第百十話 ケ號作戰




弘治三年 (1557)七月中旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真




忠兵衛と権太夫を送り出した後、上野介と伊豆介、それに彦次郎を呼び出した。また戦続きになる。茶を点てながら話をしたくなった。

「狩野伊豆介、お呼びにより罷り越しましてございまする」

「うむ。入れ」

入室を促すと、丁寧な足取りで伊豆介が部屋へと入ってくる。こういう時はすっかり茶人だな。


「抹茶を点てて飲みたくなってな。しばし付き合え」

「有り難き幸せにございまする」

"上野介、お呼びにより罷り越しました"

"井伊彦次郎にございまする"

伊豆介が座ると、部屋の外から声がした。

「二人も呼んでいたのだ。二人とも入れ」

俺の言葉を受けて吉良上野介と井伊彦次郎が現れると、伊豆介が下座に下がろうとする。

「伊豆介殿。茶の席なればお気遣いは不要でござる。そのままに」

「忝のうござる」

上野介が伊豆介に上座を譲って次席に座る。何といっても名門吉良家の当主だからな。伊豆介が上野介に気を使って席を譲ろうとするのは分かる。家格だけで言えば今川の俺よりも上な位だ。

「上野介の言うとおりだ。茶の席ゆえ楽にせよ」

俺の言葉に皆が応じた。


"パチパチッ"

火花が散る音がしたかと思うと、"ボコボコ"という湯の沸く音がした。風炉先を覗くと、薪が赤々と元気に燃えていた。うむ。いい塩梅に火が起きている。袱紗を捌いて点前に入る。


"ザー"

外からは雨音が増してくる。いいじゃないの。音を楽しめる茶席だな。


「岡部忠兵衛と伊丹権太夫に話した。直ぐに用意できる船を全て使って鳴海と大高の友軍を救うようにとな。二人は天気が崩れて来ているゆえ難しくはなるが、何とかやりきると申していた」

先程、忠兵衛と権太夫と話した内容を伝えると、点前をしながら話す俺に気を使っているのか皆が静かにしている。暫くして年長の彦次郎が"それはようございました"と応じた。

「尾張から撤兵の目処が立ち次第、小早が出て今橋まで知らせに来る手筈だ。その知らせが来たら駿河へ向けて移動する」

「引き上げて来る兵が来るまで東三河が手薄になりまするが」

「彦次郎の言うとおりだ。だが武田は駿河攻めを決めた以上総力を持って攻めて来るだろう 。駿河深くまで攻められては伊豆と駿河を分断される。これは避けたい。三河を守る者達には悪いが一刻も早く戻らねばならぬ。すぐに尾張の兵も来るはずだ。それまでは渥美の親衛隊だけで頑張ってもらう」

「渥美方面はこの今橋を守ればよろしゅうございますが、設楽方面に敵が進むと厄介ですな」

彦次郎が守りの懸念を話すと、皆がゆっくりと頷く。さて、話している内に正客の分が出来た。定座に茶碗を出し、次客の分を作り出す。前世の点前では正客が飲んで服加減を聞いてからといった細かな作法があったが、家中での気楽な茶だ。余り気張らずやればいいだろう。そもそも話をしながらの点前だ。

「なれば尾張から来る兵力は今橋より北方に配置して守るのがいいだろう。だが、細かな用兵は上野介に任せる」

「某にでございますか」

俺の言葉に上野介が驚いたような顔を浮かべて応じる。お前は出自的にも三河の旗印になる事ができるし、こういう時のために手元において色々仕込んできたんだ。頑張ってくれよ。

「で、ある。余が駿河で武田と戦っている間、三河での軍権はその方に預ける。彦次郎にも残ってもらう。親衛隊の差配は彦次郎に任せればよい。尾張の兵には鵜殿長門守、岡部丹波守、松井兵部少輔等がいる。その方は皆を上手くまとめて東三河を守るようにしてくれ」

「大事なお役目をお命じ下さり有り難き幸せにございまする」

俺が出した茶碗を受け取った後、少し緊張した面持ちで上野介が応えた。

「上野介には今一つ命じておく」

「はっ」

「吉良荘で頑張っている西條吉良の左兵衛佐を今橋まで撤兵させよ」

「弟を吉良からこちらへと言うことでございまするか」

「そうだ。松平の攻勢に対して孤軍頑張ってくれているが、武田との戦もあって三河征討は暫く先になる。吉良が一人兵を擂り潰すのは惜しい。武田を追い払った暁には必ず三河征討に力を注ぐ。だから今は忍んで兵を引けとな」

「何とか説き伏せまする」

「うむ。それから今橋へ引き上げる際には領民に施しをし、兵糧もほとんど置いてくるように」

「それはどういう事でございまするか」

「空になった吉良領は松平が抑えるはずだ。兵糧とともにな。暫くしてから荒鷲に松平はたらふく食っていると噂を流させる。特に坊主に伝わるようにだ。松平は噂を否定しよう。だが吉良荘で兵糧を手に入れているのは事実だ。小さな不審が時とともに大きな不審となる。松平と一向衆は本来水と油の関係よ。互いに猜疑心が生まれては共に戦う事などできまい」

