきり申さば邪魔だ。そう思って声を上げた。儂の強い発言に隣の弥次右衛門殿が困ったような表情をしている。


「了意上人の言うとおりじゃ。我が門徒達が長篠へ駆け付ければ兵力差は圧倒的じゃ。逆に我等が駆け付けねば織田松平と今川は互角になりかねぬ。その状況で如何にして勝機を見出そうとされているのじゃ」

「空誓上人。なればこそ味方は長篠城を離れ陣を構築しているのでござる。兵力が同じで陣を構築すれば勝てなくとも負けは致しませぬ。我等は此の負けぬ戦いを勝つ戦いにするために武田へ兵を要請しているのでござる。武田が信濃から南下し今川の背後を付けば勝利は確実にござる」

「ならば我が門徒が長篠に向かえばなお確実ではないか」

「真宗の門徒は数を活かして東三河の各城に攻め掛かってござる。これが一挙に長篠に向かっては今川の追撃を受けかねませぬ。愚策でござる」

「今川の軍が城から出てくるのなら好都合じゃ。迎え撃てば良い。城に籠っているから大変なのであって、出て来るならやりようがある。出てこないなら其れまた良し。長篠で決戦じゃ。加えて申さば、武田の当主は法主の義兄にあたる。拙僧からも援軍を出して頂くよう文を書こう」

「おぉ。空誓上人の文があれば武田も腰を上げましょう」

「左様でございますな」

儂の説得に全く耳を貸さず空誓上人が決を出した。被せる様に勝祐上人と了意上人が言葉を続ける。


大きな溜息が出た。こういうところよ。一向宗はまるで戦というものを分かっていない。其の事を分かろうともせず武士に耳も貸さない。"次郎左衛門殿"隣の弥次右衛門殿から小声で窘められる。溜息の事を申しているのだろう。儂も真宗の門徒ではあったが、ここに来て気持ちが冷めて来た。


今川参議は容易い相手ではない。

この様な状態で我等は勝てるだろうか。

縁側の先を眺めると、暗澹な気持ちを表すように空が曇天となっていた。




弘治三年(1557)八月上旬 尾張国知多郡堤田庄常滑郷 常滑城 水野 信元




「今川の使者が船団に戻るのを確認してございまする」

家臣の中山民部大輔が報告をすると、隣で床几に腰かける佐治平三郎殿が溜息をついた。今川の水軍に佐治の水軍が叩きのめされたのが相当に懲りているらしい。本陣で斯様に暗い顔をされては困るのだがの。

「佐治殿。左様な顔をなされますな。水軍は痛い目に遭い申したが、戦はこれからにござる。今川の兵を陸へ上がらせねば、この地は落とされぬ」

「さ、左様でござるかのう」

如何にも頼りない返事を佐治殿がすると、“殿、お気を確かになされませ”と粟津九郎兵衛が声を上げた。九郎兵衛は佐治家の重臣だ。


昨日未明、今川の大船団が常滑近海に現れた。桶狭間の戦の折にも今川の水軍は知多半島の近海に現れたが、迂回して北上をしていったため交戦には至らなかった。だが此度は常滑を目標にした船の動きであった。これに対して佐治殿の水軍が先手を打とうと果敢に戦端を開いたが、悉く沈められた。泳いで岸に辿り着いた者達によれば、今川の船に斬り込もうと接近したところ、今川方から玉のようなものが投げ込まれ瞬く間に大きく爆発したらしい。多くの船が穴を開け徐々に水没するか、炎に包まれて沈没したという。


佐治殿はこの報せを受けてから様子がおかしくなった。急に大きな声を上げて威勢が良くなったかと思えば、小声で気弱な事を口にしたりする。

粟津九郎兵衛によれば、天文の頃に佐治殿の居城である大野城が今川参議に急襲されたらしい。今川勢の火矢を受けて城は灰塵と化し、佐治殿はこの悪夢を思い出されているのではないかとの事であった。


今は水野一族で儂の娘婿でもある監物守次が治めている常滑城に、我が手勢千二百と佐治殿の手勢が千、監物の兵三百が詰めている。佐治殿の水軍を悉く打ち破って勢い付いたか、今川の使者がやって来て降伏を促してきた。使者として来たのは山田右衛門尉景隆だった。今川が先代の頃から何かと苦しめられた将だ。右衛門尉殿は丁重な物言いだったが、隣に座している佐治殿が日和っていた事と過去に右衛門尉殿に苦しめられた事を思い出して居丈高に追い返した。

佐治の水軍が敗れた事で海は塞がれたが、陸はまだ我等のものだ。そう、我等はまだまだ戦えるのだ。


今川の船団と言えば、見た事も無い程大きな安宅船が三隻、関船が十隻、小早や荷舟が数十隻といったところか。城からよく見える位置に座している。桶狭間の時の数に比べれば幾らか少ない。尤も、今川は熱田や津島を封じるため北にも船を出していると言う。伊勢湾全体を見れば相当な数の船がいるのかも知れぬ。だが、我等が相手にせねばならぬのは今見えている船だ。あれしきの規模なら上陸してくる兵力は互角か今川の方が少ないだろう。ならば城に籠る我等の方が遥かに有利だ。降伏するのはまだ早い。


「あれは何じゃっ!」

今川の船団を眺めていた佐治殿がいきなり大きな声を上げた。皆が声につられて船を眺めると、大きな安宅船の一隻から煙が立ち上がっている。

“ドドォーーーーンッ!!”

