第百二十一話 切腹




弘治三年(1557)七月下旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 穴山 信友




「父上、蔵の米はあと五日分にござりまする。量を減らして使うても十日と持つかどうか……」

悲痛な表情を浮かべて嫡男の彦六郎が言葉を発した。横に座る彦八郎も俯いている。皆で集まるのは最後になるやもしれぬ。まだ元服前の虎千代も呼んだ。元服前とは言え数えで十一になる。父や兄の様子を見て今がどのような時か分かっているのだろう。何時もは騒がしい末の子が寡黙に大人しく座っている。


「父上、甲斐の御屋形様に救援を……、せめて兵糧だけでも都合をお付け頂くよう……」

「無駄だ。御屋形様とて兵糧の余裕は無い。九月迄兵は動かせまい」

儂が首を振りながら話すと、息子達が悔しそうに膝を打った。正確に言えば、九月迄兵を動かす気が無いと言ったところか。兵糧も我等の分だけなら都合を附ける事出来るだろう。だが今のあの御方に穴山を救う気持ちはあるまい。この分では九月になったところで援軍を寄越すかも分からぬ。


芝川の戦いで大敗をして命からがらに此の城へ入ると、大膳大夫様から軍の立て直しを図るため一度兵を引くので穴山勢にて此の城を守るよう下知があった。儂としては既に此の場所の時点で今川勢が我が領に迄入って来ている。今一度芝川方面へ攻勢を主張したい位であったが、刈り入れ後の九月には再度兵を上げられるとお聞きして渋々承知した。


謀られたと思うたのは彦六郎に蔵へと連れられた時だ。蔵の門扉を開くと、堆く兵糧が積まれていたが、それは門を開けた所だけであった。中に入ると奥が空だという事にすぐ気がついた。武田は穴山を見限ったのだと思うた。武田大膳大夫……。先代の陸奥守に負けず劣らず強かさを感じるわ。


「兵糧を節約して十日守ったところで今川が兵を引くとは到底思えぬ。つまりだ。武田の御屋形様は我等に死ねと仰せなのだ。もしくは今川に降れとな。我等だけで粘っても今川には大した被害を与える事叶うまい。事ここに至っては今川に降る他あるまいて」

「父上……」

儂の言葉に息子達が涙を流して俯く。今川への降伏が何を意味するか分かっているのだ。

「今川参議様には儂の命と引き換えに城兵の命をお助け願う」

「今川との交渉は如何して行いまするか」

嫡男の彦六郎が涙を拭って儂に問い掛けてくる。


「今川参議様は意味もなく勿体振るのを嫌われる。儂が直接赴こう」

「そ、それは流石に危険にございまする」

「どう転んでも儂の命は助からぬ。ならば最後位は堂々としようではないか。臆して城の奥に引っ込んでいるなどど言われとうは無い。何、白い装束で馬に乗って現れれば流石に矢を射られる事もなかろう」

「某がお供致しまする」

儂が今川の本陣に向かう事を伝えると、嫡男の彦六郎が決意の表情で共に来ると申した。

「ならぬ。其の方まで死罪と言われかねぬ。儂一人で出向く。支度を手伝うだけで良い」

「父上っ!某とて覚悟は出来ておりまする。何卒御供に御認め願いまする」

「黙れっ!これ以上言ってくれるな。其の方等のためじゃ」

儂の強い言葉に息子達が堪える顔をする。

遠くから啜り泣く声が聞こえてきた。奥や侍女達が漏れ聞いて泣いているのだろう。


どうしてこうなったのかと空虚な気持ちで縁側を見つめると、機織虫の鳴く音が聞こえてきた。国破れて山河ありとはこの事だと思うた。




弘治三年(1557)七月下旬 甲斐国巨摩郡福士村 最恩寺 今川 氏真




「穴山伊豆守殿がお越しになりましてございまする」

三浦内匠助正俊の言葉を受けて広間に集う重臣が背を伸ばして居住まいを正す。

皆床几に甲冑姿で腰を掛けているため物々しい。斯くいう俺も南蛮の外套マントを身に付け堂々と、敢えて居丈高な姿勢を取るように意識している。戦の中にも礼儀は必要だが、これから会う相手は盟約を破ってまで侵攻する事を企図した本人の一人だ。甘さを見せる必要は無い。


正直に言えば外套は暑い事この上ない。だが、初めて皆に見せた時から大変な人気なのだ。朝比奈備中守は早速自分も作りたいとか言っていたな。これで皆の士気が上がるなら安いものだと思って着ている。この場面は歴史の一つとして描かれる事もあるかも知れない。"外套を着た今川参議の威風堂々たる姿、穴山伊豆守を圧倒した"とでも記録させておくか。まさに歴史は勝者が書くというやつだな。


