第百二十四話 厭悪




弘治三年(1557)八月上旬 駿河国富士郡 田子ノ浦近郊 三浦 義就




「次は大蔵方の草ヶ谷権右少弁殿からの報告でございまする」

「権右少弁は報告がよく纏められている。後で文を確かめる故、今は報告の最後にある増減だけ教えてくれれば良い。大まかな理由と共にだ」

息子の内匠助が次に報告する文の差出人を伝えると、御屋形様が車窓を眺めながら呟かれた。傾斜が掛かった道が緩やかになりつつある。今暫くで田子ノ浦湊に付くだろう。車内で報告が出来るのはあと一つ二つかも知れぬ。


「はっ。大蔵卿に寄れば此度の三河並びに駿河での戦により矢銭が入り用でございましたが、京の蔵人殿から届けられた兵糧を取引所にて宜しく売り捌いた事によりまして、返って銭は増えておるとの由にございまする」

内匠助が要点を押さえて報告をする。息子は御屋形様のお付きをして短く無い刻を過ごした。簡潔な報告を受けて外を眺める御屋形様が"で、あるか"と満足そうに、微かな笑みを浮かべて応じられた。


「続いては志太郡の……」

内匠助が報告する内容が代官から上がって来る訴訟に移った。内匠助は馬車に乗り込む前に報告すべき内容の順を吟味しているはずだ。代官からの訴訟も大事な政の一つだが、戦を前にして大事な銭と兵糧、それに軍に関する報告は全て終えたと言う事か。常なら側用人として吉良上野介殿が見えるため、遺漏が無いか上野介殿と息子とで確認している。だが上野介殿がいない今、念のため儂が確認しておく必要があるな。田子ノ浦に着いたら確認しておこう。


同乗する葛山播磨守が少し緊張した面持ちで馬車の外を確認している。本来なら御屋形様の警護は序列で言えば朝比奈備中守が務めるはずだが、備中守はこの馬車を前後で警護している親衛隊を率いている。


馬車の前を備中守の隊列が守り、後ろを孕石主水佑の隊が守っている。そのため重臣でもあり武田との戦で二番槍を挙げた播磨守に白羽の矢が立ったのだ。親衛隊が確と守る中では車内での役目は然程無いと思うが、御屋形様に万が一があってはならぬと周りを必死に眺める御仁を見ていると和むものがある。


いよいよ道が緩やかになったと思うと、視界に海が入ってきた。

御屋形様の視線は変わらず外の景色にある。御屋形様の事だ。茫然と景色を眺めておられるのではないだろう。御屋形様の事だ。今も頭の中では策謀を巡らせているに違いない。


今朝方、御屋形様は日の出と共に真篠城を後にすると、馬に乗って篠原隠岐守の邸宅に向かわれた。僅かな刻ではあったが、隠岐守の忘れ形見に加冠の儀を行い、儀が済むと直ぐに田子ノ浦へと向かわれている。

富士大宮司の城下から湊までは馬車を選ばれ、寸暇を惜しんで政の報告をお聞きになられる。この方の無駄のなさには熟≪つくづく≫感心させられる。先代も政にはご熱心であったが、当代の御屋形様の比ではない。


"御屋形様にぃ~捧げぇ剣!"

大きな声がして外を眺めると、整列をした親衛隊が剣を掲げて車列を出迎えていた。親衛隊特有の印でを確かめると、兜に"沼九"と書かれている。よく見ると兵達は若い者達が多い。最近沼津に新設されたばかりの第九師団なのだろうと思うた。御屋形様の車列を守るのは家中で最精鋭と言われる府中親衛隊の第一師団だ。整列している兵達の目が羨望の眼差しを含んでいる様に見えるのは見間違いではないだろう。


「お待ちしておりましてございまする」

馬車を降りると、西武方面の水軍を率いる岡部忠兵衛が水軍式の敬礼をしてから口を開いた。

「うむ。此度は頼むぞ」

御屋形様が頷きながらお応えになるが、誰ぞ探されている様なご様子だ。お声を掛けようとしていると"御屋形様"と声がした。振り返ると狩野伊豆介が控えている。その傍らには行商と覚しき男がいた。

「伊勢の件でご報告がございまする」

伊豆介が小さく声を上げると、御屋形様が微かに不敵な笑みを浮かべた後、"飛蔵か。よく来たな。気になっていたのだ"と仰せになられた。名を呼ばれた行商の身形、恐らく荒鷲の者だろう。その男が嬉しそうに"はっ"と応じた。草の身分で今川の当主に名を覚えられているのだ。感慨も一入だろう。御屋形様が続けて人払いをせよという仕草をされる。ご指示を受けて近くにいた者達が少し遠くへ遠ざけられ、御屋形様を囲うように儂と備中守、忠兵衛が立ち、伊豆介、荒鷲の男が控える様にしている。主水佑と播磨守は少し離れて守りを固めている。