伊豆介の顔を見て目が合うと、伊豆介が頭を下げて応じた。尾張三河方面の荒鷲を取り纏める森弥次郎にしっかりと伝えるだろう。松平と一向衆……、これは日本軍が撤兵した後の国民党と共産党のようになるかもしれない。いや、そうなるように事を運ぶのだ。フフフ、互いに争うがいい。その後俺が根絶やしにしてくれる。


よし。詰めに座っている彦次郎の茶が出来た。"どうぞ"と言って茶碗を定座に 置く。受け取る彦次郎に向けて話しかける。

「彦次郎。余は今橋には何かと力を入れてきた。頑強な守りが出来るはずだ。だが、人が守る事に変わりはない。恐るべきは味方の心が折れる事だ。松平と一向門徒の数は三倍、いや四倍にもなるかもしれぬ。大軍の敵を見ても心折らず守りきってくれ」

「お任せ下され。この彦次郎、命に変えても守ってみせまする」

「厳しい戦いを強いる事になって済まぬ。武田を撃退した暁には必ず戻ってくる」

「なんの。御屋形様は武田との戦に専念下され」

彦次郎が茶を飲みながら笑みを浮かべる。長い付き合いだ。通じるものがある。ゆっくりと"頼むぞ"と思いながら頷いた。


「それから伊豆介」

「はっ」

「武田との戦だが、武田を撃退出来たとしても三河の事があるゆえ甲斐深くまで追うまでには至らぬだろう。となれば武田の領国で火種を作りたい。……そうだな、小県方の真田や善光寺平の国人に不穏な動きがあると噂を流せ」

「畏まってございまする」

伊豆介が応じた後、茶席には静寂が訪れた。皆が顔を見合って頷いてから座したまま静かになる。かつてない厳しい局面を前にして、これが今生の別れになるかも知れないのだ。


生きるか死ぬか……。

生と死の選択がすぐそこまで迫っている。

自分は戦国の世を生きている。あらためてその事を強く感じた。




弘治三年(1557)七月中旬 尾張国愛知郡鳴海町 鳴海城 岡部 元信




城からの撤退は払暁とともに始まった。一刻程前に荒鷲の使いが御屋形様からの文を持って突如として現れた。文には武田が盟約を侵して駿河へ踏み入れようとしている事、御屋形様がこれを撃退しに向かわれるため、我等尾張にいる者は速やかに今橋まで撤退するようにとあった。天白川を南に川沿いを伊勢湾まで向かえば水軍が我等を迎えに来る手筈という。


桶廻間の戦が終わってから続々と落ち延びて来た味方を収用し、この鳴海には二千近くの兵が籠城している。近くの大高城にも同じ程度の兵力がある。味方が少なくない兵と、高い士気を維持している事もあってか、桶廻間の直後こそ攻めてきた織田も最近はすっかり大人しくなって睨み合いが続いている。織田の兵は三千といった所だが、城から少し離れた北側に陣を構えている。大高方面にも兵を出している事を考えると、織田は大分無理をしている事だろう。


織田を此処で叩けぬのは無念ではあるが、今川が滅びては元も子もない。それに先の御屋形様の弔い戦の最中に背を狙う武田を許しては置けぬ。武田攻めにお供出来ぬのは残念だが、御屋形様が武田戦に専念出来るよう今橋をしっかりと守ろう。文は"孤軍で尾張鳴海を守ったその方が今橋で三河を守ってくれるのならば、余は安心して武田を撃ち破る事が出来よう"と結ばれていた。相変わらず御屋形様は人を擽るのがお上手よ。その気になるではないか。


「殿。出立の準備が出来ておりまする」

家臣の島田孫次郎が現れて準備が出来た事を告げる。

「よし。我等はこれより天白川に沿って西側へ、海の方へ向かってひたすら進む。目的地に辿り着けば迎えの水軍が来るはずだ。敵陣には目もくれるな。言葉も発するな。静かに、粛々と、ただ進め。では行くぞ」

儂の命に従って兵達が粛然と進みだす。


折しも強い雨が降っている。ふと、先の御屋形方様がお討ち死にされた日を思い出した。

雨を見ると沈んだような気持になることがある。

だが、今の御屋形様ならこの気持ちを変えてくれるかもしれぬ。




弘治三年(1557)七月中旬 尾張国知多郡大高村 伊丹 康直




「報告っ!」

駆け寄ってきた水軍の兵が敬礼をして姿勢を正している。水軍で定められた敬礼をして応えた。

「申せ」

「はっ。天龍が一杯になったため出撃してございまする。榛名と富士もまもなく満杯になりまする」

「まだ残っている者はいるか」

「大高城から撤兵してきた者の乗船は概ね終わってございまする。後から到着した鳴海からの者があと半分程残っておりまする」

「相分かった。天気が今より悪くなる前に急ぐぞ。全ての兵が乗り込めたら乗船に用いた小舟は捨てさせよ。回収を待っていては出撃が遅れる。いいな。撤兵が終わったら小舟は廃棄だ」

