第百十八話 殿軍




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡芝川村 芝川砦近郊  諸角 虎光




本陣の方へと逃げる兵達を掻き分け、手勢と共に芝川の砦の方へ向かう。所々に全く見当違いの方向へ走り去る武田の兵が見える。いよいよ逃げ始めたか。逃げる者を見逃していると続く者が出てくるものだが、儂の手勢にその様な者はおらぬ。であれば気を使っている暇等無い。無視して先を急いだ。殿として最も重要な“刻”を稼ぐためには、川を渡ってくる敵を迎え撃つのが善後策だ。敵に先を越されまいと芝川目指して進む。


富士川沿いを進んで南下をしていると、芝川の手前にある丘に辿り着く。比較的平坦な川沿いをこのまま進む手もあるが、もしこの先に敵がいた場合に我等の姿が見えやすい。皆に向かって“丘にある森へ進むぞ”と仕草で伝えると、皆が厳しい表情をして応じた。この老体には辛い道だな。だが幸いにして大した距離ではない。少し進むと目標の川が見えて来た。草木に隠れながら今一度芝辺りを覗く。


……今川の兵がいる。しかも続々と渡河をしているではないか。既に少なくない兵が芝川を越えている。先を越されたと思うて小さく舌を打った。

「これは……中々に難しい状況ですな」

家臣の石黒五郎兵衛が儂の隣で同じように今川勢を眺めながら小さな声で呟いた。

「大きな音が収まったゆえ、これはもしやと思うておりましたが、敵はやはり川を越えてこちらに向かおうとしておりましたか」

傍らに立つ成瀬吉左衛門が続けて呟く。

「勇んで攻めても刻を稼ぐ事が出来ぬだろう。ここは泥臭く行くぞ」

「泥臭くでございまするか」

五郎兵衛が少し笑いながら応える。儂が言わんとしている事が何となく分かっているのだろう。

「うむ。敵が長見寺に向かうだけならば富士川沿いの細道を登れば向かう事は出来る。じゃが、我等が此処にいるとなれば今川も放置は出来まい。我等はこのまま此処で草木に隠れながら戦うのじゃ」

「確かにそれならば刻は稼げそうでございまするな」

吉左衛門がニヤリとした顔を浮かべて応える。後ろに引き連れている手勢の者達も同じだ。

「皆に此処で死ねとは申さぬ。じゃが、多くに死んでもらう事にはなるじゃろう。済まぬ」

「これはお珍しい。我が殿がそのような事を仰せになるとは。全くもって似合いませぬぞ」

五郎兵衛が茶化すように応じてくる。良い家臣達を持ったと思うた。“お主は少し黙れぃ”と静かに話すと、皆も敵に気づかれないよう静かに笑った。儂が照れ隠しをしていると皆は分かっているのだろう。


今川兵がいる方を見ると、川を渡り終えた兵達が隊列を整えている。周りに警戒はしているが、まだ此方には気付いていない。彼等の手には種子島があった。どうやら見敵した部隊は鉄砲隊の様だ。これは僥幸かも知れぬ。種子島は強力な兵器だが、二発目を撃つ迄に幾らか刻を要する。彼我の距離は初弾を耐え凌げば次弾を撃たれる迄にたどり着ける距離だ。目の前の鉄砲隊は見た所二百名といったところか。我等よりは少ないが、初めから無理をして兵を損耗したくない。全滅させるのは難しいかもしれぬが、奇襲なのだ。それなりに倒せるだろう。敵に被害を与えた後はまた森へ逃げ込めば良い。


今川兵は漆黒の見慣れぬ軍装だが、颯とした無駄の無い動きを続けている。どうやら川沿いに長見寺の方へ進もうとしている様だ。

“弓兵は前へ出よ。木々が邪魔にならぬ所までじゃ。悟られるなよ”

儂の囁くような言葉を受けて、弓を持った兵達が三十程静かに前進を始める。

“弓兵以外の者は弓を射かけた後に敵へと斬りかかる。無理はするなよ。各々何人か切り伏せたらまたこの森へと逃げ込め”

儂の言葉を受けて、この場に残った者達が弓兵の前進を見守りながら、刀を抜いて突撃の準備をする。

“面白くなって来ましたな”

