第百二十三話 粛清




弘治三年(1557)八月上旬 駿河国富士郡 大宮城下 篠原邸 富士 信忠




「此のような狭い所にようこそお出で下さいました」

篠原隠岐守の後家が三指を立てて我等を迎える。後家の隣には童子とも若武者とも言えぬ、丁度その間の年頃になる男児が平伏していた。邸宅の門がすぐ奥にあるというのに、砂利の上に膝と手を付いて迎えを受ける。儂や御屋形様を高いところから迎えるのを憚ったのだろう。幾度か見た事があったが、相変わらずよく出来た後家だ。家臣の無礼は儂の無礼になる。内心では一抹の不安があった今日の訪問であったが一先ず安堵した。


「今川参議氏真である。急な訪問であるがどうしても寄りたくてな。許せ」

御屋形様の名乗りを受けて、後家とその横に入る若人が儂の顔を眺めてくる。頷いて挨拶を促す。

「篠原源太郎忠常の妻にございます」

「篠原源太郎が嫡男、長丸にございまする」

二人がこれでもかと言う程に額を地に付け頭を下げる。

「うむ。斯様に窮屈にならずとも良い。さっ、宅に案内してくれ」

「はっ」

御屋形様の下知を受けて長丸が直ぐに奥へと進む。宅の中を調べるために供の三浦内匠助殿と朝比奈備中守殿が先に進み、問題の無い事を報告すると御屋形様が篠原邸の中へと進まれた。

篠原家には四百貫の所領を与えている。決して小さい所領ではない。此処はその当主が富士城下に構える屋敷として申し分の無い広さと構えをしていた。だが、今川当主である御屋形様を相手にしては全く霞んでしまうのはやむを得ない。


此度の訪問を願われたのは御屋形様だ。御屋形様は仰々しくするのを嫌ってか護衛の親衛隊は門の前に置き、内匠助殿と備中守殿、それと狩野伊豆介殿だけを連れて中へと入られている。こちらは儂と隠岐守の家族だけだ。他の家中が聞けば驚き篠原に嫉妬する者もいるかもしれぬ。いや、確実にそうなるだろう。


屋敷で最も大きな広間に辿り着くと、後家が茶を運んできた。

「ど、どうぞ」

幾らか震えた手付きで御屋形様へ茶を差し出すと、すかさず備中守殿が一口含んだ。常には別の者が毒味役を務めるが生憎此処には適当な者がいない。若年とは言え、代々家老を務める朝比奈家の当主に毒味役をさせてしまったな。後で一言詫びておこう。


「長丸」

「はい」

御屋形様に名を呼ばれた長丸が緊張した面持ちで御屋形様の方へ向かって姿勢を正す。

「此度は其の方の父を死なせる事になった。済まぬ事をしたと思うている」

「勿体ない御言葉、墓前で父に必ずや伝えまする」

長丸が畏まって応える。年の頃は十と少しと言ったところか。忠常は良い跡継ぎに恵まれたのだと思うた。


「大宮司から聞いた。篠原隠岐守は只一人で敵の陣中にあっても、敵に傷つけられても、最後まで味方の事を考え、見事な散り際であったとな」

御屋形様の目線が儂に来た。大きく頷いて応える。

「左様にございまする。隠岐守の報せで味方の皆が奮い立ち、城は落ちずに済み申しました」

「誠に見事だ。其処でだ長丸。隠岐守の抜群な働きを評して所領を倍の八百貫にした上で篠原家を余の直臣に取り立てる。ただし、役目は大きく変えるわけではない。引き続き富士大宮司の与力として富士郡のため、今川のために励んでくれ」

長丸が"良いのだろうか?"という表情で儂の顔を覗く。"有り難くお受けせよ"と応えると、後家と二人して姿勢を改めて正し、御屋形様に向かって深く平伏をした。

「な、何と勿体ない御沙汰。父も冥土で喜んでおりましょう」

長丸が頭を下げながら声を上げる。


御屋形様の寝所に呼ばれて伺った折りに、御屋形様からこの沙汰に関してお話を受けた。所領の倍増に直臣への取り立てとは格別のお引き立てだ。隠岐守の功は何よりも優るものがある。家中に不満も起こるまい。当家にとっても篠原の家が引き続き与力になってくれるのなら大きな変化は無い。


「それから長丸は元服せよ。それだけ落ち着いているなら篠原の当主も務まろう」

「は、ははっ」

御屋形様の言葉に長丸が目を丸くして応じている。

「略儀ではあるが、今より余自ら加冠の儀を行う。備中守、あれを持て」

「え?あ、ははっ」

長丸が驚いてあたふたとしている中、御屋形様の言葉を受けた備中守殿が機敏な動きで烏帽子を持って来る。

「こちらにございまする」

「うむ」

御屋形様が手に取られて長丸の方へ身体を向けられる。


「長丸。其の方には余の名より一字を与えるゆえ、これよりは源太郎真忠さねただと名乗るが良い。あわせて、受領名にはなるが、隠岐守を名乗る事を許す。先代隠岐守の武勲を汚さぬよう励むべし」

「は、ははっ!!」

長丸、いや、源太郎が感動した面持ちで姿勢を正す。御屋形様が源太郎の頭に烏帽子を被せる。いつの間にか隅へと場所を移していた後家が、大層感動した面持ちに雫を落としながら深々と頭を下げる。

御屋形様が自ら加冠を行う事など中々無い。これは篠原家で後世まで語られることになるだろう。儂でも羨ましい程だ。




御屋形様が富士にお越しになって服属を求められた時をふと思い出す。

あの時の判断は間違うていなかったと思うた。我等の寄親は内政で国を豊かにされ、一度ひとたび戦になれば苦境にあっても援軍を下さる御方だ。不義理を重ねる武田に付いてなどおられぬ。富士の地は今川と共にあるのだ。心よりそう思うた。




