第百二十二話 停戦




弘治三年(1557)七月下旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 日鏡




今川の兵が林の如く整列する中、城の本丸へと向かって歩みを進める。供をさせている若い僧の二人が不安な面持ちで儂の身体を支えている。支える手も幾らか震えているようだ。まだ修行が足りぬな。寺に帰ったら言い含めなければならぬ。


「老師に御足労を願って申し訳御座らぬ」

本丸の入口へと辿り着くと、初老と言って良いだろう。翁へと差し掛かった二人の武士が出迎えた。

「何の。無理を言って謁見を願ったのは当方なればお気になさる必要はありませぬ。久遠寺から参った日鏡でありまする」

「今川家臣、三浦左衛門尉義就にござる」

「同じく庵原安房守忠胤にござる」

互いに頭を下げると、二人の招きで奥へと進んだ。左衛門尉と言えば今川の重臣中の重臣として知られている。此度は今しがた先触れしたばかりの急な訪問だが、まずは丁重に出迎えられていると思って良いだろう。ま、此処に来るまでに居並ぶ兵で十分すぎる出迎えはされたがの。


今川の重臣二人が儂にあわせてかゆっくりと先を歩む。話しかけてくる様子は無い。何用かを聞くように参議から命を受けていないのだろうか。

「こちらへ。すぐに主を呼んで参ります」

左衛門尉が一言告げて下がり、安房守の案内で部屋の奥へ進む。直ぐに参議殿が来ると申したか?これはいかぬ。袈裟に乱れがないか確かめる。


腰を下ろした後、安房守に慌てていると思われぬよう気を遣いながら供の姿を急ぎ確認していると、足早な音と共に若い男と左衛門尉殿が入って来た。垣間見えた男は狩衣姿がよく似合っている。頭を下げて礼を示す。

「面を上げられよ」

まだ若さを感じる声を受けて面を上げると、公家の様な身形と優し気に整った顔だが、それでいて覇気を持つ若い男がいた。

「今川参議氏真である。此のような山城まで足労とは疲れておろう。それに上人、人の上に立つとされる御仁を前に上から済まぬ。この城には適当な部屋が無くてな」

今川参議殿が壇上の上座で応対する事を詫びてくる。表情からは然程済まなそうに感じられぬ。これは見掛け上は儂を敬いつつも、場所を理由にして立場の違いを示して来た様にも聞こえた。参議殿は歳に似合わず老獪なところがあるようだ。

「いやいや、左様な事をお気になされぬよう願いまする。急な目通しを願ったのはこちらにございまする」


「さて、何の御用かな。余に久遠寺の件で話があると聞いたが」

「はい。久遠寺は今川様と対立するつもり等毛頭ありませぬ」

儂がまず対立する気はないと伝えると、参議殿が脇息に肘を掛けながら疑うような目で息を吐いた。

「斯様に申すが、武田に幾らか付け届けをしておろう」

流石は今川参議殿だ。やはりと言うべきか、存じていたかと思うた。

「あれは甲斐や信濃の門徒が寺に災禍無く参拝するための費えにございまする。それ以上の他意はありませぬ。久遠寺は武田に攻められた事もある寺にござる。武田勢は撃退し申したが、其の折りに今後の争いを避けるための費えとして支払を約定し、支払うようにしておりまする」

「で、あるか。それで?要件は何でござろう」

猜疑の念を持っている表情で参議殿が儂の顔を見ている。その表情は儂を疑っている様にもただ単に儂とのやり取りを面倒に感じた様にも見える。人となりが分からぬな。幾人もの人物を見てきたが目の前の御仁は底が見えぬ。敢えて猜疑の表情をしているようにも見えてならぬ。


「二つありまする。一つ目は武田大膳大夫殿から仲介を頼まれた儀がありまする」

武田家当主の名を出すと、場にいる左衛門尉と安房守の表情に緊張が走った。

「大膳大夫からの頼まれ事とな」

参議殿の表情に緊張は無い。寧ろ興味を惹かれた様な顔をしている。

「はっ。大膳大夫殿に置かれては御嫡男殿の御正室を準備が整い次第今川へお送りしたいとの由にございまする」

“なんと”

“嶺姫様を”

