第百十九話 呉越同舟




弘治三年(1557)七月下旬 三河国設楽郡牧野村 牧野城 岡部 元信




「撃ち方始めぇぇ!」

"ダダァーーンッ!!"

渥美親衛隊を率いる井伊彦次郎殿から預かった鉄砲隊が、凄まじい音を轟かせて鉄砲を放つ。堀を駆け登ってくる一向衆に向けて三百の鉄砲が百挺ずつ、足の速い敵がいる方向へ放たれる。指揮を執るのは彦次郎殿の嫡男である新次郎直親だ。彦次郎殿や平次郎殿と共に御屋形様の所へ来た時は小僧の様な年頃であったが、今や立派に一隊を率いている。御屋形様の側に長くいた事も手伝ってか、中々融通が利く考えをしている。良い武人になるかも知れないと素直に思った。


"ダダァーーンッ!!"

"うっひゃぁっっ!あっ熱いっっ!"

鉄砲の攻撃を受けて体勢を崩した一向衆の男が、手に持っていた炬火を己の身体に落として熱がった。それを見た周りの門徒達が布切れを被せて火を消そうとしている。


戦が始まったばかりの頃は、馬鹿の一つ覚えに城へと押し寄せるだけだった一向衆だが、ここのところ兵に動きや城に火付けの策を用いる等、色々と工夫をしてくるようになった。誰ぞ武士が指揮に入ったかも知れぬ。今のところ攻撃も策も防いでいるが、何せ敵は数が多い。鍬や鋤を持っている者もいる集団だが、数だけで言えば二万にもなるやも知れぬ。油断は禁物だ。


「せいやっ」

家臣の島田孫次郎が城壁近くの堀まで昇って来ていた敵兵に矢を放つ。矢は頭を外れたが肩へと突き刺さった。矢を受けた男が堀を転がり落ちて苦しむような表情を浮かべるが、何処か恍惚とした表情にも見えた。ぶつぶつと念仏を唱えている。今川を倒す為に戦い、念仏を唱えながら死ねば極楽浄土が約束されているらしい。

全く馬鹿馬鹿しい事よ。


「丹波守殿!」

呼ばれて振り向くと、関口刑部少輔殿が供回りを引き連れて立っていた。鎧には返り血が見える。

「刑部少輔殿。如何された」

「北側へ敵が押し寄せてござる。昨日迄の数とは比較にならぬ。幾らか鉄砲隊もまわして頂けぬか」

「北側に?相分かり申した。状況を見たい故某も参ろう。孫次郎、鉄砲無くとも暫くは守れるか」

「お任せ下され」

「よし。新次郎!北側の救援に向かう。隊を率いて駆け付けよ。儂は先に刑部殿と向かう」

「畏まってございまする!」

「鉄砲隊全てを!?良いのでござるか」

刑部少輔殿が驚いて問い掛けられる。


「刑部少輔殿が返り血を浴びられる程敵が押し寄せておるのでござろう?であれば鉄砲隊は此処に置くよりも多くの敵を屠る事出来るというものでござる」

「いやはや、忝ない」

儂に礼を申すと、刑部少輔殿が前に立って先に進む。進んで背中を見せるのは敵意が無い事を示す為だろう。


刑部少輔殿は亡き大殿の妹君を娶られて一門格の扱いを受けておられるが、娘婿である松平次郎三郎が謀反を起こした事で家中での肩身を狭くしていた。儂は尾張で戦をしていた故知らなんだが、今川館での皆の視線が気不味いものだったらしい。御屋形様は"次郎三郎へ嫁いだ其方の娘は我が父の養女として嫁いでいる。責あるならこの今川にある。気にするな"と仰せになったらしいが、忠節を示したいと三河での戦を懇願したとの事だ。


駿河衆は殆どが武田との戦に駆り出されている。刑部少輔殿を三河へ遣わすのは武田戦への兵を減らすだけで無く、万が一刑部少輔殿が松平と繋がりあれば味方を苦しめる事になるが、御屋形様が意を汲んで御認めになられたらしい。


松平との繋がりの線は消えたな。それらしき素振りは全く見えぬ。それに荒鷲の森弥次郎も無いと申していた。

……しかしそれにしても中々ではないか。

刑部少輔殿は家中では内務方と見られていた。実際、使者の饗応や幕府との外交等の内政を司る事が多かった。だが中々どうして猛々しいところも有るようだ。フフフ、頼もしいの。

「如何された」

「いや、何でもごさらぬ。今川に反旗を翻す者を屠る事が出来ると思うと嬉しくござっての」

「左様でござるか」

儂がつい溢した笑いを受けて刑部少輔殿が振り返る。適当に取り繕って返すと再び刑部少輔殿が前を向いて進む。暫くすると喧騒が徐々に大きくなってきた。


見えてきたな。刑部少輔殿の手勢が必死に一向衆を撃退している。

この方面に押し寄せている者の中には白袈裟をしている者達も見えた。武具も槍や刀を持っている者が多い。一向衆の拠点から遣わされた僧兵が混じっているのだろう。奴等はご丁寧に指物まで持っている。