弘治三年(1557)八月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




蝋燭の僅かな灯火が寝所に灯る中、微かな足音が聞こえた。勘助だろうとは思うたが、念のため手元に置いてある刀へと手を掛ける。

"山本勘助にございまする"

「うむ。入れ」

確かに勘助の声だと確認してから声を出す。

「はっ」

儂の言葉を受けて黒ずくめの格好をした勘助が中へと入ってくる。家中に不穏な動きが多い中だ。儂の心うちに気を遣ってか、中に入って直ぐの場所に控えた。

「如何致した」

「若殿の処断、滞りなく終わりましてございまする」

「そうか」

「はっ」

勘助が短く応じた。


「兵部少輔達は如何している」

「飯富兵部少輔、長坂清四郎、曽根左衛門尉の三人は捉えて天澤寺に閉じ込めておりまする」

「うむ。天澤寺は飯富の息がよく掛かった寺じゃ。そのまま天澤寺で処断せよ。儂に刃向かえばどうなるか寺の者達に分かるような形でな」

「御意にございまする」

「自害はさせるでないぞ。儂に刃を向けようとしていたのじゃ。斬首とせよ」

「ははっ」

勘助が淡々と応じる。今川との戦が終わってから勘助は少し、いや、かなり言葉が減った。戦に敗れた責を感じているのかも知れぬ。儂の命をただ愚直に、寡黙にこなしている。


今川との戦を終えて躑躅ヶ崎舘へと戻ると、不穏な動きが幾つも生じていた。まずは太郎義信が奥三河の下條兵部少輔をはじめとして幾人もの家臣や国人に文の発給と兵糧の都合を付けていた。一つ一つ差配している兵糧の量は決して多くないが、この困窮の折りに皆が諸手を挙げて喜んでいたらしい。


飯富兵部少輔に至っては兵を集めていた。儂を幽閉し、太郎を当主に担ごうとしていたと言う。長坂清四郎と曽根左衛門尉も兵部少輔に同調しようと画策していた。これだけではない。真田が今川の使者を饗応すれば、北信で国人が不審な動き、御用商人が不満を覚えている等、数えきれぬ報告がされた。


報せの多くが今川の謀略である可能性もある。だが悠長に調べている刻は無い。兵部少輔と清四郎、それに左衛門尉の動きは勘助が急ぎ調べて裏が取れたが、不穏な動きが多くて全てを調べておられぬ。


今川参議氏真……。公家の様な優男の様に見えて相手を追い詰めてくる手を打ってくる。それに一手二手だけではない。全く忌々しい小僧よ。

太郎が儂に何処まで不満があったかは分からぬ。何一つ無いという事も無いだろう。太郎には酷だが、兵部少輔を中心とした太郎を担ぐ勢力が蠢いていたのは事実だ。まだ太郎は若い。担がれた仮の頭領では今川との戦は乗り越えられぬ。処断はやむを得ない事だったのだと己に言い聞かせる。


次は今川から来ている姫を駿河に返す。

太郎を処断した今、姫を甲斐に置いたままにしても仕方がない。儂に不満を覚える者達の拠り所になられても困る。それに姫は参議の実妹なのだ。この事は今最も大事な“刻”を稼ぐのに使えると思うた。やはり真篠城に穴山を置いたのは正解だったな。伊豆守が少し粘った事で、真篠城より北はまだ我が武田の勢力になっている。その中には久遠寺もある。姫を返す交渉に日鏡法主を使えたのは大きかった。参議も流石に久遠寺との対立と身内殺しの謗りを受けるのは避けたと見える。


法主としても今川から何か求めたいところだろう。久遠寺に今川との繋ぎを持たせるのは避けたいところではあるが背に腹は変えられぬ。今儂がすべきは手に入れた刻を無駄にせぬ事だ。


「勘助」

「はっ」

「領内に隈無く噂を流せ。今川は寺を焼くことも破却することも厭わぬ仏敵だと。天魔の如き所業を易々と行うとな」

「はっ」

勘助が短く低い声で応じる。


甲斐では日蓮の教えに帰依している者が多い。仏を蔑ろにする者に仕える事を忌避する者達も多かろう。それに……。

「それから今川参議は武田だけでなくその家臣も根絶やしにするつもりだと噂を流せ。丁度穴山家が伊豆守だけでなく嫡男と次男まで切腹させられた。今川への寝返りは無駄だと思わせよ」

「はっ」

今川へと誼を通じようと考える家臣は少なくない。だが斯様な事は全く無駄だと思わせれば、否応にも武田に仕えざるを得ないだろう。

「御屋形様の下知、委細進めるよう手筈を整えまする」

勘助が淡々と声を上げて下がって行った。


……後は商家をどうするかだな。奴等を敵にすると不都合が多い。そういえば市を決まった日取りだけでなく好きに開きたいと訴えて来た商人が何人かいたな。市を開く場所も好きにしたいとも。

名君と呼ばれた六角の管領代殿も、今川参議も商人の特権を廃して町を大きくし、力を得ている。儂も領内全てでとは行かぬが、先ずは府中で楽市をやってみるとするか。



さて、今川参議と姫のやり取りについて細かな部分を調整せねばならぬ。筆を手に取り筆先に墨を潜らせる。宛先は第六天魔王とでもしてくれよう。上手く行けば参議の宗門に厳しい姿勢を嫌う僧達が儂に付くかも知れぬ。憎悪の念を吐き出すように筆を走らせた。



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