第百十七話 決断




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡芝川村 芝川砦 富士 信忠




悠々と砦を包囲していた武田兵が慌ただしく動き出したかと思っていると、徐々に北西の方向に向けて動き出した。先程から大きな音が轟いている。爆発する音が続いているが鉄砲とは違う。何か動きがあったに違いない。 ついに援軍が来たのだろうか。


“南側に赤鳥の旗が見えまするぞーーっ!”

物見櫓の兵が叫ぶと、砦の中にいる味方の兵達が歓声を上げて立ち上がり、続きを促した。櫓からでなければ遠くは見えぬ。兵達と同じように儂も続きを待っていると、物見役が声を上擦らせながら叫んだ。

"旗印に八紘一宇の文字も見えまするっ!お、御屋形様の兵じゃっ!"

"おぉっ!"

"やったぞっ"

いよいよ援軍が現れたと聞いた者達が笑みを浮かべて喜び合う。近くの将達も同じだ。皆が喜び安堵している。


「殿っ!」

皆の喜ぶ様を嬉しく眺めていると、重臣の大貫式部少輔が声を掛けて来た。勝利がすぐそこまで来ていると言える今、何故か厳しい表情をしている。

「如何した」

浮かれていると思われては行かぬ。神妙な顔を作って言葉を返す。

「隠岐守殿の仇を取らねばなりませぬ。ここは是非打って出ましょうぞ」

成る程の。厳しい顔の原因はこれか。

「まだ戦況を全て把握した訳ではない。式部の気持ちは分かるが安易に出陣するべきではない」

「我等は意気軒昂ですぞっ!隠岐守殿の仇を取るためならば身など惜しゅうありませぬ」

重臣の伴刑部少丞が続けて声を上げる。やはり皆は隠岐守の事が気掛かりなのだろう。


「八紘一宇の旗が見えたという事は援軍の中に親衛隊がおりましょう。御味方がこの砦の救援を任としているのは間違いござらぬ。何れ此方に参る筈にござる。武田を討つために追撃する様であれば某が掛け合いまする。その時は皆で参加致しましょう。今は直ぐに打って出る準備をすれば良いかと存じまする」

砦に詰めている親衛隊の隊長を務めている山田商三郎殿が冷静に告げると、多くの者が頷いた。

「うむ。此処は山田殿の申す通りだ。御屋形様が援軍に見えて下さったならこの砦を素通りされる筈がない。本隊と連絡を取って決めるとしよう。案ずるな。皆の気持ちは十分に分かっておる」

「「おぅっ!」」

儂の言葉に皆が応じた。


山田殿に目配せをすると、ゆっくりと頷いて応じた。まだ若いというのに中々冷静なところがある。砦を見回っている時に少し二人で話す時があった。親衛隊の学校では何度も訓練するらしい。ありとあらゆる戦場を机上演習し、時には実地訓練を交えて経験を積むと言うておった。そうした経験が冷静な判断をさせてくれるようになると。我が息子が今少し大きくなったら親衛隊の学校とやらに預けてみるか。




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡沼久窪 本妙寺 今川 氏真




「報告致しまするっ!」

使い番が駆け込んでくると、広間にいる将達が使いの方を一斉に向いた。

「申せっ!」

俺が直接直答を許すと、使いが“はっ”と大きな声で応じて報告をする。

「先陣を務める孕石隊が敵の先鋒を撃破し、二陣の葛山播磨守様が続けて突入しておりまする」

“おおっ”

“さすがじゃっ”

吉報を受けて幕閣達が声を明るくする。まだだ。相手はあの武田だぞ。油断はならぬ。冷静な表情を作って応じる。


「よしっ!まだ油断はならぬ。手を休めず武田を叩くぞ。芝川砦も救わねばならぬ。朝比奈備中守ならびに蒲原伯耆守、それから安倍大蔵尉は兵を進めよ。芝川の手前までは戦況を判断して兵を進めて良い。但し川は渡るな。渡河する時は別途命を下す」