“腕が鳴りまする”

吉左衛門と五郎兵衛が儂の横で刀を抜きながら応える。

“初弾に当たるなよ”

“殿こそ当たる事無きように”

“五郎兵衛……。お主は相変わらず口の減らぬ奴じゃ”

“殿、敵の部隊が動き始めましたぞ”

吉左衛門が敵部隊を眺めながら囁いた。長見寺の方へと歩み始めている。よし、良い頃合いだ。


「弓、放てっ!」

儂の大きな言葉を受けて、少し前にいた弓兵が一斉に弓を放つ。弧を描いて弓が敵兵の付近へと落ちる。

“ぐわぁっ”

“うぐっ!”

何人かに当たった!敵部隊が隊列を崩す!

「掛かれぇぃ!!」

儂が刀を振り上げて突撃を命じると、手勢の兵達が一斉に走り出した。草むらを抜けて敵まで一町半と行ったところだ。刀を持った味方が雄叫びを上げながら敵へと向かって行く!儂も草むらの先端まで進んで指揮を執る。鉄砲隊がこちらを向いて構え出す。予想よりも立て直しが早い!


“打ち方始めぇぇ”

“ダダァーーンッ!!”

"うっ"

“あがぁっ”

敵の種子島が火を吹いた!最前列にいた味方の兵がかなり倒れる。少なくない被害を受けたが、これで敵は暫く丸腰の筈だ。行けるっ!残った者達が必死に敵へと向かっていく。


"総員、着剣っ!"

敵の侍大将らしき男が大きな声を出すと、敵兵達が小太刀の様なものを取り出して種子島の銃口に刀を突き刺した。種子島を槍の用に構えている。何じゃあれは……。

“ガキーーン”

敵に迄辿り着いた兵の刀と敵兵の種子島が交差して大きな音を立てる。奴等は丸腰ではない!種子島を槍代わりに応戦をして来ている。それに奇襲にもあまり崩れていない。不味い。このままでは消耗戦になる。

「引けっ!引けぇいっ!森へ引くのじゃっ」

儂の声を受けて味方の兵達が踵を返す。既に何人かの味方が突っ伏して事切れているのが見える。戻って来る者にも手傷を負っている者が少なくなかった。全く摩訶不思議な奴等じゃ。今度は抑えず舌を打った。


“……作郎、本陣に状況の報告と援軍を要請!”

“本陣に状況の報告と援軍要請、承知致しました!”

敵の鉄砲隊から微かに声が聞こえる。目を細めて覗くと、一人が芝川砦の方向へ走っていった。

始めの方は聞こえなんだが、内容から察するに本陣への報告と援軍要請だな。

「聞こえたか。敵は此処に援軍を要請するようじゃぞ。上手く引き付けられたかも知れぬ」

敵に位置が知れた今、小声で話す必要も無い。常のように声を上げて傍らの吉左衛門に話しかける。

「援軍となるとまともにやっては兵力の差で負けまする。此処は此の森で悠々と構えまするか」

「うむ。吉左衛門の言う通りじゃ。さて、如何程来るかのう。千か二千か」

「千か二千!?意外と少のうございまするな。一万か二万の間違いではありませぬか?」

五郎兵衛が冗談てんごうを話すと、味方の兵が声を上げて笑った。これは敢えて申した冗談であろう。長い付き合いだから分かる。思わぬ反撃を受けて少し動揺している味方の兵達を和ませようとしているのだ。


頼りになる腹心達を横にして今一度気を引き締める。

さ、仕切り直しだ。




弘治三年(1557)七月下旬 甲斐国巨摩郡真篠村 真篠城 武田 晴信




甲駿国境の要衝として改修している最中の城の広間に重苦しい空気が漂う。広間に入った時に感じた新しい木の香りはとうに霧散し、土埃の香りが漂っている。


宍原砦攻めの為に砦を囲んでいると、突如として馬場民部少輔が陣へと現れた。何事かと驚く間もなく富沢方面まで急ぎ撤退するよう意見をされた。左馬助信繁が率いる富士方面軍が今川の援軍を前に大苦戦しているらしい。一旦富沢まで兵を引き、戦略と態勢を立て直すとの事だった。速やかに撤退の命を下して、強行軍でこの城へと辿り着いたが、民部少輔が儂の元へと来て以降富士方面からの続報が無い。それだけ状況は苦しいという事だろうか。


