第百十四話 咆哮
弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡芝川村 芝川砦近郊 武田左馬助の陣 武田 信繁
「搦手門を攻めている部隊でござりまするが、門の廻りの堀を埋めつつあるようでござりまする」
大手門を攻めている部隊を本陣から眺めていると、横田十郎兵衛尉が報せにやってきた。
「搦手門の敵はどの程度いるのだ。粘っているのか」
「はっ。三、四百程はいるのではとの事にござりまする。かなりの抵抗をしているようで、味方の被害も重なっておりまする」
「そうか。搦手門を本格的に攻めれば大手門が多少手薄になるかと思うたが、然程減ってないな。砦の中の敵は多く見ても千と二、三百だろう。とすれば砦内の後詰めも動かして守っている事になる。どこかで息切れするな」
「左様でござりまするな。大手門か搦手門のどちらかを打ち破れば、案外と後は簡単に終いとなるやもしれませぬ」
隣にいる穴山伊豆守と話ながら大手門が見える場所まで移動する。丁度その時、軋むような大きな音を立てて大手門が崩れるのが見えた。
「伊豆守に十郎兵衛尉、言うているそばから大手門が崩れたぞ」
「……敵が門の中に何か積んでおりますな」
「砂袋のようじゃな。小癪な事をしてくれる」
三人顔を合わせて苦笑いをした。
"申し上げまする!"
伊豆守と引き続き大手門攻略の行方を眺めていると、使いが現れて大きな声を上げた。
「如何した」
「はっ。砦廻りの見張りをしていた者が不審な男を捉えてございまする」
「不審な男?」
「はっ。行商のような身なりをしておりまするが、売る荷を持っておらず、今川方の間者かと思われまする」
「ほぅ。会おう。案内せよ」
使いの者に男を捕らえているという場所まで案内させる。昨日だったか。砦付近に狼煙が上がったと知らせがあった。尾崎砦からの連絡か、もしくは今川の草からの連絡かと思うたが、芝川砦に動きは無い。尾崎砦にも怪しい動きは見当たらなかった。となると芝川砦の中にいた者が何処ぞに行くために抜け出したかと思うて、芝川砦廻りの警備を更に厳重にするよう命じた。狼煙を上げてから一日か。駆け抜ければ府中に行って帰って来れない距離ではない。何か情報を得て報せるために戻ってきたか。我が武田が一度ならず二度も見逃すなど無いものを甘く見られたものよ。
不審な男は本陣奥に連れて来られているようだ。兵の案内に任せて陣幕をくぐると、幕閣達に囲われる様にして、小汚ない身なりをした男が縄で縛られ、二人の兵に押さえつけられていた。
「隠岐守殿っ!」
共に歩いていた伊豆守が声を上げると、隠岐守と呼ばれた男が怒りの形相を浮かべる。
「伊豆守殿ではないか。此度の許しがたき仕置、何れ天罰が下ろうぞ」
隠岐守と言うのか。確かに言われてみれば、身のこなし方が武士のそれを思わせる。尤も、見た瞬間は見窄らしい身なりに雑兵とでも思うたが。
「伊豆守、この男を知っておるのか」
儂が問い掛けると、伊豆守が首を縦にして応じた。
「はっ。この者は富士大宮司の重臣で篠原隠岐守と申す者でござる」
身元が明かされると、縛られた男が観念したように静かになり"どすん"とその場に座った。
「左様であるか。隠岐守。儂は武田大膳大夫様の弟で左馬助を名乗っておる。名位は聞き及んでおろう。それで其の方は砦に何用だったかの」
儂の問い掛けに隠岐守が無言で眼をそらす。
"ぐっっ"
隠岐守を押さえ付けている兵が背中を押さえ、もう一人の兵が張り手を遣わした。
「話す事などない……うぐっっ」
隠岐守の強情な態度に兵が再び張り手を喰らわせる。
ふむ。中々の忠義だな。問題はこの男が何処で何を得て、何を伝えに戻ろうとしていたかだ。十中八九は援軍の話だろう。誰が、何時、どの程度来るかだ。ここは鎌をかけてみるか。
