第百十一話 甲斐守
弘治三年(1557)七月中旬 遠江国磐田郡見附村 見附宿 駒井 高白斎
「父上。何とか天龍川まで来れましたな。まだ日暮れまで刻がありまする。この分なら今日の内に濱名の今切を越えられるかも知れませぬ」
「そうじゃな。掛川まで道がよく、随分と急げたのが大きいの」
儂が応えると、供をしている嫡男の右京亮政直が笑みを浮かべて応じた。今は天龍川を渡るための船の順番待ちをしている。待ち人のために用意された待合所で待っているが、先に並んでいる者達の人だかりが随分と減っている。間もなく儂達の番が来るはずだ。
御屋形様から追放を言い渡され、館を後にしてからすぐに自らの屋敷へ向かった。儂を迎えた右京亮に事の顛末を話すと、怒りをあらわにして"御屋形様にはもう仕えられぬ"と声を上げた。二人で今川へ向かう事にして荷支度をし、僅かな供をつれて屋敷を後にした。暇を出せる者には急いで暇を出したが、一族郎党を見捨ててはおけぬ。皆は今頃駿河に向かっているはずだ。無事に国境を越えられれば良いが……。
後に残してきた者達の事を考えていると、待合の外から喧騒が聞こえて来た。何か起こったのかと外へ出て先を覗くと、漆黒の甲冑姿をした兵達がぞろぞろと現れて人を退けはじめた。腕に文字が書かれた物を巻いている。いかんな。最近は目が悪くなった。目を凝らして何とか見ると“親衛隊”と書かれていた。
「何事が起きているのじゃ」
右京亮が船頭の一人に声を掛けると、"へぇ。今日は終いになると思います"と返された。
「終い?どういう事じゃ」
船頭の言葉が気になって儂も話に入る。
「お武家様。渡し船は一等から三等までありまして、上の等級が優先される違いはあれど、基本的に順番で使うようになっておりまする」
「うむ」
「しかし戦の時は違げぇのです。お武家様が戦を理由に船を使う時は何よりも先に使われますだ」
戦の時?ということは今川様が今橋から引き返されている?何故武田の動きを知っておられる?いや、偶然か?
「父上、どうやら参議様の兵が通るようです。」
「うむ。もしや参議様もお通りになるかも知れぬ。だが、なぜ参議様がこちらにおられるのか皆目検討もつかぬ。偶然かの」
どうしたものかと親子で思案していると、周りの者達が次々と膝をついて平伏をはじめた。土に膝と手だけでなく頭まで土に付かんという姿勢だ。
「不味いな。駿府の今川館には念のため文を預けて来たが、もしかしたら参議様は何処かで武田の動きをお知りになって富士に向かっているのかも知れぬ。そうなると駿府で文を読んで頂けるか分からぬ」
「ふうむ、困りましたな」
右京亮が頭を下げながら力無く応える。
頭の中で考えを巡らせていると、兵達の淀み無い足音が違う音に変わった。僅かに頭を上げて眺めると馬車が数台続いている。見覚えがある。一番真ん中の馬車に見えるのは赤鳥紋と丸に二引!参議様の御用馬車だ!
"御注進申し上げまするっっっ!"