御屋形様が"立ち上がって耳打ちにて報告をするように"と言った仕草をされる。廻りにいる皆が御屋形様に近づいた。この距離を許される己が嬉しく思うた。

「北畠権中納言様に置かれましては、北伊勢への御出兵並びに水軍の手当、応諾賜りましてございまする」

飛蔵と呼ばれた男が声を潜めて報告すると、御屋形様の口元が少し上がった。

「であるか。出かしたぞ。権中納言殿は何ぞ仰せであったか」

「はっ。然らば幾らか兵糧の都合を頼みたいと仰せでありまする。刈り入れを前に少しばかり手元が心許ないご様子でありました。それから、御屋形様の熱田と津島に対する策には協力されるものの、布告と銭の用意は今川で頼みたいと仰せにございまする」

「相分かった。全く問題無い。なれば忠兵衛っ!」

「ははっ」

「余はこれより濱松へと向かうが、その際の艦隊は予定の半分で構わぬ」

「お、御屋形様、それでは兵を全て乗せられませぬ」

忠兵衛が困った様な顔を浮かべて動じている。


「構わぬ。共に行けるのは三千かそこらと言ったところか。差し当たってはそれで十分だ。後は陸路で追い付かせる。先ずは余がいち早く三河征討に向わんとしている事を知らしめるのが大事なのだからな。其の方は残りの船を府中へ向かわせ北畠に兵糧を届けよ。船が足りぬなら商船に銭を払って暫く借りてでも兵糧を届けるのだ。北畠にも商家にも少し色も付けてやれ」

成る程。織田の背を脅かすという事か。しかし今一つの商人に対するやり取りが分からぬ。そう思うていると、御屋形様と目があった。

「左衛門尉。余はこの際熱田と津島を潰そうと思っている。父がやった様に布告を出してな。だが余は父と同じやり方はせぬ。力で脅すだけの単なる布告に意味は無い。熱田や津島と交易する者達に今川と付き合う方が利になると思わせれば良いのだ」

御屋形様が儂の顔を見ながら不敵に笑われている。少し恐ろしく感じた。背筋が寒い。


「如何されるというのでございまするか」

儂が問いかけると御屋形様が富士の高嶺を眺めながら声を上げられた。

「熱田と津島は今川を害する行いを繰り返すゆえ成敗する。よって此れより海から熱田と津島へ向かう船は調べて荷を召し上げると布告する。だが、これでは商家が利を奪われ困るだろう。だから布告には次の言葉を添える。商家の利を無秩序に奪うは今川の目的に有らず。熱田と津島に売る手筈であった物は北畠の大湊か府中で高く買い取ると布告するのだ。それでも熱田と津島に向かう船あらば取り調べせよ。反抗するなら忠兵衛はこれ等の船を沈めて構わぬ。北畠権中納言殿もこの策に水軍を出して協力すると言う事だ」

「亡き御屋形様は今川からの命だけで押さえようとされましたが、御屋形様は商家に利を与えて協力させようとお考えなのですな」

「うむ。後は常滑さえ落とさば尾張の商いは終わる。織田は瀕死の苦境に立たされるだろう。土倉達はどう出てくるだろうな。余に頭を下げるか、織田と最後を共にするか」

「全く、御屋形様のお考えは恐ろしゅうございまする」

「これだけではないぞ。織田の力は銭で支えられている。この柱が崩れるのだ。余が三河へと入った時、織田と松平の連合軍と対峙するだろう。敵は鉄砲を持つ今川に向かって攻めるのは不利だと悟っているはずだ。我慢比べになるが、国が揺れに揺れた時、何時まで我慢出来るかな。ま、全ては水軍の働きに掛かっている。頼むぞ忠兵衛」

御屋形様が忠兵衛の肩を叩いた後、船に乗船されていく。

忠兵衛の顔を覗くと、初めの笑みはすっかり無くなって“励まねばならぬ”と緊張した面持ちで呟いた。




弘治三年(1557)八月上旬 山城国上京 内裏 二條 晴良




「三好筑前守からの使者があり、改元に向けた献金を行いたいとの由にござる」

武家伝奏を務める広橋権大納言が笑みを浮かべて三好からの知らせを報告すると、朝議に集う公卿の皆が“おぉ”“ついに”と声を上げた後、各々が主上に向かって言祝いだ。

「年内に改元を行う。皆準備してたもれ」

主上が御言葉を発せられると、皆が平伏して応じた。費えの問題により改元が出来ず、先帝の御代から続いていた弘治がもうすぐ終わる。此度は公方を、幕府の承知を得ない改元となる。麿はあくまで筋を通すべきと主張したが、主上の改元に向けた御意志は揺るがなかった。足利が武家の棟梁として幕府を開いて以来二百有余年、改元には幕府が関わって来た。その秩序を朝廷が崩す。何か不穏な事が起こらぬのを祈るばかりだ。


「此度三好が改元に向けた献金を行う事、今川の働きによるところ大でおじゃる。また、改元に向けた費えは三好の献金にて不足ないところとなるが、資金の多くは今川の献金によるものでおじゃる。主上、臣は今川参議の働きを認めて新たな位を授ける事が肝要と愚考致しまする」

