第百二十話 猜疑




弘治三年(1557)七月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 吉良 義安




"ダダァーーンッ!"

城に詰めている将の多くと広間で軍議をしていると、また鉄砲を放つ大きな音が聞こえた。日が陰って少し経つ。辺りは暗くなりつつあるが一向衆の攻撃は弛んで来ない。門徒どもは数だけは無駄に多い。昼夜を交代して攻め寄せているのかも知れぬ。


"ダダァーーンッ!!"

また音が聞こえる。全く淀みが無い。味方が放つ鉄砲の音が頼もしい。

今朝方、城を囲っていた松平勢が引いて行ったかと思うと、一向衆が現れた。松平の兵力とは比べものにならない大軍だった。今は出先の支城も含めて一向衆から猛攻を受けている。敵とて無尽蔵では無い。被害は増えているはずだ。今は堪え凌ぐしかない。


「申し上げまするっ!」

使いの男が少し慌てた様子で広間の前へ現れた。横には行商の様な身なりの男がいる。ずぶ濡れの様子だ。この城には川が隣接している。小舟でも用意して敵の囲いを掻い潜って来たのだろう。そんな事をするのは荒鷲だろうと思うた。

「如何致した」

儂が直接応じて声を掛けると、使いの者が隣にいる男の顔を見る。

「はっ。御屋形様よりの文を持参致しました」

使いから顔を向けられた男が儂に向かって口を開いた。御屋形様からの文を持ってきたと申したか?

「早く持って参れ」

男が寄って来て文を差し出す。随分と身のこなしが軽い。やはり乱波であったか。

"何でござろう"

"武田との戦で何ぞあったかも知れぬ"

儂だけでなく、広間にいる皆が中を気にしている。儂が荒鷲の者から文を受け取ると、文を開く手元に皆からの視線を感じた。


「これは……。随分と短い文じゃ。来た、見た、勝ったとある」

「ハハハッ。御屋形様らしい文じゃ」

「なれどどのように勝ったのか分からぬ。今御味方はどうしているのか」

儂の呟きに井伊彦次郎殿が大きな声で笑うと、瀬名伊予守殿が困ったような表情を浮かべて続いた。

「詳しく分かるか?」

弟の左兵衛佐が荒鷲の男に尋ねると、男がゆっくりと力強く頷いた。予め聞かれる事は承知だったのだろう。


「武田勢は宍原方面に武田大膳大夫が率いる本隊、富士方面に武田左馬助率いる別動隊、合わせて二万を超える大軍で攻めて参ってござりまする。御屋形様は長野信濃守様が宍原砦を悠々と守るのを見て援軍を全て富士方面へと回し、これを察知した武田勢も本隊から兵を富士方面へ抽出して両軍衝突したところ、大筒を用いて敵を混乱させ、間髪入れず力攻めを行った御味方が大勝利を収めておりまする。分かっているだけでも富士方面大将の武田左馬助信繁、初鹿野源五郎、三枝新十郎といった敵将を討ち取っておりまする」

"武田左馬助をか!?"

"それは相当大きな勝利ぞ"

牧野民部丞や岩瀬雅楽助といった三河衆が大きな声で喜んでいる。同じ三河の者として気持ちはよく分かる。大殿が討ち死にされてから、寄すがとする今川がどうなるか不安もあっただろう。


「御屋形様は如何されている」

「はっ。軍を北へ動かし、今は富沢方面へ追撃に向かわれておられると思いまする。某は其の手前で陣を立っておりますゆえこれ以上は分かりませぬ」

ふむ。その様子では御屋形様が此方に見えるにはまだ時間が掛かろう。だが、武田が大きな痛手を負ったのは間違いない。どうなるか分からぬ状況が一つ落ち着こうとしている。

「最後に御屋形様から吉良様へ言伝てを承っておりまする」

考え事をしていると、荒鷲の使いから思いがけぬ言葉が発せられた。

「儂への言伝?何じゃ」

「はっ。必ず援軍に向かう故、今暫く耐えてくれとの由にございまする」

「そうか。必ずお越しになるか。御屋形様がそのように仰せ下さったと思うと心強いの。役目大儀であったな。其の方が届けてくれた文と伝言で皆も励まされるだろう」

「はっ」

儂が広間にいる将達の顔を眺めると、皆が力強く頷いて応じた。


"申し上げまするっっ!"

