第百十五話 対陣




弘治三年(1557)七月下旬 甲斐国山梨郡府中 伊賀崎 康正




「組頭、思いの外上手く行きましたの」

武田の御用商人を務める坂田屋を後にすると、付き人を務めていた茂助が微かに口を開いた。

「そうだな。首尾よくいったの。さて、次は小倉屋じゃ」

儂が行き先を告げると、茂助が頭を下げて応じた後、金子を運ぶ者達に行き先を告げる。


今は御屋形様の命を受けて甲斐の府中に潜っている。武田を中から掻き回すための仕込みだ。坂田屋には武田太郎様の使いと称して兵糧の買付とその兵糧を下條兵部少輔等、南信濃の国人へ運ぶ依頼をした。坂田屋の当主は儂等の事を訝しんでいたが、若殿の花押が入った文と山のような甲州金を見て頭を縦に振った。以前荒鷲が甲斐で運営している梅屋に、武田の若殿が簪を発注された。御内室の為に、“甲斐で容易に手に入る代物ではなく、上方の様な所で無ければ手に入らぬ代物を”という発注であった。花押はその文を参考にして真似たものだ。筆の手癖も完璧に再現されている。荒鷲で文を真似る事に関しては右に出る者がない男に作らせたものだ。その男渾身の作が甲斐の豪商を応じさせた。尤も、坂田屋は武田の詮索を受けたとしてもあの注文書を出せばいい。あそこまで精緻なものを出されては武田の咎めは受けないだろう。


「小県方ではそろそろですかな」

「そうだな」

甲斐の府中で自ら工作をしている傍らで、梅屋で奉公をしながら諜報活動を担っていた者達を真田領へ向かわせている。この者達は真田の拠点を今川の使者として訪れる事になっている。真田の城下に入ってから衣を武家の物へと着替え、荷から覆いを外す。すると丸に二引の紋が現れる。この紋を城下の者へこれ見よがしに見せつけながら拝謁を願う手筈だ。真田は長尾への抑えとして此度の駿河攻めに参陣していない。居城にいる筈だ。


真田へ手渡す文は御屋形様に直接お書き頂いた。府中を出掛ける折りに思い付いた今回の策をお話しした所、持っていけとすぐにお書き下さった。内容に目立つものはない。ただ両家の親善を訴えるだけのものだ。真田は扱いに困ろうな。こちらとしては文と進物を断られても構わぬ。真田が使者に会ってさえくれれば、こちらの目的は達成される。後は今川の使者が真田を訪れたという事実を広め、その後は適当に噂を流布させて行けばいい。


会えなかったとしても、使者が何を話しに来たのか市井に噂を流す。その点、この策は荒鷲が真田城下まで辿り着いた段階で半分は成立している。問題は策を担う者達が無事に帰ってくるかだな。真田も使者をその場で殺める事はしまい。使者を殺める家等と噂されてはたまらぬからな。だが、使者としての仮装を解いたら危険が迫る。もし真田が使者の事を怪しんで人を差し向けてきたら幾人か命を落とすかもしれぬ。


厳しい任務ではあるが、厳しい務めを果たしてこそ御屋形様に認めて頂ける。久しく今川では西の方での諜報が重視されてきた。

隠忍、我等が積んできた研鑽を見せるときは今だ。




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡沼窪山 本妙寺 今川 氏真




「武田方は芝川砦を囲みつつ、一部兵を南下させて川沿いに陣を構えておりまする」

「やはり兵を下げてきたか。流石は経験豊富な武田左馬助と言ったところだな」

俺の呟きに三浦左衛門尉や庵原安房守等の重臣が頷いている。

「芝川砦はどうなっている」

俺が伊豆介に尋ねると、険しい顔で"まだ、頑張っておりまする"と応えた。何か奥歯に詰まった言い方だ。

「隠岐守か」

「はっ。篠原隠岐守でありまするが、砦へ引き返す折りに武田方に掴まり磔にされておりまする」

「磔だと?」

思わず言葉が出た。皆は隠岐守が掴まり処断された事に驚いたと思うのだろうが、俺が驚いたのは隠岐守が掴まった事にではない。史実をなぞる様に出来事が起きた事に驚いたのだ。


「……続けよ」

「はっ。隠岐守は磔にされた後、砦に向かって援軍がまもなく訪れる事を叫び、武田の兵に討たれたとの事でござりまする。これは近隣に潜らせていた荒鷲から報告を受けておりますれば間違いございませぬ。隠岐守の言葉に、砦の兵達は奮起して戦っておりまする」

