第百九話 包囲網




弘治三年(1557)七月中旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 別邸 望月 まつ




"パチンッ"

御裏方様が小気味良い音を立てて駒を置かれると、若殿が顎に手を当てて"ほぅ。そう来たか"と呟かれた。落ち着いたような声だが、お顔には幾らか焦りが感じられる。若殿は顔にお気持ちが出る時がある。お心が真っ直ぐな方のだろう。

「待ったはなしでございますよ」

「分かっておる。今暫くだけじゃ」

御裏方様が笑みを浮かべて急かされると、若殿が盤上を睨めながら御裏方様に応じられた。夫婦の睦まじいお姿に、見ているこちらが自然と笑みになる。


若殿は、本来のご予定では鷹狩に向かわれる予定だった。だが、このところ物の値が上がり、民が窮状に喘いでいる。そのような中で鷹狩等してはおられぬと予定を変更された。今は御裏方様と将棋をして刻を過ごされている。

「まつ殿」

若殿と御裏方様のご様子を微笑ましく見ていると、不意に名を呼ばれた。振り返ると、この屋敷の勝手を差配している一宮新七郎様が神妙な面持ちで座っていた。新七郎様は今川重臣であった一宮新三郎様の縁者にあたる。御裏方様が甲斐に嫁がれるにあたって先の御屋形様が御裏方様にお付けになられた方だ。お役目を考えれば、直接御裏方様に声を掛ける事が出来るお立場だが、お二人の様子を見て気をお使いになられたのだろう。


「どうされました」

身体を向き直して応じると、新七郎様が困ったようなお顔で溜息を付かれた。

「門番の者から知らせがあってな。大膳大夫様の軍勢が屋敷を囲っておる。知らせを受けて某も見て参ったが、甲冑を纏ったした兵が百、いや二百おるかも知れぬ。屋敷を囲っておる」

この屋敷を武装した兵が囲っている?話を聞いていたさちと顔を見合わせる。どことなく胸騒ぎがした。


「武田の御屋形様の兵でございましょう?ご用件は何と仰せなのです」

「それがな、要件を訪ねても若殿と御裏方様においで頂きたいとしか申さぬのじゃ。話も分からねば取り次ぎようもないと申したのじゃがな」

「将はどなたなのですか」

「山本殿じゃ」

山本……。御屋形様から注意するように指示されている御仁だ。兵法に詳しく、乱波の集団を差配していると聞く。嫌な予感は益々強くなった。


「承知致しました。私からお二人にお伝えいたします」

「うむ。某も参ろう」

頷いて応えてから若殿と御裏方様の方へと近づく。どうやら将棋の勝負はほとんどついているようだ。御裏方様が笑みを浮かべながら扇をひらひらと揺らされている。

「お楽しみのところ恐れ入りまする」

「おぉまつ。いかがいたした」

若殿が盤上から目を離して私の方へ顔をお向けになる。まだ“参った”をされていないようだ。私の声掛けで勝負が中断するのを喜ぶようなお声をなさっている。御裏方様が不満そうに私をご覧になった。しかし今はお構いする余裕がない。


「はい。山本様が屋敷の前にお見えになっているようでございます。それも兵を大勢引き連れてのご様子で」

「勘助が?何用であろう」

私が報告をすると、若殿が眉を顰めて呟かれる。御裏方様も将棋の盤からすぐに目線を外し、私と新七郎殿の方を向く。お顔は怪訝そうなご様子だ。

「それが御用を仰せにならないようです」

「左様でございまする。御裏方様の屋敷を囲うとは無礼な事と咎めたのですが、山本殿に動じる様子なくどうしたものかと」

「俺が行こ」

「も、申し上げまするっ!屋敷を囲っている兵達が弓を射掛けてきておりまする」

大きな足音と共に現れた使いが若殿の言葉を遮る。その報告の内容に場にいる皆が驚いた表情を浮かべた。


「……勘助が父の命無く動くとは思えぬ。俺と室に弓を引くという事は今川が絡んでいる話に違いない」

「若殿の仰せの通りかと思います。義父上は我が兄との戦を決めたのかも知れませぬ」

若殿の言葉に御裏方様が冷静にお応えになっている。御裏方様の仰せの通りだ。決定的な証拠は無かったが、先の御屋形様が戦で御命を落とされてから、武田家には不穏な動きが多かった。