「御意にございまする」

「畏まってござる」

「御意にっ!」

名を呼ばれた将達が力強く応じて本陣を出ていく。


「問題は左馬助がいる後詰の本隊だ。どうなっている」

「はっ!長見寺の方へと撤退し、今は境内で態勢を整えている様に見えまする」

俺が問い掛けると、使いが大きな声で答え、伊豆介が置かれた地図の北側に位置する長見寺へと武田の駒を集中させる。寺は芝川砦よりも更に北西へ半里程行った所にある。

「寺に僧はいるのか。他の寺へと逃げたか」

「面目ありませぬ。そこまでは分かっておりませぬ」

使いが申し訳なさそうに応えると陣内が静かになった。皆が俺の下知を待っている。


荒鷲の報告によれば、長見寺は平安中期から後期に創建され、鎌倉の頃に日蓮宗へ改宗した古刹らしい。今生から見ても平安だ鎌倉だと随分古い歴史がある。生憎俺は全くと知らなかったが、前世からしてみれば超がつく古刹だな。武田左馬助等の諸将は今や長見寺に籠って戦うか撤退かの軍議をしているものと思われる。初めから寺の本堂に大筒を撃ち込む事も出来たが、古刹を破壊するのを躊躇した。今頃武田方は本堂の辺りを大筒の射程圏外とでも思っているのかも知れない。


寺を破壊すれば日蓮宗の坊主も敵にまわす可能性がある。僧侶に被害が出れば宗派を問わず坊主達を敵にまわすかも知れぬ。この時代の坊主は随分と力と権威を持っている。侮れない存在だ。だが、此処で撃ち込めば武田の諸将を屠る事が出来るかも知れない。


鼓動が高鳴る。

額から頬に汗も流れる。

暑いからではない。

史実では最強とも謳われた武田軍団を相手にする興奮と、一向衆だけでなく日蓮宗も敵にするかも知れないという緊張、寺にいる僧を巻き込むかも知れないという葛藤、これらの混沌とした感情が沸き立つ。


俺は敵が寺に籠る度に考え苦悩するのか?

そうではないだろう。感情を飲み込んで自問自答する。

此れ迄も今川に不満な寺を幾つも焼いてきたではないか。大を成す為に軋轢は何かと付き物だ。偽善と言われるかも知れない。だが、此処で踏み留まっては全てが無に帰すかも知れない。此処で逃した武田が息を吹き返し、後になって後悔するかもしれない。ここをダンケルクにしてはならぬのだ。

……大きな重圧を感じる。寿桂尼が言っていた苦難の道というのは此れか。言葉では分かっていたつもりだが身を以て感じる。絶対的な君主は自分で決を出来る代わりに責は全て己に帰結する、といったところか。

ふふふ。……良いではないか。己で決める事が出来ない悩みよりも良い。

よし、腹は決まった。

熟考する俺の姿を静かに見ていた将達に、低く威厳を持った声で伝える。


「……余は左馬助を討たなかったと悔やむより、討てなかったと悔やむ方が良い。例え佛を敵にしてもだ。以前に伝えた通り全ての責は余が持つ。敵は長見寺にありだ」

「御屋形様。宜しいのですな」

筆頭家老の三浦左衛門尉が厳しい表情で問い掛けてくる。宗門からの非難が大きいかもしれないが良いのかと言っているのだろう。俺の決意を汲んでだろうか。駄目だと反対をしてこないのが有難かった。

「是非に及ばず」

腹に力を込めて応える。


「御屋形様の御覚悟、お見事にございまする。この左衛門尉、委細御意にございまするっ!」

「「御意にございまする」」

左衛門尉が膝を付いて大きな声で応じると、幕閣の皆が続いた。流石は筆頭家老だな。空気の作り方を心得ている。義元に無理を言って手元に残しておいて正解だった。

「松井八郎に合図せよ。長見寺の建屋へ撃ち方始めとな」

“御意にございまする”

俺の言葉を受けて使いが手旗役の所へ走っていく。


暫くすると使い役が駆け戻って来た。

“大筒隊より応答。目標長見寺は確か也か、でございまする”

使い役が息を上げながら報告をしてくる。俺が建屋は避けろと命じたからな。堅実な八郎らしい。使い役に対して直接“長見寺へ撃ち方始め。間違いなしと応えよ”と伝える。使い役が敬礼をしてまた走っていく。伝令も大変だな。


さてどうなるか。考えながら盤上の駒を自ら動かす。朝比奈備中守達の分だ。

ふと近くに座る六郎の顔が視界に入る。随分と落ち着いている様だ。この義弟も何かと波乱万丈な人生を送っている。意外と肝が据わって来ているのかも知れん。戦が終わったら二人でゆっくり茶を飲むのも良いな。命を下した後だからか、思いの外心は落ち着いていた。




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡長貫村 長見寺 小山田 信有




戦況をご覧に行かれた左馬助様がお戻りになられた。この本陣の南側に位置している後詰部隊に今川勢が鉄の球とやらを撃って来ていたらしい。不意の攻撃に後詰部隊が動揺し、この本陣へと逃げこんで来た兵が多くいるようだ。お戻りになられてからの左馬助様は言葉をあまり発せられない。ずっと戦場を模した図面を睨んでお考えになられている。