一向衆共が持つ指物には"仏敵 今川"と書かれていた。国を富まし民の生活を豊かにされている御屋形様を仏敵とは許せぬ。一人残らず切り捨ててくれる。刀を握る手に力が入った。




弘治三年(1557)七月下旬 三河国宝飯郡長澤村 岩略寺城 松平 元康




「殿、織田上総介様がお見えになられました」

夜の帳が降り虫の音も静かになった頃、近習が客人の来訪を告げる。此処はこの城で最も大きい広間だが、儂の他には誰もいない。


「うむ。こちらへ御通しせよ。その後は下がって良い」

「……はっ。御意にございまする」

一つ間があった後、近習の酒井小五郎が静かに応じて上総介殿を迎えに行った。小五郎は儂の身を案じて"下がれと言う命"に不満なのだろう。だが、上総介殿とて一人でお越し頂くのだ。儂だけ供を付ける訳には行かぬ。


暫くして、足音が聞こえてきた。一人だな。それに早い。斯様な事を思っていると、"御免"と声がして上総介殿が現れた。儂の顔を見てニヤリとされる。

「良い顔付きだ。まだ年齢故の幼さは残るが、苦境が人を育てたと見える。久しいの竹千代」

「上総介殿こそ益々もって凛々しゅうございまする。改めて松平次郎三郎元康にござる。此度の援軍、誠に忝い。松平当主として御礼申し上げる」

「うむ。織田上総介信長だ。援軍は礼には及ばぬ。松平が無ければ次は織田だという事は我が家中の誰しもが理解している」

儂の言葉に上総介殿が鼻で笑いながら応えて座布団に座った。


「しかし二人だけで会おうとは随分な警戒だな」

「警戒というより邪魔無く話したかった迄にござる」

敢えて不満気な顔を僅かに作って話すと、上総介殿が意を察してフッと笑った。

「阿倍大蔵と鳥居伊賀守の事を言うておるのか」

「上手く織田にやられ申した。だが、あの二人も大殿が討たれなければ此処まで反今川の動きを取りますまい。であるならば、上総介殿が今川権中納言、いや、権大納言様を討った時点でこうなる事は決まっていたのでござろう」

上総介殿の顔を眺めながら、自分にも言い聞かせるように話す。

「貴公は駿府で良い師匠に良い手習いを受けた様だ。此の広間に入って貴公の顔を見た時、童の頃とは変わったと思うた。俺の目に狂いは無かった様だ」

「お褒めの言葉と受け取っておきまする」

儂が形ばかりに頭を下げて応じると、上総介殿から少し笑みを含んだ声で"言葉通りだ"と掛けられた。人質として清州にいた頃には目の前の御仁に褒められる事は少なかった。素直に喜んでいる自分がいる。


「さて。刻が有るわけでも無い。本題には入るとしよう」

上総介殿が笑みを消して真面目な顔を作る。同意だ。互いに夜が開ければ忙しい一日が待っている。懐から地図を出して広げ、扇子を右手に持って口を開く。

「我が松平勢は主に二手に分かれ、本隊三千がこの岩略寺城に詰め、別動隊三千が吉田城を攻めてござる。また、一向衆は野田城、長篠城、それから牧野城を囲っている。今は牧野城中心に兵力を割いている様にござる」

「うむ。俺は四千を率いて来ている。松平は本拠地が近いとは言え六千を動かすとは大したものではないか」

「家中が必死に蓄財した銭のお陰にござる。それに我等には此の戦に敗れれば後が御座らぬ。領内から根刮ぎ動かしてござる」

「左様か。配置はよく分かった。それで?其の方は斯かる事態を如何にして切り抜けようとしておるのだ」

上総介殿の瞳がぎらりと儂の方へと向けられる。獰猛な獣の様な目だ。試されていると思うた。


「今川と事を長きに渡って構えるためには、まずもって兵糧の確保が必要となり申す。そこで此の吉田城の攻略が最も重要と考え、攻めているところにござる。なれど昨日、家中の者を通じて本證寺の空誓上人から知らせがござった。先に申した通り、一向衆は今橋より北へ二里程行った所の牧野城を攻めているところでござるが、今川方の激しい抵抗にあってかなりの損害を出しているとの事にござる。加えて兵糧も乏しくなってきておれば、吉田城攻めと牧野城攻めの役回りを変えたいとの由にござる」