これ程大きな声を上げたのは何時振りであろうか。
気付けば立ち上がって大きな声を上げていた。横にいる右京亮が驚いている。軍勢の足を止めるのだ。恐らくお咎めを受けるだろう。命が無くなるかもしれぬ。出来るならこ奴は巻き込みたくない。刀を地に置いてから儂だけ丸腰で馬車の方へ向かった。すかさず馬車の周りにいる今川兵達が一斉に刀を抜いて構えてきた。
「狼藉者っ!」
「動くなっ!」
黒づくめの兵達が儂に向かって叫ぶ。馬車は変わらず動き続けている。早くせねばこのまま行かれてしまう。
「武田家元家臣、駒井高白斎っっ!今川参議様に火急の用件を御報告致したく、参上致しましてございまする。何卒、何卒お頼み申し上げまする!!」
これまでかと思った矢先、馬車が止まった。
「高白斎か。驚いたぞ」
馬車の車窓が開けられ、聞き覚えのある声がした。今川参議様だ。
「この様な振舞い誠に申し訳ござりませぬ。お仕置きは幾らでも受けまする。なれど一つだけお耳に入れたき儀がございまする」
「申せ」
参議様らしい。すぐに声が返ってきた。
「はっ。なれば申し上げまする。武田大膳大夫、今川との盟約を反古にして進軍を図っておりまする」
「で、あるか」
馬車の中から驚くわけでもなく、ただ淡々と言葉が発せられた。
「やはりご存知であられましたか。この軍勢の列を見てもしやと思いましたが」
「大膳大夫は何か申していたか」
「はっ。武田は今川の荷留めによって民のために決然立たねばならなくなったと伝えよと。全くの詭弁、恥ずかしく存じまする」
「主君に対して随分と手厳しいな。それに先程其の方は武田元家臣と申していた。何ぞあったか」
馬車の中の声が心配をしてくれている様な声色に変わった。
「甲斐の御屋形様には暇を出されました」
「それは誠か」
「はっ。一族郎党甲斐を追われておりまする。今川攻めに反対した某への仕置きに存じまする。某は最後の務めとして……今川様に荷留めの非難を……するようにと」
言葉に詰まりながら話していると、参議様が馬車を降りていらした。慌てて手と膝を地について平伏する。
「左様であったか」
近習が周りを固めてはいるが、参議様が目の前で寂しげな顔を浮かべて立たれている。嬉しかった。
「この様な中お願い致すのはご無礼かと存じまするが、某の者どもは駿河を目指しておりまする。今頃は駿州へ入っておりましょう。駒井の者は今川様に弓引くつもり毛頭ございませぬ。領国に入る事お許し頂きたく平にお願い致しまする」
「……」
参議様が大きく息を吐かれている。武田が今川に攻め込もうとしている中、やはり無理な願いであったか。諦めかけていると参議様が言葉を発せられる。
「……其の方等の様な譜代で優秀な忠臣を放逐するとは大膳大夫は血迷ったか」
「某等に斯様なお言葉、痛み入りまする」
「本心を言ったまでだ。そうだな。二心無く今川のために尽くす気があるならば余の下へ来るがいい。無論家族や郎党もだ」
驚いて顔を上げると、笑みを浮かべた参議様がおられた。目が合うと頷いて下さる。
「御屋形様」
隣で参議様を警護されている朝比奈備中守殿が首を振る。
「備中守の懸念は分かる。この者等が晴信の間者ではないかと言う事だろう?だから余は二心無くと申したのだ。其の方等に怪しい動きあれば容赦はせぬ。高白斎、無理に勧めはせぬ。それに余に仕えずとも一族郎党の駿河入りは認めよう」
「父上」
何時の間に横に来た右京亮が顔を明るくしながら大きく頷いている。またとない機会だと言いたいのだろう。まだ我が息子も若いの。登用のお声は嬉しいが、真に今川で働くのなら今は避けるべきだ。
「二心はありませぬが、武田には長らくお世話になり申しました。いくら追われたとはいえ、直ぐに刀向けるのは憚られまする。それに、武田との大事な戦の前に某や某の子がおっては、参議様の陣に迷惑をお掛けしかねませぬ」