「……そうか。相分かった」

俺が静かに応じると、陣の皆が空気を読んで静かになった。

こうなるかも知れぬと思っていたとはいえ、自分の差配によってまた一人の男が散った。悲しくはあるが、悲嘆に暮れているだけでは前に進めぬ。俺がすべきはこの散華を無駄にしない事だ。

「隠岐守の死を無駄にしてはならぬ。武田を退けるぞ」

顔を上げて語気を強めた。

「芝川砦の川向かいに尾崎砦があったであろう。ここはどうなっている」

「跡形もなく焼け落ちておりまする。御味方は最後の一兵まで戦っておりまする」

「……で、あるか」

暫く目を閉じて大きく息を吐く。何度か行った甲斐への道が脳裏を過る。尾崎砦は小さな砦だ。兵を詰めても百か二百が精々だろう。あの小さな砦で味方が寡兵でも諦めず最後まで戦ったと思うと胸が熱くなった。

「皆の死は無駄にはせぬ」

俺が決意を滲ませるように呟くと、皆が大きく頷いた。


「憎き武田を前にして気が急いていたな。……伊豆介。まず状況を説明してくれ」

伊豆介の顔を見て頷くと、心得たとばかりに盤上で戦況の説明を始めた。

「はっ。それでは状況を説明致しまする。芝川砦の御味方が粘っているため、武田方は五千程を砦の外周に残し、残り四千を南下させ陣を構築しておりまする。この陣を攻めるためには、我等が在陣するこの沼窪山を富士川沿いに上らねばなりませぬ。道が随分と狭いゆえ、芝川砦へたどり着くのは相当に難儀となりまする。加えて武田方は宍原方面の本隊から兵を抽出し、芝川砦の北にある長見寺に後詰めを用意しておりまする。この兵力は我等を一押しする兵にも退路の確保にも使えましょう」

「武田が用兵で先手を打っておりまするな」

「しかし道はこれしかない。切り開くしかありませぬな」

安倍大蔵尉が苦しそうに呟くと、朝比奈備中守が続く。皆も頷いて応じている。

「皆の言うとおりだ。我等の到着を察していた武田が有利に陣を整えている。この状況を打破するためには多少の奇を狙わねばならぬ。そこでだ。この富士川の南側、武田の陣が悠々と望めるこの場所だ。ここに即席で砲台を作らせている」

俺が立ち上がってから、地図の中にある曲がりくねった富士川の南側にある山を指し示すと、伊豆介が大きく頷いた。


「御屋形様の命を受けて、治水や開墾を担ってきた工作部隊を動員し、山林を急いで切り開いている所でござる。昼夜問わず作業すれば明け方までには何とかしてご覧にいれまする」

伊豆介が力強い顔で俺の方を見てくる。満足に頷いて松井八郎の方へ視線を動かす。


「八郎」

「はっ」

俺に名を呼ばれて八郎が少し緊張した面持ちで顔を向けてくる。八郎には大筒の内製が出来てから作った砲術部隊を預けて訓練を積ませていた。大筒は最高機密だからな。滅多な者には任せられない。近習を長らく努めていてよく見知った八郎なら安心だった。だが八郎を選んだ理由はそれだけではない。八郎には各地の内政開発を任せる事が多く、その経験を積んでいく中で忍耐強い男になっていた。砲術部隊では来る日も来る日も弾を打つだけの訓練を懸命に続けていた。

「八郎は明朝、砲台の準備が整い次第、まずは武田の後詰め部隊へ大筒の砲撃を喰らわせよ」

「後詰め部隊にでございまするか?前線の敵にではなく?」

八郎が驚いた様に声を上げる。


「そうだ。長見寺までは一里とない。ならば大筒の射程に入るだろう。悠々と構えている敵の後詰めに、砲弾の雨を浴びせ、慌てさせてくれる。前線の兵達も後方が脅かされている事に驚いて気が漫ろになるだろう。後詰めを崩したら敵の前線部隊へ撃ち込む。始めの合図は本陣から手旗で伝えさせる。だが前線部隊へ砲撃を切り替えるのは八郎、其の方が頃合いを判断せよ。本陣へ手旗で知らせるのを忘れるな」