「そうだな。左馬助の叔父上が最近は特に今川の批判をする事が多かった。それを嗜めておったゆえ俺は今川寄りだと外されたのだろう。それよりも何だ。嶺はこの事態に意外と動じておらぬな」

「妾とて武家の娘ですから」

若殿と御裏方様が二人して笑われている。頼もしいというか何と言うか。御裏方様は先の御屋形様が討ち死になられた時、かなり落胆されていた。今御裏方さまに笑みがあるのは若殿の支えがあってこそだ。


「しかし若殿。屋敷の手勢は若殿の兵を合わせてもせいぜい五十程度なれば、防ぎようもありませぬ。困りましたぞ」

"わー"

"かかれっ"

新七郎様が若殿と御裏方様に判断を仰がれる。遠くから喧騒が聞こえ始めた。


「抜け道を使えば市中に逃れられまする」

「抜け道?」

私の言葉に若殿が首を傾げる。本当は今川の者以外に聞かれたく無かったが致し方無い。その様な事を申している時ではない。

「この屋敷には地の下を通る隧道がありまする。そこを通れば市中の店に出る事が出来ます。市中から富士郡まで逃れれば今川領で庇護を求められまする」

「隧道とは用意がいいな。義兄上の手配か?」

若殿が私の目を見て訪ねて来る。御裏方様のお顔を見ると、小さく頷かれた。応えてよいと言う事だと思った。

「その通りにございます」

「左様か。敵わぬな。やはり義兄上は大した御方だ。ここまで事を準備される義兄上に父上が敵うかどうか」

喧騒が大きくなる中、若殿が庭先を眺めながらお笑いになる。"若殿"と少し大きな声で声を掛けると、若殿が笑みを消して真顔になられた。


「俺と室を気遣ってくれるのはありがたいが、道中多くの関所がある。特に久遠寺の辺りにある関所は厳重だ。あの場所を室と二人して越えられるとは思えぬ。顔が割れているからな。それよりは、例えばその方が逃れて義兄上に事態を伝えてくれる方がよいだろう」

「妾もそれが良いと思いまする」

「……左様でございましょうか」

「俺が義兄上にと言うのが不思議か?俺は武田と今川は手を結ぶべきだと思っている。今川が大きくなるなら膝を折ってもいい。今川と争うは得策ではないと考えているだけだ。父上には理解頂けなかったようだがな」

私の顔に無礼が出ていただろうか?若殿は咎める事無く優しく、少しだけ寂しそうに呟かれた。実の父に弓を引かれているのだ。心中は察するに余りあるものがある。


「しかし若殿。申し上げにくい事でございまするが、大膳大夫様は若殿の御命を奪わぬとも限りませぬ」

「新七郎の言う事は分かっている。だが室にまで危害が及ぶ事は無いだろう。盟約で嫁いだ姫を殺めてしまっては、武田は未来永劫盟約等出来なくなるからな。俺としては室達には逃れて欲しいが」

「あなた様を残して逃げる等できませぬ。妾はここに残りまする。まつ、急ぎなさい。さちには悪いけれど引き続き残ってもらうわ」

「かしこまりました」

さちが御裏方様に応じてから私の顔をじっと見つめて大きく頷いた。いつの間に準備したらしい手持ちの提灯を渡してくる。受け取りながら少しだけ手を握って、"御裏方様を頼む"という気持ちを込めた。


「いなくなるのがあなた一人だけなら、使いに出しているとでも言って凌ぐわ。あなたが無事に今川まで辿り着く事を願っているわよ」

御裏方様が私の元へと近づかれて胸元から懐剣を取り出される。今川の家紋があしらわれた豪奢な作りの代物だ。

「貴女に預けておくわ。これがあれば富士大宮司に目通りもしやすいでしょう」

御裏方様が私の片手を取って懐剣を握らせる。ぎゅっと力が込められた。御裏方様の顔を見て頷くと、"行きなさい"と声が掛けられる。

最後になるかもしれぬ。別れを惜しみたかったが刻がない。すぐに御前を後にして抜け道へと入った。


甲斐の府中に行けば荒鷲が出している梅屋がある。店にたどり着けば金子の用意も着替えも出来るはずだ。私だけでは殺されて今川に知らせが伝わらないかも知れない。だが、梅屋の荒鷲に伝えさえ出来れば駿河の御屋形様に必ず伝わる。提灯を落とさないように気を使いながら必死に走った。