今川の重臣二人が声を上げて驚く。

「嶺を戻すというのか」

参議殿が脇息に持たれながら呟くように話す。

「はっ」

「ふむ。大膳大夫は何時頃に戻すと申していた」

「遅くとも九月の間には戻したいと仰せでありました」

儂が大膳大夫殿の意を伝えると、参議殿が"フッ"と笑みを浮かべて鷹揚に頷いた。大膳大夫殿の意図を参議殿なりに心得たのかも知れぬ。

「良かろう。但し、武田の者が我が領に入る事許さぬ。嶺は久遠寺にて其の方が預り、此の城まで送るべし」

参議殿が少し声を大きくして話すと供の僧達がその威に萎縮しているのが分かった。溜息が出そうになるのを堪える。


「畏まりました。その様に致しまする」

今川への送迎は予め大膳大夫殿から頼まれていた事でもある。何ら問題ない。

「で?今一つの要件を聞こう」

「はっ。久遠寺は先に申し上げました通り今川に弓引く積もりありませぬ。今川兵が寺領へと分け入らぬ約定を頂戴したく願いまする」

今川が武田を撃ち破って久遠寺のすぐ其処にまで迫って来ている。寺に戦禍が及ばぬとも限らぬ。早い内に禁制を取っておく必要がある。

「禁制の事か」

「はっ」

今川参議殿が思案する様な表情をしながら儂の顔をじっと見てくる。若い。顔は若いが何を考えているのか読めぬ。全く……何というか興味をそそられる御仁だ。

「余の領では今川仮名目録と言った法度がある」

「存じておりまする」

「今川の支配が寺領にまで及んだ暁にはこの法度に従い、其の方達が政事に口を出さぬのなら我が兵に久遠寺へは入らぬよう禁制を発布しよう」

今川仮名目録か。今川が伊豆を新たに治めた時、目録に従わない寺が幾つも焼かれたという。

他宗も諸共に同じ扱いを受けるのなら不満は無い。

「従いまする」

「うむ」

儂が応じて頷くと、参議殿が満足そうにゆっくりと応じた。

部屋を去ろうとする参議殿に頭を下げようと身を屈めると、身体の至る所から汗が出ていた事に気づいた。

弟子達の事は強く言えぬな。儂もあの若き男を前にして緊張していたのだと思うた。




弘治三年(1557)八月上旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 今川 氏真




「三河での戦がすぐに待ってはいるが、一先ず武田を追い払う事が皆のお陰で出来た。この参議、心より皆に礼を申す。戦勝の祝いと論功行賞は落ち着いてからまた行う積もりだ。それに此の城では武田が奇襲に来ないとも限らぬ。今宵は酔わぬ程度になるが楽しんでくれ」

俺が杯を掲げて三浦左衛門尉に目配せをすると、予め指示を受けていた左衛門尉が"乾杯"と大きな声を放った。皆が唱和して宴が始まる。


武田の奇襲が始まってから緊張の中、皆が命を削り続けて来たのだ。少し位は良いだろう。だが、無粋だと思いつつも釘を刺すのを忘れない。ここは戦場で何があるか分からないからな。今も兵達は持ち場を守っている。将達で細やかにやるだけだ。尤も、不意の奇襲で義元を亡くした記憶が新しい。俺の釘を刺す言葉に確りと皆が頷いていた。先代も時には役に立つものだと思った。


「富士兵部少輔」

「ははっ」

俺に名を呼ばれた大宮司が前へとやって来て畏まる。小姓代わりに長野信濃守の嫡男である新五郎に酒を注がせる。

「其の方の守り、真に見事であった」

「有り難き御言葉、兵部少輔感激に堪えませぬ。此度は我が家臣や城に詰めた親衛隊の皆が励んでくれましてございまする」

「うむ。山田商三郎には後で声を掛けておこう。其の方の家臣と言えば篠原隠岐守の件で話がある。宴が終わったら寝所に来い」

「寝所でございまするか。は、ははっ!御信頼嬉しく存じまする」

大宮司が嬉しそうな顔をして下がっていく。


「長野信濃守」

「ははっ」

名を呼ばれた翁が矍鑠とした動きで俺の前に畏まる。

「其処元の武田本隊に対する守りたるや天晴れであった。其の方が寡兵にも関わらず大膳大夫の本隊を足留めさせてくれた故に此度の勝利がある」

俺が大きな声を上げて誉めると、皆が"お見事"だとか"流石信濃殿"と続いた。目の前の信濃守の表情は照れ臭そうにしながら喜んでいる。

「新次郎。今川に多大な貢献をした其の方の父に酒を注いでやれ」

俺の言葉を受けて新次郎が信濃守の杯に恭しく酒を注ぐ。微笑ましいやり取りだな。


次はどうするか。若い者も褒めてやらねばな。

「松井八郎」

「ははっ」

遠慮がちに隅でやっていた八郎を呼ぶと、皆が真打ち登場とばかりに大声や手を叩いて騒ぐ。恐縮したように前へと進んでくる八郎がしをらしい。

「捕らえた武田の兵によらば武田左馬助は大筒の攻撃によって崩れた天井の下敷きになったらしい。武田の部隊も其の方等の攻撃で大きく崩れた。調練の成果だな。天晴れであるぞ」

"いよっ"

"天晴れ!"