こういう時は動じてはならぬ。

不動明王の様にじっとしたまま広げられた盤を眺める。

“申し上げまする”

ようやく使いが現れて大きな声を上げる。傍らに控えている金丸平八郎に“よいぞ”と囁くと、平八郎が大きな声で元気よく“申せ”と発した。


「はっ。今川の援軍と対陣していた御味方でございまするが、敵の攻撃を受け総崩れにございまする!御大将左馬助様も御討ち死されてございまするっ」

“なんだと!?”

“左馬助様が?”

“馬鹿なっ”

陣内の将が動揺している。左馬助が討ち死だと?儂とて信じられぬ。大将が戦死するという事は、軍は全滅でもしたと言うのか。


「詳しく申せ」

幕閣の一人である工藤源左衛門大尉が続きを促した。

「はっ。左馬助様は援軍に現れた今川勢の進軍を阻むべく、芝川砦に抑えの兵を置いて南方へ兵を進軍させました。そこに今川勢は鉄の球を撃つ兵器を使って攻撃を与え、御味方は見た事も無い攻撃に大混乱してございまする。鉄の球による攻撃は本陣にも行われ、左馬助様は崩れた天井の犠牲になってございまする」

「鉄の球とは何じゃ」

「はっ。二寸程の、まさに球でございまする。この重たい球が雨のように降ってくるのでございまする。

小畠山城守が問いかけると、使いが両手で円を作って説明をする。使いが真剣に報告をするが、今一つ要領を得ぬ。


「その他の被害と軍はどうなっておる」

使いの者に直接問いかける。

「はっ。三枝新十郎様、初鹿野源五郎様が御討ち死にしてございまする。軍はこちらへ向けて撤退中にございまする。諸角豊後守様が殿を務めて刻を稼いでおられまする」

“新十郎殿も”

“源五郎殿も戦死したと申したか”

「相分かった。報告大儀であった。皆が此処に来るのならば、それを待って状況を良く把握しよう」

皆を鎮めようと大きな声でゆっくりと言葉を発して目を閉じる。


左馬助が逝ったか……。心に大きな穴が空いた気がした。それに子飼いにしていた新十郎もか。刑部少輔は無事であると良いがどうかの。しかし、これは紛れもなく大敗になるな。このままでは家中が揺れる可能性がある。どうしたものか。


報告の限りでは穴山伊豆守はまだ生きている様だな。対今川戦を進めたのは儂と左馬助が中心ではあるが、伊豆守が強硬に主張した事は皆も知っている。この際、これを利用して上手く穴山家を潰してしまおう。儂が撤退の命を下すと、身延山が所領の伊豆守は反対をするはずだ。そこで、この城を拠点に対今川の守備を命じればよいな。刈入れ後の再挙兵を約束しよう。だが、恐らく穴山だけでは秋まで守り切れまい。城と共に滅びるか降るかを選択するだろう。どちらになっても残った所領や利権は召し上げる事が出来る。それを重臣や奥近習に分け与えて儂の足元を強化すればよい。足元を固めておけば儂に不満を持つ者がいても謀反は起こせまい。秋の刈入れまではどの者も米が無いはずだ。兵を起こせぬうちに不満を持つ者達を片付けなければならぬな。


後は今川がどこまで押して来るかだな。

今川も三河で苦しいはずだ。長期戦は望んでいないだろう。

この城の北にある城山城が実質的な拠点だな。あそこならこの城とは違って改修を終えている。それでも厳しい時は久遠寺に兵を置くとしよう。流石に久遠寺に攻撃は出来まい。もし、攻撃してくるのならば甲斐にある日蓮宗が総じて反今川の旗を挙げる筈だ。我が家中とて日蓮を信仰する者は多い。今川への心情は悪くなるだろう。儂にとって都合が良い状況となるのは間違いない。