弘治三年(1557)七月中旬 駿河国駿東郡阿野荘 興国寺城 長野 業正




城に詰めている下田の親衛隊に対する日々の調練を終えて一休憩していると、大きな足音と共に嫡男の新五郎が表れた。神妙な面持ちをしている。おや、すぐ後ろに富士の大宮司殿がいる。

「これは大宮司殿。いかがされた」

「先触れも無く伺って申し訳ござらぬ。一大事が出来致した」

息をあげながら大宮司殿が話す。相当に急いだようだ。ここまで急がれるとは余程の事が起きたか。立ったまま息を上げている大宮司殿に座るよう促すと、大宮司殿が思い出した様に座った。目を見て続きを促す。


「うむ。武田に嫁がれた嶺姫様の侍女殿が急に大社へ駆け込んで参られてな。侍女殿の話では武田の若殿と嶺様が捕らえられたの事でござる」

「なんと!?」

思わぬ報せに大きな声が出た。

「さらに侍女殿が申されるには、武田に今川侵攻の恐れありとの事でごさる」

「武田が我が今川領へ?」

「左様じゃ。侍女殿は屋敷にある抜け道を使って逃げてきたわけじゃが、甲斐と駿河の国境に武田の兵が続々と集まりつつあったようじゃ」

息をあげながら大宮司殿が話される。家臣の藤井豊後守が城の者から受け取った茶を運ぶと、"忝ない"と言いながら大宮司殿が飲んだ。少しは落ち着けたようだ。


「御屋形様から、武田殿の動きにはくれぐれも注意するよう仰せつかっておる。下田の親衛隊を某に預けてこの城に置かれたくらいじゃ。ここは御屋形様の読みが残念な方に当たってしまったという事じゃろう」

「戦になろうかの」

「なるでござろう。大宮司殿はよくご存知であろうが、このところ甲斐方面への荷の流れが悪かった。武田は窮鼠になったという事じゃ」

儂の言葉に大宮司殿がため息をつきながら大きく頷いた。

「そうでござるな。物の値が上がっておるゆえ、こちらが受け取る銭は変わらなくとも渡す物はかなり少なくなっておった」

大宮司殿の申す通りだ。物が流れなければ民から突き上げがあろう。食うために武田は兵を挙げた。ならば直ぐに国境を越えてくるはずだ。


「新五郎」

「はっ」

儂の横で静かに控えていた新五郎を呼ぶと、この事態に動じている様子なく、何時ものように応じた。


「この事、一刻も早く御屋形様にお伝えしなければならぬ。直ぐに文を認めるゆえ、その方が直接持参せよ。まだ日が高くなる前じゃ。馬を乗り継げば今日中には今橋へと着けるはずじゃ」

「御意にございまする」

手元に置いて使いたい気もするが、武田の侵攻を受けて御屋形様がどうなさるかを見る方が学びも多かろう。それに大事な文を滅多な者に任せられぬ。新五郎が向かえば街道での融通も受けやすいだろうしな。


遠江も御屋形様が差配されるようになって街道の整備が急いでされていると聞く。流石に道はまだ途上であろうが、掛川や濱松の町には駅舎が置かれた。替えの馬は用意されているはずだ。

「新五郎、金子を渡しておく。馬が潰れたら駅で替えるなり、買うなりせよ。供も何人か連れていけ。しからば儂は文を書くゆえその方は準備をせよ」

「はいっ」

儂の言葉に大きな声で応じて新五郎が部屋を出ていく。


「豊後守、出陣の準備じゃ」

「畏まってござる」

豊後守が頭を下げてから部屋を出ていくと、大宮司殿と二人だけになった。

「大宮司殿には暫く待たれたい。文を書き終え次第、戦の手筈を話そう」

「そうでござるな。武田が来るなら芝川か宍原じゃ。我が手勢も既に戦の準備を進めている」

大宮司殿が力強く応じた。流石に綿々と富士を守ってきた家なだけはある。それに武田と戦う事、それにはどうすべきか考えておられるようだ。たしか大宮司殿は武田とも何度か戦をしているはずだ。頼もしく感じるの。


……この御仁に言える事ではないが、御屋形様からは"武田が万が一動いた時は、まず始めに富士大宮司が離反せぬよう心を尽くす事"と命を受けている。大宮司殿は今川と共に戦う事を決めているように見える。うむ。これも文に書いておこう。