「御意にござりまする」

「大筒は砲身が焼け落ちてもいい。砲弾を使い切ってもいい。撃って撃って撃ちまくれ」

「畏まってございまする」

「ただし、間断無く撃つようにな。斉射だと間延びしかねぬ。それから長見寺の建屋はなるべく避けてやれ」

「委細承知つかまつりました」

八郎が口を一文字にして応じた。大筒隊にとっては初の戦闘で大舞台になる。大丈夫だ。お前達が必死に繰り返してきた訓練通りにやればな。そういう気持ちを込めながら目を合わせて応じた。


「大筒隊の砲撃によって敵の前線は崩れる筈だ。そこを川沿いに決死隊が突入する。敵は崩れているとはいえ地の利を得て数が多い。味方は少数で柵を構える敵に挑み続けなければならない」

俺が目の前に置かれた盤上の地図を扇子でなぞる。今いる本陣の場所から扇状地にある武田の陣までの道は川沿いの細い道で繋がっているだけだ。これが何を示しているか、此処にいる者達で分からぬ者はいない。

「決死隊には多くの困難が予想される。この艱難辛苦を乗り越え、一番槍を取らんとする者はおるか」

「「某が」」

「いや、拙者がっ!」

俺の発破に、陣の殆どの将が名乗りを上げる。名を上げてこないのは鉄砲隊や荷駄を率いている者達位だ。


一人の男と目があった。顔からは固い決意の様な闘志を感じる。

「よし。ここは孕石主水佑に任せよう。狐橋の戦の折り、父上の横でお前の鬼神振りを見て感心したものだ。此度の戦でも大いに期待している」

部下をその気にさせるのに有効なのは、何時の世も皆の前で褒める事だ。ただ褒めるのではなく事実を使って褒める事も忘れてはいけない。

「ははっ!御屋形様の御期待に応えるべくこの主水佑、必ずや敵を葬り、道を開けて見せまする」

俺の言葉に主水佑が感動した面持ちを浮かべた後、武者の顔付きで応じた。

「うむ。頼むぞ。他の者は主水佑が橋頭保を確保次第、続けて突撃出来るよう準備せよ」

「「ははっ」」

幕閣の将達が声を揃えて応じた。


「よいか。此度の戦の目的は芝川砦の救援と武田勢を駿河から撃退する事である。甲斐に攻め入り切り取らんという気持ちはあるが、我等は三河にも救わねばならぬ味方が待っているのを忘れてはならぬ。深追いは禁じるゆえ注意せよ」

「「ははっ」」

先に戦略目的を伝えて置かねば泥沼の進撃をしかねぬ。この命には多少の反発があるかと思うたが、三河の味方という響きが聞いたか、それとも日頃の威信が自分で思うよりもあったか、皆が従順に頭を下げた。久遠寺辺りまで行けると良いという気持ちはあるがどうなるかだな。


後は戦が始まって見ないと分からんな。

明日に向けて最後の訓示でもしておくか。徐に立ち上がって皆をゆっくりと眺めてから口を開いた。

「武田の用兵たるや流石である。旧来の武器、旧来の戦術で此を破るのは難儀であっただろう。だが、我等は今川である。明日は決戦となるだろう。今川の興廃は正に此の一戦に懸かっている。だが、余には見える。皆が死を怖れず武田に向かい、此を撃滅し、勝利を収めている姿がだ。皆の奮戦に期待する」

「「ははーっ!!」」

諸将が大きな声を上げて応じた。




弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡長貫村 長見寺 武田 信繁




「今川方ですが、斥候の持ち帰った情報によれば、川を少し南下した所にある沼窪山の本妙寺に本陣を構えたとの由にござりまする」

弟の刑部少輔が報告をすると、広間にいる将達が広げられた地図を見て位置を確認する。

「援軍の詳細は分かっているか」

「はっ。今川方の兵力は約一万。こちらに出せる兵力をすべて持って来た様にございまする」

「兵力の上では我が方が優位だな」

「はっ。陣の構築も優位に出来ておりまする。今川の本陣から芝川砦に向かうためには川沿いの細道を上る必要がありまする。この細道を抜けた広い扇状地には我が軍の先鋒が陣を構えておりまする」

刑部少輔の説明に参陣している将達が満足気に頷いている。

「うむ。今川の援軍が来るまでに芝川砦を落とせなんだは想定外であったが、陣の構築が出来た事で今川の援軍は恐れるものでは無くなった。芝川砦の南は膠着状態になるだろう。今川が我等を攻め倦んでいる間に芝川砦を攻め落とすぞ」