「府中からの援軍が思ったよりも少なくて落胆しただろう」
「…………なんだと?」
儂が話しかけると、隠岐守が驚いた様に目を見開いた後、儂に顔を向ける。この顔は……まるで援軍が来るとでも言うのか。だが急いではならぬ。ここは今一つ心揺らしてみよう。
「じゃが、今川参議は本当に援軍を出すかの。戯言かも知れぬぞ」
「……その様な事はない」
頭を振るようにして男が儂の言葉を否定した。ふむ。どうしてくれようか。
「御屋形様は必ずお越しになる」
遠くを眺めながら男が呟いた。ん?参議が来ると言ったか?参議は三河に行っているはずではなかったか。
「まるで今川参議がここに来るような言い振りでは無いか。寝言は大概にするがよいぞ」
「今の内に甲斐に引き返す用意をしておくのだな。……ぐはぁぁっっ」
隠岐守の生意気な態度を受けて、兵が殴る蹴るの痛みを与える。嗚咽こそ漏らすものの、目の前の男は淡々とそれを受け入れていた。
「今川の援軍が来ようとしているのか?」
儂が真剣な面持ちで隠岐守の顔を凝視して尋ねると、男がフッと微かな笑みを浮かべて顔を背ける。……これは何と取るべきか。俄には信じられぬが、今川の援軍が来るのかも知れぬ。どうしてくれようか。
"さっさと話さぬかっ!"
"小癪な男め"
下人のような格好も手伝ってか、味方の兵が隠岐守を厳しく痛め付ける。だが男は相変わらず黙って成されるがままにしている。敵ながら中々の者だと思うた。
「男を連れて参れ」
儂が陣幕の外に向かって歩くと、指示を受けた兵が隠岐守を引っ立てる。
「隠岐守。あれを見よ」
儂が大手門の崩れ落ちた芝川砦を指し示すと、隠岐守が目を見開いて驚いた。
「これより我が武田は砦に力攻めを掛ける。兵力の差は歴然よ。砦は落ちるであろうな。今の内にどうだ。其の方、武田に仕える気はないか」
「何を馬鹿な事を」
「今、援軍の内容を話さば重く取り立てよう。どうじゃ」
「……。儂には仲間を、仲間を裏切る……事はできない」
隠岐守が静かに、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。本当に迷った様にも、敢えてゆっくりと言葉に出し、何か策を考えているようにも見えた。どうにかして味方に伝える方法でも考えているのかも知れぬ。うむ、恐らくそうだな。
大手門の方を眺めてどうしたものかと漫然としていると、門を打ち破るのに使った丸太を持ち帰ろうとする小隊が視界に入る。
その刹那、妙案が浮かんだ。
「隠岐守」
男の肩に扇子を当てて親し気に話しかけると、隠岐守が何事かと儂の顔を覗く。
「其の方をこれより磔にして、砦からよう見える様にしてくれよう」
陣の諸将が笑みを浮かべて続きを促してくる。
「其の方は砦に向かって降伏を促せ。援軍は来ない。これ以上は死人を増やすだけだとな。其の方の言葉を受けて砦が降伏をするのなら、其の方を含めて砦の皆を今川に逃がしてもよい」
儂の言葉に隠岐守が驚いた後で考えるようにしている。
幕閣の者たちが“それは面白い”“見物じゃ”と声を上げる。
隠岐守は何か情報を持ち帰っている。我等の見張りが厳しいのはこの者にも分かっていただろう。それでも掻い潜って伝えようとしたのだ。磔にされて本当に降伏を促すならそれも良し。援軍の事を話すなら内容を聞いてから対策をすればよい。
もし援軍が来るのなら、砦の者達は喜び勇むかも知れぬ。だが大手門が崩れた今、最後の抵抗など高が知れている。それよりも今川の援軍が何時くるか。状況によっては本隊も此方に廻して陣の構築をせねばならん。尾張と三河に敵を抱えた今川がそれほど兵を出せるとは思えん。陣を構えれば負ける事はない筈だ。今川で警戒が必要なのは鉄砲だな。あの音は騎馬の突撃を弱らせる。後の心配は兵糧か。それでも二十日分はある。徴発すれば一月は持つかもしれぬ。一月もあれば雨の日があるだろう。陣を構築して天気の崩れを待つ。天気の崩れた時こそ今川が崩れる時だ。