弘治三年(1557)七月中旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真




「ご無事のお帰り、祝着至極にござりまする」

「「祝着至極にござりまする」」

俺の名代として城の守備を任せていた吉良上野介が言祝ぐと、広間に詰めている皆が唱和した。辺りは暗くなって来ているというのによく皆が揃っているな。上野介が伝えたのかな。中々感心するぞ。

「うむ。何の事はない。下條は斥候を遣わしていたのだろう。こちらが軍勢を進めるやすぐに兵を引いた。見敵すらしなかったわ」

俺の言葉に皆が笑う。


三河入りした後、今橋城に入って状況を確認し、雑務を少しこなした後に奥三河へ兵を進めた。誰かに任せても良かったが、当主自ら奥三河に入った実績をつくるのも悪くない。せっかくだから旗持ちを増やして堂々と進んでやったわ。三千程を率いて進んだが、元々下條の兵は四百程度と聞いていた。こちらの動きを察して直ぐに引き返したのだろう。遠く見かける事すらなかった。


一時的に占領されていた地域では村の代表を集めて幾らか米を融通する事にした。まさか貰えるとは思っていなかったようで喜んでいた。軍の兵糧を荷卸する時のあの者達の笑みといったら笑えたな。懐に入れること無く配れと命じておいたがどうせ守らないだろう。取り調べをして村長や庄屋の悪事を把握しては、これを罰しないと行けなくなる。今後の統治を考えると面倒だ。だから今回は立て札を立てさせる様に手配した。人を使って一人辺りいくらの見舞金、この場合は見舞米とでも言うのか?これを配ったと伝えさせている。文字の読めぬ者も多い。立て札を立てる時に何人かに声をかけさせれば人伝に伝わるだろう。悪さは出来なくなるはずだ。代表達には別に小銭をくれてやればいい。


さてと……。上野介等の城に残った者達への報告や連絡を共に出陣していた安房守等の将に任せて、自分は脇息に持たれながら寛ぐと、文が堆く三方に積まれて目の前に運ばれてくる。戦の間に届いた文だ。


戦の後の文の山を見ると前世を思い出す。毎日山のようなメールに辟易していたものだ。今生は文であるだけ前世程ではないが、当主ともなると日々かなりの文が来る。こうして戦で城を空けると文がたまるのだ。戦場で見る時もあるが、今回の戦はすぐに終わったからな。むしろ出先で見る時間が無かった。


……うん?次々と読まなければいかぬというのに、最初の文から手が止まる。文の差出人は北條左京大夫。義父上からだ。文は届いた順序や差出人の位等を参考に近習が並び替えてくれる。大体一番上の文は重要なものが多いが、今回も中々痺れる内容だ。

「北條の義父上から文が来ているようだが」

「はっ。遠山甲斐守殿が持参して見えました。御屋形様の御戻りが何時になるか分からなかったため、城下にてお待ち頂いておりまする」上野介が淀み無く応えてくる。成る程そういう事か。出来る部下を持つと楽だねぇ。使者の前で考えなくて良いのは楽だな。気持ちにゆとりが出来る。

「関東で戦が起きそうだ。山内上杉の関東管領殿が長尾弾正少弼の兵を使って北條に攻め込もうとしているらしい。北條の義父上から援軍の要請が来た」

北條の義父上から来た文の内容を話すと、皆が驚いた顔を浮かべた。

“なんと”

“まさか”

まあ皆が驚くのも無理はない。これから逆賊と坊主を叩き、その後は敵討ちと意気込んでいる所に手伝い戦になる援軍要請だ。史実の氏真は戸惑っただろうな。氏康の文がこれまた嫌らしい。“関東管領の檄文ですでに多くの諸将が敵方に靡いており、河越夜戦の再来を予感する。ここは寄すがとする今川家に助けを願いたい”と書かれている。こういう時だけ家臣面をされてもな。それに俺は史実を知っている。兵糧さえあれば小田原は落ちない。史実と同じになるかは分からぬが、北條が滅びるような事はあるまい。 滅びたらその時だ。


「三河攻めの大事な時に援軍は難しゅうございましょう」

「しかし北條家は奥方様を迎える大事な盟約先なれば、援軍を出さぬ訳には行きますまい」

庵原安房守が援軍に否定的な意見を述べると、井伊彦次郎が肯定的な意見を述べる。皆どちらも正論と言った表情だ。


「申し上げまする」

「如何致した」

どうしてくれようかと考えていると、近習が慌てたように現れた。俺の代わりに上野介が問いかける。

「はっ。長野信濃守様が嫡男の新五郎殿がお越しになり、急ぎの目通りを願っておりまする」

「新五郎が?よい。通せ」

"信濃守殿は興国寺城に詰めているはずでは"

