第百十六話 芝川の戦い




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国庵原郡北松野村近郊 松井 宗恒




「今日は天気が良くてようございましたな。よう敵が見えまする。それに程よい風にござる。煙が邪魔にならぬ」

胸の動悸を押さえながら敵陣を眺めていると、副隊長を務める功野主税助が呟いた。儂は今日を迎えるのに緊張して眠りが浅かったというのに、隣の男は相変わらず飄々としている。

「うむ。絶好の砲撃日和だな」

緊張していると思われるのも癪だ。胸を張って揚々と応えた。

「ただ、西からの風が少し気になりますな」

「計算には入れているか」

儂が問いかけると、主税助が"無論にござる"と敵陣を眺めながら応えた。


主税助とは隊の発足からずっと二人三脚で歩んできた仲になる。元は府中の商家の生まれで、母方の家柄を辿れば御用商人を務める友野屋にも連なるらしい。計算が大の得意だが、どうも商いが生に合わないと感じていた時に親衛隊の門を叩いたらしい。次男ではあるが、兄弟沢山で身内の反対もあまり無かったと言っていた。元々の姓は"河野"を名乗っていたが、計算が余りにも早い事を御屋形様が目に留め、その道で成功せよと祈念して功野と名乗らせた。御屋形様から頂戴した姓を本人は随分と気に入っているようで、酒を飲むとよくその話になる。


"報告っ!本陣より手旗の合図っ!"

主税助と敵陣を眺めながら砲撃の算段を話していると、旗降り役が声を大きくして報告をして来た。いよいよ始まるか。

「本陣は何と言っている」

「はっ。ウ・チ・カ・タ・ハ・ジ・メ チ・ヨ・ウ・ケ・ン・ジ。撃ち方始め、長見寺であります」

手筈通りの合図だが、遂に此の時が来たと思った。何度も繰り返してきた訓練を思い出せ。己に言い聞かせる。


「測量射撃を始めよ」

「一番砲および二番砲っ!測量射撃よぉぉうぃっっ!」

儂の言葉を受けて主税助が大きな声で隊に伝える。何時もの事だが、まるで人が変わった様で面白い。

「撃ち方始め」

「撃ち方ぁぁっ始めっ!!」

主税助の大声と共に両手で耳を塞ぐ。兵達もこなれたものだ。


"ドォーーン"

"ドォーーン"

大きな音を轟かせて初弾が斉射される。

川向こうにいる武田の兵達が何事かと驚いた様子で此方を見ている。今は呆けて眺めているがいい。


"弾ちゃぁぁーーーくっ"

部隊の中で特に眼の良い目視役が大きな声を出して着弾を宣言した後、隣にいる測量役に目測での着弾距離を伝えている。測量役が直ぐに算盤を打ち始めた。

「思ったよりも手前に落ちたな」

初弾は遠くに見える長見寺の建物よりも随分と手前に落ちた。一番も二番も同じ様な距離だが二番の方が少し手前に、かつ東側に落ちている。

「ここでは感じぬが、少し向かい風があるかも知れぬ」


測量役が南蛮法と呼ばれる方式で距離を測定し、修正する射角を導き出す。計算が終わったのか、算盤を弾く音が止まった。測量役が続けて台帳を確認し始める。訓練で書き留めた火薬量と角度と距離の台帳だ。計算と実地を組み合わせる事で格段に精度が向上する。全て御屋形様からのご指示だ。


南蛮の測量方法と測量器具は、御屋形様が南蛮商人に強く求めて入手したものだ。南蛮商人は御屋形様から大筒の注文を得るだけでなく、測量器具と測量方法の書籍を持ってくるよう話されて驚いたらしい。それも大筒より器具や書籍の方に大金を払うと話されたとか。正直に申せば、測量方法はまだ会得の最中だ。今年の始めに南蛮商人から器具と書籍がもたらされたが、内容を理解するには時間が掛かる。皆で必死に学んでいるが、まだまだ学びが足りないと感じている。これまで我等は不思議な道具に不思議な文字を使う部隊と、まわりから風変わりに見られていたが、今日の戦で変わるかも知れない。