まだだ。

今川との戦は始まったばかりよ。

左馬助を失った空虚を紛らわせるように、頭の中で謀略を巡らせていた。




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡芝川村 芝川砦 庵原 忠胤




味方の攻勢によって救出された芝川砦の物見櫓から戦況を眺める。あまり大きな櫓ではない。上っているのは御屋形様と三浦左衛門尉殿、富士大宮司殿と儂だけだ。砦の端に設けられた櫓からは北も南も良く見える。芝川を渡河し、長見寺の方向へ進む軍勢が見えた。今頃先頭は長見寺の辺りにまで達しているだろう。


前線部隊が長見寺に向かう途中、芝川を越えたところにある丘陵で武田の殿と思しき部隊から反撃を受けた。森の中からの奇襲攻撃だったらしい。御屋形様は攻撃を受けた部隊からの報告を受けて、親衛隊の火矢部隊を遣わした。この部隊は菅ヶ谷村で採取されるくそう水を、矢先に付けた布にふんだんに含ませた矢を使う。この時期の草木は雨を受けて湿気を伴っている。決して燃えやすくはないのだが、くそう水の前は関係が無い様だ。火矢部隊が放った矢の影響で、芝川の先にある丘陵から大きな火の手が上がった。まるで業火の如き火だった。今は木々を燃え尽くしつつあるのか、少しずつ弱まってきている。部下の多くを失った大宮司殿の前で口にするのは憚られるが、あれは武田の兵に同情を覚える程の火の手であった。敵はさぞかし苦しみながら命を落とした事だろう。


「御屋形様の見立て通り北西の風に乗って上手く火が芝川の方へ流れておりまするな」

三浦左衛門尉殿が呟くと、御屋形様が“で、あるな”と満足そうに頷かれた。いつもより僅かに声が高い。御屋形様も少し興奮されているのかも知れない。


火矢を使う時に懸念された事がある。風向きだ。

火の手が西から北へ向かうと、長見寺の方面へ山を広範囲に燃やしかねない。更に北へと燃え広がれば火消に苦労する可能性があった。だが、幸いにして丘陵に上がった火の手は東に流され、芝川へぶつかろうとしている。木々を焼き尽くせばその内に自然と消えるだろう。


暫くすると、櫓に上るための梯子が軋む音がした。下を眺めると、狩野伊豆介殿が昇って来ている。何ぞ動きでもあったかの。手を差し出して引き上げる。

「忝い」

「お安い御用でござる」

「伊豆介殿。如何された。何ぞあられたか」

富士大宮司殿が問い掛ける。大宮司殿は最前線に兵を送っている。何があったか気になるのだろう。


「御屋形様。御味方が長見寺を占拠してございまする。武田勢は富沢方面へ撤退しておりまする。御味方、大勝利にございまする」

「武田を追い払ったか」

御屋形様が櫓の欄干に手を掛けて長見寺の方向をご覧になられる。

「やりましたな」

「おめでとうございまする」

左衛門尉殿や伊豆介殿が賛辞を送る。大宮司殿は目に雫を溜らせて頷いている。


「御屋形様、武田の崩れようはかなりの様でございまする。隊列を崩して富沢方面に向かったとの由なれば、追撃も一考かと」

「うむ。ならば富沢も落としてくれる。長見寺にはこの砦にいる兵を送ろう。今寺にいる者達には前進を命じよ」

伊豆介殿の言葉を受けて御屋形様がすぐにご決断をされる。


「御屋形様」

「何だ」

儂が声を掛けると、戦況を眺めておられた御顔が儂の方を向いた。ふむ。やはり少し高ぶられている様に見える。

「今橋の吉良殿に第一報を伝えておいた方が宜しいでしょう。苦しい戦いをしている味方の励ましになりまする」

「それもそうだな」

「御屋形様、どうぞ」

透かさず伊豆介殿が懐から矢立を出して御屋形様に差し出した。準備が良いの。御屋形様が受け取って立たれたまま文をお書きになられる。おや?もう筆を終われて文を伊豆介殿へ手渡された。荒鷲が急いで届けるのだろうが……。

「随分と短こうございまするな。何とお書きになられたので」

無礼かと思ったが内容がふと気になった。敵を打ち破った後だ。ご容赦頂こう。


儂の問い掛けに御屋形様が再び戦場の方へ顔を向けられながら大きく声を上げられた。

「来た、見た、勝ったと書いた」

御屋形様らしいお応えに、櫓にいる皆が声を上げて笑った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る