"何ぞ事が起きたのかもしれぬ"

皆が少しざわつく中、北條への対応について頭の中で思考していると、まだ幼さを残した若い武士が現れた。着物に汚れが目立っている。着替えすら惜しんで会いに来たようだ。急ぎの知らせであれば時が惜しい。扇子で目の前の床を叩きながら"近うっ"と声を出すと、新五郎が近くまで寄ってきて平伏した。信濃守によく鍛えられているな。俺の前にあっても物怖じしている様子はない。


「急な目通りをお許し頂きありがとうございまする」

「うむ。堅苦しい挨拶はいらぬ。急ぎであろう。用件を申せ」

「はっ。父より文を預かっておりまする」

新五郎が懐から文を取り出して差し出している。上野介が取りに行こうとしたが、制して自分で受け取った。


文には簡潔に"武田による駿河侵攻の恐れ"、"太郎義信と嶺が捕らえられた事"、"大宮司と共に守りに付こうとしている事"が書かれていた。皆がどういう内容なのか気にした顔で俺を見ているが、華麗に無視をして文を読み続ける。流石は信濃守だな。口頭ではなく文でくれたので皆に話す前に考える事が出来る。しかし晴信め。まさか暴発するとは……。荷留め施策は失敗だったか。前世のハルノートのように相手を窮鼠にさせ、戦に追い込んでしまったかも知れぬ。


ふーむ。どうしてくれよう。思ったよりも状況は悪い。

手紙を眺める素振りをしながら考えを巡らせる。


濱松で出した布告のせいで遠江の兵は動かせない。完全に裏目にはなったが、選択肢が減ったゆえに反って思い切り良くできると考えよう。よし、やむを得ないが尾張は撤兵だ。最精鋭の府中親衛隊を連れて駿河へ戻る。代わりに三河は尾張の兵力と渥美の親衛隊を使って、この今橋城を中心とした防衛線を構築しよう。この城が落ちたら三河は終わりだが、この城の守りはかなり強固に改修してきた。まず大丈夫だろう。

北條に対しての援軍は兵こそ僅かになるが、代わりに大量の兵糧を送る。苦しい中でも配慮を見せれば誠意は伝わるはずだ。草ヶ谷蔵人のお陰で兵糧だけは余裕があるからな。


……さて、此処にいる皆に策を説明しなければならぬ。此所は怒りを示した方がやり易そうだ。皆の顔をゆっくりと回し見てから、低い声を意識して話し出した。

「武田大膳大夫が盟約に違反し、我が領を犯そうとしている」

"なんと"

"許せぬ"

俺の言葉に皆が驚きつつ、怒りを露にしている。

「信濃守の知らせに寄れば、嶺に付けた侍女が追手を振り切って富士大宮司の所へ逃れ、甲斐の内情を知らせたらしい。太郎義信と嶺は捉えられ、国境には武田の軍勢が駿河を攻めんと準備しているようだ」

"義元公の仇討ちの背をつくとは"

"武士の風上にもおけぬ行為"

皆がいよいよ怒りの顔を浮かべて武田非難をはじめた。


「駿河を失陥しては今川の力を大きく削がれる。これだけは避けねばならぬ。無念ではあるが三河征討は一先ずお預けだ。尾張攻めも一度兵を引いて捲土重来を期すことにする。上野介、岡部忠兵衛と伊丹権太夫を呼べ。皆は兵が出立できるように準備せよ。駿河の者は尾張撤兵が滞りなく行き次第、速やかに余と共に富士郡へ向けて出陣する。忌々しい武田を撃退するぞっ」

「「御意に」」


俺の下知に城内が慌ただしくなる。

ふと縁側を覗くと小雨が降り始めていた。日も間もなく落ちるだろう。

程度の良い雨なら鳴海と大高からの撤兵に好都合だがどうなるか。

忠兵衛と権太夫に期待だな。撤兵は多少無理してでもやってもらわねば困る。


不意に前世で見た映画を思い出した。

作戦名はあれにしよう。

ちょうどぴったりな名だ。忠兵衛と権太夫に授けようと筆を取った。



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