頭を下げながら考えを述べると、“ハハハ”と参議様の笑い声が聞こえた。
「我が陣にその方が武田の間者だと思う者がおれば、結束が緩むと申したいのだろう」
「はっ。御明察恐れ入りまする」
参議様が儂の目の前にまで近付かれて儂の肩に"トントン"と扇子を当てられる。
「それよ。その物事を深く見る思慮深さ。余は其の方の力量を買っておる。だが、其の方の言う事や尤もだ。余が武田を撃ち破った暁に、仕える気あらば余の下へ来るがいい」
「勿体ない御言葉。この高白斎、終生忘れませぬ」
今一度平伏すると、参議様が馬車にお乗りになって軍を進められた。
先程まで無かった高揚感が胸の奥から湧いてくる。
今や儂の心は目の前の軍勢が勝利を収める事を願っていた。
弘治三年(1557)七月中旬 山城国下京今熊野 今川邸 寿桂尼
「あーーーつまらぬ!」
遠くから大きな声がしたかと思うと、武田陸奥守殿が部屋に入ってきた。部屋にいた侍女達と顔を見合わせて気付かれぬように溜め息をつく。
「これまた何用ですか」
「そう邪険になさるでない」
胡座をかいて座った陸奥守殿が妾の顔を見て苦笑している。
「邪険にしているつもりはありませぬが、毎度屋敷を訪れては幕府や政所の不満ばかり愚痴られる身にもなってくだされ」
「致し方無かろう。公方様がこの京におらぬゆえ政所は当たり障りの無い執務を粛々と進めるだけでする事もないわ」
「京は平穏に刻が流れておりまする。その当たり障りの無い執務が重要なのではありませぬか。何の問題もございませぬ。政所の伊勢伊勢守殿には物事がよくお見えなのでしょう」
「そう!伊勢伊勢守!醒めた顔で淡々と執務をこなしておるわ」
「その事自体は小言を申す事ではありませぬよ」
「分かっておる。なれど……なれど、もどかしゅうてならぬ。せっかく上洛してみても出来る事があまりにもないのじゃ」
陸奥守殿が大きな声とともに大きな溜め息を吐く。全く……、京も日に暑くなってきているというに、目の前の御仁を見ているだけでも暑苦しくなる。侍女達も辟易したような顔をしている。
"申し上げます"
陸奥守殿に茶を出すように指示していると、部屋の外に別の侍女があらわれた。
「如何致した」
「はい。草ヶ谷五位蔵人様が目通りを願っております」
「五位蔵人殿が?何用でしょう」
侍女の顔を覗くと、首を振った。要件を申さずか。
「儂がおって構わぬのか」
「はい。それにつきましてはむしろ好都合だと」
陸奥守殿と妾に話?駿河で何か起きたか。
「構いませぬ。御通ししなさい」
「この御所の家主殿が何の御用かの。駿河で何ぞ起きたか。はたまた我等を監視に来たか」
陸奥守殿が"何事か"と楽し気な顔を浮かべて妾の顔を見ている。
「面倒は起こさずに願いますよ」
陸奥守殿が申すように、五位蔵人が妾や陸奥守殿の監視を担っているのは間違い無い。妾が参議殿の立場であれば必ず命じるだろう。
「失礼致しまする」
暫くすると、狩衣を身に付けた男が部屋に現れた。二十の半ばか後半になろうか。戦乱の世で困窮する者が多いのは公家とて同じだ。擦りきれた衣を召す公家も少なく無い中、目の前の男は常に身綺麗で隙が無い。妻子があってもいいはずだが、確かまだ独り身のはずだ。
「こちらへ」
直ぐ目の前に座る様に促す。妾と陸奥守殿、それに蔵人殿で円座を組むような形になった。
「商家から時の人と持ち上げられる御仁がどうした」
陸奥守殿が笑みを浮かべながら茶化すように話かける。"またこの御仁は余計な事を"と思うたが、この御仁は茶化しているように見えて相手の表情や動きといった反応をよく見ている。近い距離になった事でよく分かってきた。