そのためには結果を出さねばならぬ。


「具申致しますっ!」

測量役の兵が今川式の敬礼をしながら大きな声を出す。受礼をしながら応える。

「申せ」

「はっ!仰角の四度修正が必要と考えます」

「五度だ。目標の辺りは恐らく向かい風が強い。四度では足りぬ可能性がある」

測量役の具申に主税助が即座に応える。頭の中でこの男も計算をしていたのだろう。測量役の者が一所懸命に算出したのだ。まずは四度でやらせてやればいいものを。主税助は出来る男だが、こういう融通が効かない所がある。ま、だからこそ儂がいる意味もあるのだが。

「うむ。一番から十番砲は仰角四度修正、十一番から二十番は五度修正だ」

「はっ!一番から十番は仰角四度、十一番から二十番は仰角五度修正致します」

測量役の兵が復唱した後、主税助の顔を覗く。気になるのだろう。"いいのだろうか"という表情を微かに見せる。

「隊長のご指示に従うように」

仕方無いという様子で主税助が応じる。主税助もこういう時は儂を立ててくれる。

「はっ!」

主税助の同意を得て、測量役が皆に修正を伝える。各門が射撃準備を行う。皆の顔に興奮が見て取れる。今日のこの日の為に堪えてきた訓練だ。皆の気持ちがよく分かった。


準備を終えると、皆の動きが止まって静かになった。胸の鼓動が皆に聞こえるのではないかと思う程高鳴っている。だが、繰り返してきた訓練が身体を何時もの通り動かす。床几から立ち上がって腹に力を込めた。


「一番砲から全門順次撃ち方を始めよ。撃ち終わり次第直ちに次弾装填の上、また撃ち方用意だ」

「これより一番砲から全門順次撃ち方を開始する。撃ち終わり次第直ちに次弾装填の上で撃ち方ぁぁ用意ぃっ!」

主税助が儂の言葉を大きな声で復唱し、軍扇を高々と掲げた。儂はあれを持つと、どうも興奮が過ぎて冷静さを失う。だから主税助に任せている。



「撃ち方ぁぁ始めぇっっ!!」

主税助が大きな声を上げて軍扇を振り下ろすと、一番砲が轟音と共に火を吹いた。




弘治三年(1557)七月下旬 弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡長貫村 長見寺 馬場 信春




どうも外が騒がしい。喧騒が聞こえたかと思うと、すぐに叫び声が聞こえてきた。何事かと寺の境内を出て敵陣の方向へ向かって歩き出すと、すぐに使い番と遭遇した。

「これは民部少輔様っ!て、てっ、鉄の球が降って来ておりまするっ!」

「鉄の球?何じゃそれは」

使いの話す内容が理解出来ない。使い番が南の方向を指差して口を震わせている。仕方無い。もう少し先へ進んで自分で確かめるとするか。馬がある方が良いの。踵を返して長見寺の馬留めに向かう。


「民部っ!」

馬に跨ろうとした時、左馬助様から声を掛けられた。

「これは左馬助様。敵が何かしてきている様でありまする。少し見て参りまする」

「儂も行こう。豊後守、伴をせい」

左馬助様の後ろに付いている諸角豊後守殿が即座に応じて馬に乗る。左馬助様の近習等も諸共に駆け出した。


六、七町程だろうか。芝川砦がまだかなり先に見える。大した距離を走ってはいない。だが、馬で進むに連れて右往左往する兵達が目に入る。持ち場を離れ、皆が騒ぎながら駆け回っている。

何人かの兵が川向こうの方を指差していた。今川が何か砦らしきものを作っているという場所だ。


「!」

川向こうの今川陣地に突如として煙が巻き起こった。煙を見た兵達が叫び声を上げる。

"また来るぞ!"

"ひぃぃぃ"

"逃げろ逃げろぉぉっっ!"