「如何した」

慌ただしく駆ける音がしたかと思うと、荒鷲の男と入れ替わるように使いが走り込んで来た。直ぐに応答して続きを促す。

「はっ。三の城から救援を求める狼煙が上がりました。三の城は一向衆から一際猛攻を受けておりまする!」

「不味いでござりますな。よりによって三の城へ来るとは」

家臣で重臣の富永伴五郎が口惜しそうに呟いた。


此の城は西側からの攻撃に備えて付け城が五つあり、各々北から番号が付けられている。御屋形様が時を掛けて本城の改修とともに付城の建築と増改築を行って守りが強化されてきた。付け城は常には兵糧を置く場となるが、戦時は狭間から鉄砲や矢を放って守りの要所とする事が出来る。一の城と四、五の城は既に隧道で本城と繋がっている。だが、二と三の城は離れている事もあってまだ作業の途上だ。此を敵は知ってか知らずか、三の城に猛攻を加えて来ている。


武田戦の勝報に沸いた広間に少し重い空気が流れる。三の城に辿り着く迄には城を囲っている一向衆を追いやらなければならない。よしんば辿り着いたとしても、この城に戻る迄に再び敵と戦わなければならない。味方の救援にはかなりの被害が出るだろう。救われる以上の兵を失うかも知れぬ。それを思えば、敢えて放置するという選択もある。だが、味方を見捨てると思われては兵達の士気が下がる。特に、この城と繋がっていない二の城が陥落しかねぬ。如何したものか……。

皆が厳しい表情を浮かべている。


「救援を出さねば味方の士気に関わり申す。此処は某が向かいましょう」

「某も共に参りまする」

「平三郎と権兵衛か。手間を掛けるが頼めるか」

「ははっ。必ずやお味方を救い出して見せまする」

親衛隊の渡辺平三郎頼綱と山本権兵衛真文が声を上げると、彦次郎殿がすぐに承諾した。平三郎は尾張出兵の折に活躍した親衛隊の将だ。まだ若いが幾つも戦を経験していて落ち着きがある。権兵衛も良い面構えをしている。

「三の城は某と同じく三河の兵が籠っている。吉良としては見過ごせぬ。我等も手を貸そう」

弟の左兵衛佐がちらりと儂の顔を見た後、平三郎と権兵衛に向かって声を掛けた。親衛隊だけにやらせては国人衆が孤立しかねぬ。吉良が出張るのは好手だ。

「左兵衛佐。頼んだぞ」

「御意にござりまする」

儂が間髪入れずに左兵衛佐へ言葉を掛けると、弟が儂の方を向いて仰々しく応じた。旗頭の兄を立ててくれているのだと思うた。


「然らば早速支度に参りましょうぞ」

「手筈も確認せねばなりませぬ」

平三郎と権兵衛が微かに笑みを浮かべて話す。救援には陽動の兵がいる方が進めやすいだろう。吉良と親衛隊のどちらがどの役目をするかは分からぬが、吉良の申し出に彦次郎殿も満足そうに頷いている。

「承った」

弟が二人に応えた後で再び儂の顔を覗いた。"行って来る"という表情をしている。

楽な戦いではない。もしかすればこれが今生の別れになるやも知れぬ。

必ず帰って来いと強く思いながら弟の顔を確と捉えてゆっくりと頷いた。




弘治三年(1557)七月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 吉良 義昭




「敵は大手門から三の出城までかなりの密度で詰めかけており申す。ここは吉良殿にまず打って出て頂き、敵が吉良隊の応戦に掛かっている隙に拙者と権兵衛の隊が速やかに三の城目掛けて進む事にしたい。我等が三の城の兵を救って戻る迄の間、吉良隊には出来得る限りこの場で戦って敵を引き付けて頂きたい」

渡辺平三郎が目の前に置かれた図面を指でなぞりながら策を示して来る。我等は陽動を担うという事か。それなりに被害は出るだろうが、ずっと敵の攻撃に晒される親衛隊よりは少ないだろう。


「良いのでござるか?」

「構いませぬ。大将を務める吉良殿の兵が余りに被害を増やすのは望ましくない。城の兵の救出は我等が引き受け申す」

それとなく聞き返すと、平三郎の隣にいる権兵衛が応じた。この男は平三郎と同じく親衛隊の学校を優秀な成績で出ているらしい。成績優秀により、御屋形様から刀を授かる時に権兵衛真文という名も授かった。山本という姓を伝えると、御屋形様が権兵衛という名を思い浮かんだと仰せになって遣わされたらしい。