「さて、どうするか?」
今一度男の肩に扇子を押し当てて問いかけると、男が“……分かった”と静かに呟いた。
掛かったと思うた。
弘治三年(1557)七月下旬 駿河国富士郡芝川村 芝川砦近郊 武田左馬助の陣 篠原 忠常
砦前の川を越えようとした時だ。大きな石だと思うて踏んだ足場が崩れて音を立てた。崩れた体勢を立て直そうと踏み場を変えた所に小枝があり、踏み付けると"ぱきぱきっ"と音を立てて折れた。音を聞き付けて武田の兵が寄ってくる。川に飛び込んで逃げようかとも思うたが、逃げ切れるとも限らぬ。背を射られて無駄死にするよりは野盗に狙われた行商でも装った方が望みはあるかも知れぬ。そう思って大人しく捕まった。
だがそうは上手くいかぬものだ。
伊豆守に正体を早々と暴かれ、今や磔にされようとしている。
遠回りになるが、吉原方面から砦に向かえばこうもならなかったかも知れぬ。砦を前にして、日が明ければ知らせが遅れるとここでも逸った己を責めた。大人しく日中休んで夜に砦へと向かえばよかったかもしれぬ。
だが、不幸中の幸いと呼べるのは、武田の大将が儂に降伏を促すように仕向け、更には砦に向かって叫べと言う。天は儂をまだ見捨てていない様だ。
……。
砦に援軍の事を知らせる機会だ。
言えばこの命は無くなろうな。ふと、興津の寺で拝謁した御屋形様の御顔が浮かぶ。
直々にお会いして酒まで呑もうとまで仰せ頂いたのだ。これ以上何を望む事がある。今生に悔い等無い。いや、妻とまだ幼い子だけは心残りか。
"せいやっ"
"今少しじゃ"
武田の兵が威勢よく声を上げている。疲れて閉じていた目を開くと、目の前に砦が見えた。武田の兵が何人も束になって儂ごと丸太を立て掛けている。既に砦の者達が何事かとこちらを見始めていた。磔が終わり、儂の姿が良く見える様になったか砦の者が騒ぎ出した。“隠岐守殿じゃ”と喧騒が此処まで届いてくる。暫くして殿のお姿が見えた。米粒の様な大きさだが鎧格好と仕草でよく分かった。
「皆済まぬっ!不覚にも捕まり申した!!」
大きな声で叫ぶと、遠くに見える味方の兵が揺ら揺らと動いた。
“気にするでない”
“無事かっ”
と儂を心配する声が聞こえる。皆の思いが嬉しかった。
「うっ」
少し感慨に耽っていると、腿の辺りに痛みが走る。僅かに動く首を傾けて下を見ると、武田の兵が槍を指し向けていた。続けて槍先で腿の辺りを刺される。今度ははっきりとした痛みが身体を走る。武田の将が“早く申さぬかっ”と声を荒げる。
この様な仕置きをする武田が、砦の者達に対して偽りを申した所で儂の命や味方の命を助けるだろうか。それに味方を謀ってまで生き長らえたいとも思えぬ。覚悟を決めて声を張った。
「皆っっよぉく聞けぃぃ!」
儂が最後の力を絞って大きな声を上げると、砦の者達が儂を凝視するように見ていた。廻りの武田兵達は下卑た笑いを上げながら今かと待っている。儂が降伏を促すとでも聞いているのだろう。
「興津の清見寺で御屋形様とお会いしたっっ!!御屋形様はこちらまで援軍に率いて向かっておられたっ!今少しの辛抱じゃっ!後一日、二日の辛抱じゃぞっ!!!」
痛みに堪えながら出せる限りの大声を発すると、武田の兵達が“小癪なっ”“話が違う”と騒いで槍先で儂を叩き、突いてくる。
役目を終えたせいか、張り詰めていた緊張の糸が途切れた。疲れと痛みがどっと押し寄せてくる。意識が遠のく中、砦の方から地鳴りのような咆哮が聞こえて来た。重たくなった瞼を微かに開くと、皆が儂を眺めながら手を上げ、刀を上げて叫んでいた。
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