「しっかりせよ!」

何におののいているのか分からず、馬上から兵達に取り留めの無い言を発していると、背の方から風を切るような音と共に、何かが押し潰されるような音が聞こえた。

"喜助ーーっっっ!!"

"今度は向こうじゃ"

"先程よりも本陣の方に向かっているぞ"

"に、逃げるならあちらじゃっ!"


「何じゃ今のは」

左馬助様が呟かれる。

「……分かりませぬな」

「み、民部殿っ!左馬助様!あれをご覧くだされっ」

豊後守殿が示した先を見ると、足軽の兵が呻き声を上げながら横たわっている。よく見ると肘から先が無い。少し離れた所に籠手らしきものが落ちている。まさか……。まさかとは思うが持っていかれたのか?


"ばしゃっ"

再び大きな音がしたかと思うと、視界の先にいた雑兵の頭が吹き飛んだ。頭を失った首から血飛沫が撒きあがる。その内に膝を崩して地面へと倒れ込んだ。これは現実なのだろうか?見ている光景が信じられない。

"ひっ!ひぃぃぃっっ"

"み、南じゃっ!"

"本陣から離れろっっ"

兵達が本陣から離れようと我先に南の方向へ向かう。


「何じゃこれは……。何なのじゃこれはぁぁっ!」

左馬助様が声を荒げておられる。返す言葉が無く漫然と戦場を眺めていると、黒い影が見えた刹那、"ドスンッ"と大きな音を立てて何かが地面に突き刺さった。馬が音に動じて撥ね出す。落馬をせぬように手綱を強く握った。

「どぅどぅどぅっ」

動じている馬を何とか宥めていると再び大きな音がした。今度は甲高い音だ。音のする方を振り向くと、黒い球が跳ねて転がっている。

「あの球を撃ち込んで来ているという事か??」

球の転がりが止まると物が見えた。見たところ二寸程はあるだろうか。大きな黒い塊の様だ。

「まさか。信じられぬ」

儂が呟くと、豊後守殿が頭を振った。


“またじゃぁっ”

“来るぞっ”

今川の陣地の方を眺めている兵達が叫んでいる。儂も陣地の方を眺めると、煙が新たに立ち上っていた。

「左馬助様っ!ここ」

“ぐしゃっ”

大きな音に話を遮られる。今度は鎧が潰される様な音だ。兵達の叫び声が増している。また誰かが犠牲になったのかも知れぬ。これは間違いない。今川が新たな兵器で事を成しているのだ。此処にいては危ないっ!

「左馬助様っ!何を用いているかは分かりませぬが、此れは明らかに今川の攻撃にございまする。此処におられては危険なれば、一度長見寺まで引き上げましょう」

「だがこの混乱を収めなければ兵達が遁走しかねぬぞっ」

「左馬助様に万が一の事あればそれこそ総崩れになりまするっ!民部殿の申す通り、まずは長見寺に戻って立て直しを図る事が肝要にございまする」

儂の意見に合わせる様に豊後守殿が声をあげる。

“ぐはぁぁぁーーーっ”

話している間にもまた一人犠牲になった。今の攻撃はこの場からあまり離れていない。早くせねばならぬ!


「う、うむ。その方等の意見も分かる。一度寺へと戻ろう。流石に建物までは崩せまい」

今の被害が効いたか、左馬助様が首を縦に振る。

「「はっ」」

左馬助様が本陣に向けて駆け出すと、皆が馬の腹を蹴って後ろに続く。馬で駆ける途中、自然と今川参議様の顔が脳裏を過った。あの御方が不意に見せる冷徹な御顔を思い出す。


我等は天魔を、鬼神を相手にしてしまったのかも知れぬ。

阿鼻叫喚の陣中を走る中、言い知れぬ不安が募っていた。




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡羽鮒村 今川軍先鋒の陣 孕石 元泰




「大筒隊より手旗合図っ!」

「何と申しておる」

「はっ! 敵前衛へ砲撃停止 突入されたしでございまする」

旗振り役が大筒隊からの合図を読み取って告げてくる。全く便利になったものよ。


「相分かった!皆行くぞ」

刀を抜いて突撃のための命を下すと、副将を務める杉山新右衛門が“お待ちくだされ”と声を上げて来た。

「主水佑殿。それでは前が過ぎまする。大将は今少し後ろにお下がり下され」

新右衛門殿が耳打ちするように儂へと声を掛ける。儂の手勢だけで役目を果たそうとしていた所、今は御屋形様がお付け下さった親衛隊百名も束ねている。その親衛隊を率いているのがこの男だ。