「申し上げまするっ!」

使い番の男が縁側の先にある庭へと走り込んで来た。左馬助様の顔を覗いて応諾を得ると、使いに“申せ”と伝える。

「ははっ!芝川砦の南方において今川勢の猛攻を受け、初鹿野源五郎様、三枝新十郎様が討ち死にされてございまする」

「なんとっ」

「源五郎殿が」

広間に詰めている重臣等が驚いて声を上げる。


「軍はどうなっている」

左馬助様が口を開かれて使い役に問い掛けた。御顔と声の限りでは落ち着いておられる様だ。

「はっ。前線の御味方は総崩れにございまする。今は芝川砦近郊の御味方が支えておりまするが、芝川砦からも敵が打って出てきており勢いがございまする。御味方は厳しい状況にございまする」


「相分かった。馬場民部少輔」

「はっ」

「其の方は手勢を引き連れて御屋形様の元へ急ぎ向かい、此方の状況をご報告せよ。御屋形様には一度富沢辺りまで兵を引いて頂く方がよかろう。今川の攻勢によっては本隊が孤立しかねぬ」

「お待ち下され。富士郡への進撃を諦めるという事でござるか」

左馬助様の言葉に穴山伊豆守様が席を立って声を上げられる。

「早う行けっ」

「御意にございまする」

左馬助様の言葉を受けて民部少輔殿が駆けて行かれた。伊豆守様が“左馬助殿”と詰め寄られる。


「伊豆守。儂は進撃を諦めるとは申しておらぬ。態勢を立て直そうとしているだけじゃ。此度の今川との戦は容易には終わらぬ。案じるでない」

「なれどここで一旦とは申せ、後ろに引いては我が領まで今川が押し寄せる可能性がござる。それに戦には勢いが」

“ズガガガガーーーン”

その時、けたたましい音が広間に轟いた。建物が揺れ、物が崩れる様な音が続く。

「何事ぞ」

「な、なんじゃっ」

陣内の将が声を荒げる。儂も驚いて辺りを見回す。


再び大きな音がしたと思うと、今度は悲鳴が聞こえて来た。境内の兵が多く詰めている方からだ。

「まさか……。此処まで届くというのか」

左馬助様が呟かれた。

“も、申し上げまするっ。境内に詰める兵の元へ鉄の球が落ち、瞬く間に数名が死んでおりまする”

走り込んで来た使いが目を丸くして報告をする。本陣の将達が報告に驚くが、何を言っているのか今一つ腑に落ちない様子だ。斯くいう儂も鉄の球とやらがどうにも分からぬ。

「左馬助様。今川の攻撃が此処まで届くとあっては、この陣も一旦下げて立て直しが必要かと存じまする」

諸角豊後守殿が言葉を発する。この御仁は事態を理解している様だ。そういえば先程左馬助様と共に戦況を見に行かれていたな。


「此処で引いては勢いを失いまする。むしろ今こそ全軍で今川に攻め寄せる事こそ肝要かと存じまするぞ」

伊豆守殿が声を大きくして扇子を盤面に打ち付ける。皆を鼓舞するような仕草だ。

「本隊と富沢で合流し、態勢を立て直す。豊後守には殿を命じる。これより芝川砦の方面へ向かって今川の攻勢を抑えよ」

少しの間があった後、左馬助様が決を下された。

「左馬助殿!」

「御意にございまする」

伊豆守様が間髪を入れずに非難めいた声を上げられるが、その言葉を遮って諸角豊後守殿が応じる。


諸角豊後守殿がすぐに陣を出ていくと、左馬助様が立ち上がって伊豆守様の方へと顔を向けられた。

「伊豆守、其の方の気持ちは」

左馬助様が伊豆守様に向かって話し始めた時、再び大きな音がして建物が揺れた。それと同時に天井が崩れてくる!反射的に目を瞑って身を伏せる。先程よりも大きな、建物が壊れるような音がする。木片の様な破片が幾つも落ちて来て自分の鎧に当たった。

“左馬助様っ!”

甘利左兵衛尉殿の声だ。顔に掛かった土埃の様なものを取り払いながら目を開けると、壁が大きく崩れている。


「ごほっっ!ほぉんっ」

埃を随分と吸い込んだ。自然と大きな咳が出る。

“左馬助様っ!!”

再び左兵衛尉殿の声が聞こえた。声のする方へと駆け寄ると、左兵衛尉殿の背中が見え、人を抱えているのが分かった。

「左兵衛尉ど」

左兵衛尉殿が左馬助様を抱えている。



その身体は首があり得ぬ方へと曲がっていた。



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