「相分かり申した。二人の申す通りにしよう」

儂が応じると、二人が頷いてからおもむろに杯を渡して来た。

「これは?」

「折角だから一緒に如何でござりまするか。伴五郎殿もじゃ」

「忝ないでござりまする」

手渡された杯を構えると、続けて酒が注がれる。もしやこれは……。聞いた事がある。親衛隊の将は出陣の前に酒を交わして飲み干した杯を割ると。我等にまで気を遣ってくれるのを嬉しく感じながら杯に注がれた酒を眺めると、水の様に澄んでいた。駿河の酒だろう。

「駿河は志太郡岡部の酒にござる」

平三郎が儂の心中に気付いてか、他の親衛隊の将達に酒を注ぎながら応えて来る。田子ノ浦ではなく岡部であったか。しかし駿河には蔵処が多くて羨ましいと思うた。


皆に酒が行き渡ると、平三郎が"今こそ今川の御恩に報いようぞ。死した時は靖国で会おう"と杯を高々と掲げて酒杯をあおると、他の皆が"靖国で会おう"と続けて杯を空ける。儂も皆に倣って杯を空けて地に叩き付ける。親衛隊の者達が儂達を仲間でも見るような目で見ている。頷いて応えると皆が持ち場へと散って行った。


死した時は靖国で会おうか。

兄から話を聞いた事がある。今川の為に戦って戦死した者が丁寧に祭られ、華美は無いが静寂にして荘厳な神社であると。親衛隊の強さの一つはこの拠り所なのかも知れぬ。


「不思議と力がみなぎってくるな」

「お気持ちよく分かりまする」

儂が呟くと、傍らにいた伴五郎が大きく頷いた。

さて、我等も出陣だ。三河者の気骨も見せねばならぬ。




弘治三年(1557)七月下旬 三河国幡豆郡田貫村 森 隆久




「村に兵はおりませぬ。それに村人の男衆の多くは庄屋に詰めておりまする」

草叢に身を隠していると、村を調べるために遣わしていた甚助が戻ってきた。報告の内容も我等にとって都合が良い。男衆で集まって秋の刈入れに向けて米の出来具合でも話しているのかも知れぬ。

「分かった。ご苦労だったな。お前も着替えよ」

「はっ」

儂の命を受けて甚助が修行僧の身形に着替える。

「組頭の白袈裟姿、中々でございまするな」

甚助の着替えを待ちながら手筈を考えていると、傍らにいる飛蔵が儂の姿を見て冷やかして来た。

「そう言うお主こそ全く似合っておるぞ」

儂が小声で答えると、皆が小さく笑った。


今は吉良家の居城であった西條城より西へ少しばかり行ったところにある田貫村という所に来ている。御屋形様からの密命を行うためだ。

「それでは良いか。手順の確認を行う」

儂が懐から簡単な村の地図を取り出して広げると、皆が先程までの笑みを消して真剣な表情を浮かべる。拠点を立つ前にも何度も確認をした手順だが、文句を言う者はいない。

「これより庄屋へ押しかけて兵糧を徴発する。兵糧は庄屋の建物の裏にある蔵へ保管されている。これは甚助が予め調べてある。良いか。人は絶対に殺すな。それから村人は徴発に文句を垂れるだろう。その時は我等に兵糧を寄進する事で御仏の加護があるという事と、文句は松平に言うべしと応えるように。今川の手の者だと悟られるなよ。分かっていると思うが、これはこの時だけの事を申しているのでは無い。死して冥土に行く迄黙しておけという意味だ。良いな」

儂の言葉に皆がしっかりと頷いたのを見て、"付いて来い"という仕草をして庄屋の建物に向けて駆け出す。


今日のために岡崎の町では“吉良領には米が豊富”だとか“松平は吉良領を抑えて兵糧に余裕がある”等と噂を流してある。我等は噂を聞いて暴徒と化した一向門徒を演じるのだ。一向衆と松平の間には亀裂が走るだろう。この離間の計は御屋形様から命を受けたものだが、仕掛けにはそれなりに手が掛かって苦労した。だが、その分遣り甲斐は多くなりそうだ。これから最も大事な仕上げに掛かる。民の事を思うと心は痛むがやむを得ぬ。刈り入れも近い。死なぬ程度の米を残しておけばよかろう。


庄屋の敷地には竹垣と申し訳程度の門があったが、難なく門を破壊して中へと入る。荷駄は敷地の中にまで入れぬ。荷駄役とその警護役の四名を入口に配置して退路を確保する。残りの者は儂に続いて奥へと進む。

「御用だ!扉を開けよっ!」

"なんじゃあ?"