「砦を落とすのは当然として、その後はどうするのでござる。敵方からこちらへ攻めにくいのはその通りでござるが、こちらが富士郡へ進むのも難しい場所でござるぞ」

「左様。この陣形では我等の優位な形とはいえ戦は膠着状態になりましょう。さすれば兵糧の多寡が勝敗を決める事になる。今川参議の狙いは始めからそれかも知れぬ」

重臣の小山田弥三郎が地図を指しながら意見を述べると、甘利左兵衛尉が続いた。


「うむ。弥三郎と左兵衛尉の言や尤もじゃ。そこでじゃが、芝川砦を落とし次第、兵を抽出して南信濃から南下させる。松平と本願寺が三河から今川を駆逐せんと戦っている。これを支えても良いし、遠江に出張る手もある。どちらにしても領土の拡張と兵糧の徴発が出来よう」

「お待ちくだされ。南信濃へ兵を動かすと仰せになられたが、左様な事をしては富士郡へ攻勢に出る局面が出来た時に兵を動かせなくなる恐れがありまするぞ」

儂の策に概ね皆が頷く中、穴山伊豆守が抵抗を示した。この者は御屋形様に田子ノ浦の権益を認められている。目線は常に富士郡にあるのだろう。


「それは儂も分かっておる。だが、先に左兵衛尉が申した通り、今の状況となっては富士郡へ兵を進めるのは難儀じゃ。となれば今川を内側から崩さねばならぬ。それには武田が地の利を生かして東に西にと兵を動かすのが肝要じゃ」

「なれど……」

「伊豆守は引き続きこの地にて今川の相手を務められよ。兵を進める時の一番槍は其処元が取られるがよろしい」

儂が論功を匂わせると、暫くしてから伊豆守が首を縦に振った。

宍原での苦戦が無ければこの方面でも取れる策がもう少し増えるのだがな。相変わらず宍原の砦は全く落ちる気配がない。兄上、いや、御屋形様に汚点を付ける訳に行かぬ。本隊の兵は最小限にして、元より牽制が目的だったという体裁を取っている。


「兄上。一つ気になる報告がござる」

軍略の方向が決まると刑部少輔が口を開いた。顔を向けると、弟が難しい顔をして応じた。

「今川の軍勢でござるが、此処でござる。我が軍の先鋒が陣を構築している場所の川向うとなるこの場所で何やら山を切り開いている様子にござる」

「山を切り開く?」

「左様。物見の調べではかなりの木を切り倒しているようでござる」

「兵糧の煮炊きに使う薪でも調達しているのではないか」

「その可能性もありまするが、何もこの場所だけでやらずともよいものでござる」

「砦でも築いているのかも知れませぬ。大量の兵糧を用意して戦をするのは今川の常套手段にござるゆえ」

横から馬場民部少輔が入って来た。民部少輔は今川の援軍がこちらに向かっているとの情報を受けて、御屋形様が本隊の兵と共に儂の陣へと差し向けて下さった。


「砦か。その可能性はあるな。その場所は此方側から弓を放てば届くのか」

儂が訪ねると、刑部少輔がゆらゆらと首を振った。

「少し距離がありまする。芝川を望め、こちらの弓は届かない。ふむ。そう思うと某にも砦を作っているのではと思えて参りました」

兵を差し向けて邪魔立てしたいところだが、富士川の流れは急なため徒で渡河するには危険が多い。時期的にも今は川の水が多い。今川参議……。相変わらず読めぬ御仁だ。何とも忌々しい。

「まぁよい。今川の狙いが長期戦であったとしても、そのように持ち込ませなければ良い。やはり東三河と遠江で攻勢が必要だな」

儂が告げると、今度は皆が応じた。


長丁場になる可能性も否定できぬ。念のため兵糧の確保を進めておくか。蔵の金が幾等か残っていたはずだ。直江津方面から仕入れさせよう。それでも足りぬ場合はやむを得ぬ。土倉を脅すなり商人を脅すなりして確保するしかないな。富士郡を抑えた後に報いてやれば批難もすぐに収まろう。


……しかし、戦の度に手元不如意を感じるのはこれ限りにしたいものだ。今川参議の婚儀の折りに見た海と駿府の賑やかな景色を思い出す。あれから七年か。武田も大きくなったが、今川は……。いや、止めよう。


この戦に勝てば武田は天下を窺える家になる。

今川に飲まされた苦汁も過去の話になる。

まずはこの戦に何としても勝つ。ただそれだけだ。



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