“うわぁぁ”

大きな音と共に城が大きく揺れる。ぱらぱらと音を立てて石垣が崩れた。


「あ、あれをご覧くだされ!」

城主である監物が指さした方を見ると、曲輪に大きな球が落ちている。まさかとは思うが船から何か放って来たと言うのか?

「今度は隣の安宅が煙を出しましたぞ」

九郎兵衛が声を上げたので海へ目を移すと、確かに隣の安宅船が煙を上げている。


“ドドォーーーーーンッ!!”

再び大きな音が轟いたと思うと、城が揺れた。間違いない。敵は鉄砲の様なものを撃ち込んで来ている。

「お、終わりじゃっ。やはり今川参議は人ではないっ!て、天魔じゃ。天魔に叶うはずが無い」

佐治殿が大きな声で騒いで縮こまっている。

「左様な事があるものか。これしきの事で怯む出ないぞ」

「し、しかし義父上。これでは手が出せませぬ」

監物が動揺した声で儂に問い掛ける。

「この城を落とすには上陸せねばならぬ。その時が勝負じゃ」

儂が大きな声を上げて発破をかけるが、広間にいる皆の目が死につつあった。




弘治三年(1557)八月上旬 尾張国知多郡堤田庄常滑郷 岡部水軍旗艦 岡部 貞綱




「方位角修正完了。緩やかだが波がござる。仰俯角は難しゅうございますな。このまま行きましょう」

親衛隊の功野主税助殿が呟くと、その隣にいる松井八郎殿が頷いた。

「主税助、撃ち方始めよ」

「右舷撃ち方ぁぁ用意!!……撃ち方始めぇぇぇ!」

八郎殿の命を受けて主税助殿が声を張り上げる。主税助殿の声を受けて両耳に手を当てて音に備える。

“ドドォーーーーーンッ!!”


轟音と共に大筒が火を噴いた。

味方の関船や小早から歓声が上がる。大筒による攻撃は敵の士気を下げ味方の士気を上げてくれると思うた。先の戦では武田の陣を混乱させ、勝利に大きく貢献したと聞いてはいたが身をもって感じた。


"弾ちゃぁぁーーーく!"

目視役の大声が甲板に響く。

「本丸に落ちたましたな」

天守の破風と隅棟の辺りが砕けている。隣の八郎殿に話しかけると、“屋根が崩れましたな”と応じた。八郎殿は御屋形様の側近であったが、まだ若いせいもあってか謙虚だ。

「大筒の砲撃で敵の士気も崩れたら良いですな」

武田との戦では大筒による攻撃が敵の士気を大いに挫いたと聞く。八郎殿に親しく話しかけると“出来る限りの努力を致しまする”と応じた。


「敵は今頃、降伏しておけば良かったと後悔しているかもしれませぬな」

使者として城にまで赴いた右衛門尉殿が城を眺めながら呟く。

「そうかも知れませぬな」

大筒を親衛隊に任せる事が出来たので儂も何かと手持ち無沙汰だ。八郎殿の邪魔をしても行かぬ。右衛門尉殿と戦況を眺める事にするか。


御屋形様が武田を退け、三河に入ろうとされている。我等は急ぎ常滑を急襲するのを任として受けた。

武田との戦で大活躍した大筒隊だが、かなり撃ったせいで故障が多いらしい。手入れや運びの手間を考えると暫く戦では使えない様だ。そこで御屋形様が八郎殿等大筒隊の一部を我が水軍にまわして下さった。配備されたばかりの大安宅船に乗船させるためだ。三隻の大安宅船には片側に三門、前後に1門、合計八門の大筒が配備されている。船員達はまだ扱いに慣れていない。ここは大筒隊に任せる方が良い。下手に拘って勝ちを逃がしたら行かぬ。御屋形様のご期待に背く事になる。


常滑近海で幅を利かせていた佐治水軍は既に叩きのめした。無理に城を奪わずとも、海を抑えておけば常滑焼を売る事は叶わない。御屋形様が東三河から西三河まで兵を進めれば常滑は自ずと孤立する事になる。

先の事を考えながら陸を眺めていると、小さく微かにではあるが城から逃げ出す兵がちらほらと見えた。右衛門尉殿と目を合わせて笑う。


“右舷撃ち方ぁ用意ぃぃ!……撃ち方ぁぁ始めぇぇ!!”

主税助殿の大声を受けて耳に手を当てると、再び轟音と共に大筒が火を噴いた。

始めは驚いた轟音だったが、今や心地よい音に感じた。




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