「大将が下がっては兵の士気に関わろう」

小さく囁くように告げると、新右衛門殿が頭を振りながら小さく呟き返してくる。

「下がるのではございませぬ。然るべき場所におって頂くのでござる。大将が先陣を切るという姿勢は天晴れでござるが、此度は命を落とされる危険も多うございまする。大将がいなくなってはそれこそ負けにござる」

命を落とす覚悟等とうに出来ている。だが、目の前の男が言いたいのはそういう事ではないだろう。思う所を堪えて続きを促した。

「其の方とて親衛隊を率いる大事な身だ。儂と同じで先頭は危うくないか」

儂が問いかけると、心配は要らぬとばかりに新右衛門が頭を振った。

「某が倒れれば代わりの者が務めまする。親衛隊は序列が厳しく決められておりまする」


「ならばどうせよと」

「某が先陣を切りまする。主水佑殿は隊の中盤で指揮をお執りくだされ」

「御屋形様がわざわざ遣わした其の方じゃ。ここは其の方の言うとおりにしよう」

儂が具申を採用すると、新右衛門殿が安堵したような表情を浮かべて頷いた。ただの男ならば聞く耳等持たなかっただろう。だがこの男は織田との戦で値千金の働きをしている。一目置かねばならぬ。

「有難き幸せに御座いまする」

「お互い御屋形様に仕える身じゃ。それに歳も然程離れておらぬだろう。左様に丁寧にせずとも構わぬ」

儂が親しく話しかけると、新右衛門が僅かに驚いた表情を浮かべて儂の顔を覗いた。相手の目を見てゆっくりと頷くと、口端を少し上げながら頷き返してきた。

「ならば楽にさせてもらうでござる」

「儂としてもこの方が楽じゃ」

儂が告げると、今度ははっきりと新右衛門が笑みを浮かべて応えてきた。


大筒隊の砲撃が止んで静寂が訪れた戦場を足音立てずに進む。暫く進むと、武田軍の陣がある方から喧騒が聞こえてきた。呻き声がかなり聞こえる。この辺りで武田の反撃にあうと思うたが、敵兵の姿はまだ見えない。敵の様子が見たい。隊を止めてその場で待機させ、新右衛門と二人道を外れて丘を登って草陰に隠れる。生い茂った緑をかき分けると、少し先に敵陣が見えた。懸念であった柵は大筒の砲撃によってかなり崩れている。それに多くの武田兵が呻き苦しんでいる。怪我をしていない者達は介抱に追われている様だ。沼久窪に向かう道に兵が据えられてはいるが、決して多くない。これは行けると思うた。


「この隙を突けば突破できるな」

儂が囁くと、新右衛門が力強く頷いた。

「手筈通り某が先陣を切るゆえ、主水佑殿は隊の指揮を御頼み申す」

「相分かった。先陣は其の方に任せるが、我が手の者も連れて行ってくれ」

「承った」

新右衛門が儂の言葉に力強く頷いて応えた。


元の場所に戻ると、儂と新右衛門を見た兵達が姿勢を整えて迎える。危険な任を前に、新右衛門だけでなく親衛隊の兵達は顔に恐れが全く出ていない。我が手勢も家中では中々のものだと思うているが、親衛隊の者達の落ち着きは大したものだ。御屋形様はこれを見せたくて儂に預けたのかも知れぬな。

鯉口を切って刀を抜き、“かかれっ”と大きな声を上げると、新右衛門達が敵陣目掛けて駆けて行った。



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