「はっ。小舟は廃棄。皆に伝えまする!」

敬礼をしてから兵が駆け出していく。


目の前におかれた盤から天龍の駒を動かす。榛名と富士も間もなく出撃だったな。その次は藁科になるか……。何とかいけるかの。

「水軍の者は元気がよろしいですな」

盤を眺めていると、横から掛けられた。声の方を振り向くと鵜殿長門守殿がいた。二十と少しと言ったところか。鵜殿家は一門格として扱われるお家だが、当主の長門守殿はお若くも礼儀正しい。

「これは長門守殿。まだ陸におられたか。早く乗船なされよ」

家格は上かも知れないが今は水軍の指揮に入っている。撤退の命を受けている身として乗船を促すと、長門守殿が申し訳なさそうな顔を浮かべて“まだ皆が乗り込めておらぬゆえ、最後の一兵が無事に乗るまで見届けさせて下され”と述べた。

……この御仁もか。何度目かになるこの言葉に思わずため息が出る。

「松井兵部少輔殿も同じ事を申されていた。岡部丹波守殿もじゃ。構わぬが最後の兵が撤兵する時に遅れて邪魔とならぬようお願いしますぞ」

「分かっておりまする」

"うんうん"と何度か首を縦に応じて長門守殿が撤兵作業をしている方へ去っていく。やれやれ。全く。尾張に残ると強情を張る者がいないのは良かったが、これはこれで困ったものだな。


考え事をしている間にも大高城と鳴海城から引き揚げて来た味方が続々と聯合艦隊に乗り込んでいく。

“縄を投げてくれ。ここじゃ”

“引っ張るぞ!せぇえのっ”

降りしきる雨にも負けず、元気な掛け声が聞こえて来た。皆が力を合わせて船に乗ろうと、そして船に乗せようとしている。


撤兵作業をしている方を眺めると、ちょうど榛名が出撃していく所だった。乗り組みの順番を待っていて手持ち無沙汰な者達が手を振って見送っている。榛名の甲板にいる者達が手を振って返す。


乗り込みを待つ兵達の列が大分短くなってきたな。あと少しだ。残り必要な時間は半刻といったところか。時が経つほど織田の追手が来る可能性が増す。見張りをしている陸戦隊からは今のところ怪しい動きは無いと報告を受けているが油断は禁物だな。キリキリと心の臓が掴まれるような痛みを感じた。いつもより刻が経つのが遅く感じる。

天気が悪くてむしろ良かったな。

視界がよいと長島から服部の者が邪魔をして来かねぬ。


甲冑の上から胸元に手を当てる。中には御屋形様から賜った紙が入っている。無事に役目を成し遂げて帰る事が出来た時は家宝としよう。

"武田を破らねば今川の明日はない"

"武田を破るためには今橋の守りを尾張にいる者達に頼まねばならない"

"尾張にいる者達を今橋にすぐ連れて来るためには水軍を使わねばならない"

"これが出来るのは忠兵衛と権太夫しかいない"

"その方達は今や、我が今川の興廃を背負っているのだ"

あの時は御屋形様が真剣な面持ちで儂と忠兵衛殿に語りかけておられた。儂が今川の明日を担っている。何と重たくも嬉しき事か。


何としてでもこの命をやり遂げる。

胸に熱い気持ちが滾っていた。




弘治三年(1557)七月中旬  駿河国庵原郡宍原村 宍原砦 長野 業正




「殿」

砦の蔵で兵糧の量を確認していると、家臣の藤井豊後守が近寄ってきた。確か物見櫓を見てくると出ていったはずだが。

「如何した」

「武田勢が来ましたぞ。ざっとその数一万と二千にござる」

豊後守の言葉に、蔵のなかで作業をしている者達が手を止め儂や豊後守の顔を見てくる。

「左様であるか。ならば儂も櫓に向かおう。しかし一万二千とは思ったよりも多いの。こちらの十倍はいるではないか。だが武田の力を考えるともう一隊いるな。大宮司殿の所に行ったか」

「その様に考えるべきでしょうな」

儂の言葉に豊後守が頷きながら応じた。武田が二ヵ国治めている事を思えば一万五千は出せるはずだ。それが一万二千ということは、別動隊がいると思うべきだ。もっとも、武田は富士方面に大きく兵力を割くと思っていたからこの砦に来る兵としては多い。


「厳しい戦いになりまするな」

豊後守が儂の顔を見ながら呟いた。

「昔を思えば何のそのじゃ。此度は援軍の無い籠城ではない。御屋形様は必ずお越しになる。それまでの辛抱じゃ」

「はっ」

儂があえて明るく応えると、豊後守が力強く応じた。


新五郎なら無事に御屋形様の所に着くはずだ。後は御屋形様がどうなさるか。御屋形様は手を掛けて開発した富士を荒らす事はせぬはずだ。となればこの宍原は大事な拠点になる。援軍に見えるのは間違い無いはずだが尾張の件もあるからな。半月後か一月後か……。


砦には一月分の兵糧がある。切り詰めれば一月半は持つだろう。櫓から見える何倍もの武田勢を眺めながら、暫くは厳しい日が続くと自分に言い聞かせていた。



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