「門徒の獲得よりも渥美半島という米所を欲しがってきたか。欲の皮の厚い坊主どもめ」

上総介殿が吐き捨てるように言葉を放つ。


「これはまた宗門に厳しゅうござるな」

「人の心を鎮めるための寺社仏閣の存在は否定せぬ。だが、信仰で人は救えぬ。俺は親父殿で懲りている」

成る程。そう言う事か。上総介殿の御父上君である桃厳公は数々の寺へ寄進をされた。伊勢神宮にもしているはずだ。だが、病に犯され早くに亡くなった。その事を仰せなのだろう。

「加えて空誓上人からは真宗門徒の被害より松平の被害少なく、城攻めに手を抜いていると非難もあった。持ち場で拘って対立しても益はごさらぬ。申し出通り持ち場を返る旨返答してござる」

味方は攻め倦んではいるが、手を抜いていた訳では無い。一向衆は何の策もなく闇雲に城攻めをするから被害が増えているだけだ。

儂が吐き捨てるように言った事で察したのか、上総介殿が静かに溜め息を吐く。


「其の方が申す通り、此処で坊主に手を引かれるのは愚策だ。其の方の気持ちは分かるし差配も間違うておらぬ。坊主も一枚岩にならねば今川を相手に出来ぬ事は分かっている筈だがな」

「それは分かりませぬぞ。門徒はまだしも、指揮を執る高僧等はいざとなれば長島、御山御坊、石山があると申す様にござる。どこかに甘えがある様に思えてならぬ」

「……であるか」

息を吐くように上総介殿が静かに呟いた。

家中には三河統一は間近だと舞い上がっている者もいる。だが状況は極めて厳しい。このやるせない胸中を誰かに吐露したかった。今や松平と織田は一蓮托生なのだ。聞いてもらうぞ上総介殿。上総介殿の顔へ視線を向けた。


「今日迄に牧野城、今橋城が落ちていないのは惜しいな」

儂の視線を受けて上総介殿が応えてくる。流石に痛い所を突く。その通りなのだ。家中はまだまだこれからだと息巻いているが、日を経る度に今川が東を片付け西へ兵を向けて来る可能性が高まっている。

「面目御座らぬ。今川の守りや相当たるものにござる」

正直に頭を下げると、"済んだ事を何時まで言うても仕方無し"と声が掛けられた。続けて上総介殿が地図へ扇子を向ける。

「ここはやはり武家の繋がりをもって今川とあたろう。今橋を坊主が攻めるのは止めぬ。我等はその間に設楽郡へと兵を進めて田峯城、長篠城を落とすべきだ。さすれば武田と連絡が出来る」

上総介殿が扇子で設楽郡から信濃伊奈郡へと抜ける道をなぞる。

「同意にござる。武田は駿河方面で攻勢に出ている筈。駿河で一押しし、長篠からも一押しすれば今川にも動揺が走るでござろう。特に今川の遠江衆は上総介殿との戦で疲弊してござる。我等と武田の連絡は大きく動揺を与える事が出来よう。問題は武田の駿河攻めが上手く行っているかでござるが……」

「上手く行こうが行かまいが今川とて無傷では済まない筈だ。それに撃退するだけなら武田への抑えの兵が必要になる。西へ回せる兵は多くない」

上総介殿の申す通りだ。やはり上総介殿も大した御方だ。己よりも大きな敵を前にしても全く怯まず次の手を考え続けておられる。


「兵糧はある程度なら都合を付ける事が出来る。津島と熱田から出させよう。今川の先代が商人に厳しかったでな。今のところ商人達は皆織田に協力的だ。今川に尾張を抑えられては困るとな。少しは武田にも回せよう」

成程。我が松平にも幾らか回して貰えると助かる。儂の視線を感じて我が意を悟ってか、上総介殿が少し笑みを作って頷かれた。


「懸念は今川の水軍だな。手の者によれば今川参議の水軍は多くが北條へ向かっているらしい。此れが知多半島や三河への急襲として回されると手古摺るかも知れぬ。昔参議には手痛くやられた事があるのでな。佐治が今川参議を恐れている」

上総介殿が呆れたような息を吐く。目の前の御仁も人に見せぬだけで苦悩は絶えぬのだと思うた。

「今川の水軍でござるか。府中にいた頃に湊で何度か目にした事御座るが、勢揃いすると壮観でござったな。大型船もかなり増えている。上総介殿が相手にされた頃よりも遥かに手強くなっていよう」

「笑いも起こらぬわ。しかし……今川参議は兵の数、兵糧の量、武具の質、策略と、上げれば切りがない程の力を持っているな。其の方が相手にした者は俺が相手にした先代よりも強敵なのは間違いないぞ」

白々しく上総介殿が言う。

「その強敵と戦わねばならぬ状況になったのは上総介殿のせいにござる」

非難めいた顔と口調で応えた。

「ほぅ。竹千代も言うようになったな」

「次郎三郎にござる」

儂が上総介殿の顔を見て応えると、上総介殿が大きな声で笑い出した。儂も同じように笑う。悪くない一時だった。




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