酔わぬ程度にと申したが、すっかり宴会の雰囲気になっている。まだ顔が紅い者は少ない。良しとしよう。


さて次は……孕石主水佑にするか。

主水佑に続いて突入した葛山播磨も共に呼ぶか?いや、一番槍を褒めるのはだから一人にしてやった方がいいな。主水佑だけ呼ぶ事にしよう。皆誇りが高いからな。何番に呼ばれたとかこんな言葉を賜ったとか気にするのだ。君主というのも随分疲れるものだ。






直接声を掛けるべき者達が大方終わった所で杯を元の位置に戻し椀の蓋も戻す。俺が片付けの動作を見せると、少し場を動いていた者達が自席へと戻り居住まいを正す。酔い潰れているものはいない。

よし。最後に大事な儀を執り行う必要がある。


「武田六郎信友っ!」

「はっ、ははっ!」

俺の大きな声に少し驚いた表情を浮かべつつ、六郎が機敏な動きで前へ出てくる。

「其の方には旧領の牧ヶ谷村に加え、此度落とした甲斐巨摩郡の所領を与える。武田の本家とは其の方の事だ。分家に負けぬ様に励め」

「有り難き幸せにございまする。身を粉にして励みまする」

両手を床について六郎が大きな声で応える。中々堂に入っているではないか。


俺が立ち上がって右手を伸ばすと、新五郎が打ち合わせ通り太刀を捧げてくる。受け取って六郎の目の前に差し出す。

「この太刀は暫く戦を共にした余の至宝だ。其の方に与えるゆえ大事に扱ってくれ」

六郎が驚いた表情を浮かべながら恭しく太刀を受け取る。これだけではないぞ。まだ今一つある。

「最後に其の方の名だが、余の氏の字を与えるゆえ今後は氏信と名乗るが良い。武田陸奥守には余から話しておく」

いよいよ驚いた様な、だが決意の表情で六郎が応じて頭を下げる。

「はっ。何から何までありがとうございまする。六郎氏信、御期待に添えるよう励みまする」

「うむ。期待しているぞ」

背中を叩くと、緊張の中にも笑みを含んだ表情を浮かべた。場にいる皆が六郎に喝采を送る。


この偏諱で今川と武田の関係ははっきりするだろう。武田は今川に服属しているという事がな。俺から名を与えられた六郎の顔は晴れやかだ。状況を全く受け入れていると思って良いだろう。


「甲斐の分家との争いは暫く守りが中心となろう。だが案ずるでない。其の方は余の大事な義弟だ。幾らか兵は置いていくし、何かあれば富士大宮司を頼りにすれば良い」

目線を大宮司に向けると、ゆっくりと力強く頷いた。


「盃を取らす」

「有難き幸せ」

氏信の杯に俺が自ら酒を注ぐ。

終わり掛けた宴が再び始まった。

氏信が皆に酒を注がれて顔を朱くしている。

ここで止めさせるのは無粋だな。今暫く付き合うとするか。




皆の姿を眺めながら頭の中で思いを巡らせる。

甲斐の国は貧しい。直接統治をするよりも属国を通じて間接的に治めた方が安上がりだろう。それに将来的に戦う事になるだろう対上杉の緩衝地帯になる。富士大宮司にもそれはよく分かっているはずだ。俺の此度の裁定は大歓迎だろう。

府中に戻ったら駒井高白斎と話をしよう。あの翁は使える。氏信の家老にすれば良き相談相手となろう。それに嶺を引き取るための調整を武田をせねばならぬ。これも高白斎に手伝わせよう。高白斎の姿を見た時に武田の者はどんな顔をするかな。俺は三河へ向けてもうすぐ立たねばならぬ。その場を見る事が出来ないのが残念だ。


武田晴信……。

遅くとも九月の間には嶺を返す、か。

大敗で国が揺れる中で義信とその妻が邪魔になったか。もしくは刈り入れ迄の時間稼ぎか。それともあからさまな時間稼ぎを見せる事で、今川が武田を侮り甲斐の奥地まで攻め入る事を待っているか……。あの男が取った行動はどうしても裏があるように考えてしまうな。


さて、この後はどの様にするのが正解なのだろうか。

三河へ兵を向ける事は間違っていないだろう。だが、大筒は動かすのに時間が掛かる。それに此度の戦で使い過ぎたせいか半分程の大筒が使えなくなったか修理が必要な状況となっている。遠江の兵も使えない。このままでは坊主の大軍と織田・徳川連合軍と正面から戦う事になる。

……こういう時、自分に軍事的才能が無いのを痛感する。マンシュタインのような能力があればいいのだが、全く嫌になる。


坊主と松平は放っておいても干上がる。問題は織田だ。織田の重要拠点は熱田と津島、それに常滑だ。これをどうするかだな。常滑への奇襲上陸と占領、熱田と津島への海上封鎖。これが織田の息の根を止める手だろう。だがこの策は廻り諄くて時間が掛かる。問題は本領を松平に抑えられている吉良や鵜殿が耐えられるかだな。


吉良や鵜殿には手を掛けている。鞍替えするような事は無いと思うが、本陣の手元に置いて念を入れるか。


後世の歴史家は俺を何と書くのだろう。

皆が楽しむ様に水を差さぬよう笑みを浮かべながら、全く酔いが廻らない頭の中で物思いに耽っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る