少しの間、物思いに耽っていると広間に伊豆守が現れた。皆が静かに驚いているのが分かる。伊豆守が小田原戦役の伊達政宗宜しく白装束に身を包んでいたからだ。伊豆守がゆっくりと進んで、入口を入って直ぐの位置で座って平伏をして来た。常なら近くへと促すが、何をしてくるか分からぬ。代わりに声を張って応じた。

「余に話したき儀があると聞いた」

「はっっ!今川参議様に置かれましては、お目通しの機会を賜り恐悦至極に存じまする」

「飾り言は要らぬ。用件を申せ」

「……ハッ、ははっっ!」

俺が素っ気ない態度を取ると伊豆守の顔に緊張が増す。経験豊富な伊豆守も置かれた状況に緊張を覚えずには要られぬ様だ。


「某の命はどうなろうと構いませぬ。城も明け渡しまする故何卒降伏を御認め頂きたく存じまする」

伊豆守が疲れたような表情を浮かべながら顔を僅かに上げて言を発した後、再び深々と平伏して許しを請うてきた。重臣の側に座っている富士大宮司の顔が視界に入った。厳しい表情をしている。他の者達も醒めた表情だ。我等は武田の不義理で窮状に陥った。今とて三河で多くの者が血を流している。易々と看過は出来ぬ。


俺が言葉を発する事なく座していると、伊豆守の指先が小刻みに震えているのが見えた。床に汗の雫も垂らしている。

「我が駿河を切り取らんと盟約を侵して勇んで攻め込み、旗色が悪くなれば降伏を申し出るとは随分と都合が良いな」

俺の言葉に家臣達が頷く。

「……はっ。御批判は如何様にも受けまする」

往年の威厳は今の伊豆守に無く、唯々平伏して来る。

さて、どうしたものか。

武田の本隊が撤退したのは調べがついている。左馬助信繁を失った今、駿河再侵攻をしてくるとは思えないが、あると考えたとしても九月の刈り入れ迄は無いと思って良いだろう。それに再侵攻を考えているなら穴山伊豆守を一人城に置いていく筈が無い。武田晴信は恐らく伊豆守……いや、穴山一族を切り捨てたのだろう。相変わらず強かな男よ。ただでは転ばぬ所は見習わなければならぬな。俺としても駿河と甲斐の国境を抑える穴山一族は目障りだ。


「武田の盟約に反した侵攻によって尊い命が犠牲となった。余としては簡単に和議を結ぶ事は出来ぬ」

「はっ」

俺の言葉に伊豆守が額を床に付けて続きを待っている。

「穴山伊豆守には死罪を申し渡す。領地も全て召し上げる。それから既に元服している嫡男と次男がおろう。其の者達にも死罪を申し渡す」

「さ、参議様。所領の召し上げは構いませぬ。某の命も差し上げまする。なれど息子達は……息子達に今川への反意ありませぬ。何卒寛大な処置を賜りたく……」

伊豆守が声を震わせ鼻を啜りながら訴えて来る。

「訴え罷り成らぬ。其の方の一族には族滅の沙汰を考えていたが、其の方の覚悟を考慮して元服前の三男は助けよう。其の方の室達も同じく助ける。但し皆出家させる。此の沙汰に不満があるなら皆諸共に城と運命を共にするが良い。そうだな、室だけは武田に逃れる事許しても良いぞ」

「我等に最早武田での居場所はありませぬ……」

伊豆守が面を上げて嘆くように言葉を吐き、苦悶の表情を浮かべる。戦に敗れるという事はこういう事なのだと思った。俺とて敗れれは同じ道を歩むことになる。どこまでも醒めた気持ちで目の前の男を見ていた。


「参議様の、御沙汰っ…、委細承知…仕りましてっ御座いまする……。む、息子達やお、奥に確と……、確と伝えまするっ!」

暫くすると伊豆守が噎び泣きながら言葉を発した。

「で、あるか。我が軍の入城は明日とする。一日与えるゆえ城兵は甲斐へと送り、城を空にしておけ。今宵は家族との別れを惜しむがいい」

「温情有難く存じまする。誠に厚かましく存じまするが、今一つお願いしたき儀が御座いまする」

伊豆守が涙を拭って決意の表情を浮かべながら俺の顔を見ている。何か吹っ切った様な顔だ。

“願い”という言葉に皆が反応している。

「申してみよ」

「ははっ。某と息子達には切腹にて自刃する御許しを賜りたく存じまする」

自刃?切腹か?そういえば前世のドラマで見たような切腹はまだこの頃は行われていない様だ。切腹が名誉あるものという風潮も無い。あの作法は江戸時代に確立されたのだろうか?目の前の男は都合よく白装束だ。この際切腹の儀を行うのも悪くない。