"何が起こったど?"

母屋の扉を強引に開けると男達が輪を作るように座っていた。我等の姿を見て驚いている。男達の横には僅かではあるが酒らしきものと漬物と見える摘まみがあった。農民の集まりにささやかではあるがこの様なものが出るとは余裕があると思うた。


「我等は真宗の一門である。其の方らの長はどの者か」

儂が声を張り上げると、奥にいた初老の男が"私めにごぜぇますが"と応えてきた。

「其の方か。我等は三河の民の為に憎き今川と日夜身を捧げて戦っておる。そこでじゃ。済まぬが其の方等には兵糧の都合を願いたくこうして罷り越しておる」

"憎き今川?"

"真宗?"

儂の言葉に集まっている民達が呆けた顔をする。


「出来れば手荒な事はしたくない。速やかに兵糧さえ受け取る事叶えば退散する。何、我等に協力すれば必ずや御仏の御加護があろう」

"左様!"

"協力すべしっ!"

儂の言葉に続いて袈裟姿の手の者達が大きな声を上げる。刀を持っている者は上に上げ、槍を持っている者はその先を農民達に差し向けて足を床に叩き付けて音を鳴らす。物騒な事この上ない。


「我等とて苦しい生活を送ってごぜぇます。献上する程余裕はありませぬだ」

庄屋の男が顔に不安を見せながらも皆の気持ちを代弁する。

「何を言うか!吉良の者が引き上げる時に施しをしたのは調べが付いておる!隠し立てするのは為にならんぞ」

「そんなご無体な」

庄屋の男が食い下がって来る。中々に気骨がある。少し声を荒げる必要があるな。

「ええいっ!早くせぬか!此処で命失うか、御仏の尊き戦に協力するのか。どちらじゃ!」

「わ……分かりましてごぜぇます。私が案内致しましょう」

儂が槍を向けて強く脅すと、先程迄の強い表情が消えて堪忍した様な顔になった。

「……豊作どん」

庄屋の隣に座っていた男が心配そうに声を掛ける。

「与作どん、儂一人で行くゆえ、皆を頼み申しますだ」

与作と呼ばれた男が大きく頷いた。




庄屋の男が涙を流しながら蔵から米を持ち出す我等を眺めている。

嗚咽を必死に堪えているのがよく分かった。この蓄財は吉良の施しだけでなく、民が必死に貯めたものでもあるのだろう。思わず胸の内で“其の方等の事は御屋形様に確と伝えるから許してくれ”と呟いた。

声に出せない。表情にすら出せない気持ちを抑えて心の内に約す。


首尾よく事を運んで村を後にするが、皆の口数が少ない。今回の任に心を痛めたのだろう。

「今暫くすれば刈入れ時じゃ。それなりに蔵には残してきたのじゃ。死人が出る事はあるまい」

「寧ろあれだけ残しても荷駄がほとんど一杯になる程の蓄えを持っているとは中々に豊かな村でござりましたな」

儂の言葉に合わせる様に飛蔵が明るい声で応える。

「左様であるな。それには儂も驚いたぞ」

飛蔵が申す通り、村が結構な備蓄をしている事には素直に驚いた。吉良の所領は御屋形様に降ってから長らく戦火に見える事が無かった。上野介様が御屋形様から受けている禄の支援もあったのかも知れぬ。三河の他の村に比べて随分と余裕がある様に見えた。改めて御屋形様のお力を感じる。


「御屋形様が三河の全てを手にされれば、きっと他の者達も今日の者の様に豊かになろう。我等はそのために此の命を遂行しなければならぬ。次は上宮寺じゃ。行くぞ」

儂の言葉に皆が得心したように頷く。


次は松平の兵に扮して寺の夜討ちだ。相手は百姓とは違う。

人を斬る必要があるだろうし、こちらも斬られるやも知れぬ。

今回以上に心して掛からねばならぬ。



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