「三好筑前も承知したのなら改元は滞りなく出来ましょう。関白殿下の奏上ごもっともでおじゃります」

関白の近衛が言を発すると、右大臣の西園寺公朝が関白に続けて賛意を示した。不味い。どちらつかずな事が多い右府が近衛に賛意を示している。このままでは近衛の手駒を易々と昇淑させてしまう。

「今川参議の働きがあるのは分かる。なれど今川は甲斐に攻め込まれ苦境にある立場。今の戦に敗れれば武田や織田に併呑されるやも知れぬ。それに今川を妬む公方の不興を進んで買う必要はおじゃらぬ。主上、臣は今川参議に新たな位を授けるは時期尚早と心得まする」

「太閤殿下の仰せの通りにおじゃりまする。今川参議をこれ以上昇らせては、公方と並ぶ事になりまする。武家の頭領たる足利をこれ以上粗略に扱うは得策におじゃりませぬ」

麿が声を上げると今出川大納言が続いた。今出川の当主は足利と懇意な関係にある。何かと公方を蔑ろにする今川を快く思うていないのだろう。……今川を快く思わぬと言えばまだおるの。


「今川参議に関して、広橋大納言は如何お考えか」

「今川の働きは分かりまするが、ここで遇しては事を荒立てまする。主上の働きに報わんとの御心、唯々関心の一言でおじゃりまするが、これ以上公方を刺激するは都を戦場にしかねませぬ」

麿が広橋大納言の顔を覗いて発言を促すと、堰を切った様に大納言が意を述べた。相変わらず広橋は使えるの。批判に次ぐ批判で近衛の顔は如何にと覗くと、思いの外涼しい顔をしていた。内心は苦虫を嚙み潰しておるだろうに無理をしておるのだと思うた。

“失礼致しまする”

声のした方を眺めると、高辻五位蔵人が座っていた。近衛の腰巾着だ。嫌な予感がした。


「おぉこれは蔵人、如何致した」

四辻権大納言が場の雰囲気を察してか、幾らか明るい声色で言葉を掛けた。

「はっ。朝議のところ申し訳おじゃりませぬ。今川と武田の戦について急ぎ報告したき儀が生じまして、罷り越しておじゃりまする」

下がれと言いたいところだが、五位蔵人は昇殿が認められている。如何したものかと考えていると、“苦しゅう無い。申してみよ”と壇上から御言葉が掛けられた。

「はっ。甲斐から駿河へ攻め寄せた武田の大軍でおじゃりますが、今川参議が自ら援軍に向かい悉く蹴散らした模様におじゃりまする。武田軍は大きな被害を被り、ほうほうの体で領国へ落ち延びた様子におじゃりまする」

蔵人が報告をすると、場にいる皆が“おぉ”とか“なんと”と声を上げて驚いた。中山権大納言が“今川さんは御強いですなぁ”と能天気な声を上げている。麿が厳しい顔を向けると慌てて身を屈めていた。


「うむ。今川参議は秋の除目で従三位権中納言にさせる。参議は改元に向けた準備という朕の意に応えたのじゃ。朕は朝家の忠臣に報いなければならぬ。蔵人は参議に仔細を伝えるように。それと、今川からは甲斐守に関する叙任について依頼があっただろう。あれも許すと伝えよ」

「承知しておじゃりまする」

主上が決を述べられて御立ち遊ばされると、皆が平伏して見送った。近衛が高辻蔵人に向かって笑みを浮かべている。恐らく近衛は蔵人から知らせを受けて戦の趨勢を知っていたのだろう。先に知らせては麿に対策を練られるかもしれぬ。そう思った近衛が朝議の途中で報告させるように仕向けたのかも知れぬ。


「太閤殿下」

近衛の謀略を推察して腹立たしさを覚えていると、四辻大納言が声を掛けて来た。主上に続いて関白や大臣の皆が既に下がっていた。皆、麿が下がるのを待っているのだ。

「うむ」

立ち上がって部屋を下がると、入り口の廊下で頭を下げる高辻五位蔵人が目に入った。ふと歩く足が止まる。麿が立ち止まったのを見て目の前の男が下げる頭をさらに深くした。何かとそつのない男よ。


……菅家の分家である高辻、しかもそのまた分家の分際で、今川の力と銭の力で昇殿を許される身にまでなっている。最近では主上の覚えも悪くない様だ。全く忌々しい。

「犬め。そこにいては麿が通れぬではないか」

気付いた時には言葉が出ていた。


「……失礼致しました」

蔵人が麿の言葉を受けて縁側を下り、砂利の上に控える。広間に残っている公卿達の多くが驚くような声を上げ、同情するような面持ちを向けている。……砂利に身を進んで置いて同情を誘ったのかも知れぬ。やはり抜かりの無い男よ。忌々しさが増した。

「気を付けよ」

砂利の上で平伏する男に声を掛けると、感情が無い乾いた“はっ”と言う声がした。


今川の増長は近衛の増長につながる。

ひいては幕府を中心とした武家の秩序を崩す事になる。

秩序を乱してはならぬのだ。やはり公方が京に居らぬのは都合が悪い。何とかせねばならぬ。

常より足早に歩きながら策を考えていた。



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