「良かろう。城を接収した後に儀を執り行う。身を清めておけ」

俺が言葉を掛けると、伊豆守が深々と平伏してから広間を下がっていった。

伊豆守の姿が見えなくなってから視線を移して大宮司の顔を見ると顔が合った。大宮司が十分だという表情を浮かべて俺に頭を下げて来た。他の者達が続けて頭を下げて来る。一つの戦が終わりつつあると思った。




弘治三年(1557)七月下旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 穴山 信友




今川家の当主と重臣が居並ぶ中、儂と彦六郎、それに彦八郎が白装束に身を包んで庭に敷かれた茣蓙の上に正座をして座る。居住まいを正していると、我等の前に三方が運ばれた。酒杯が置かれている。

「今生の別れだ。最後に一献やるが良い」

壇上奥に居られる参議様から声が掛けられると、今川の者が杯へと酒を注ぐ。注がれた杯を持って酒をあおると、口当たりの良い酒が五臓六腑に染み渡った。特上の酒なのだろう。上手い。それによく冷えている。

「富士川に徳利ごと当てておいた」

儂の視線を感じてか参議様が呟かれた。この御方は誠に察しが良い。


「全く以て忝し。もう一杯所望致したく存ずる」

酒杯を差し出すと、壇上から“構わぬが後の儀で手元を狂わせるなよ”と冷静に言葉が告げられた。参議様の許しを得て付き人が酒を注ぐ。杯の半分程注いで止めようとしたので“もっとじゃ”と言って並々と注がせる。これが最後の酒になるのだ。この位は許してもらおうぞ。

並々と注がれた酒杯を両手で恭しく押し戴いてから一気に飲み干す。

「美味いっ!冥土への良い土産になり申した」

三方へ酒杯を戻すと、別の三方が運ばれてくる。鞘の代わりに白い紙で刃を包まれた白鞘の短刀が乗せられていた。刀が目の前に置かれたのを見て、我等を見ている今川の皆が背を正した。場が厳粛な雰囲気に包まれる。


「彦六郎と彦八郎、父が確と見届ける故先に行け」

儂が息子達を交互に見て指示をすると、二人が緊張した面持ちで頷いてから刀を手に取った。

「おりゃあぁぁっっ!」

儂の左に座る彦六郎が短刀を左腹に突き刺し、まずは一文字にしようと最後の力を振り絞る。


「やぁぁーっ!うぐっっ!」

右では続けて彦八郎が短刀を腹へと突き刺したが、力加減が出来ていない。刃先が背の方に迄出ている。あれでは刀を動かせまい。

「うっ、うぅ……っ!」

苦痛の表情を浮かべて彦八郎が悶えている。


「誰ぞ伊豆守に刀を与えよ。伊豆守、介錯する事を許す」

「有難き幸せに御座いまする」

参議様の下知で我等を見張っている兵の一人が駆け寄って来て儂に刀を差し出した。

我等を見張る多くの兵達が一斉に刀を抜いて構えて来る。儂が乱心を起こした時に備えているのだろう。全くよく躾けられた兵達と言うべきか。

「やぁぁぁぁーーーーーっ!」

彦六郎と彦八郎の首を立て続けに刎ねて直ぐに刀を地に置き、自分の割腹の為に置かれた短刀の前に座る。今川の兵が転がった息子達の首に白い布を被せている。こうした仕置きの一つ一つが、今日の儀を荘厳なものにしている。


「参議様の御心配り、何から何までお見事でござる。この穴山伊豆守信友、心中より御礼申し上げまする」

「うむ」

参議様がゆっくりと大きく頷かれる。最後にもう一言戯言を申してみよう。最早儂に失うもの等無い。

「穴山が名も無き家に討たれたとあっては浮かばれませぬ。今川参議様に置かれましては、必ずや家を大きくなされませ。この伊豆守、怨念となって見ておりまする」

「であるか。ならば余はその怨念をも喰ろうて家を大きゅうしようぞ」

儂の言葉に間髪入れずに参議様が返してくる。何と頼もしき事か。それに先程からこの御仁は我等から目を背けていない。我等の切腹を隈無く御覧になられている。今更ながらに名君だと思うた。


「せいやぁっ!」

参議様の顔を確と見ながら腹に短刀を突き刺し、両手で力を込めて一文字にする。

「ふぅぅ……。はぁはぁはぁっ。うぐぅぅっっ!」

一度刀を抜いてから十文字にすべく今一度突き刺す。

徐々に気が遠くなる中、来世が有るのならば今川参議に仕えようと思っていた。



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