「ホホホ。麿が買い求めてから偶然にも戦が相次いで、米の値が上がっただけでおじゃりまする。それなのに相場を動かした様に囁かれて困っておじゃりまする」
蔵人が笑みを浮かべながら応える。苦労してきたからだろうか。歳の割に落ち着いていて貫禄がある。
「ところで、駿河参議様から火急の知らせがおじゃりました」
蔵人が笑みを消して真顔で話す。こういう雰囲気の変え方も上手い。どこか参議殿に似ている所がある。
「何が起きた」
「知らせに寄れば、武田が盟約を反古にして駿河を侵そうとしているとか」
「何だと!?」
陸奥守殿が唾を吐いて驚いている。
「嶺は?それに孫娘の婿殿はどうされたのです」
「捕らえられたようにおじゃりまする」
なんと。驚いて言葉が出なかった。二人は無事であろうか。
「晴信め……。愚かな事を。どうせ食う物に困り、欲に目がくらんで駿河を攻めたのじゃろう。じゃが、あ奴がどこまで知っておるか分からぬが甲斐から駿河への道は険しい。駿河の守りが相当に手薄か、中から切り崩さねば手に入れるのは難しい」
陸奥守殿が開いた手を握るようにして話す。その手は駿河を示しているのだろうか。不思議な運命なもので、今でこそ妾と陸奥守殿は共にいるが、この御仁は遥か昔、亡き我が夫と激しく争った仲なのだ。
「駿河参議様は尾張から兵を今橋へ引き上げ三河の守りとし、自らは武田の迎撃に向かわれるようでおじゃりまする」
「ハハハッ。果断じゃのう。果断じゃ。孫殿に左様に動かれては晴信も厳しいじゃろう」
「加えて駿河参議様から陸奥守殿に言伝てがおじゃりまする」
蔵人の言葉に眉を顰めながら陸奥守殿が"何でごさろう"と応じる。
「大膳大夫が盟約を反古にし、太郎殿と妹が捕らえられては甲斐の武田は武田にあらず。今川と盟約を結ぶ武田は六郎信友の武田なりと」
蔵人が参議殿の言葉を伝えると陸奥守殿が驚いた顔を浮かべた後、クツクツと笑い出して"流石は孫殿じゃ"と声を上げた。
「それだけではおじゃりませぬ。駿河参議様からは六郎を然るべき立場にすべきで陸奥守殿には骨を折ってもらうと」
「然るべき立場?儂に骨を折れと言う事は幕府と話せとでも言うのか?もしや甲斐守護か」
「いえ。今川は幕府に心砕いておりませぬ。それに公方様は朽木に逼塞しておりますれば事を運ぶのは容易におじゃりませぬ」
「ならば朝廷か」
「左様。朝廷においても今川は武家伝奏に睨まれておりまするが、幸いにも主上から改元に向けて動くよう叡慮を伺っておりまする。何かと主上に目通りする機会はおじゃりましょう。その際に甲斐守をと願いまする。その為には改元に向けた工作に手を貸して下され」
蔵人が勺を口に立てて不敵に笑みを浮かべると、陸奥守殿が大きな声を上げて笑った。
「面白い。面白いぞ!蔵人、その方の意図は見えた。改元のためには京を治める三好と話を付けねばならぬ。三好は公方様から御供衆を賜って幕臣の立場なれば、相伴衆の儂が話すには都合がよい。そういう事であろう」
「流石は陸奥守殿。仰せの通りにおじゃりまする」
陸奥守殿が水を得た魚のように生き生きとしている。可愛がっていた六郎に光が当たって嬉しいのだろう。国を追い出した大膳大夫殿への怨念もあるのかも知れぬ。
……しかし参議殿はどこまで事を考えていたのであろうか。
武田が今川へ攻め込んだのは大膳大夫殿の軽挙妄動なのだろうか。斯様な事態になるよう参議殿が仕組んだのでは無かろうか。
手際の良い対応を外から見ていると、つい穿った見方をしてしまう。
妾に上洛を促した参議の冷徹な顔が脳裏を過る。
今川はとんでもない鬼神を生んでしまったのかも知れぬ。
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